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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】あいまい工学のすすめ 新しい発想からの工学

2007年03月15日 21時33分42秒 | 読書記録2007
あいまい工学のすすめ 新しい発想からの工学, (監修)寺野寿郎, 講談社ブルーバックス B-486, 1981年
・ブルーバックスシリーズではひさびさのヒット。今の『感性工学』につながる内容で、今から20年以上も前にこのような本が出版されていたとは驚きました。よくある最新技術の解説書的な内容とは異なり、『科学の方法』についての踏み込んだ本質的な議論までする、このような本にはなかなかお目にかかりません。内容の構成・難易度・長さなどのバランスもよく、丁寧に作られた本です。と、ぴかりん大絶賛にもかかわらず、現在絶版。なんで~~ 出版当時はあまりに時代の先を行き過ぎていて受け入れられず、最近やっと時代が追いついてきたということなのでしょうか。これはもったいない。
・執筆陣:寺野寿郎、菅野道夫、江藤肇、原文雄、森田矢次郎、合田周平、柴田碧。
・「あいまいシステム研究会は本音と建前のギャップを少しでも縮めるような新しい方法論を模索するために作られた。建前中心の世界に対してはもっと素朴な人間の本音を理解することを呼びかけ、一方、本音以外のものに価値を認めないような世代に対しては建前の効用も分からせたい。それには人間の心にひそむ「あいまいさ」を研究することがどうしても必要となる。」p.7
・「この本もたぶん、あいまいな問題をうまく処理する新しい方法論が書かれているものと想像されるかもしれない。そのような部分も若干あるが、本書でもっとも強調したいのは、むしろ、いままでの学問が排斥して来た「あいまいさ」というものが工学では非常に大切で、利用価値も高いということなのである。」p.14
・「ここで、あいまい工学と従来の工学との対比を試みよう。従来の工学の対象は機械やプラントなど、構造も、機能も、目的も比較的簡単なものばかりであるが、あいまい工学では人間や社会に関係した複雑な問題を扱う。方法論も前者が分析的・論理的・定量的であるのに、後者は合成的・直感的・定性的である。さらに言えば、前者が一切のあいまいさを排除し、厳密さを尊ぶ西洋型思考であるのに対して、後者はムダ・矛盾・余裕・未知現象などを包括した大局的で夢を持った東洋型思考なのである。」p.21
・「日本的な意思決定も、個人はそれほど明確な意思は持たないのに、周囲に同調して動いているうちに大きな仕事をやり遂げてしまう点はイソギンチャクに似ている。」p.32
・「「あいまい論理」の長所はあいまいな現象を扱っていながら、論理的な部分とあいまいな部分とをはっきり分けられ、前者は計算機を使って精密につきつめてゆくことができるし、後者の部分は人間が経験や直感を生かして弾力的に運用することができる点にある。」p.35
・「情報の媒体は物理現象として扱えるけれど、情報の内容となるとそれを発信したり、受信したりする人間の心情の問題であり、工学的に扱うことは非常にむずかしい。」p.37
・「情報という言葉はいろいろに使われるが、ここではこれを「一般に生物がより良く生きてゆくために利用する知識」と考えることにしよう。」p.37
・「別な見方をすると、自分の脳細胞を言葉という電線を使って他人の脳と接続したことになる。したがって、二人では脳の情報量は二倍になり、社会全体では大変な頭脳を持った巨大な生物とも見られる。」p.38
・「現在、"情報工学"の分野では情報伝達時の間違いと伝達量だけを問題にして、情報の質についてはまったく触れていない。」p.40
・「したがって、情報の質を研究するということは、いわば人間の精神作用そのものを研究することと同じであり、あいまいなものにならざるを得ない。」p.41
・「誤解をへらすためには話し手と聞き手の間にある程度、共通の背景がなければならない。ある情報工学の先生の話によると、人間のコミュニケーションというのはこの共通部分が30パーセントから70パーセントの場合に限り有効なのだそうだ。」p.50
・「言語の中でもとりわけ日本語は外国語と比べてあいまいだと言われることがある。日本語のあいまいな言い回しに精通しているからそう感じられるのか、日本語そのものがあいまいな構造をしているのか、あるいは、言葉以前の日本人の意識や行動があいまいなのかは読者の判断にまかせよう。」p.55
・「区別とは、神を畏れぬ行為であり、あいまいさは人間として甘受しなければならない。」p.67
・「この辺で、あいまいさにかけてはチャンピオンである政治家に登場願おう。」p.70
・「「真実は分析にあり」と「真実は総合にあり」とが、コンピュータと人間の差といえる」p.87
・「あいまいさは、異質な価値を認め、それらに好奇心を抱くとともに、自らの価値基準を多様かつ多面的なものの一つとして弾力的に捕える。こうした思想は21世紀に価値ある文化を築くだろう。」p.98
・「あいまい集合と密接な関係にある<あいまい理論>というのは、排中律が成立しない論理である。」p.113
・「本書で議論するあいまいさは確率論が対象とするサイコロを投げて6の目が出る確率といったような不確かさとは異なったもので、一口で言えば、人間の主観性による不確かさのことである。」p.118
・「シュロスベルグによれば、人の顔による情緒表出は、配慮―拒絶、快―不快および睡眠―緊張の三次元の尺度の上に配分することができ、それはかなり信頼性をもっていると言われる。」p.159
・「顔は人の体という「システム」の状態のすぐれた表示器官であるばかりでなく、人は顔の部分の微妙な変化や、顔全体としての総合的特徴を識別し、認識する優れた能力を持っていると言える。」p.159
・「そこで、「顔」そのものを一つの道具として、この多次元データの表示に利用してみようというアイデアが、米国・スタンフォード大学のチャーノフ教授によって、最初に提案された。」p.160
・「真の特徴はむしろ人間が一見関係のなさそうな二つの要素の関係をたずねられて、想像力を働かせ、あいまい関係を創造するところにあると思われる。」p.177
・「今年、大学院生のI君は道に迷う機械を作った。「迷わないようにする機械の間違いではないの?」と怪しまれるだろうが、そうではない。」p.190
・「人間が迷うのは、むしろ知恵や能力のあることの証拠なのである。」p.191
・「近年とくに、複雑なもの、わけのわからぬもの、あいまいなものを計って欲しい、という要求が産業界から聞かれるようになってきた。」p.197
・「これらはいわば従来の理工学的手段の実利的な面で、その実利性と、手段を支える背景にある「あいまいさのない理論」の魅力のゆえに近代の科学技術はここまで発達してきたことは事実である。  しかし、これらの事例は、「人間の感覚は、機械的にはこみいった複雑なものを一気に総合して、うまい、まずいをきめることができる」「苦労して機械的なデータを積み重ねてゆく過程で結局よりどころとしているのはわれわれ自身の感覚である」という別の意味で非常に重要な事実を私たちに提示しているように思われる。」p.199
・「もしかすると、私たちが生まれつき、備えている五官の性能のなかに、従来の科学技術的な考え方を根底から覆してしまうような方法論、理論の鍵が潜んでいるかも知れない。」p.200
・「要は、自然に存在するものは、本質的に、人間の心で作りあげているあいまいでない理想像にはうまく適合しない面をもっているのである。」p.203
・「皮肉なことに、科学技術は、柔軟な考え方をする人間によって大きな飛躍を遂げてきた。筆者は「あいまいさ」は人間のなかにある「厳密さ」、「合理性」、「理想化」が暴走しないための安全弁のようなものであると思う。「どこがあいまいなのか」と問われれば、「人間の考えのなかの非あいまいな概念が、現実とうまく適合しない……そこがあいまいなのである」と筆者は答えたい。自然界は「あいまい」でも「厳密」でもない。」p.205
・「1が無限に長い、矛盾のない線で、時間というものをとらえている西欧思想を代表しているとすると、ループはある意味で無限の環をなしている。これは物事を輪廻という考えに帰着させる東洋思想に似ていなくもない。」p.214
・「それではあいまい論理とはなんであろうか。これにはさまざまな考え方があろうが、筆者はこれをつきつめればやはりバック・グランドの問題であろうと考える。」p.240
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【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷

2007年03月10日 22時44分00秒 | 読書記録2007
ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(上)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-56・57(6910・6911), 2002年
・ローマ人の物語、第3部。強国カルタゴを倒し平和が訪れるかと思いきや、今度は内輪もめの時代に。紀元前133年から紀元前63年までを三章に分けて記述。
 第一章 グラックス兄弟の時代(紀元前133年~前120年)
 第二章 マリウスとスッラの時代(紀元前120年~前78年)
 第三章 ポンペイウスの時代(紀元前78年~前63年)
・長年にわたってローマに対してしつこくちょっかいを出してくる、ポントス王ミトリダテス(こんな題のオペラがあったような)。なんだか憎めない、いいキャラしてます。
・次の主役はいよいよユリウス・カエサル。ここまでは全て序章にすぎない!?
・「「子は、母の胎内で育つだけでなく、母親のとりしきる食卓の会話でも育つ」と言った女だ。このコルネリア(グラックス兄弟の母)は、ユリウス・カエサルの母アウレリアと並んで、ローマ人の間では長く、ローマの女の鑑、と讃えられることになる。」上巻p.29
・「ローマは、紀元前509年に共和政の国家を選択して以後の難問であった貴族・平民間の抗争を、前367年のリキニウス法によってすべての公職を平民に開放し、前287年のホルテンシウス法により、平民集会での可決事項はそのまま国の法になると決めたことで、解消に成功していた。」上巻p.33
・「人は、必要に迫られなければ、本質的な問題も忘れがちなものである。ローマにもどった平和が、ローマのかかえる本質的な問題の解決を先送りすることになった。」上巻p.72
・「人類史上はじめて法治国家の理念を打ち立てたローマ人は、法というものは永劫不変なものではなく、不都合になれば変えるべきものであると考えていた。(中略)そこでローマ人は、従来ある法の改正ではなく、現状に適合した新しい法を成立させ、旧法の中でどれにふれる部分は自然解消する、というやり方をとっていた。おかげで、全部集めれば六法全書の山ができるほど多くの法をもつ、非成文法国家ができてしまったのである。」上巻p.96
・「ティベリウスとガイウスのグラックス兄弟は、兄が七ヶ月、弟は二年の実働期間しかもてなかったにしても、そしてその間に実行された改革のほぼすべてが無に帰してしまったにしても、成長一路であった時代を終って新時代に入ったローマにとって、最初の道標、つまり一里塚を打ち立てたのである。」上巻p.110
・「自由市民であるローマの男は、通常は三つの名をもっていた。  個人名(プレノーメン)、家門名(ノーメン)、家族名(コニヨーメン)、の三つである。  ティベリウスは個人名で、センプローニウスは家門名、グラックスは家族名、つまり姓となる。」上巻p.118
・「長年の「同盟者(ソーチ)」から縁切り状をたたきつけられることではじめて成立を見た「ユリウス市民権法」だが、「同盟者戦役」を終らせる役を果たしただけではなかった。この法は、貴族・平民間に公職への機会の均等を実現することで、この二階級間の長年の抗争を終焉させた紀元前367年成立の「リキニウス法」にも匹敵する、画期的な法の成立、つまりローマ国家の方向転回、であったと私は思う。」上巻p.191
・「ポントス王ミトリダテスとローマ軍(スッラ)の間に展開された最初の本格的な戦闘の結果は、ポントス側の戦死者と捕虜は十万以上、逃げおおせた者一万足らずに対し、ローマ側の戦死者わずかに十二名。(中略)アレクサンダー大王やハンニバルの戦果をも越える新記録であった。」下巻p.32
・「ちなみに、後世の人々が「大王」と意訳した語の源は、ラテン語の「マーニュス」である。」下巻p.87
・「ちなみに、古代のローマ人による奴隷の定義は、自分で自分の運命を決めることが許されない人、であった。」下巻p.110
・「「十分の一刑」の名で知られる、ローマ軍の最厳罰を命じたのだ。六百人の中隊の中から抽選で六十人が選ばれ、運よく凶をひかなかった五百四十人の仲間が棒を振るって殺す残酷な刑罰で、ローマ軍団では、総司令官に反旗をひるがえした場合にのみ科される厳罰である。」下巻p.118
・「民主政だけが、絶対善ではない。民主政もまた他の政体同様、プラス面とマイナス面の両面をもつ、運用次第では常に危険な政体なのである。」下巻p.137
・「このように紀元前70年は、「スッラ体制」の幕が閉じられる年になった。スッラの死後わずか8年で、彼が築きあげたシステムはことごとく崩壊したのである。」下巻p.140
・「地中海では、海は人間の通行を阻止するものではなく、通行を容易にするものであった。」下巻p.155
・「ポンペイウスによる海賊一層作戦は、後世の軍略家たちが一致して賞賛するのを待つまでもない、戦略の見本ともいうべき傑作になった。(中略)ポンペイウスは、全地中海に「パクス・ロマーナ」を確立するのに、89日間しか要しなかったことになる。」下巻p.161
・「ルクルスの実践した美食は、昨今のグルメなどは足許にも及ばぬ徹底ぶりであったのだから。(中略)「アポロの部屋」での食事は、一回の会食に要する費用が五万ドラクマであったという。庶民の年収が、五千ドラクマ前後という時代であった。  ポンペイウスとキケロの二人が、その夜じゅう眼を丸くしたままであったことは想像にかたくない。」下巻p.170
・「紀元前一世紀の「ザ・グレート」は、地中海の波が洗う地方すべてを、ローマの属州か同盟国かで埋めることを成しとげたのだ。この時期にいたって、実質的にも地中海は、ローマの「内海(マーレ・インテルヌム)」に変ったのである。」下巻p.195
・「現代のローマでタクシーの運転手に、「フォールム・ロマーヌムに行ってください」と告げても、ラテン語を知っているほど教養の高い運転手にでも出会わないかぎり、ETを見るような眼つきで見られるがオチだろう。ここはやはりイタリア語になおして、「フォロ・ロマーノに行ってください」と言うしかないのである。」下巻p.i
・「当時は生れてもいなかったイタリア語やフランス語やスペイン語で地名を記したのは、学術論文を書いているわけではない私にとっては、なるべく多くの日本人にわかってもらいたいと願ったからである。」下巻p.iv
・「学者ではない私にとっての最重要課題は、異なる文明圏に生れた日本人に、西欧文明の一大要素であるローマ文明を、わかり、感じてもらうことにつきる。」下巻p.iv

?エピキュリアン(英epicurean) 官能的、刹那的な快楽を追い求める人。快楽主義者。享楽主義者。

《関連記事》
2006.11.25 ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記
2006.5.26 ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず
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【本】生きることと愛すること

2007年03月07日 22時17分14秒 | 読書記録2007
生きることと愛すること, W.エヴァレット (訳)菅沼りよ, 講談社現代新書 503, 1978年
・"愛"について。愛の定義、自己愛、恋愛、親子の愛、神の愛などについて平易な言葉で説く。多くの日本人にとっては、気恥ずかしさが先にたち表立って話づらいテーマではないでしょうか。著者はもともと宗教家なだけあって、かなりバイアスのかかった内容ですが、それを差し引いて考えても、とてもいい本だと思います。にもかかわらず、この新書版はなぜか現在絶版らしい。調べてみると別な出版社から出ているようです。
・主題の"愛"とは別に、知っているようでよく知らないキリスト教の考え方の一端も垣間見えた。
・「"To Live is to love"――これがこの本のテーマである。愛することなしでも、人間はたぶん存在することはできるだろう。しかし、それではほんとうに生きているとはいえない。人間にとって、生きることは愛することなのである。」p.3
・「人間にとっていちばん重要なもの、人格の中心を形づくっているものは、その人の「愛する能力」である。ひとりの人間の進歩をはかるのは知能テストではなく、その人がどこまで愛されているか、そしてどこまで愛することができるかである。人間は「理性的な動物」ではなく、「愛する動物」と定義されなければならない。」p.4
・「キリスト自身も、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」といったとき、きっと同じような孤独を感じていたにちがいない。」p.16
・「エロスとは、自分を満たしてくれるさまざまのよいものを求める欲求である。たとえば、食物・衣服・知識・美などである。」p.20
・「愛するためには、まず十分な愛を取り入れる必要がある。人は、愛されることによってはじめて愛する力を得るのである。」p.21
・「このように見てくると、愛について次のような大原則が引き出されると思う。すなわち、「人間は、愛する前にまず愛されなければならない。そして、深く愛された人ほど、深く人を愛することができる」。」p.26
・「愛に関しては、奇妙なことに、私たちは帽子をさし出して金を恵んでもらうこじきとまったく同様、だれかが自分を愛してくれるのを待つよりほかはないのである。」p.27
・「このように、ひとくちに愛するといっても、ふたつの意味が混同されやすいので、今後この本のなかで「愛する」というときは能動的なアガペの愛のみをさすこととし、エロスの愛を受動的な愛と考えることにしよう。」p.30
・「私が相手をどのくらい愛しているかを知るには、何ではかればよいだろうか。答は簡単である。時計ではかるのである。」p.34
・「私たちはいつも忙しがっている。忙しくて、手紙を書いたり人に会ったりする暇がないという。しかし、よく考えてみると、その時間に自分の好きなこと、やりたいことを優先してやっているではないか。忙しいというのはいいわけにすぎないのである。」p.35
・「人間にひとつの口とふたつの耳があるのは、話すことの二倍聞かなければならないからだとは、いにしえの知恵のことばである。」p.37
・「相手に話のきっかけをつくる質問をしたり、あいづちをうったりすることは、単純ではあるが、人を愛そうとするとき、ひじょうにたいせつなことなのである。」p.39
・「愛するということは、なんらかの形で自分を与えることである。愛のもっとも深い形は、自分の体、または心を、直接人に与えることである。」p.44
・「ちょうど、ろうそくがみずからを燃やすことによって光を放つように、愛するための唯一の方法は、自分自身を焼き尽くすことなのである。」p.47
・「「愛は自分を与えることによって(=手段)善を創造する(=目的)」」p.51
・「「よい人」とは、自己が統合され、また自然・人などほかのすべてのものと調和がとれている人である。その人は、ほかの人を愛し、新しく善をつくりだすことのできる人である。」p.54
・「まさに、自分のなかに善をつくりだすこと――愛する能力をみがくこと――が、人生の目的であるといえよう。」p.56
・「私たちの多くは、おそらく無意識にではあるが、五十対五十のフェアプレイを基盤にして生きている。  私たちは、相手が私たちを受け入れ、親切にしてくれるかぎり、相手にもそうする。しかし、もし相手が私たちをだましたり、傷つけたりしはじめたら、私たちも態度を変えてしまう。冷淡になり、相手と同じ戦術を使うのである。」p.57
・「苦しみは、その意味を見いだすやいなや、もう苦しみではなくなるのである。(ヴィクトル・フランクル)」p.60
・「人間の愛はみな不完全なものである。すべての人間を愛することはできないし、ひとりの人間を完全に愛することもできない。」p.66
・「しかし、深い愛とは、愛する対象に自由を与えるものである。愛は、たとえそのために二人が離れなければならなくなったとしても、相手の向上を願う。愛が深まれば深まるほど、執着心は減るのである。そして愛する人にむかって、「勇気をもちなさい。外へすすんで出てゆきなさい。自分を磨きつづけなさい」というようになる。」p.67
・「私たちは地震罹災者をあわれんで百円をカンパするが、それ以後は二度と彼らのことを考えない。私たちの「愛」は五分間しか持続しなかったわけである。」p.73
・「「愛」の反対は「罪」である。」p.84
・「要するに、よく遅れてくる人は、まだ愛という梯子の低い段に立っていて、人を尊敬する心が十分できていないといえるだろう。」p.88
・「利己主義が男性の罪であるように、高慢は女性特有の罪である。利己主義は恐しい罪であるが、高慢は最悪の罪である。」p.93
・「自由とは抑制のないことであるが、これをつきつめると、完全な孤独を意味する。」p.97
・「自己愛は、罪悪であるどころか人間にとって義務なのである。にもかかわらず、世のなかには利己的な人は無数にいても、真に自分を愛する人がなんと少ないことだろう。」p.103
・「あなたのありのままの姿を見るものは、ひとりしかいない。それは神なのである。そして不思議なことに、ありのままのあなたを見て、神はあなたを全面的に受け入れ、愛しておられるのである。すべてをご存じの神がこの私を愛しておられることを信じることによって、はじめて私は自分自身を愛することができるのかもしれない。」p.108
・「根気よく努力し、祈ることによって、私たちはすべての欠点を克服することができるのである。これが真の自己愛というものである。」p.115
・「自己愛は、すべての愛のうちでもっともむずかしい愛であるといえよう。」p.117
・「世界の歴史をふりかえってみると、おそらくすべての人間のうち、90パーセントの人びとは、恋愛の経験がほとんどないか、まったくないのではないかと思う。  かつては、日本でけではなく西欧でも、両親が結婚をとりきめた時代があった。」p.123
・「しかし、恋愛とは社会福祉事業でもなければ、たんなる同情でもないのである。もし自分の気持が愛ではなく、ただの同情であることがはっきりしたならば、いちばんよいのは彼女を捨てることである。」p.131
・「「恋愛感情は、結婚の可能性があるかぎりもちつづけてよい。しかし、もしあきらかに結婚が不可能ならば、恋愛感情は断ち切らなければならない。そしてそれは早ければ早いほどよい」」p.132
・「愛の種々の形態のなかで、もっともむずかしいのはおそらく親子間の愛であろう。なぜなら、友情や恋愛では、相手を自由に選択することができるのに、親子ではそれができないからである。」p.146
・「完全な幸福をこの世において獲得することはできない。私たちはみな不安であり、たえずなにかを追い求め、渇きを覚え、なにかを欲している。」p.167
・「人間の愛はもちろんよいものである。しかし、それにはふたつの欠点がある。第一に人間の愛は限られており、第二に不確かである。」p.169
・「つまり人間の成長とは、彼がどれだけ愛し、また愛されているかによってはかられるものなのである。」p.171
・「人間は食物がなくても数週間、水がなくても数日間、空気がなくても数分間は生きていられる。しかし、神なしには一秒たりとも生きてはゆけない。(中略)「私たちは、神のなかに生き、動き、存在するものである」」p.177
・「「芸術とはコミュニケーションであり、美は愛を伝えるものである」」p.188
・「芸術家は自分の作品(間接的には彼自身)を他人に見せようとする。これは万物の創造者である神も同様である。神はまずはじめに、山河や植物や動物をつくった。しかし、それらの創造物を見てくれる人がだれもいなかった。そこで神は人間を作ったのだ。」p.201
・「彼らは、楽器をかなでることによって私たちに勇気、安らぎ、感動を与えてくれる。ヴァイオリンやチェロは、愛を語る口なのである。」p.204
・「ほんとうに純粋な動機をもっている人などほとんどいないのだ。芸術家は、自分が愛を伝え、美を分かちあうという使命、特権、喜びをもっているのだということを、もっともっと自覚するよう努力しなければならないと思う。」p.204
・「現在の資本主義制度は、自由、進取性、柔軟性、新しい冒険を試みる勇気、個人の責任を奨励する点ではすぐれている。しかし、あまりにも動機としての利益に重点を置きすぎているのは残念としかいいようがない。一方、社会主義は、労働の目的を共通の利益、社会奉仕としており、この理想においてより人間らしいといえるだろう。しかし、とかく全国民が同じ型にはめられ、個人の進取性、表現、活動が不当に制限されがちである。共通の利益の追求のもとに、個人が犠牲にされてしまうのである。  この両極端のあいだに、私たちは理想の社会を探し求めなければならない。」p.213

《チェック本》
エーリッヒ・フロム『愛するということ』
芥川龍之介『地獄変』
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【本】サイエンス・スクランブル3 むかしを知る科学

2007年03月04日 21時52分02秒 | 読書記録2007
サイエンス・スクランブル3 むかしを知る科学, 大宮信光 他, 新潮文庫 ん-50-14(3871), 1987年
・科学に関する話題を2ページ読み切りの形で122編収録。内容はやわらかめで、怪しげなトピックも含まれますが、そこそこ楽しめました。また20年程前の本なので時代を感じる記述がちらほら。
・「現在では、知能テストの最高位一パーセント以内にはいった子供を「天才児」と呼んでいる。」p.19
・「ある学者がハードルにいろいろな色を塗って、どのくらい記録に影響するかを調べてみた。すると、黄色に塗った場合が、最も記録がよかった。ハードルを認知する時間が他の色よりも短くてすむからだという。」p.30
・「嗅覚に関する研究は、視覚や聴覚、触覚などの研究に比べて大きく立ち遅れている。(中略)なぜにおいがかげるのかという問題はまだ未解決のままなのである。」p.50
・「現在生きている鳥は全部で8554種。そのうちなんと5099種がスズメの仲間、すなわちスズメ目に入る。」p.56
・「生物自身が備えているセンサーは、いまのところ技術的に造りだされたセンサーよりも格段に優れている。」p.60
・「低周波の音は数キロ先まで届く。だから鯨や象はお互いに姿が見えない同士でコミュニケーションをしている可能性が高い。事実、遠く離れた二頭の象が平行に移動しているという例がケニアで観察されている。」p.75
・「さまざまな観測の結果、ネムノキはマグニチュード七以上、震源地までの距離400キロメートル以内なら、地震の前兆現象をキャッチできるという。また、地震前に発生する植物の悲鳴は地震の大きさ、距離、方向によって違うため、将来は規模や方向などの予測も可能だといわれている。」p.77
・「多くの生物は、太陽の光のもとで進化してきただけに、これまで考えられていた以上に光を発し、光を受け止め、光との相互作用を行っているようだ。」p.79
・「遺伝子全決定プロジェクトは、治療など実用的なレベルには直結しにくい、純粋に基礎的な研究といえる。しかし、そのための装置の開発や得られるデータは、間違いなく生命科学全体に大きなインパクトを与えるだろう。」p.81
・「(磁区とは、ふつうの磁石を小さくしていって最後に達する最小単位の磁石のこと)」p.95
・「海には、陸上以上に様々な生理活性物質が存在していることは間違いない。」p.96
・「今世紀で最も重要な発明品といえば、皆さんはいったい何を想像するだろうか。もし、この問いに物理学者が答えるとするなら、彼は間違いなく、加速器を挙げるだろう。」p.108
・「逆に、アノマリー(異常項)は我々の未だ知らない、自然界の基本原理に関係した要素で、実在の法則はアノマリーが自動的に消滅する機構を持っているのではないか、と考え始められている。そんな時に登場したのが、この超弦理論だったのだ。」p.124
・「どんな風景を人間が美しく感じるかについては、ほとんど何もわかっていない。あるひとまとまりの風景を鑑賞するには、水平方向に20度、鉛直方向に10度の範囲、ちょうど手を伸ばして自分の掌の中に収まるくらいに見えるのがよろしい、とか、名山の仰角は水平線から下に8度、とかいわれているが、その中身がどうであればよいのかは不明である。」p.133
・「文学の中にも見出すことができる。ある研究家の説によれば、日本の和歌の五七調のリズムも、全体の文字数との比率を考慮に入れ、また、五文字がさらに二文字と三文字に区切れることをも勘案すると、黄金比に最も近い語数の比率になっているという。」p.137
・「ところで、どうして5:8という比が、美しく感じられるのだろう。実は、この比率は人工物ばかりでなく、自然界にも多く見られるものなのだ。蝶、鳥、魚などの体の各部分の大きさ、木の葉や枝の出方の間隔など、いたるところに黄金比が潜んでいる。」p.137
・「結局、快適なコンピュータ社会を構築するには、VLSIからOS、文字コード、通信プロトコル、マン・マシン・インターフェースなどを、現在得られる最高の技術で、しかも未来の進歩に対応できる形に作り直す必要がある。」p.159
・「富士フィルムからフィルムにレンズを付けるという発想の使い捨てカメラが登場した。」p.182
・「つまり原発は全プロセスにわたって石油消費型の発電形態なのだ。エネルギー源であり原料にもなる石炭が石油の代わりになるというのなら話はわかるが、原子力はどう逆立ちしても代替エネルギーになるはずがない。」p.194
・「30パーセント近くの電力が余っている。原発による電力がまったくないと仮定しても、わずかな節約をすれば、社会生活に大きな支障をきたすことはないといってよいだろう。」p.195
・「トンネル計画では、イギリスとフランスを結ぶ英仏海峡トンネルが実現に向けて動き出した。(中略)実現は21世紀になる見込み。」p.207
・「二割のドライバーによって、自動車事故の半分が起こされている。」p.217
・「彼(近代外科医学の祖、アンブロアス・パレー)は「われは包帯するのみ、神が癒したもう」という名言も残している。」p.237
・「学問上の発見者とは、そのアイデアを断片的に述べた人ではなく、それがどういう意味を持ち、そこから何ができるかを研究した人なのである。」p.241
・「「世界システム」というのはひとくちにいうと、地球を導体するエネルギーシステムのこと。」p.245
・「家康の健康管理は徹底していた。いや一種の薬マニアでもあったらしい。のちの三大将軍家光が幼時大患にかかり、ついに医者も見放したのを、可愛い孫のためにと、家康みずから調合した「紫雪」という薬で救ったことが記録に残っている。」p.248
・「このように大量の鉛を摂取したローマ貴族たちは、寿命が縮み、生殖力が落ち、精神異常が多発して、やがてローマ帝国滅亡につながっていったのだ。」p.251

ふだらく【補陀落・普陀洛】 (梵potalakaの音訳。光明・海島・小花樹と訳する)仏語。インドの南海岸にあり、観音の住所といわれる山。観音の浄土として崇拝された。日本でも、この名の霊地が信仰され、那智山、日光山、足摺岬海上などはその例。補陀落山。補陀落世界。
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【本】脳外科医の幕間

2007年03月01日 22時44分13秒 | 読書記録2007
脳外科医の幕間, 三輪和雄, 朝日文庫 み-6-1, 1988年
・脳外科医でありノンフィクション作家である著者のエッセイ集。約50編収録。
・書き抜きはないが、『ある少女の自由』と題した節が印象に残った。10年以上にわたって受け持った、あるてんかん患者についてのエピソード。なんとも切ない。
・「私は、その頃インターン仲間で流行した「婦長、看護婦、医師、モルモット、インターン」という言葉をかみしめていた。」p.14
・「つまり、心臓移植も行われず、かといってホスピスなどもあまり必要としていないようである。私もそうであるが、いまの日本人の死生観は、観念的で中途半端なのかもしれない。」p.28
・「しかし、ニューリーダーとして騒がれて早世した中川一郎氏の夫人の手記を読むと、鈴木宗男秘書の反逆が中川氏に大きなストレスを与えたことがわかる。」p.32
・「昭和初期、古川竹二氏の論文「血液型と気質」が発表されて、話題になった。」p.35
・「精神医学者のヤスパースはこう言った。  「意識とは、現在の瞬間における、精神生活の全体である」」p.47
・「「意識」のテーマには、有名な哲学者デカルトが必ずひきあいに出される。彼の哲学は二元論で、人間には意識(精神活動)と反射機能があり、動物は意識がなく反射だけで行動しているという。マルブランシュという弟子が犬をけとばして、あれは犬という機械だよ、と言ったそうである。  最近のある生理学者の意見はデカルトの逆である。  「脳の働きの中心にあるものは反射機能である。意識は二次的なものか、あるいはこれも反射の一種と考えねばならない」」p.48
・「ひとつの事実とは何だろうか。残念ながらそれは人間の精神ではなく、人間の行動である。外界について言えば、ある物体の使用方法や目的ではなく、その物体の存在である。」p.63
・「ワープロはブラウン管に現れた映像を、原稿用紙で言えば二、三ページ前まででさえも眺められない欠点がある。私に言わせると、文章は絵のようなもので、画面に描き加えた一点の紅が、全体に大きな影響を与えるのである。」p.74
・「機能的脳外科手術の問題点は、その手術方法の相違や考え方の差ばかりではなかった。むしろ、薬物療法が強力な敵であった。」p.107
・「人間は徐々に死んでゆくらしく、何の治療もしなければ(中略)、生と死の区別はほとんどわからないぐらい自然に移行してゆくものだそうである。病院に勤めて30年にもなる私だが、そのような死は見たことがない。」p.118
・「では脳移植はいったいできるのか、できないのか。結論を先に言えば、まず不可能であろう。(中略)脳は網状の神経組織であり、臓器のように単独に存在するわけではない。(中略)SFに出てくるように、頭の中身だけを取り出し、培養タンクの中で生かし続けるというようなことは、全くの絵空事にすぎないのである。」p.125
・「この多様な、主観的情報を組み合わせて、医師のカンに頼らない、真に客観的な医学情報処理システムができないものだろうか。」p.131
・「本来は、社会のほうから身体障害者を受け入れやすいかたちで患者にアプローチするべきであるにもかかわらず、ほとんど行われていない。行政が、その方面を放りっぱなしにしているのである。」p.138
・「「のどに穴を開ける」ということは、一般の人びとにはたいへんな出来事に受け取られるが、これを躊躇していて失敗した例は多い。」p.147
・「こう考えていくと、現在の日本では、救急車などの移送手段をはじめ、救急病院や救急救命センターがほぼ完備しつつあるので、一般の人びとは救急車が到着するまでの処置や心がまえを身につけておけばよい、ということになる。」p.148
・「少し理論的に考えると、リハビリテーションとは、頭部外傷や脳卒中の時の訓練のような狭い意味に用いられることもあるが、本来は、ラテン語の「用意ができた」とか「適した」という意味からきている。つまり、「再び適当な人間に戻す」行為だと考え、さらに「社会に復帰する」という意味に使われている。」p.152
・「ブレーディ報道官の場合がそうであって、頭を撃たれても脳幹をはずれると、現代の脳外科では生命を助けることができる。よく映画などで、こめかみに銃を当てて自殺する場面がある。この場合も少し上向きに銃弾が進めば、そう簡単には死ねないと考えられる。」p.159
・「夢の研究家の一人である鑪幹八郎博士の夢の内容の統計を見ると、楽しい夢よりも、追われる夢や落ちる夢、襲われる夢や不幸な夢が多いことが報告されている。」p.164
・「たとえば子供が戸外で頭を打って、その時は何の症状もなくて遊んでいたりすると、重大なことを見逃す場合がある。家に帰ってから食事もあまり摂らず、元気がなくなってきたら、一応は脳外科で受診して検査を受けた方が良い。これは頭蓋内に血腫ができて、脳を圧迫し始めた時の初期の症状として、かなり重要である。」p.173
・「彼はサンフランシスコで毎日マリファナたばこを喫って、一年半を過ごした。彼は次のように話している。  「何よりも、時間の流れが遅く感じられ、また感覚が澄みわたり、音楽が実に美しく感じられる。快適で幸福感に満たされ、食事がひじょうにおいしかった」  当時は、三時間ぐらいそんな幸福感にひたり、そのあとは熟睡したという。しかし、やがて彼は激しい中毒症状で来院し、治療を受けることになる。」p.193
・「しかし、時間を感ずるというのはかなり高級な感覚であって、これまた大脳皮質の働きなのであろう。」p.194
・「私も酒を飲むほうであるが、いつも不思議に思うのは、酒を一滴も飲まずに、酔った人と同じように酒席で冗談を言ったり、カラオケを歌ったりする人がいることである。こんな人の場合は、脳の中でアルコールと同じような物質が分泌されて、アルコールを飲んだ人と同じように、その物質が脳に働きかけている、と考えられないものだろうか。」p.196
・「医学というものは、シロかクロかに割り切れるものではない。絶えず"灰色"である。一プラス一は二というように、はっきり結果が出てくることは少ないので、治療の説明もまた明確でない。それをうまく利用して、薬漬け、検査漬けの対象にすることがある。」p.203
・「都市の病院は、完全に旧帝国大学の支配下にある。主な全国の病院は「七帝」と言われる官立大学の卒業生が主要ポストを占め、残りを他の大学が分け合っている。もはや新設医大の卒業生が入り込む隙間はない。」p.208
・「プライマリー・ケアー(primary care)という言葉について、その提唱者であり推進者である日野原重明聖路加看護大学学長は、「プライマリー・ケアーは、問題を持つ患者がまず最初に接する医療で、これは一次医療と言われるべきものである」  と規定し、さらに、  「二次医療は総合病院で、三次医療は大学病院や特殊の専門病院で行われる医療である」  と説明している(『公衆衛生』1977年4月号)。」p.215
・「考えてみると、病院とは実に不思議なところである。二流ホテル並みの宿泊施設。食事は味けないルーム・サービス。檻を思わせるような生活の諸規制。二十四時間の監視体制。一方に産院があって他方に寺院があるような、生と死の舞台。それらはまさに、人生の縮図である。」p.223
・解説(保坂正康)より「表現者であるという姿勢と、専門的知識も兼ね備えている能力とが、見事に調和しているノンフィクション作家は、原発問題にとりくむ広瀬隆氏、航空機や医療にくわしい柳田邦男氏、生産現場にこだわりつづける鎌田慧氏、外洋にでかける日本人をとおして日本を見つめる春名徹氏など、わずかでしかない。」p.231
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【本】フラニーとゾーイー

2007年02月25日 22時19分53秒 | 読書記録2007
フラニーとゾーイー, J.D.サリンジャー (訳)野崎孝, 新潮文庫 サ-5-2(2300), 1976年
(FRANNY AND ZOOEY, Jerome David Salinger, 1961)

太田光(爆笑問題)のオススメ本より、という訳ではなく偶然かぶってました。『サリンジャー』というと『ライ麦畑でつかまえて』が思い浮かびます。昔読みましたが、どんな話だったかさっぱり記憶にありません。しかし『ライ麦畑』とはずいぶん作風が異なっているように思います。病んだ文章。病気の一歩手前。
・グラース家の、優秀な頭脳を持った七人兄妹(シーモア、バディ、ブーブー、ウォルト、ウェーカー、ゾーイー、フラニー)についての連作小説のうちの、末のフラニー編とゾーイー編にあたる。
・「そしてたっぷり五分間、彼女は泣いた。ヒステリックになった子供が、咽喉をひきつらせてたてるような、半ば閉じた喉頭蓋を突き抜けるようにして息がとび出して来ようとする、あの音をたてながら、悲嘆と懊悩の慟哭を抑えようともしなかった。それでいて、いよいよ泣きやんだときには、激しい感情の噴出のあとに普通なら続くはずの、刃物のような痛々しいしゃくり上げもなく、ただぱたりと泣きやんだ。」p.29
・「「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしか分かんない。」とフラニーは言った。「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようななんかをやりたい、面白い人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ――ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気」」p.36
・「「だって、仏教の念仏宗では、『ナム・アミダ・ブツ』って、繰り返し繰り返し唱えるけど――これは『仏陀はほむべきかな』とかなんとか、そんな意味でしょう――それでも、おんなじことが起こるんだ。まったく同じ――」」p.45
・「どこかここのすぐ近くで――この道の先のとっつきの家あたりかな―― 一人の優秀な詩人が死にかかっているんだが、しかしまたここのすぐ近くのどここかで、誰か若い女の人がその愛らしい肉体から、一パイントの膿汁を取ってもらう華やいだ光景も展開しているような気がして仕方がないんだよ。僕だって、悲嘆と歓喜の間を、永久に往復してるわけにはいかんじゃないか。」p.71
・「「ぼくたちは畸形なんだ、それだけのことさ。あの二人の野郎がこっ早くぼくたちをとっ掴まえて、一風変った基準を持った畸形に仕立てやがったんだ。それだけのことさ。ぼくたちはあの見世物の『文身(いれずみ)の女』なんだ。ほかのみんなにも文身が入らないかぎり、これから先死ぬまで、一分たりとも心の平和は持てないね」」p.154
・「ああ、なんていう家なんだろ。鼻をかむにも命がけだ」p.168
・「「バディが言うにはだな、人間、咽喉を切られて丘の麓に倒れていて、静かに血が流れて死んでゆくというときにでも、きれいな娘や婆さんが、頭の上にきれいな壺をきちんとのせて通りかかったら、片腕ついて身を起こして、その壺が無事を丘を越えてゆくのが見られるようでなくちゃだめだ、と、こう言うんだ」」p.169
・「つかぬことを訊くが、なぜきみはへばろうとするんだい? つまりだな、きみがもし、全力をつくしてへばっちまうことができるんなら、その同じ力を、なぜ元気で活躍するために使うことができないのかね? いや、これでは不合理だな。ぼくの言ってることは不合理きわまるよな。」p.182
・「彼女が部屋を空けたのは五分ぐらいの間だった。戻ってきたときの彼女の顔には、かつて上の娘のブーブーが、息子の誰かと電話で話してきたか、さもなければ、世界じゅうの人間の胃腸が、これから正味一週間の間、完全な健康状態で整然と動く予定であるという、最高権威によって保証された報告を受けたか、二つのうちのどちらかだと評した表情が浮かんでいた。」p.201
・「「それにしても活動した方がいいぜ、きみ。回れ右するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ。ぼくはいい加減なことを言ってんじゃない。この現象世界には、くしゃみする暇さえないようなものさ」」p.216

?そそう【沮喪・阻喪】 気力がくじけて勢いがなくなること。また、気落ちさせること。「意気沮喪」
?ピカレスク(英・フランスpicaresque)=あっかんしょうせつ(悪漢小説)
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【本】計画の科学 どこでも使えるPERT・CPM

2007年02月22日 22時22分03秒 | 読書記録2007
計画の科学 どこでも使えるPERT・CPM, 加藤昭吉, 講談社ブルーバックス B-35, 1965年
・計画の管理手法である『PERT (Program Evaluation and Review Technique)』の一般向け解説書。
・私の周りではこういった計画法が使われることはないので、これに関する知識はありませんでした。40年以上も前の手法ですが、この類の方法は今でも形を変えて残っているのでしょうか。科学的に計画を立てると効率が良くなり生産性が上がることは納得できるのですが、実際取り入れる気になるかというと、、、そこまでやる気にはなれませんでした。本書の内容はほんのさわり部分のみで、本当に会得するためにはそれ相当の訓練が必要になりそうです。
・「ではこんにち、この有効性を具現する方法いかん、ということになるが、それは一口でいって、上手に計画を立て、計画を達成する上で、本質的に大切なものと、そうでないものとを区別しながら、これをうまく管理することにかかっているといえる。」p.14
・「「計画とは、われわれをとりまく関係網の中から、特定の事象にまつわる関係を抽象し、これを時間軸に中心をおいて分析検討した行動の指針である。」ということができる。」p.16
・「人間がものをつくるときの目標は、いつの時代でも、<最高の品質><最低の費用><最短の工期>という一見対立する内容を持った言葉に集約される。ここに、この種の計画のむずかしさがあり、長い間、定石の検討と集成がなされてきた。」p.20
・「これはPERTに限らずネットワーク手法全般に通じることで、ネットワークを的確に組むことはこの種の手法の最も基本的な手続きである。」p.38
・「もののとらえ方をより多角的にし、思考範囲を部分から全体に拡げるネットワーク的思考過程を大切にすべきである。」p.55
・「固定観念ほど人間を萎縮させ、老衰化させるものはない。」p.56
・「これと同じようなことは、2500年前、中国の荘子が次のように述べている。  「ひとが分別にとんだ行動をしようと欲するなら、どうしてもやらなければならないことだけをすべきで、どうしてもやらなければならないことだけをするのが、賢者の方法である。」  また、数学者のエルンスト・マッハは、  「不思議にきこえるかもしれないが、数学の力というものは、あらゆる不必要な考えをさけること、および、精神機能を極度に節約することにかかっている。」といっている。」」p.84
・「つまりPERTはわれわれに、計画にまつわる問題の所在(trouble spots)を指摘してはくれるが、その解決策を示してくれるものではない。」p.108
・「なぜなら、日本人の計画に対するかまえ方は、どちらかというと、固定的で、最初から完璧を狙い過ぎ、時機を失したり、動きがとれなくなったりすることがよくあるからである。」p.119
・「江戸時代の狂歌に――織田がこね羽柴がつきし天下餅寝ているままに食うが徳川――というのがあるそうだ。」p.121
・「以上、天下とり三人男の行動を総括してみれば、信長はわき目もふらず武力をもって、クリティカル・パスにあたる障害物を取り除き、秀吉は話術によって取り除かれたクリティカル・パスの後始末を行うと同時に、クリティカル・パスがふえないような策略を考え、家康は関係網=旗本、親藩、譜代、外様などの均整化と選択、それに未来に向かっての長い時間を計算に入れた大計画を立て、待つという技術によってクリティカル・パスを霧散霧消させたといえないであろうか。」p.124
・「PERTは日本では、昭和38年頃から、プラント建設、石油関係などの一部で使われていたが、現在では産業界の各分野で使われ、益々盛んになっていく傾向にある。」p.158

?せんきすじ【疝気筋】 1 正しくない系統。傍系。  2 筋道を取り違えること。見当違い。
?けんこん‐いってき【乾坤一擲】 さいころを投げて、天が出るか地が出るかをかけること。運命をかけるような大仕事、大勝負をすること。一擲乾坤を賭す。
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【本】読書と社会科学

2007年02月18日 22時17分51秒 | 読書記録2007
読書と社会科学, 内田義彦, 岩波新書(黄版)288, 1985年
・経済学・社会学の大家による、読書をテーマにした講演録に手を加えたもの。単なる"読書論"という言葉には収まりきらない深い内容をたたえた本です。後半はちょっとついていけなくなりました。時間があれば二、三度読み返すべきですが。。。
・「本は読むべし読まれるべからず、とさしあたり言っておきましょう。」p.4
・「(読書)会が楽しく育ってゆくかどうか、その鍵は、参加者の一人一人がどの程度聴き上手かどうかにある、と私は考えます。」p.9
・「そこで早速第一の問題に入りますが、「読む」と一口にいっても、読み方に二通り、根本的に性格が違う読み方があると思うんです。ここ(黒板)に書いた「情報として読む」のと「古典として読む」の二つです。」p.11
・「あのベートーヴェンが、ナポレオン戦争という、ややこしい戦争のややこしさを一手にしょいこんだ感のある複雑怪奇な占領下のウィーンで、生計の基礎の安定を求めてウロチョロしている姿はほほえましくも感動的で、その面の理解を欠くとベートーヴェン理解は本ものにならないでしょう。」p.12
・「第一、小学校以来の教育が、一般に本を古典として深く読む態度と技術を教えるどころか、本とは合理的すなわち安直に読み捨てるべきものという観念と風習を身につけさせるように、事実上なっています。」p.16
・「文体の問題に話が進んだとき、加藤(周一)さんが、新聞の文体は非常にいい。他の面では日本の新聞は相当難点をもっているけれども、明快な文体を作り上げた点だけは功績として称えていい。文筆家は以って範とすべきではないか、という意味のことをいわれました。」p.17
・「古典は、第一に、一読明快じゃない。二度読めば変る。むしろ、一年後に読んで、あの時はこう読んだけれど浅はかだった、本当はこう書いてあったんだなあというふうにして読めてくるような内容をもっていなければ、古典とはいえないでしょう。」p.20
・「(森有正の言葉)シュヴァイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ、徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏は、それぞれ個性的である。  楽譜に忠実でない演奏は、自己流で恣意的であっても、個性的などとはいえないということですね、いい変えると。昂奮しやすい性質でテンポがつい早まってくるなんてのは論外だ。」p.28 以前、あるソリストについて抱いた感想と同じことが書かれていてビックリ。
・「それで、さいしょ「放談の場」としてそれなりに楽しかった会が、も少し密度の濃い読書で正確にという、それ自体当然な要求が出、会をそのようにもってゆく段になってくると面白くなくなる。」p.30
・「私が、古典としての読みの意義を一方的に強調したのは、現在、本を情報として読む風習があまりにも強く一般的になってきており、古典として読む風習と技術が失われつつあると思うからです。それでは折角の情報が情報になりません。」p.32
・「学問上の発見も、創造の現場に立ってみると、じつは同じなんです。信念の支えがあって学問は生れる。疑い一般からではない。」p.45
・「次にもう一つ。これも刺激的な言い方をしておきますと、「みだりに感想文を書くな」ということ。(中略)感想文を書くこと自体を否定するつもりは、もちろん、ありません。感想文を書くために本を読むというウソみたいな本末転倒がいつしか慣れになり読書論の常識になる、それが恐いというんです。」p.50
・「私なども芝居が好きで、はねた後の友人との食事を無二の楽しみにしておりますけれども、その時でも芝居の話などすぐには出ません。雑談の合間にぽつりぽつりとようやく出てくる、といったかたちで言葉になるのが本当の感想であって、下手な感想表明は豊饒な余韻を殺す行為である。」p.55
・「そして、そこは――そこが自分に面白かったのは――何故であろうかを考える。つまり焦点づくり。あの本は、少くともこことここが――誰がなんと言おうと今の自分には――面白かったということ、これが読書の基本です。それをぬいて、「客観的」に本のスジ書きを書いたり、あるいはまた逆に、著者に内在して著者のいい分を聴きとどける努力もしないで、早急に自分の意見を著者にぶつけることをしては、真に個性的な理解に達することは決してできません。」p.61
・「自分の眼と思っても案外自分の眼で無いことは多い。通説の弊ですね。」p.65
・「そうでなくても、眼は案外に働らいていないものです。すぐ目の前にある宝が見えない。見るべきときに見るべきほどのことを的確に、誤りなく見得る敏感な眼、あるいは耳ですね、アラート・イアーという、をもつことは至難のわざです。」p.66
・「反れていないというような消極的な正確さ、誰がやっても同じというていの平板な正確さは、決して本当の意味の正確な読みあるいは再現ではありません。」p.84
・「学問を「学問として」うけとっちゃ駄目だ。ずぶの素人になり切ること。学問によりかからず、自由を希求する一個の自由な人間として、自分の眼をぎりぎり使い、自分の経験を総動員しながら学問にきく。そういう体あたりの努力によって、学問は初めて有効に身についてくるものです。」p.99
・「ところが、中国ではそうではない。「勉強」は、ここでは、無理をする、あるいは、無理を強いるという意味を有する言葉であって、学問をするとか、値引きをするとかいった用例は、現代中国語でも古典語でも、ないのだそうです。」p.122
・「要するに学問の研究(勉強)とは、何かでき上がった学問を研究するのではなくて、学問によってこの眼の働き――一般に五感の――不十分さ、至らなさのほどを自覚し反省して、その(この眼の)機能を高めながら、対象であるもの、あるいは事象を研究する。それが学問のあり方、方法でもあり、効用でもあります。」p.135
・「概念装置を脳中に組み立て、それを使ってものを見る。物的装置をもたないという心細さが残りますが、概念装置を使うことによって、肉眼では見えないいろいろの事柄がこの眼に見えてくる。」p.145
・「本を読むことは大事ですが、自分を捨ててよりかかるべき結論を求めて本を読んじゃいけない。本を読むことで、認識の手段としての概念装置を獲得する。これがかなめです。」p.157
・「何でこんな簡単なことが答えられないの。満場シーンとなっちゃって。答えは出ているんだろうが、あまり簡単すぎるんで出ている答が「答え」として出てこない。こんなにわかり切った簡単な答が「答え」であるはずがないという考慮、大学という勉強の場としては何かもっと学問らしい答が求められているんだろうという予想が働いて自由な思考を妨げる。それじゃ実験が実験になりませんね。学校勉強を外して、素人になり切ったところで考えて下さい。」p.181
・「学問は、人間があい倶に真に自由な存在になってゆくために働かねばなりません。」p.209

?カイエ【cahier フランス】 帳面。手帳。ノートブック。
?きんぎょう【欽仰】 仰ぎとうとぶこと。仰ぎ慕うこと。きんこう。きんごう。
?ジャーゴン [jargon] 1.職業上の専門語  2.たわごと
?下衆の知恵は後から[=後につく] 下賤の者の知恵は事が済んでから浮かぶ。役に立たないことのたとえ。
?ちょうたく【彫琢・雕琢】  1 宝石などをきざみみがくこと。彫刻すること。  2 転じて、文章などをねり作ること。文章をみがくこと。

チェック本 一海知義『漢語の知識』岩波ジュニア新書
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【本】働くことがイヤな人のための本

2007年02月15日 22時13分30秒 | 読書記録2007
働くことがイヤな人のための本, 中島義道, 新潮文庫 な-33-3(7419), 2004年
・カバー紹介文より「「仕事とは何だろうか?」「人はなぜ働かねばならないのか?」「生きることがそのまま仕事であることは可能か?」――引きこもりの留年生、三十過ぎの未婚OL、中年サラリーマン、元・哲学青年の会社経営者といった人物との架空対話を通して、人間が「よく生きること」の意味を探究する。仕事としっくりいかず、生きがいを見出せない人たちに贈る、哲学者からのメッセージ。
・中島道義、二冊目。前出書ほどのインパクトはありませんでしたが、著者のパワーは相変わらず。内容についてはいまいちピンとこなかった。私も冒頭で『さようなら』と言われるうちの一人なのでしょう。おまけのストライク。
・「ということは、本書は私と異なった感受性を持つ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない。それでいいのだ。そうした一人であるあなたは、この本を読む必要はない。  さようなら。またいつか、どこかでお会いしましょう。」p.8
・「自分がたまたま生まれてきて、そしてまもなく死んでしまう意味を知りたいのだ。これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。充実して生きる道を探しているのだ。それが、何にも増していちばん重要なことなのだ。  それは自分の(広い意味における)仕事を探していることにほかならない。」p.17
・「同類が増えてたいそう心強く、私の本心なのだが、もっともっと引きこもりが増大してほしいと思う。なぜなら、彼らのうちで少なくとも真剣に考えている者は、人生における本質的なものを見ているように思えるからだ。」p.17
・「そこで、プライドを維持するために、彼らは不戦敗という道を選ぶ。戦わないことにするのである。戦うと負けるかもしれないが、戦い自体を拒否してしまえば、致命傷は負わなくてすむ。」p.22
・「おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。」p.27
・「だが、私が言いたいのは、このいずれでもない。もっと身も蓋もない事実である。すなわち、人生とは「理不尽」のひとことに尽きること。思い通りにならないのがあたりまえであること。いかに粉骨砕身の努力をしても報われないことがあること。(中略)そして、社会に出て仕事をするとは、このすべてを受け入れるということ、その中でもがくということ、その中でため息をつくということなのだ。」p.40
・「「自分のやりたいことがきっと何か一つあるはずだ」というお説教は、正真正銘の嘘だ。ほとんどの人は、目を皿のようにして探してもそんなものは見つからない。」p.53
・「一握りの成功者のことなどどうでもいいのだ。そういう者の成功の秘訣をいくら読んでもあなたは成功しないであろう。」p.58
・「カミュが愛用していたニーチェの言葉がある。それは「私を殺さないかぎり、私はますます強くなる」というものだ。(中略)人生の目標がはっきりしており、しかもそれは実現されなくてもよいのだと悟ったとたん、きみは何をしても失敗することはない。」p.65
・「タコ焼き屋でも、ラーメン屋でもいい。仲間に負けてもなんともないのだったら、それは厳密には仕事ではなく趣味だ。」p.71
・「成功者は、ちょうど幼少から愛されつづけてきた人のように気持ちがおおらかでみずからの才能をよく知っており、魅力あふれた人が多い。みずから運命の女神の寵児であることを知っているがゆえに、ますますこだわりのない自由人になってゆく。だが、失敗者は、ちょうど愛されないで育った人のように気持ちがさもしくみずからの才能を直視せず、魅力に欠ける人が多い。みずから運命の女神に見放されてきたことを知っているがゆえに、ますますひねくれた不自由を背負ってゆく。  こうして、成功者はますます成功する要素をそのうちに育ててゆくのに対して、失敗者はますます不成功の要素をみずからのうちに沈殿させてゆくというわけだ。」p.84
・「ある程度考えたら、もうあとは動きだすよりほかはない。仕事に対する適正を知りたいのなら、仕事につくよりほかないのだ。」p.100
・「危険がなく、責任もとらなくてよく、ひと聞きがよくて、しかも暗い職業は何か? ああ! それこそ哲学者なのだった。しかも、哲学でメシを食っていける唯一の職業は、大学教師なのだ。」p.104
・「このままずっと、軽薄に軽薄に何も考えずに行きつづけよう。死が恐くなくなるほど、徹底的なアホになろうと意図した。」p.113
・「私のまわりの作家志望の若い人々には、自分が純粋だから社会に適応できないと思い込んでいる人が多いんです。そのじつ、全然純粋ではないのに。」p.129
・「そんなときMさんは「お釈迦さまは誰もいないところでも説教した。誰もいなくなってもいいんだ」と言ってくれた。」p.138
・「私は自分ほど不器用な者はいないと思っている。そして、その不器用さを利用することにかけては、これほど器用な者もいないと思っているんだ。これは、50歳になってやっと言えることだけれどね。」p.142
・「ただ誠実にやっていれば報われる社会、そんな低級な社会はおとぎ話の中だけでたくさんだ。  理不尽であるからこそ、そこにさまざまなドラマを見ることができる。」p.150
・「B ところで、先生はなんで無用塾を開設したんですか?
 もう開設から四年になるが、その当時私は学問とは別に哲学する場が欲しかった。哲学研究者になるのでもなく、サロンでもない、しかも本物の哲学をする場を作りたいということであった。
」p.166
・「人間は死ぬとずっと死につづけるのだ。一億年経ってもその一億年倍経っても生き返ることはないのである。やがて、人類の記憶はこの宇宙から跡形もなく消えてしまうのである。」p.178
・「よく生きるとは、第一に真実をめざして生きることにほかならない。真実は、この場合、外的真実のみならず内的真実(信念)をも含む。そして、その要に死が位置する。」p.184
・「基準は、いまや金になる仕事から金にならない仕事に移行している。」p.187
・「他人のために時間を投げ捨てることはないのだ。自分のためだけに贅沢に時間を使えばいいのだ。」p.191
・「プラトンは哲学は50歳からと言った。」p.194
・「表面的に健康な世間において問うてはならないとされている問いを抑えつづけることはその人を病的にし、逆にそれをとことん正確に言語化することはその人を健康にするんだよ。」p.197
・「偶然産み落とされて、運命に翻弄され続け、そして理不尽な評価を受けつづけ、そしてあと少しで死んでしまうこの人生の不条理は、よく考えると不幸そのものだということ、このことに鈍感であっては哲学の適性はないだろう。この残酷さを直視しようとしない者は哲学者にはなれないだろう。」p.198
・「だが、次第に哲学者には二つの意味があると思いはじめている。一つは、カントやニーチェのように「哲学狂い」とでも呼べる大天才たちをはじめとした専門哲学者。(中略)だが、もう一つの哲学者がいるのではないだろうか? その人生への態度が哲学的な人々である。(中略)この意味での哲学者を、ここではギリシャ語の「フィロ(愛)=ソフィア(知)」という語源に従って「愛知者」と呼ぶことにしよう。」p.198
・「「生きる」という仕事は、ありとあらゆる仕事より格段に価値がある。ただ、すべての人が生きているから、この楽しく・苦しく・充実していて・虚しい仕事も評価されないのだね。」p.202
・「私はごまかして死ぬことだけはしたくないと思っている。モルヒネで朦朧となったまま息を引取ることはまあしかたないであろう。しかし、精神的なモルヒネを大量に投入して、思考を停止してしまい、「これでいいのだ」とか「みんなありがとう」とか呟いて死にたくはないのだ。」p.206
・「このまえ21世紀に突入したが、100世紀には世界は、人類はどうなっているんだろう?」p.207
・「父は人格的には貧寒だったと思うが、80歳を過ぎても旺盛な知識欲があった。「学生時代に読めなかった長編を読もう。まず『チボー家の人々』を読もうかな」と私に語ったことがある。」p.209
・「その人が死んでも誰ひとり悲しまない死に方はいいもんだ。はじめからその人が生きていなかったように、死んでしまうのはいいもんだ。」p.212
・「この世が生きて甲斐ない所だと心底から絶望することもまた、すばらしい死の準備である。(曾野綾子「三秒の感謝」朝日新聞)」p.212
・「人はなぜ働かねばならないのか? この問いに、私はいまだ明確な回答を与えることができません。」p.215
・以下、解説(斎藤美奈子)より「なんだかグチャッグチャした本だなあ。これではよけいドツボにハマっていくじゃんか。それが本書をはじめて読んだときの、ウソ偽らざる感想でした。」p.217
・「この本がグチャグチャして見えるのは、社会のしくみの話ぬきで社会との接し方について語ろうとする、その根本的な矛盾に由来するように思います。」p.220
・「だけど、そうだとしたら、この本のタイトルは適正ではないかもしれませんね。正しくは『賃労働者として働くことがイヤな人のための本』。副題は「賃労働ではない仕事とは何だろうか」。」p.222
・「<哲学者なんて(と差別的にいうが)、労働者としても生活者としても、もともと失格なわけですよ。じゃないと哲学者にはなれないし、失格だが、人類の貴重な文化財だから社会が特別に保護してやっているのである。そんな保護動物みたいな立場の人が、他人の悩みに首をつっこむなど、トキがパンダの心配をしているようなものである>(斎藤美奈子『趣味は読書。』所収)」p.223 どういう方か存じませんが、鋭い方ですね。センスを感じる。興味津々。

チェック本 斎藤美奈子『趣味は読書。』、『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書
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【本】コンピューター・グラフィックスがひらく 現代数学ワンダーランド

2007年02月12日 17時50分48秒 | 読書記録2007
コンピューター・グラフィックスがひらく 現代数学ワンダーランド, アイヴァース・ピーターソン (訳)奥田晃, 新曜社, 1990年
(THE MATHEMATICAL TOURIST : Snapshots of modern methematics, Ivars Peterson, 1988)

・数学読み物。数論、トポロジー、多様体、フラクタル、カオス、ライフゲーム等々の話題について。一般向けに書かれているようですが、これらのキーワードを聞いてピンとこない、まったくの数学初心者にとってはつらい内容ではないでしょうか。理工系の大学生程度の知識が必要だと思います。
・アメリカ独特の回りくどい言い回しも少々しんどい。
・「たとえば、コンピューター・サイエンスは、アルゴリズムの研究を行うものと考えられる。すなわち、与えられた問題群を解くための方法と手続きの研究である。料理の場合は調理法がアルゴリズムで、これに従うことで、あれこれの材料から美味しいケーキができ上がる。数学者にも調理法がいる。」p.16
・「最近になって数論は、その数学世界の私室から出て、社会的な問題に対するきわめて重要な役割を果たすようになってきた。昔の数学者のこの高等な遊びは、暗号化やコンピューター安全保護システムに重要な応用があることが分かったのである。」p.22
・「現代の暗号システムの安全性は、素数を判定するのはどのくらい簡単かという問題と、ランダムに選ばれた大きな数を因数に分解するのはどのくらい困難かという問題の、対になった2つの問題に依存している。どちらの問題も明確な答はまだない。」p.30
・「数学の世界では、演繹が普通で、これによって1つの定理すなわち論理的な真から、もう1つへのホップ・ステップ・ジャンプが導かれるのであるが、これに絶対的に頼ることは数論ではできないのである。」p.34
・「オーストラリアの数学者であり、論理学者でもあったゲーデルは、公理のある集まり、たとえば、ユークリッド幾何学や無限集合の理論の基礎にあるような公理の集まりが導き出す数学的体系には、その公理群をもとにして、正しいことを証明することもできないし、正しくないことも証明できないような命題があることを示した。したがって、定理には決定不可能なものがあり得ることになる。(中略)不確定性が数学に内在している!」p.41
・「物理的に考えられるどんなコンピューターも、このような法外に大きい数を扱うことは決してできないだろうが、それでも、数学者はその性質を推論することができるのである。」p.43
・「しかしながら、Nが2^193-1のようになると厄介である。最小の素因数13,821,503は、まあまあ見つけられる。Nの第2番目の素因数は、これよりずっと遠くのどこかにある。コンピューターが1秒間に10億回の割算を実行できるとして、2^193-1の第2番目の因数を見つけるのには35,000年以上かかることだろう。数学者のポメランスとワグスタッフの新しいアプローチと相当な努力によって、  N=13,821,503×61,654,440,233,248,340,616,559×14,732,265,321,145,317,331,353,282,383となることが初めて示された。ここで各因数は素数である。」p.55
・「分子生物学者は、DNAがとりうる様々な形態を理解するために、結び目理論を用い始めている。結び目理論の最近の発展によって、DNAが、複写や組み替えの間に、どのように結ばれたり繋がったりするか、また、切ったりくっつけたりする仕事を行なう酵素が、その機能をどのように実行するかを調べることができるようになってきた。」p.116
・「フラクタル概念はまた、古い実験結果で当時説明がつかなかったもので、くずかご行きの運命にあったものを改めて新しい目で眺めたり、かつてはあまりにも複雑にみえたので無視してしまった問題を再検討したりできる希望を、科学者たちに与えている。今や物理学者や他の研究者は、以前に困惑させられた多くの結果が実はフラクタル幾何学世界を映し出していることを認めている。この概念によって、見たところ複雑な問題で比較的簡単になるものがいくつかある。」p.201
・「カオスの技術的な定義は、日常に使う意味と微妙に関連してはいるが、「無秩序のただ中に存在する秩序」というものである。この定義は普通に使うのと対照的であって、普通我々はカオスということばによって、完全な混乱あるいは偶然がすべてであるような状況を指す。」p.217
・「新しい数学が古い数学から、古い考えを新しい見方のもとで、曲げたり折ったり広げたりし、新しい定理で古い問題を照らして、できていく。数学をするというのは見知らぬ山野を散策するようなものだ。下の方に美しい谷間が見えるが、下る道はあまりにも険しいのでもうひとつ別の道をとる。そうするとわき道にずっとそれてしまう。突然に景色が変わっていつの間にか谷間を歩いている。(ノーウッド「抽象の世界から」より)」p.327
・以下、訳者あとがきより「とはいえ、著者のピーターソン氏自身は数学者でないので、数学をするとはどういうことか、というところまでは深く入りこんでいない。広い範囲にわたってのスナップ写真を沢山見せてくれているのが、この本の特徴であるといえる。」p.336
・「正直いえば、数学の真の美しさは、どうがんばってみても数学者にしか分からないのかもしれない。それでも、音楽の専門家でなくても音楽が楽しめるように、数学を楽しむことができないものだろうか。それがこの本の願いである。」p.336
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