《7月16日》
本日は鉄道を利用して、ブロワ城とアンボワーズ城を訪問する。
まずはトゥール駅からブロワまで特急で移動した。一等車は先頭車両一両の半分ほどであり、全席自由席であり座ることができた。所要40分ほどだ。特急は1時間前後に1本程度走っている。
《ブロワ城》
ブロワの駅で降りると、駅前から道に沿って歩いていけば、そのうちに城の入口に到達する。すこし坂を下り、最後に急坂を登ると城の入口である(下写真)。
中央から左は②フランボアイアン様式、右は①ゴチック様式
ブロワ城は、下の図面で分かるように四方を建物で囲まれている。上の写真の建物(下の図面の②部分)中央から中へ入ると、広い中庭となる。
説明書きによると、中庭を囲む4つの建物がそれぞれ4つの時代の異なる建築様式で建てられているとのことだ。①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)、②フランボアイアン様式(ルイ十二世棟)(1498-1501年)、③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)(1515-1520年)、④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟)(1635-1638年)である。
ブロワ城でもらった説明書の図面
ガイドブックによると、ブロワで生まれたルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間、ブロワ城はフランス王の第1城だったそうだ。
柴田三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)」によると、
ルイ十二世-フランソワ一世-アンリ二世-フランソワ二世-シャルル九世-アンリ三世-アンリ四世
の百余年は、実に波瀾万丈の時代であった。この時代にフランス王家の中心となったのが、このブロワ城ということである。今まではそのような地名や城の名があることすら知らなかった。なお、これからたびたび出てくるカトリーヌ・ド・メディシスという女性は、アンリ二世の妃として、イタリアのメディチ家から輿入れしてきた女性であり、フランソワ二世、シャルル九世とアンリ三世の母親である。
③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)中央のらせん階段はフランソワ一世の階段と呼ばれている。
④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟) ②フランボアイアン様式
三身分ホール
①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)に位置する。聖職者、貴族、平民(第三身分)の人々が参集したことから「三身分ホール」と呼ばれている。独特の板張りの天井である。
ここに出てくるギーズ公とは、ギーズ公アンリのことであり、カトリーヌ・ド・メディシスと組んで有名なサン-バステルミの虐殺を企てた人物であり、一時はバリを支配するに至ったが、バリから逃亡したアンリ三世にブロワ城に招きよせられて暗殺された。
アンリ三世もまた刺客の凶刃に倒れ、ナヴァール公アンリ(ブルボン朝の第1代王アンリ四世)を継承者と認めて息を引き取った。
アンリ三世時の国王の居室(ギーズ公暗殺の場所) ギーズ公暗殺の絵画
城のテラスから見たブロワ市街(サン・ニコラ教会)とロワール川 中庭で行われたアトラクション
中庭では、男性3人と女性1人による剣劇が始まった。おじさんと女性が人形劇を行っているところに、検を持った二人の男性が言いがかりをつける。それに女性が剣をとって反撃し、二人をやっつけてしまうというアトラクションである。
ブロワ城見学が終わった。
ブロワ駅まで戻る。残念なことに、このルートでは城の外観を遠くから眺めることができなかった。駅とは反対のロワール川付近まで出れば、そびえ立つ城を見ることができたのであろう。トゥール方面への特急にぎりぎり間に合う時間だったので、やや早足で駅まで歩いた。ところが駅に着いてみると、利用使用した列車が遅れていたのである。やっと到着した列車に乗る。途中アンボワーズ駅で下車し、徒歩でアンボワーズ城に向かう。ブロワからアンボワーズまで1時間20分ほどである。
駅からアンボワーズ城までは炎天下を1kmほど歩かなければならない。
《アンボワーズ城》
ロワール川
ロワール川の川中島をはさんで2つの橋がかかっており、この2つの橋を渡ってアンボワーズ城に向かう。アンボワーズ城はロワール川の向こうにそびえている(下の3枚の写真)。
ロワール川からアンボワーズ城
橋を渡りきっていくつかの角を曲がると、城の入口に到達する。
まず昼食だ。近くの店に入り、ピザを注文した。
坂を登って城内に入ると、城内は広い庭園状になっており、建物が建っているのはそのうちのごく一部である。
入口へ向かう登り道 アンボワーズ城でもらった説明書記載の配置図
作者 Lieven Smits
ウィキペディアに載っている空撮写真
王族の居住棟
直角につながった左側の棟はシャルル八世の棟(ゴシック様式)、右側の棟はフランソワ一世の棟(ルネッサンス様式)の屋根窓を持っている。
アンボワーズ城から眺めたロワール川
前述のブロワ城のところで述べたように、ブロワ城は、ルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間にわたってフランス王の第一の城だった。
それに対してここアンボワーズ城は、シャルル八世が7491年に結婚した直後にアンボワーズ城に移り住むことを決めたときからフランス王の居城となっているようだ。
イタリア支配を夢見てイタリア戦争を始めたのはシャルル八世である。その後、フランソワ一世まで戦争は続いた。このとき、イタリアのルネッサンス芸術がフランスにもたらされた。シャルル八世が1496年にイタリアから帰還したとき、ここアンボワーズ城の建築はゴシック様式によってすでに進行していたが、イタリアから連れてきた芸術家たちに居住棟の内部の装飾を任せた。
ヴァロア朝はシャルル八世で絶え、その後ヴァロア・オルレアン家のルイ十二世、ヴァロア・アングレーム家のフランソワ一世と続く。ルイ十二世はブロワ城に移ったようだが、、その間にもここアンボワーズ城は進化を遂げていたようだ。レオナルド・ダ・ビンチの遺骸をアンボワーズ城に葬ることを1519年に認めたのはフランソワ一世である。さらに左下写真のアンリ二世はフランソワ一世の息子である。
アンリ二世の寝室(多分)
城壁 ロワール川側 ロワール川の反対側
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1519年に アンボワーズで死去した。ダ・ヴィンチの墓はサン・ティベール礼拝堂(左下写真)に据えられている(右下写真)。
サン・テュベール礼拝堂 レオナルド・ダ・ヴィンチの墓
アンボワーズ城内の配置図(上に載せた)の左上の橋には、おもしろい名前の塔が記載されている。そこで記念に写真を撮っておいた(下写真)。
ギャルソネの塔
アンボワーズ城からアンボワーズ駅まで、来た道を戻る。炎天下をまた1km歩いた。特にロワール川をわたる橋の上は日陰がないので苦しい。
アンボワーズからトゥールまで列車所要約20分である。
夕食は、トゥール駅前広場からちょっと入った横町の屋外テラスに入った。注文取りのお姉ちゃんが英語を全く解さない。メインのメニューを一皿頼んだのだが、「二人で一皿」を「この皿を二人前」と勘違いしていないか気をもんだ。お姉ちゃんは「わかった、わかった」といった風情で行ってしまったのだが。しばらくして出てきた皿は一皿だったので安心した。ただし、一緒に頼んだ魚料理が塩っ辛いのに閉口した。これらに加えてグラスワインである。
戻る 続く
本日は鉄道を利用して、ブロワ城とアンボワーズ城を訪問する。
まずはトゥール駅からブロワまで特急で移動した。一等車は先頭車両一両の半分ほどであり、全席自由席であり座ることができた。所要40分ほどだ。特急は1時間前後に1本程度走っている。
《ブロワ城》
ブロワの駅で降りると、駅前から道に沿って歩いていけば、そのうちに城の入口に到達する。すこし坂を下り、最後に急坂を登ると城の入口である(下写真)。
中央から左は②フランボアイアン様式、右は①ゴチック様式
ブロワ城は、下の図面で分かるように四方を建物で囲まれている。上の写真の建物(下の図面の②部分)中央から中へ入ると、広い中庭となる。
説明書きによると、中庭を囲む4つの建物がそれぞれ4つの時代の異なる建築様式で建てられているとのことだ。①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)、②フランボアイアン様式(ルイ十二世棟)(1498-1501年)、③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)(1515-1520年)、④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟)(1635-1638年)である。
ブロワ城でもらった説明書の図面
ガイドブックによると、ブロワで生まれたルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間、ブロワ城はフランス王の第1城だったそうだ。
柴田三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)」によると、
ルイ十二世-フランソワ一世-アンリ二世-フランソワ二世-シャルル九世-アンリ三世-アンリ四世
の百余年は、実に波瀾万丈の時代であった。この時代にフランス王家の中心となったのが、このブロワ城ということである。今まではそのような地名や城の名があることすら知らなかった。なお、これからたびたび出てくるカトリーヌ・ド・メディシスという女性は、アンリ二世の妃として、イタリアのメディチ家から輿入れしてきた女性であり、フランソワ二世、シャルル九世とアンリ三世の母親である。
③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)中央のらせん階段はフランソワ一世の階段と呼ばれている。
④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟) ②フランボアイアン様式
三身分ホール
①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)に位置する。聖職者、貴族、平民(第三身分)の人々が参集したことから「三身分ホール」と呼ばれている。独特の板張りの天井である。
ここに出てくるギーズ公とは、ギーズ公アンリのことであり、カトリーヌ・ド・メディシスと組んで有名なサン-バステルミの虐殺を企てた人物であり、一時はバリを支配するに至ったが、バリから逃亡したアンリ三世にブロワ城に招きよせられて暗殺された。
アンリ三世もまた刺客の凶刃に倒れ、ナヴァール公アンリ(ブルボン朝の第1代王アンリ四世)を継承者と認めて息を引き取った。
アンリ三世時の国王の居室(ギーズ公暗殺の場所) ギーズ公暗殺の絵画
城のテラスから見たブロワ市街(サン・ニコラ教会)とロワール川 中庭で行われたアトラクション
中庭では、男性3人と女性1人による剣劇が始まった。おじさんと女性が人形劇を行っているところに、検を持った二人の男性が言いがかりをつける。それに女性が剣をとって反撃し、二人をやっつけてしまうというアトラクションである。
ブロワ城見学が終わった。
ブロワ駅まで戻る。残念なことに、このルートでは城の外観を遠くから眺めることができなかった。駅とは反対のロワール川付近まで出れば、そびえ立つ城を見ることができたのであろう。トゥール方面への特急にぎりぎり間に合う時間だったので、やや早足で駅まで歩いた。ところが駅に着いてみると、利用使用した列車が遅れていたのである。やっと到着した列車に乗る。途中アンボワーズ駅で下車し、徒歩でアンボワーズ城に向かう。ブロワからアンボワーズまで1時間20分ほどである。
駅からアンボワーズ城までは炎天下を1kmほど歩かなければならない。
《アンボワーズ城》
ロワール川
ロワール川の川中島をはさんで2つの橋がかかっており、この2つの橋を渡ってアンボワーズ城に向かう。アンボワーズ城はロワール川の向こうにそびえている(下の3枚の写真)。
ロワール川からアンボワーズ城
橋を渡りきっていくつかの角を曲がると、城の入口に到達する。
まず昼食だ。近くの店に入り、ピザを注文した。
坂を登って城内に入ると、城内は広い庭園状になっており、建物が建っているのはそのうちのごく一部である。
入口へ向かう登り道 アンボワーズ城でもらった説明書記載の配置図
作者 Lieven Smits
ウィキペディアに載っている空撮写真
王族の居住棟
直角につながった左側の棟はシャルル八世の棟(ゴシック様式)、右側の棟はフランソワ一世の棟(ルネッサンス様式)の屋根窓を持っている。
アンボワーズ城から眺めたロワール川
前述のブロワ城のところで述べたように、ブロワ城は、ルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間にわたってフランス王の第一の城だった。
それに対してここアンボワーズ城は、シャルル八世が7491年に結婚した直後にアンボワーズ城に移り住むことを決めたときからフランス王の居城となっているようだ。
イタリア支配を夢見てイタリア戦争を始めたのはシャルル八世である。その後、フランソワ一世まで戦争は続いた。このとき、イタリアのルネッサンス芸術がフランスにもたらされた。シャルル八世が1496年にイタリアから帰還したとき、ここアンボワーズ城の建築はゴシック様式によってすでに進行していたが、イタリアから連れてきた芸術家たちに居住棟の内部の装飾を任せた。
ヴァロア朝はシャルル八世で絶え、その後ヴァロア・オルレアン家のルイ十二世、ヴァロア・アングレーム家のフランソワ一世と続く。ルイ十二世はブロワ城に移ったようだが、、その間にもここアンボワーズ城は進化を遂げていたようだ。レオナルド・ダ・ビンチの遺骸をアンボワーズ城に葬ることを1519年に認めたのはフランソワ一世である。さらに左下写真のアンリ二世はフランソワ一世の息子である。
アンリ二世の寝室(多分)
城壁 ロワール川側 ロワール川の反対側
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1519年に アンボワーズで死去した。ダ・ヴィンチの墓はサン・ティベール礼拝堂(左下写真)に据えられている(右下写真)。
サン・テュベール礼拝堂 レオナルド・ダ・ヴィンチの墓
アンボワーズ城内の配置図(上に載せた)の左上の橋には、おもしろい名前の塔が記載されている。そこで記念に写真を撮っておいた(下写真)。
ギャルソネの塔
アンボワーズ城からアンボワーズ駅まで、来た道を戻る。炎天下をまた1km歩いた。特にロワール川をわたる橋の上は日陰がないので苦しい。
アンボワーズからトゥールまで列車所要約20分である。
夕食は、トゥール駅前広場からちょっと入った横町の屋外テラスに入った。注文取りのお姉ちゃんが英語を全く解さない。メインのメニューを一皿頼んだのだが、「二人で一皿」を「この皿を二人前」と勘違いしていないか気をもんだ。お姉ちゃんは「わかった、わかった」といった風情で行ってしまったのだが。しばらくして出てきた皿は一皿だったので安心した。ただし、一緒に頼んだ魚料理が塩っ辛いのに閉口した。これらに加えてグラスワインである。
戻る 続く