市民科学者として生きる, 高木仁三郎, 岩波新書(新赤版)631, 1999年
・"高木仁三郎" 自伝。休む間もなくひたすら "核" の問題に命を捧げた男が、病床から過去を振り返る。その内容にズッシリと重みを感じる。著者は本書が出版された約一年後に死去。
・内容を想像しづらい点で、書題がイマイチしっくりこない感じ。
・「ライト・ライブリフッド賞(RLA)については、後からも触れるが、環境、平和、人権の分野では「もうひとつのノーベル賞」と呼ばれる賞で、日本ではあまり知られていないが、私たちの世界では大変重みのある世界的な賞である。」p.5
・「アメリカの「ニュージアム」(メディアの博物館)の行った全米ジャーナリストらの選考によると、「二〇世紀の百大ニュース」の第一位は、やはり「広島・長崎への原爆投下」だという」p.12
・「私はちょうどその1938年に生まれ、1945年には小学校一年で敗戦を経験した。その後原子核化学を専攻し、約40年間「核」と付き合ってきた。その初めの三分の一は、原子力利用を進める体制内の研究者として、残りの三分の二は、大きな研究・開発体制からとび出した、独立の批判者、市民活動家として。」p.13
・「夏休み前までは、日本は神国で天皇は神、英米は鬼畜の類である、と言っていたその同じ教師たちが、あれは軍人が仕組んだ野蛮な戦争で、天皇が神なんてことはありえない、これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だと言う。 七歳の少年には、むずかしいことは何も分からない。しかし、大人たちの言っていることや態度が嘘っぽく、卑屈に見えたのは強く印象に残った。(中略)戦争体験に根ざして次第に私の中に強まっていた考え方の傾向は、国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの言うこともいつ変わるかも分らない、安易に信用しないことにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだった。」p.27
・「この友人関係が互いの知的・精神的成長を促したことは疑いをいれない。皆それぞれに得意分野をもちこみ、とたえば丸山は三木清などの哲学書を、美濃部は多分に兄姉の受け売り的な芸術論やマルクス主義理論を、私は雑多な文学論や恋愛論、さらには数学書なども持ち出すというふうに、大いに背のびをしながら、相手を論破しようと努めた。こういう競り合いの中で、さらに広く独特の交友関係が形成されていったと思う。中学三年生の頃には、この同級の友人関係の知的レベルを向上させることに、私自身は興味をもち意識的になっていたと思う。」p.34
・「兄の指導で今でも感謝していることは、徹底的に自分で考えることを教えてくれたことだ。数学の勉強は、岩切晴二の『解析精義I』から始めろ、というのが兄の指導で、それも一つの問題を解くのに、何時間かけてもよいから考えて、自分で答えに到達しろ、というのだった。」p.47
・「後年、ある人に「あなたの人生は失望と挫折と失敗の積み重ねによって初めて成立しえた」という趣旨のことを言われたのも確かである。」p.57
・「いずれにしても、右の道を選ぶか左の道を選ぶかはさして重要ではなく、その道を歩むかが枢要の問題だろう。」p.63
・「私としては教授たちから「化学とはこういうものだ」と教えこまれる前に、自分なりの化学観をまずもちたかったのである。ここでも子どものとき以来の流儀が保たれていた。 そして、そのやり方は、それなりに化学という学問の価値に――あくまで自分流ではあったが――目覚めさせる効果をもったと思う。」p.65
・「物理学は古い言葉で究理学とも言われるが、多くの物理学者たちの気分には、物理学こそ物事の究極の理を明かす学問だという思いがあるのではないだろうか。」p.69
・「原子力産業は、政治的意図や金融資本の思惑が先行して始められた産業であり、技術的進歩を基盤として自ら成長していった産業とはかなり性格を異にしていた。(中略)結局、この政治性と技術的脆弱性が後に「もんじゅ」の事故をはじめとして広く国民の不信と不安を買う日本の原子力開発の問題点につながったのである。」p.73
・「では、いったいお前は何がやりたいのか。これがその時私がいつも自問していたことで、けっこう厳しい問いであった。これにきちんと答えなければ、科学者としてのアイデンティティーの確立はあり得ない。」p.75
・「その研究にのめりこめばこむ程、他方で自分の身のまわりの放射能の安全には鈍感になっていた。 二、三年もした頃には、研究を手伝ってもらった若い助手の人に、「少しぐらいの放射能を恐れていては一人前になれないぞ」などというようになっていた。」p.80
・「考えてみると、私が興味をもってやった仕事は、放射性物質の放出や汚染に関するものが多く、しかもその結果は、「放射性物質の挙動は複雑で分っていないことが多い。もっともっと基礎の研究を固めなくては」というものだった。しかし、会社で期待されていた放射能の専門家としての役割は、一口に言えば、「放射能は安全に閉じこめられる」とか、「こうすれば放射能はうまく利用できる」ということを、外に向かって保障するというものだった。(中略)それからは、ことあるごとに私は会社で居心地の悪さを経験することになった。」p.85
・「無言が胸の中を唸つてゐる
行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙つてゐろ
腐った勝利に鼻はまがる (萩原恭次郎)」p.90
・「それでも、我々のまわりの材質がほとんどすべて、人工の放射性物質で汚染されている問題は、私たちの研究をずい分妨げ、悩ませたので、研究室内で議論にはなった。」p.101
・「要するに、今までまだ誰もやっていない反応とか核種を探し出して、なんとか自分たちの測定器で "史上初" の測定ができないか、とあたりをつけるのである。そうすれば論文が書ける。 これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ。(中略)多くの場合、この中毒症状によって、研究者は、研究が研究を呼ぶ世界にはまりこみ、何のための科学か、とか、今ほんとうに人々に求められているのは何か、ということへの省察からどんどん離れてしまうのである。」p.102
・「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 宮澤賢治」p.114
・「まあこれは私の一生を貫いたことで、無智と無思慮ゆえの無謀が、かえって自分に色々な試練や冒険の機会を与えてくれ、自己変革への推進力になっていたといえよう。そう感じているから、今でも私は、「見る前に跳べ」あるいは最低限「歩きながら考える」派で、若い人たちにも事あるごとにそう勧めている。」p.115
・「職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である (宮澤賢治)」p.123
・「実験科学者でもある私は、私もまた象牙の塔の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルドーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有する所から出発するしかないだろう。大学を出よう、そう私は心に決めた。」p.124
・「すべての面でそうなのだが、われわれ日本人は、事柄を個人的努力や倫理の問題に還元してしまう傾向が強いが、彼ら(MPIの同僚たち)は常にシステムの問題として考えていく。この点で、大いに教えられた。」p.131
・「しかし根源的な批判は、まず人間の関心のあり方を問題にし、その関心のもとに認識が方向づけられるプロセスを省察する。その省察抜きに、客観性の名のもとに測定データなどを絶対的真理として押しつけるのは、自然科学に典型的なイデオロギーだ。関心のあり方と認識のプロセスに徹底的な批判のメスを入れることによってこそ、社会をよりよいものへと方向づける創造的力が生れてくる、というのが、ハーバーマスからとくに私が学んだことだ。」p.131
・「大学や企業のシステムの引きずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だったからである。話がそこに及ぶと、友人たちは、「そんなのできっこない。幻想だ、誰も成功していない」と言い、私は「だから挑戦するんだ」と開き直って物別れとなった。」p.134
・「最初の数日間は、家で料理をつくったり、もっぱらモーツァルトを聴いて過ごした。実際、モーツァルトによって救われた部分は大きいだろう。」p.174
・「プルトニウムに未来はなく、未来を託することもできない。それは冷戦時代の負の遺産にすぎない。いま、世界中の心ある人々、そして国々がこの遺産――超猛毒で核兵器材料である物質の脅威をどう断ち、子供たちにプルトニウムの恐怖のない未来をどう残せるか、苦闘を開始している。その時に、ひとり日本のみが大量のプルトニウムの増殖・分離・取得・使用を企図している。それは、地上の安全と平和にとって大きな挑戦であり、世界を新たな核開発競争へとかりたてるものだ。(『脱プルトニウム宣言』(1993.1.3)より)」p.185
・「数式を使えば簡単に済んでしまう話だが、数式をいっさい使わずに、しかも論理をゴマかさずにちゃんと説明しようとすると、本質的に何が最も重要なことか、そして人々のふつうの日常的な思考回路にのせるような論理的説明はどうすれば可能か、相当考え、訓練し、試行錯誤を繰り返さなければならない。」p.206
・「私が病に倒れた時、友人のKさん夫妻が、長野県の別所温泉まで行って、安楽寺の住職さんの書の額を買い求めて来てプレゼントしてくれた。次のような書だった。
本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる」p.221
・「先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生れてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」p.222
・「持続した理想主義は、必ずやある結実をもたらすと確信している。(中略)自分がその実現をもたらすと信じていないようなことを口先だけの理念で叫んでみても、人の心に響くはずはないと、私の経験から思うからである。」p.238
・「結局、私たちの世代も、それ以前の世代の過ちを、何も教訓化し得なかったのか。そして「オマエハケッキョク、ナニヲヤッテキタノカ」。」p.252
・「このように状況を認識するなら、「市民の科学」がやるべきことは、未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである。」p.256
・"高木仁三郎" 自伝。休む間もなくひたすら "核" の問題に命を捧げた男が、病床から過去を振り返る。その内容にズッシリと重みを感じる。著者は本書が出版された約一年後に死去。
・内容を想像しづらい点で、書題がイマイチしっくりこない感じ。
・「ライト・ライブリフッド賞(RLA)については、後からも触れるが、環境、平和、人権の分野では「もうひとつのノーベル賞」と呼ばれる賞で、日本ではあまり知られていないが、私たちの世界では大変重みのある世界的な賞である。」p.5
・「アメリカの「ニュージアム」(メディアの博物館)の行った全米ジャーナリストらの選考によると、「二〇世紀の百大ニュース」の第一位は、やはり「広島・長崎への原爆投下」だという」p.12
・「私はちょうどその1938年に生まれ、1945年には小学校一年で敗戦を経験した。その後原子核化学を専攻し、約40年間「核」と付き合ってきた。その初めの三分の一は、原子力利用を進める体制内の研究者として、残りの三分の二は、大きな研究・開発体制からとび出した、独立の批判者、市民活動家として。」p.13
・「夏休み前までは、日本は神国で天皇は神、英米は鬼畜の類である、と言っていたその同じ教師たちが、あれは軍人が仕組んだ野蛮な戦争で、天皇が神なんてことはありえない、これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だと言う。 七歳の少年には、むずかしいことは何も分からない。しかし、大人たちの言っていることや態度が嘘っぽく、卑屈に見えたのは強く印象に残った。(中略)戦争体験に根ざして次第に私の中に強まっていた考え方の傾向は、国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの言うこともいつ変わるかも分らない、安易に信用しないことにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだった。」p.27
・「この友人関係が互いの知的・精神的成長を促したことは疑いをいれない。皆それぞれに得意分野をもちこみ、とたえば丸山は三木清などの哲学書を、美濃部は多分に兄姉の受け売り的な芸術論やマルクス主義理論を、私は雑多な文学論や恋愛論、さらには数学書なども持ち出すというふうに、大いに背のびをしながら、相手を論破しようと努めた。こういう競り合いの中で、さらに広く独特の交友関係が形成されていったと思う。中学三年生の頃には、この同級の友人関係の知的レベルを向上させることに、私自身は興味をもち意識的になっていたと思う。」p.34
・「兄の指導で今でも感謝していることは、徹底的に自分で考えることを教えてくれたことだ。数学の勉強は、岩切晴二の『解析精義I』から始めろ、というのが兄の指導で、それも一つの問題を解くのに、何時間かけてもよいから考えて、自分で答えに到達しろ、というのだった。」p.47
・「後年、ある人に「あなたの人生は失望と挫折と失敗の積み重ねによって初めて成立しえた」という趣旨のことを言われたのも確かである。」p.57
・「いずれにしても、右の道を選ぶか左の道を選ぶかはさして重要ではなく、その道を歩むかが枢要の問題だろう。」p.63
・「私としては教授たちから「化学とはこういうものだ」と教えこまれる前に、自分なりの化学観をまずもちたかったのである。ここでも子どものとき以来の流儀が保たれていた。 そして、そのやり方は、それなりに化学という学問の価値に――あくまで自分流ではあったが――目覚めさせる効果をもったと思う。」p.65
・「物理学は古い言葉で究理学とも言われるが、多くの物理学者たちの気分には、物理学こそ物事の究極の理を明かす学問だという思いがあるのではないだろうか。」p.69
・「原子力産業は、政治的意図や金融資本の思惑が先行して始められた産業であり、技術的進歩を基盤として自ら成長していった産業とはかなり性格を異にしていた。(中略)結局、この政治性と技術的脆弱性が後に「もんじゅ」の事故をはじめとして広く国民の不信と不安を買う日本の原子力開発の問題点につながったのである。」p.73
・「では、いったいお前は何がやりたいのか。これがその時私がいつも自問していたことで、けっこう厳しい問いであった。これにきちんと答えなければ、科学者としてのアイデンティティーの確立はあり得ない。」p.75
・「その研究にのめりこめばこむ程、他方で自分の身のまわりの放射能の安全には鈍感になっていた。 二、三年もした頃には、研究を手伝ってもらった若い助手の人に、「少しぐらいの放射能を恐れていては一人前になれないぞ」などというようになっていた。」p.80
・「考えてみると、私が興味をもってやった仕事は、放射性物質の放出や汚染に関するものが多く、しかもその結果は、「放射性物質の挙動は複雑で分っていないことが多い。もっともっと基礎の研究を固めなくては」というものだった。しかし、会社で期待されていた放射能の専門家としての役割は、一口に言えば、「放射能は安全に閉じこめられる」とか、「こうすれば放射能はうまく利用できる」ということを、外に向かって保障するというものだった。(中略)それからは、ことあるごとに私は会社で居心地の悪さを経験することになった。」p.85
・「無言が胸の中を唸つてゐる
行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙つてゐろ
腐った勝利に鼻はまがる (萩原恭次郎)」p.90
・「それでも、我々のまわりの材質がほとんどすべて、人工の放射性物質で汚染されている問題は、私たちの研究をずい分妨げ、悩ませたので、研究室内で議論にはなった。」p.101
・「要するに、今までまだ誰もやっていない反応とか核種を探し出して、なんとか自分たちの測定器で "史上初" の測定ができないか、とあたりをつけるのである。そうすれば論文が書ける。 これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ。(中略)多くの場合、この中毒症状によって、研究者は、研究が研究を呼ぶ世界にはまりこみ、何のための科学か、とか、今ほんとうに人々に求められているのは何か、ということへの省察からどんどん離れてしまうのである。」p.102
・「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか 宮澤賢治」p.114
・「まあこれは私の一生を貫いたことで、無智と無思慮ゆえの無謀が、かえって自分に色々な試練や冒険の機会を与えてくれ、自己変革への推進力になっていたといえよう。そう感じているから、今でも私は、「見る前に跳べ」あるいは最低限「歩きながら考える」派で、若い人たちにも事あるごとにそう勧めている。」p.115
・「職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である (宮澤賢治)」p.123
・「実験科学者でもある私は、私もまた象牙の塔の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルドーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有する所から出発するしかないだろう。大学を出よう、そう私は心に決めた。」p.124
・「すべての面でそうなのだが、われわれ日本人は、事柄を個人的努力や倫理の問題に還元してしまう傾向が強いが、彼ら(MPIの同僚たち)は常にシステムの問題として考えていく。この点で、大いに教えられた。」p.131
・「しかし根源的な批判は、まず人間の関心のあり方を問題にし、その関心のもとに認識が方向づけられるプロセスを省察する。その省察抜きに、客観性の名のもとに測定データなどを絶対的真理として押しつけるのは、自然科学に典型的なイデオロギーだ。関心のあり方と認識のプロセスに徹底的な批判のメスを入れることによってこそ、社会をよりよいものへと方向づける創造的力が生れてくる、というのが、ハーバーマスからとくに私が学んだことだ。」p.131
・「大学や企業のシステムの引きずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だったからである。話がそこに及ぶと、友人たちは、「そんなのできっこない。幻想だ、誰も成功していない」と言い、私は「だから挑戦するんだ」と開き直って物別れとなった。」p.134
・「最初の数日間は、家で料理をつくったり、もっぱらモーツァルトを聴いて過ごした。実際、モーツァルトによって救われた部分は大きいだろう。」p.174
・「プルトニウムに未来はなく、未来を託することもできない。それは冷戦時代の負の遺産にすぎない。いま、世界中の心ある人々、そして国々がこの遺産――超猛毒で核兵器材料である物質の脅威をどう断ち、子供たちにプルトニウムの恐怖のない未来をどう残せるか、苦闘を開始している。その時に、ひとり日本のみが大量のプルトニウムの増殖・分離・取得・使用を企図している。それは、地上の安全と平和にとって大きな挑戦であり、世界を新たな核開発競争へとかりたてるものだ。(『脱プルトニウム宣言』(1993.1.3)より)」p.185
・「数式を使えば簡単に済んでしまう話だが、数式をいっさい使わずに、しかも論理をゴマかさずにちゃんと説明しようとすると、本質的に何が最も重要なことか、そして人々のふつうの日常的な思考回路にのせるような論理的説明はどうすれば可能か、相当考え、訓練し、試行錯誤を繰り返さなければならない。」p.206
・「私が病に倒れた時、友人のKさん夫妻が、長野県の別所温泉まで行って、安楽寺の住職さんの書の額を買い求めて来てプレゼントしてくれた。次のような書だった。
本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる」p.221
・「先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生れてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」p.222
・「持続した理想主義は、必ずやある結実をもたらすと確信している。(中略)自分がその実現をもたらすと信じていないようなことを口先だけの理念で叫んでみても、人の心に響くはずはないと、私の経験から思うからである。」p.238
・「結局、私たちの世代も、それ以前の世代の過ちを、何も教訓化し得なかったのか。そして「オマエハケッキョク、ナニヲヤッテキタノカ」。」p.252
・「このように状況を認識するなら、「市民の科学」がやるべきことは、未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである。」p.256