「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第2回である。
、5月2日ベルリンからドレスデンへ、5月3日ドレスデン(1)、5月3日ドレスデン(2)、5月4日ドレスデンからプラハへで紹介したように、ドレスデンの旧市街はバロック建築の宝庫である。この壮麗な建物群がどのようにできたのかをふり返ると、そこには必ずといっていいほど“アウグスト強王”の名前が出てくる。
ドイツがプロイセンの力によって統一されたのは1871年であり、それ以前のドイツは小国が分立していた。その小国の一つがザクセン王国で、ザクセン王国の首都がドレスデンであった。
1694年、フリードリッヒ・アウグスト1世は24歳でザクセンの選帝候になる。ザクセン王が神聖ローマ皇帝の選挙権を持っていたのでこう呼ばれている。
アウグスト選帝候はとにかく女性に目がなく、次々に側室を迎えては、その側室に子どもができる頃には飽きて次の女性に移っていくような人だった。また腕力が強かったらしく、アウグスト強王と呼ばれている。
その頃ポーランドは、貴族共和制という政治形態を取っており、先王に後継者がいなかった場合は立候補した候補者の中から次期王が選ばれていた。そしてアウグスト王がポーランド王に立候補するのだ。アウグスト王は新教だったが、ポーランド王になるにはカトリック教徒でなければならない。なんとアウグスト王はこのためにカトリックに改宗してしまう。また王は領地や不動産を売って大金を都合し、膨大な賄賂をばらまく。これによって見事にアウグスト王はポーランド王位を手にした。ザクセン王としてはアウグスト1世、ポーランド王としてはアウグスト2世でややこしいが。
このあとアウグスト強王は、スウェーデンに宣戦布告するという愚挙に出、その後21年間続く北欧戦争が始まった。ザクセン軍は終始大敗し、1706年に無条件降伏する。ポーランド王の地位も失った。しかし1年後にスウェーデン軍が去り、さらに2年後、アウグスト強王はポーランド王に返り咲く。
このアウグスト強王の時代に、現在のドレスデンの姿が現れた。まだ木造の家が多い小さな村であったドレスデンは、彼が死んだときには美しく壮大な石の町に生まれ変わろうとしていた。火災予防の観点から、市内の建設は石造りのみという命令を出したのがアウグスト強王だった。また彫刻など芸術的装飾をちりばめた豪奢な大建造物が造られたのも彼の治世下である。
エルベ川対岸からアウグストゥス橋とドレスデン旧市街
上の写真のアウグストゥス橋、下のツヴィンガー宮殿はアウグスト強王の命令で造られた。さらにその下のカトリック旧宮廷教会は、アウグスト強王の息子であるアウグスト2世の命令で造られている。アウグスト橋を渡り終えた新市街側には1736年より、アウグスト強王の金色に輝く騎馬像が建っている。
ツヴィンガー宮殿
アウグスト強王像 カトリック旧宮廷教会
磁器は、古く中国で始められ、1600年代には日本でも焼かれていた。しかしヨーロッパでは、18世紀になっても磁器が製造できず、王侯貴族は中国と日本からの輸入品を財宝のような高値で購入していた。
そのころのベルリンにボットガーという若者がおり、薬剤師の勉強をしていた。あるとき、彼が錬金術を発見したという噂が高まり、君主のプロイセン王に拘束される恐れをいだいたボットガーはザクセンに逃れる。これに目を付けたアウグスト強王が彼を招いて実験室を与え、金の鋳造を行うように勧められる。しかし成功するわけがない。6年後、ボットガーは磁器の製作に取りかかる。そして1年後、磁器の製造に成功するのだ。
喜んだアウグスト強王は、秘密の漏洩を恐れて工房をマイセンに移した。さらに実験を繰り返したボットガーは、1712年に正真正銘の白い磁器を製造することに成功した。
マイセンは今でも磁器の産地として有名だ。アウグスト強王はこのようなところにも名を残したのだ。
女好きのアウグスト強王は、次から次へと側室を代えていたが、その中で7年もの間アウグスト強王の寵愛を独り占めした女性がいた。コーゼル伯爵夫人である。
1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まる。ところがこのあと、彼女はそうそう簡単にアウグスト強王の手に落ちなかった。二人が交わした秘密契約では、当時の強王の正妻が死んだら彼女が正妻になるという約束も含まれていた。こうしてアウグスト強王はアンナ・コンスタンティアを手に入れる。そして彼女のためにタッシェンベルクに新宮殿を建造した。そしてコーゼル伯爵夫人の称号を得る。
聡明だったコーゼルは、王の側近や大臣を凌駕する地位を手に入れ、閣議にも出席して国政に関与する。しかしその行為は、コーゼルの地位を逆に脅かすものでもあった。二人の間が冷えると、疎遠になるだけではなく激しい応酬が始まった。強王は、現正妻の死後にコーゼルが正妻になるという証書を取り戻そうとし、コーゼルはそれを拒否する。最後にコーゼルは強王によって逮捕され、85歳で亡くなるまでシュトルペンの要塞に拘束され続けたのだ。
そのタッシェンベルク宮殿の現在の姿が、私達が今回宿泊したケンピンスキーホテルである。アウグスト強王の居城であるドレスデン城に隣接し、二階のところで可愛い空中回廊によって結ばれていた(右下写真)。
ケンピンスキーホテル 空中回廊(左がケンピンスキーホテル、右がドレスデン城)
ちなみにタッシェンベルク宮殿は、1945年の空襲で焼失したままになっていたが(下の写真)、東西ドイツ統一後オリジナルの通り復元され、現在のケンピンスキーホテルとなっている。
ケンピンスキーホテル空襲直後の姿
戻る 続く
、5月2日ベルリンからドレスデンへ、5月3日ドレスデン(1)、5月3日ドレスデン(2)、5月4日ドレスデンからプラハへで紹介したように、ドレスデンの旧市街はバロック建築の宝庫である。この壮麗な建物群がどのようにできたのかをふり返ると、そこには必ずといっていいほど“アウグスト強王”の名前が出てくる。
ドイツがプロイセンの力によって統一されたのは1871年であり、それ以前のドイツは小国が分立していた。その小国の一つがザクセン王国で、ザクセン王国の首都がドレスデンであった。
1694年、フリードリッヒ・アウグスト1世は24歳でザクセンの選帝候になる。ザクセン王が神聖ローマ皇帝の選挙権を持っていたのでこう呼ばれている。
アウグスト選帝候はとにかく女性に目がなく、次々に側室を迎えては、その側室に子どもができる頃には飽きて次の女性に移っていくような人だった。また腕力が強かったらしく、アウグスト強王と呼ばれている。
その頃ポーランドは、貴族共和制という政治形態を取っており、先王に後継者がいなかった場合は立候補した候補者の中から次期王が選ばれていた。そしてアウグスト王がポーランド王に立候補するのだ。アウグスト王は新教だったが、ポーランド王になるにはカトリック教徒でなければならない。なんとアウグスト王はこのためにカトリックに改宗してしまう。また王は領地や不動産を売って大金を都合し、膨大な賄賂をばらまく。これによって見事にアウグスト王はポーランド王位を手にした。ザクセン王としてはアウグスト1世、ポーランド王としてはアウグスト2世でややこしいが。
このあとアウグスト強王は、スウェーデンに宣戦布告するという愚挙に出、その後21年間続く北欧戦争が始まった。ザクセン軍は終始大敗し、1706年に無条件降伏する。ポーランド王の地位も失った。しかし1年後にスウェーデン軍が去り、さらに2年後、アウグスト強王はポーランド王に返り咲く。
このアウグスト強王の時代に、現在のドレスデンの姿が現れた。まだ木造の家が多い小さな村であったドレスデンは、彼が死んだときには美しく壮大な石の町に生まれ変わろうとしていた。火災予防の観点から、市内の建設は石造りのみという命令を出したのがアウグスト強王だった。また彫刻など芸術的装飾をちりばめた豪奢な大建造物が造られたのも彼の治世下である。
エルベ川対岸からアウグストゥス橋とドレスデン旧市街
上の写真のアウグストゥス橋、下のツヴィンガー宮殿はアウグスト強王の命令で造られた。さらにその下のカトリック旧宮廷教会は、アウグスト強王の息子であるアウグスト2世の命令で造られている。アウグスト橋を渡り終えた新市街側には1736年より、アウグスト強王の金色に輝く騎馬像が建っている。
ツヴィンガー宮殿
アウグスト強王像 カトリック旧宮廷教会
磁器は、古く中国で始められ、1600年代には日本でも焼かれていた。しかしヨーロッパでは、18世紀になっても磁器が製造できず、王侯貴族は中国と日本からの輸入品を財宝のような高値で購入していた。
そのころのベルリンにボットガーという若者がおり、薬剤師の勉強をしていた。あるとき、彼が錬金術を発見したという噂が高まり、君主のプロイセン王に拘束される恐れをいだいたボットガーはザクセンに逃れる。これに目を付けたアウグスト強王が彼を招いて実験室を与え、金の鋳造を行うように勧められる。しかし成功するわけがない。6年後、ボットガーは磁器の製作に取りかかる。そして1年後、磁器の製造に成功するのだ。
喜んだアウグスト強王は、秘密の漏洩を恐れて工房をマイセンに移した。さらに実験を繰り返したボットガーは、1712年に正真正銘の白い磁器を製造することに成功した。
マイセンは今でも磁器の産地として有名だ。アウグスト強王はこのようなところにも名を残したのだ。
女好きのアウグスト強王は、次から次へと側室を代えていたが、その中で7年もの間アウグスト強王の寵愛を独り占めした女性がいた。コーゼル伯爵夫人である。
1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まる。ところがこのあと、彼女はそうそう簡単にアウグスト強王の手に落ちなかった。二人が交わした秘密契約では、当時の強王の正妻が死んだら彼女が正妻になるという約束も含まれていた。こうしてアウグスト強王はアンナ・コンスタンティアを手に入れる。そして彼女のためにタッシェンベルクに新宮殿を建造した。そしてコーゼル伯爵夫人の称号を得る。
聡明だったコーゼルは、王の側近や大臣を凌駕する地位を手に入れ、閣議にも出席して国政に関与する。しかしその行為は、コーゼルの地位を逆に脅かすものでもあった。二人の間が冷えると、疎遠になるだけではなく激しい応酬が始まった。強王は、現正妻の死後にコーゼルが正妻になるという証書を取り戻そうとし、コーゼルはそれを拒否する。最後にコーゼルは強王によって逮捕され、85歳で亡くなるまでシュトルペンの要塞に拘束され続けたのだ。
そのタッシェンベルク宮殿の現在の姿が、私達が今回宿泊したケンピンスキーホテルである。アウグスト強王の居城であるドレスデン城に隣接し、二階のところで可愛い空中回廊によって結ばれていた(右下写真)。
ケンピンスキーホテル 空中回廊(左がケンピンスキーホテル、右がドレスデン城)
ちなみにタッシェンベルク宮殿は、1945年の空襲で焼失したままになっていたが(下の写真)、東西ドイツ統一後オリジナルの通り復元され、現在のケンピンスキーホテルとなっている。
ケンピンスキーホテル空襲直後の姿
戻る 続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます