雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

7月16日 ブロワ城、アンボーワズ城

2013-08-07 20:29:47 | 旅行
《7月16日》
本日は鉄道を利用して、ブロワ城とアンボワーズ城を訪問する。
まずはトゥール駅からブロワまで特急で移動した。一等車は先頭車両一両の半分ほどであり、全席自由席であり座ることができた。所要40分ほどだ。特急は1時間前後に1本程度走っている。

《ブロワ城》
ブロワの駅で降りると、駅前から道に沿って歩いていけば、そのうちに城の入口に到達する。すこし坂を下り、最後に急坂を登ると城の入口である(下写真)。
 
中央から左は②フランボアイアン様式、右は①ゴチック様式

ブロワ城は、下の図面で分かるように四方を建物で囲まれている。上の写真の建物(下の図面の②部分)中央から中へ入ると、広い中庭となる。
説明書きによると、中庭を囲む4つの建物がそれぞれ4つの時代の異なる建築様式で建てられているとのことだ。①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)、②フランボアイアン様式(ルイ十二世棟)(1498-1501年)、③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)(1515-1520年)、④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟)(1635-1638年)である。
 
ブロワ城でもらった説明書の図面

ガイドブックによると、ブロワで生まれたルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間、ブロワ城はフランス王の第1城だったそうだ。

柴田三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)」によると、
ルイ十二世-フランソワ一世-アンリ二世-フランソワ二世-シャルル九世-アンリ三世-アンリ四世
の百余年は、実に波瀾万丈の時代であった。この時代にフランス王家の中心となったのが、このブロワ城ということである。今まではそのような地名や城の名があることすら知らなかった。なお、これからたびたび出てくるカトリーヌ・ド・メディシスという女性は、アンリ二世の妃として、イタリアのメディチ家から輿入れしてきた女性であり、フランソワ二世、シャルル九世とアンリ三世の母親である。

 
③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)中央のらせん階段はフランソワ一世の階段と呼ばれている。

 

  
④クラシック様式(オルレアン公ガストン棟)                ②フランボアイアン様式

 
三身分ホール
①ゴチック様式(中世の城塞建築)(13世紀)に位置する。聖職者、貴族、平民(第三身分)の人々が参集したことから「三身分ホール」と呼ばれている。独特の板張りの天井である。

  

ここに出てくるギーズ公とは、ギーズ公アンリのことであり、カトリーヌ・ド・メディシスと組んで有名なサン-バステルミの虐殺を企てた人物であり、一時はバリを支配するに至ったが、バリから逃亡したアンリ三世にブロワ城に招きよせられて暗殺された。
アンリ三世もまた刺客の凶刃に倒れ、ナヴァール公アンリ(ブルボン朝の第1代王アンリ四世)を継承者と認めて息を引き取った。
  
アンリ三世時の国王の居室(ギーズ公暗殺の場所)         ギーズ公暗殺の絵画

  
城のテラスから見たブロワ市街(サン・ニコラ教会)とロワール川    中庭で行われたアトラクション
中庭では、男性3人と女性1人による剣劇が始まった。おじさんと女性が人形劇を行っているところに、検を持った二人の男性が言いがかりをつける。それに女性が剣をとって反撃し、二人をやっつけてしまうというアトラクションである。

ブロワ城見学が終わった。
ブロワ駅まで戻る。残念なことに、このルートでは城の外観を遠くから眺めることができなかった。駅とは反対のロワール川付近まで出れば、そびえ立つ城を見ることができたのであろう。トゥール方面への特急にぎりぎり間に合う時間だったので、やや早足で駅まで歩いた。ところが駅に着いてみると、利用使用した列車が遅れていたのである。やっと到着した列車に乗る。途中アンボワーズ駅で下車し、徒歩でアンボワーズ城に向かう。ブロワからアンボワーズまで1時間20分ほどである。

駅からアンボワーズ城までは炎天下を1kmほど歩かなければならない。

《アンボワーズ城》
 
ロワール川
ロワール川の川中島をはさんで2つの橋がかかっており、この2つの橋を渡ってアンボワーズ城に向かう。アンボワーズ城はロワール川の向こうにそびえている(下の3枚の写真)。

ロワール川からアンボワーズ城
 
 
 

橋を渡りきっていくつかの角を曲がると、城の入口に到達する。
まず昼食だ。近くの店に入り、ピザを注文した。
坂を登って城内に入ると、城内は広い庭園状になっており、建物が建っているのはそのうちのごく一部である。
  
入口へ向かう登り道                     アンボワーズ城でもらった説明書記載の配置図

 作者 Lieven Smits
ウィキペディアに載っている空撮写真

 
王族の居住棟
直角につながった左側の棟はシャルル八世の棟(ゴシック様式)、右側の棟はフランソワ一世の棟(ルネッサンス様式)の屋根窓を持っている。

  
アンボワーズ城から眺めたロワール川

前述のブロワ城のところで述べたように、ブロワ城は、ルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間にわたってフランス王の第一の城だった。
それに対してここアンボワーズ城は、シャルル八世が7491年に結婚した直後にアンボワーズ城に移り住むことを決めたときからフランス王の居城となっているようだ。

イタリア支配を夢見てイタリア戦争を始めたのはシャルル八世である。その後、フランソワ一世まで戦争は続いた。このとき、イタリアのルネッサンス芸術がフランスにもたらされた。シャルル八世が1496年にイタリアから帰還したとき、ここアンボワーズ城の建築はゴシック様式によってすでに進行していたが、イタリアから連れてきた芸術家たちに居住棟の内部の装飾を任せた。

ヴァロア朝はシャルル八世で絶え、その後ヴァロア・オルレアン家のルイ十二世、ヴァロア・アングレーム家のフランソワ一世と続く。ルイ十二世はブロワ城に移ったようだが、、その間にもここアンボワーズ城は進化を遂げていたようだ。レオナルド・ダ・ビンチの遺骸をアンボワーズ城に葬ることを1519年に認めたのはフランソワ一世である。さらに左下写真のアンリ二世はフランソワ一世の息子である。
  
アンリ二世の寝室(多分)

  
城壁 ロワール川側                      ロワール川の反対側

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1519年に アンボワーズで死去した。ダ・ヴィンチの墓はサン・ティベール礼拝堂(左下写真)に据えられている(右下写真)。
  
サン・テュベール礼拝堂                レオナルド・ダ・ヴィンチの墓

アンボワーズ城内の配置図(上に載せた)の左上の橋には、おもしろい名前の塔が記載されている。そこで記念に写真を撮っておいた(下写真)。
  
ギャルソネの塔

アンボワーズ城からアンボワーズ駅まで、来た道を戻る。炎天下をまた1km歩いた。特にロワール川をわたる橋の上は日陰がないので苦しい。

アンボワーズからトゥールまで列車所要約20分である。

夕食は、トゥール駅前広場からちょっと入った横町の屋外テラスに入った。注文取りのお姉ちゃんが英語を全く解さない。メインのメニューを一皿頼んだのだが、「二人で一皿」を「この皿を二人前」と勘違いしていないか気をもんだ。お姉ちゃんは「わかった、わかった」といった風情で行ってしまったのだが。しばらくして出てきた皿は一皿だったので安心した。ただし、一緒に頼んだ魚料理が塩っ辛いのに閉口した。これらに加えてグラスワインである。

戻る                            続く

7月15~18日 トゥール

2013-08-06 20:39:43 | 旅行
《7月15日 トゥール》
7月15日、シノンからトゥールに戻ってきた。
  
トゥール駅

これから3日間宿泊するホテル リュニヴェールは、駅から5分程度の近距離にある。駅前を真っ直ぐに歩くとすぐに大通りに突き当たる。その大通りを左にいくとすぐ、大通り沿いにホテルがある。
  
ホテル リュニヴェール ロビー
ホテルのフロントから入ったすぐのところが吹き抜けのロビーになっている(上写真)。現時点で、このホテルはロビーのみがシックな造りとなっており、それ以外の、居室などは改造されてきわめて現代的な造りである。

ホテルの居室でくつろいだ後、まだ日没までは十分に時間があるので、市内を散歩することとする。市内の見所は、駅やホテルの位置から北北東方向の一画と、北西方向の一画に集中している。本日の午後は、北北東方向に行ってみることとする。

サン・ガシアン大聖堂をめざして歩くと、その手前にトゥール美術館が建っている。17世紀の司教館を改装した美術館とある(下写真)。今回は時間もないので外から見るだけにしておく。3階建ての建物が美術館であり、屋根の上に突き出ている尖塔は隣接する大聖堂の尖塔である。
 
トゥール美術館(旧司教館)

サン・ガシアン大聖堂
ガイドブックにはさらっとしか紹介されていないが、何という豪壮さと繊細さだろうか。13世紀に着工し、16世紀に完成したとある。そのためさまざまな様式が混ざっているらしい。正面は西を向いているので、正面の写真は午後がいい。
 
  
外から支柱で壁を支えている(左下写真)。それによって壁に大きな窓を形成して広いステンドグラスを実現している。
  
内陣のステンドグラスは1255年から1270年にかけて作られた傑作と言うことである。
  
下の2枚は7月18日の午前中に訪問して撮影した。
  

サン・ガシアン大聖堂の先、ロワール川に面したところにトゥール城がある。写真に見るように、何となく近代以降に作られたような印象を受ける建物であるが、どうもれっきとした古城の一つであるらしい。
  
トゥール城

トゥール城はロワール川に面している。
 
ロワール川

《7月17日 トゥール》
7月17日は12時発のバスツアーを予定している。午前中は空いているので、トゥール市内を散歩して回ることとした。今回は、ホテルから北西方向の一画を目標とする。
ホテル前を走る東西の大通は、中央に緑地帯がある。その緑地帯が朝市になっていた(左下写真)。さらに北西方向に歩いていく途中、観光馬車に遭遇した(右下写真)。
  
トゥール大通りの朝市                観光馬車

サン・マルタン・バジリカ聖堂の近くにいたり、まずは裏の方に回ってみた。他にはおじさんが一人歩いているだけだったが、そのおじさんが私に向かってにこやかに聖堂を指さし、「サン・マルタン」と教えてくれた。フランス人のおじさんは総じて親切である。

下の写真、右側がサン・マルタン・バジリカ聖堂であり、左側の奥、道路の向こう側に見えるのはシャルルマーニュ塔と呼ばれている遺跡である(多分)。ガイドブック地図によると、近くにサン・マルタン・バジリカ聖堂の回廊があるはずだが、見つけることができなかった。

サン・マルタン・バジリカ聖堂
 
  

  
  
サン・マルタン・バジリカ聖堂内部

 
シャルルマーニュ塔

私が聖堂に入ろうとするとき、入れ違いで中国人らしき団体が出てきたところであった。大勢でギャアギャア騒いでいる。一昔前の日本の農協さんツアーと同じだ。この調子で聖堂の中でも騒いでいたのであろうか。そうであれば顰蹙ものだ。少し遅れて入った同じ東洋人の私も同類と見られたのであろうか。

サン・マルタン・バジリカ聖堂のちょっと西側に、時計塔がある(下の写真)。左下写真は午前中に東から撮影、右下写真は夕方に西から撮影したものである。
  
                         時計塔

サン・マルタンから北にちょっといったところにブリュムロー広場がある。ガイドブックによると「トゥールで一番活気ある場所」とのことだ。
 
ブリュムロー広場

トゥール市では現在、市の中央を南北に貫通するトラムの工事を行っている。今年秋の開通予定である。大方できあがっており、現在は仕上げ工事中と見た。
ちょうど、3人のオペレータが線路レール脇の詰め物を行う作業を行っていた。私がそばで感心しながら見ていたら、黒人のオペレータが「フォト?」と声をかけてきた。「サンキュー」とお言葉に甘えて撮った写真が左下写真だ。
このトラムの線路、不思議なことがある。秋開通だというのに、線路の上に電線が張っていないのである。トラムにどうやって給電するのであろうか。謎のままだ。
  
トラムの工事現場

ガイドブックの地図によると、トゥール駅前とわれわれのホテル前を東西に走る幹線道路がBd. Heurteloup、トラムが走る予定の南北に走る幹線道路がAv. de Grammontであり、両者が交差する広場がPl. Jean Jaures である。その広場の4方向を撮影したのが下の写真だ。とにかく市庁舎が立派である。
一番大きな交差点の広場
  
南東側                          南西側

 
北東側 市庁舎

 
北西側 裁判所

戻る                            続く

7月15日 シノン城

2013-08-05 20:44:34 | 旅行
《7月14日 シノン城》
今朝までの宿泊先であるシャトー・ド・マルセーからタクシーで北上し、シノン城へ向かう。ヴィエンヌ川の橋を渡るとき、川の向こうの山上にシノン城がそびえている。この景色を写真に収めたかったのだが、それはかなわなかった。かわりに、ウィキペディアに公開されている写真を掲載しておく。
Vue du château de Chinon de la rive gauche de la Vienne. On distingue à droite la tour de l'Horloge et à gauche la tour du moulin. 

タクシーは坂をある程度登ったところまで行ってくれた。後から考えると、シノン城の裏口の下であった。
我々は大きなトランクを引きずっている。まずはこのトランクを預けられるかどうかが問題だ。受付で聞いてみたら、カウンターの中に預かってくれるということだ。
受付から出て橋を渡るとすぐに城門だ(下写真)。城門から場内に入る。
 
城門

シノン城は高台にあるので、城からは旧市街とヴィエンヌ川を眼下に眺めることができる。
  
旧市街とヴィエンヌ川

ガイドブックによると、1429年、ジャンヌ・ダルクがはじめてシャルル7世に謁見したのがこのシノン城である。「その歴史的会見の後数世紀を経て、すっかり廃墟となったシノン城。ジャンヌを迎えた大広間も、今では暖炉を残すのみだ。」とある。この、暖炉が残された大広間を見落としてしまった。
ところが、フランス ロワール古城めぐり―絢爛たるロマンと追憶に心解き放たれる (講談社カルチャーブックス)には「ジャンヌを迎えた部屋も今は壁の暖炉だけが残る」と記載され、その説明が示す写真は、私の左下の写真と一致していることが判明した。この書物の通りだとすると、私は意識せずにジャンヌの謁見の跡を見ており、その場所の写真を撮影していたこととなる。左下写真の壁のマークを拡大し、コントラストを強調してみた(右下写真)。上の左右には「1429」とあってジャンヌがシノン城でシャルル七世に謁見した年であり、中央部の文字は「JEANNE DARC」と読み取ることができる。間違いなさそうだ。
  
ジャンヌダルク会見場跡                     壁部分の拡大写真

なお、下の写真は城内のとある部屋で撮った写真である。
 
別の室内

城内にはジャンヌに因んだ展示がなされている。
  
ジャンヌダルク

城内には、シノン城がどのように変遷したかを示す模型が展示されている。1100年から合計5つの時期の模型が展示されていた。そのうちの1429年と現代の模型の写真を以下に示す。
  
城の模型 1429年                    現代

  
  
シノン城内で、東洋人の女性から日本語で声をかけられた。この城でボランティア的に案内の仕事をしているとのこと。受付で日本語で書かれた説明の紙1枚をもらっていたのだが、この紙は彼女が作成したそうだ。シノン城を訪れる日本人は一日一組くらいしかいないらしい。

シノン城見学は終わった。受付に預けていたトランクを受け取り、シノンの町へ向かう。入るときは裏口から入ったが、出るときは表口から出ることとする。シノン城と町の間は、2段階のエレベータで結ばれていた。右上の写真は、シノン城から上側のエレベータで下り、下側のエレベータの乗り場に至ったところからシノン城を見た写真である。結局、下からシノン城を見上げる写真はこのアングルからしか撮影できなかった。

シノンの町でトランクを引きながらカフェを探していたら、おじさんに呼び止められた。近くの店の主人のようだった。「昼食にサンドイッチを食べたいのだ」と言ったら、「それじゃパン屋がいいから案内してあげよう」ということで、わざわざパン屋まで案内してくれた。親切なおじさんがいるものである。
そのパン屋でサンドイッチを購入し、店内のコーナーで昼食を済ませた。

ここからシノン駅までは1kmほどある。われわれはトランクを引っ張りながら徒歩で向かうことにした。ヴィエンヌ川沿いに歩く(左下写真)。ふり返れば橋が見える(右下写真)。
  
ヴィエンヌ川

かんかん照りである。暑さにやられてしまう。途中でであった像(下写真)はどうもジャンヌダルク像らしい。
 
ジャンヌダルク像

やっとのことでシノン駅に到着した。電車の時間まではまだあるが、もう電車がホームに入線しており、行き先表示がトゥールになっている。車内が涼しいので乗り込むことにした。別に文句は言われなかった。

本日から3泊、トゥールのホテル(リュニヴェール)に宿泊する。トゥール駅からホテルまでは歩いて5分ほどである。

ホテルに落ち着き、夕食に出ることにした。本日は、ガイドブックに2店記載されていたお薦めの一方のレストランをめざした。ブリュムロー広場近くのコム・オートルフェという店である。延々と歩いてやっと見つけたその店は、シャッターが閉まっていた。何ということ。
また延々と歩いて市庁舎の前の大広場まで出て、その大広場の歩道に店を出しているカフェに入ることにした。チキンとサンドイッチをひとつづつ注文し、二人でシェアした。

戻る                            続く

7月14、15日 シノン シャトー・ド・マルセイ

2013-08-04 08:52:08 | 旅行
《7月14、15日 シノン シャトー・ド・マルセイ》
本日の宿泊はシャトー・ド・マルセイである。
ガイドブック「地球の歩き方」「フランス」に「シャトーホテルに泊まる」という項目がある。その中で最初に紹介されているのがこのホテルだ。だから、フランスを訪れる日本人にはけっこう知られているかもしれない。
場所は、シノンの駅から南に向かって直線距離でも8kmほどある。田園地帯のど真ん中であり、公共交通機関としてはタクシーしかない。われわれの場合のように、駅前にタクシーが待っていなかったら到着することができない。基本的にはマイカーか観光バスであろう。下の方に掲げた「マルセーの集落で見つけた案内板」の右下に"Marcay"とあるあたりがシャトーの位置であり、右上の"CHINON"とある位置がシノンの町である。シノンに沿って流れるのがヴィエンヌ川であり、図面の右上でロワール川に合流している。

 

シャトー・ド・マルセイのホームページに掲載されていた空撮写真を下に示す。中央にシャトー本館、本館から左方向が本館正面、右下方向が通用門がある方向である。
 

  
上の大きな写真は正面の門の付近から見た光景、その下の2枚はやや斜め方向から見た姿である。最寄りの道路からの入口は、正面に向かって右側に位置した通用門(左下写真)である。写真に見える並木の下をくぐってシャトーにいたる。一方右下の並木は、建物正面の門の向こうに続く並木である。この先はずっと平地である。
  
通用門に続く並木                  正面の並木

  
裏側                 夕食のテラス
左上の写真は建物の裏側である。我々が訪問した日、夕食は建物裏側に設けられたテラスであった。右上の写真である。
建物の裏側から先はなだらかな下り坂となっており、その先に集落を見ることができる。左下の写真は夕方撮影した建物裏側正面の集落と教会(おそらくマルセイの集落)、右下写真はその左側方向にひろがる黄金色の畑である。
  
シャトー裏側の丘の下に広がるマルセイの集落

  
朝食の食堂がある長屋                   食堂の中

シャトーのメインの大きな建物の両側には、長屋が建っている。左上の写真は、朝食の食堂がある長屋である。右上の写真はその食堂の内部である。左下の写真は、通用門側に伸びる長屋である。なお、右下はシャトーの近くの牧場風景である。
  
離れ                          シャトー付近
左下はシャトー1階のリビングである。右下写真がわれわれの宿泊した居室である。居室は、上の「裏側」写真の左側の塔の下から2階目(1階)部分である。
  
リビング                      居室
チェックインして居室に案内されたとき、案内のお姉さんがいうには「壁が厚すぎて部屋ではインターネットできない。下のリビングでならできる。」と言っていた。意味が分からなかったのだが、できないならしょうがないと思ってその日は部屋でネットのトライをしなかった。次の日にリビングでトライしたら簡単につながった。われわれの居室(1階)はリビング(0階)の真上であり、居室でもネットできるのではと家内が発案した。無機材料である石がどんなに厚かろうが電磁波の伝搬に影響しない。そうであれば居室でもネットできるはずと考えてやってみたら、果たしてつながった。「無線LANの発信器がリビングの1箇所しかなく、通信可能エリアが建物全体にはゆきわたっていない」というのが実態であろう。
このホテルの居室には冷房が装備されていない。この日はとても暑かった。冷房なしでは身体が休まらない。真夏のフランスはなかなか過ごしにくいものである。

夕食は7時半からであった。建物の裏側のテラスである。この時期は7時半でも太陽が高い。
メニューを見ると、コース料理(肉または魚またはその両方)のほかに、アラカルトのページもある。われわれはそろって小食なので、コース料理は重たい。「アラカルトを頼んでもいいのか」と聞いたら「もちろん」ということなので、アラカルトから選ぶことにした。家内はラム肉、私はサーモンを選んだ。それとデザートである。
飲み物はグラスワインで、家内は赤、私は白である。赤は試飲を促された。白は試飲なしであった。どのような理由があるのであろうか。

夕食の相客は、われわれの他に白人が数組、それに日本人の団体が一組であった。日本人団体は10人弱であろうか。中高年の方々であり、和やかに食事していた。
翌日の朝、私が朝食前に散歩に出かけたら、玄関の前にたくさんのトランクが並べてあり、日本人名の名札がついていた。また朝食の食堂では日本人グループがもう朝食についているようだった。さらにわれわれが朝食に出かけるとき、玄関前に大型のベンツのバスがとまっており、日本人団体客の迎えであると知れた。朝早めに出発して、いくつもの古城を巡っていくのであろうか。

 
マルセイの集落で見つけた案内板

朝食のあと、私は一人で南側の斜面を下り、丘のふもとにある集落を散歩してみた。この集落がマルセーなのであろう。集落で見つけた案内板(上写真)からもそのように受け取れる。
右下の写真、道路の左側に男性3人組が立ち話しているのが見える。教会の反対側だ。私がこの横を通り過ぎるとき、一人の男性と目があったのでお互いに「ボンジュール!」とあいさつを交わした。すると別の一人が私に向かってにこやかにフランス語でぺらぺらとしゃべり始めた。何を言っているのかわからないが、教会を指さしているので教会のことを話しているのであろう。私が「オープン?」と聞くと、別の一人が「オープン」と答えた。「サンキュー」(「メルシー」だったかな)と別れたきりであるが、その3人組の写真を撮っておくべきだったとあとから悔やまれた。
  
マルセイ

 
教会は、外観もしっかりしているし、中に入るとなかなか立派な教会であった。
  
 
マルセイの教会

集落の中に、共同洗濯場の跡を見つけた(下写真)。
  
 
マルセイの共同洗濯場跡
案内板の英語表記には以下のように説明されている。
"Dating from the 18th century, it is fed by a spring which comes down from the chateau.
An underground passage at the back of the wash-house, blocked-off for security reasons, was a low tunnel running for several meters.
The wash-house was a place reserved for the women-folk. Men were only allowed to assist in carrying heavy loads to and from the site. The wash-house was as off limits to men as the cafe and 'boules de fort' were to women! Although considered a place of gossip and rumor, the wash house was in fact a forum for exchange and mutual support. Even if sometimes discussions lead to heated disagreements,between washerwomen, they were all very supportive of each other."

あわせて、上の方に掲げたマルセイの案内板に記された英語文も示しておく。
"Marcay marks the transition between Touraine and Poitou.
The gray slate tiles gradually give way to the ondulating red terra cotta of the South.
You will find many scenic lookouts starting from the plain of Loudum(South) and ending around Avoine (North) where the nuclear power station is. Marcey Castle is just on the way out of the village heading towards Chinon.
This fendal fortress (fifteenth century) still has its loopholes (strategically placed holes for dropping rocks or other ammunition onto the heads of enemies below) and its watchtower.
Have a nice walk!"

"the nuclear power station"にびっくりして調べてみたら、シノン原子力発電所というのは、フランスで最初の原発である。シノンから北西方向5kmほどのところにあるようだ。

本日これからの予定は、タクシーでシノン城へ向かい、シノン城を見学した後、シノン駅から電車でトゥールへ向かう。
チェックアウトとともに、ホテルのフロントでタクシーを頼んでもらった。やはりタクシーが到着するまではずいぶんと時間がかかった。

戻る                            続く

7月14日 パリ・シノン

2013-08-03 08:49:21 | 旅行
7月14日(日)
 パリ・モンパルナス12:13-13:28トゥール15:13-16:00シノン シャトー・ド・マルセイ泊

本日、午前中はパリ市内観光である。
今まで訪問していない場所ということで、モンマルトルへ行くことにした。
 
サン・ラザール駅
途中でサン・ラザール駅へ立ち寄り、フランスレイルパスのヴァリデーションをしてもらうこととした。本日出発のモンパルナス駅で行っても良いのだが、出発直前に窓口が混み合っていたりすると落ち着かないからである。そしてこの行動が、この数時間後に(後述のように)大きな意味を持つことになるとは、全く予測もできないことであった。

サン・ラザール駅から地図に従ってモンマルトルを目指すと、途中にサント・トリニテ教会がある(左下写真)。立派な教会であるが、朝まだ早く、また本日は日曜でもあり、中に入ることはできなかった。
  
サント・トリニテ教会              モンマルトル周辺
途中、ピガール広場を経由して当てずっぽうにモンマルトルの丘をめざした。残念ながら、よく絵に描かれているようなモンマルトル風景に遭遇することはできなかった。
  
モンマルトル周辺

丘の頂上に達すると、そこにはサクレ・クール聖堂が堂々とそびえている。聖堂の内部は写真撮影不可であり、残念なことであった。
サクレ・クール聖堂

 
 

さすがにモンマルトルの丘である。聖堂付近からは、パリ市街を一望にできる。左下写真にはノートルダム寺院が、右下写真にはモンパルナスタワーが見える。残念ながら、エッフェル塔は方向が異なり、見ることができなかった。
サクレ・クール聖堂付近から
  
 
サクレクール聖堂からホテルまで、最短の道を急ぐ。途中、左下写真の教会を通ったが、ガイドブックには名称が記載されていなかった。
また、随所で、道路脇の排水口から水があふれ出している(右下写真)。パリの下水道はどうなっているのであろうか。
  
メトロ Notre Dame de Lorette 付近の教会       排水口からあふれ出す水

さて、本日の列車は、パリ・モンパルナス12:13発である。ホテルからはタクシーで向かう。十分な余裕を持ったつもりで、11時頃チェックアウトした。4日後にまた訪問するというと、ホテルのスタッフは「それまで荷物を預かりましょうか?」と聞いてくれた。
ホテル前からタクシーに乗った。
ホテル前から南西に向かう道路はロープで封鎖されている。ホテルマンがいうには、本日は何かのパレードで道路が閉鎖されており、モンパルナスへは遠回りする必要があるという。とにかくタクシーは出発し、オペラ座から真っ直ぐループルへ向かう道路を南下した。ところが、ループルの直前でまたまた道路が閉鎖され、南へ行けない。
ここで思い出したことがある。実は、飛行機の中でフランスのガイドブックを読み、その中に『日本ではパリ祭と呼ばれる祭りは、フランスでは単に「7月14日」と呼ばれている。』という記述があった。7月14日? 何と本日ではないか。そう、われわれはパリ祭(革命記念日)の当日にセーヌ川を渡河しようとタクシーに乗車したのであった。何も知らずに。
それからは大変であった。運ちゃんは、セーヌ川沿いに東に移動してはセーヌ川横断を試みるが、どの道路もことごとく川の手前で閉鎖である。セーヌを渡ることができない。時間は刻々と過ぎていく。
我々は、「メトロを利用した方が良いのではないか」と提案するのであるが、運ちゃんは「大丈夫だ。それに荷物があるからメトロは大変だ。」と主張する。運ちゃんはとうとう、パリの東端まで走って外環高速道路に乗り、パリをぐるっと大回りしてセーヌを渡河することに決めたようだ。
運ちゃんが「バスティーユ」とつぶやく。しばらくすると大きなロータリーだ。「ナシオン?」と質問すると「ナシオン」と答える。ナシオン広場だ。
やっと高速に乗った。そこから外環高速でパリを1/4周である。この高速、ペリフェリックと呼ばれ、全長35キロ、ウィキによると1920年代に取り壊された城壁の外側の建築規制地域の跡地を利用して1973年4月に完成した、とある。
高速を下りてからも一般道がしばらく続く。モンパルナスに到着したのは列車出発の直前であり、かつタクシー代は50ユーロを超えていた。
ホームへ急ぐ。
空腹なので、昼の弁当購入は必須である。ホーム手前のスタンドでサンドイッチを購入し、ホームへ向かう。非常に長い列車であったが、われわれの車両は手前から2両目であった。乗り込んだら出発予定時刻の2分半前である。実はチケットには「2分前までに乗車すること」と記載され、ガイドブックにも「2分前までに乗車しないとドアを閉められてしまう」と書いてあった。即ち、あと30秒遅れたら乗り遅れた可能性が高いのである。もしフランスレイルパスのヴァリデーションが事前に済んでいなかったら、アウトだったろう。災難というべきか、幸運というべきか。

車両は非常に混み合っていた。大きなトランスを引きずって車内を移動し、車掌がいたので切符を見せた。「ここだ」というその席には若い男女が座っている。車掌がその男女に話をし、二人は不服そうに席を立った。出発まで(または出発2分前まで)に我々が現れなければ、キャンセル扱いでその二人は座ることができたのだろう。不服な気持ちは分かるというものである。

列車は定刻よりちょっと遅れて出発した。終点のトゥールまで1時間15分である。
列車が速度を緩めた。大勢の客が降りる支度をしている。ただし全員ではない。トゥールに着いたのか? しかしターミナル駅ではなさそうだ。下りようとする人に「トゥール?」と聞いてみたら「ノー」という。トゥールにはあと数分で着くらしい。
そして列車はトゥールに到着した。

ここから列車を乗り換えてシノンまで行く。
本日はシノン泊だが、あすから3日間ここトゥールに宿泊する。明日のシノン城訪問に大きなトランクは邪魔になる。そこでわれわれは、あすから宿泊するトゥールのホテルに大きなトランクを預けておこうと計画した。ホテルはトゥール駅から5分ほどのところにある。まずはそのホテルに向かった。
ところがホテルのカウンターでは「オーバーナイトで荷物を預かることはできない。これは法律で決まっている。」というではないか。「駅でも同じだ」という。実際、駅のインフォメーションで聞いたら、同じく「荷物は預かれない」とのことだった。
仕方がないので、トランクを持ってシノンへ向かうことにする。

待ち時間は十分あるので、この間に駅前のインフォメーションへ行き、古城巡りミニバスツアーの予約を行う。16日か17日のどちらか、と頼んだら、17日に決まった。さらに駅の窓口で、18日のパリ行き指定券も購入した。

シノン行きの列車は定刻に出発し、16時にシノンに到着した。
シノン駅は、ひなびた田舎の駅でしかない。駅前にはタクシーがいない。さてどうするか。
駅の窓口は一つだけ開いているが、その前には5人ぐらいが行列を作っている。最初の一人が延々と駅員と話しており、何時終わるかもわからない。
しばらくして、私が日本から持参した携帯でホテルに電話をかけられることに、やっと気づいた。電話をして「シノン駅にいるのだがタクシーがつかまらない」というと、「それではタクシーをそちらにやるから、そこで待っていろ」ということになった。
駅で待っていると、同じく足止めを喰らったらしい人が話しかけてきた。本日は日曜でなおかつ革命記念日であるため、タクシーが出払っているのだそうだ。だとしたら、ホテルが頼んでくれたタクシーも遅れるかもしれない。そこで再度ホテルに電話してみた。案の定、タクシーはすぐには来ないようだ。「30分」といっていた。30分が、前回電話から30分なのか、今から30分なのかは聞き取れなかった。

さらに待ち続ける。
足止めを喰らっていた他の客もいつの間にかいなくなり、我々だけが残された。やはり30分以上たっただろうか。やっとタクシーが到着した。
タクシーでホテルへ向かう。遠かった。駅から6キロとのことだったが、もっと遠いかもしれない。ブドウ畑の間を延々と走り、やっとのことで目的のホテルに到着した。見渡す限り畑の中にぽつんと立っている。古城ホテルというより、領主の館ホテルといったところだ。

戻る                            続く