1月11~12日、一泊で妻と奈良を訪問した。
大阪での用事を済ませた後、大阪難波から近鉄で近鉄奈良駅に移動した。本日の宿泊は奈良ホテルだ。近鉄奈良駅からホテルまでは路線バスが利用できるようだが、われわれは歩いた。商店街を経由して到着した場所は、どうも奈良ホテルの裏側に当たるようだ。何とか最短コースを辿りたいと、最寄りのホテルに入ってフロントの人に尋ねたところ、とても親切に最短コースを教えてくれた。
奈良ホテルのたたずまいは、一見して由緒ある木造建築であることがわかる。
《奈良ホテル》
玄関と本館
本館は、建築家、辰野金吾氏設計による桃山御殿風檜造りの1909年に建造されたもの、とある。このような木造建築が、よくぞ消失せずに現存していると感心する。奈良であるから、戦災にも遭わずに済んだのだろう。
玄関
玄関ホール
ティールーム
奈良ホテルへの到着時には、ホテルの西側から裏道経由で到着した。翌日の出発時、ホテルから東側に出て、興福寺・東大寺に向かう。
荒池から見た奈良ホテル
奈良ホテルの廊下にこのホテルの歴史が書かれている。その中に、「男はつらいよの第1作」の表示があった。第1作で奈良というと、・・・寅さんが御前様とお嬢さんに偶然に出会ったのが確か奈良であった。そこで調べて見ると、
コラム9「男はつらいよ第一作目は奈良!」 が見つかった。
御前様とお嬢さんの宿泊先が奈良ホテル、という設定だったのだ。
巡り会った3人が、御前様たちの宿泊先である奈良ホテルにタクシーで到着し、寅さんは玄関前で別れる。上のサイトでは、玄関前の様子、荒池の湖畔から寅さんが奈良ホテルを振り返るシーンの写真があり、私たちが見た景色(上写真)と一致していることが確認できた。
男はつらいよの第1作で、寅さんがさくらの見合いに付き添いでついて行って大失敗し、とらやで大げんかの末飛び出した後、奈良で御前様とお嬢さんに偶然出会う。お寺の回廊で御前様たちが休んでいると、外国人二人連れが「オー、ビューティフル!」と出てきた。その向こうから「ビューティフル結構。結構毛だらけ猫灰だらけだ」と、例の声が聞こえてくる。寅さんが外人二人のガイドをしていたというわけだ。御前様たちの写真を撮るときの御前様の「バター!」をはじめ、懐かしいシーンが次々と思い出される。
奈良ホテルから下った荒池の湖畔からは、上の写真のように奈良ホテルが見えるとともに、興福寺の五重塔が遠望できる(下写真)。
《興福寺》
荒池から興福寺五重塔
興福寺五重塔
興福寺はその境内を通り抜けるだけで、次の目的地である東大寺へ向かう。
《東大寺》
南大門
金剛力士像
東大寺南大門は記憶に強く残っている。“何でだろう”と考えたのだが、現地に行って思い出した。上の金剛力士像である。
大仏殿
大仏
大仏殿と大仏の拝観は何回目かだと思うが、よくぞこのような立派な木造建築を造り上げたものだと感心する。
次の目的地は薬師寺である。東大寺前でタクシーを拾う。タクシーは真西に進む。右手に朱色を基調とした建物が見えてきた。運転手さんに聞いたら朱雀門ということだった。ネット上の案内には「現在の朱雀門は1998年(平成10年)に復原されました。間口約25m、高さ約20mの入母屋二重構造です。」とある。
同じく朱色を基調とした船が見えた。復原遣唐使船のようだ。
薬師寺に到着した。
木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)
上の本の著者の西岡常一氏は、法隆寺の宮大工だった。
「薬師寺の伽藍を復元するんで、わたしが呼ばれてきたわけです。火災や地震、大風などで、ほとんどの建造物がこわれ、東塔だけが残っておったんです。それを、金堂、西塔、中門と復元してきたんです。この後、三蔵院、大講堂、回廊とまだまだかかります。
回廊を復元するだけで、金堂と塔と中門を合わせたぐらいの年月がかかります。金堂が5年、塔で5年、中門で3年ですから、回廊だけで13年、それと講堂が7~8年、ここまであと20数年かかってしまいます。命がとても足りません。残りはほかの人にやってもらいます。」(1988年初版)
現在は、大講堂、回廊、さらに食堂まで含めて、すべて復元が完了している。
昔からの建物としては、東塔(白鳳時代・国宝)、東院堂(鎌倉時代・国宝)があるが、どちらも写真撮影を失念してしまった。東塔について、タクシーの運転手さんは「工事で足場がかかっている」と言っていた。東塔の解体修理が行われていたようだ。現在は大部分が完了した模様で、1層部分のみに囲いがしてあった。
《薬師寺》
西塔
金堂
西塔も金堂も、復元のもとになったのは東塔である。その東塔、長い年月の修理の中で、創建当時とそっくり同じにはなっていない。それに対して復元した西塔と金堂は、「東塔と西塔を比べてみればわかります。西塔は復元したものですが、文献を調べ、東塔を調査して、創建当時はこうだったろうと、思うとおりにしたんです。」(西岡著)
東塔(Wikimedia Commons)
Author 663highland
大講堂
大講堂は、江戸時代に造られた講堂を解体し、その後に復元されたものである。復元前の江戸時代の講堂の写真が、西岡氏の著書に載っている。上写真の現在の大講堂とは全く異なっている。復元後の屋根の形は、西岡氏のいう「羽ばたくような天に向かう大らかなもの」が表現されているのだろう。
旅から帰った後、西岡氏の「木に学べ」を読み直した。旅に出かける前に読み直しておくべきだった。そうすれば、薬師寺訪問でもっといろんなところに気を配ることができたろう。残念であった。
薬師寺からの帰路、西ノ京駅で近鉄橿原線に乗り、大和西大寺駅で下車し、昼食の後、近鉄で京都へ向かうことにした。
大和西大寺駅の北口から出て、近くのデパートの中華料理店で昼食にした。
窓から、遠方に朱色を基調とした建物が見える。店員さんに「どこのお寺ですか?」と聞いたところ、朱雀門だという(下写真)。
《朱雀門ではなく第一次大極殿》
遠方の山の斜面の一部が茶色っぽくなっている。ここは若草山の山焼きの場所に違いない。しかしそうとすると、朱雀門と若草山との位置関係が地図と一致しない。よくよく調べたら、上の写真の朱色の建物は、朱雀門ではなく、同じ平城宮跡の北方に位置する第一次大極殿に違いない、との結論に達した。
こちらで調べたら、今年の若草山焼きは2020年1月25日(土)ということだ。このサイトの写真、山焼きの手前に見えるライトアップされた建物、こちらは朱雀門に違いない。
Wikimedia Commonsの写真を拝借する。こちらも、若草山焼きと朱雀門の共演である。
Author 名古屋太郎
朱雀門と第一次大極殿、側面はよく似ているが微妙に異なる。屋根の両側に金色の鴟尾が設けられている点は一致しているが、屋根の真ん中、第一次大極殿には金色の飾りが見えるが、朱雀門にはそれがない。第一次大極殿屋根中央の飾り、これは法隆寺の夢殿を参考にしたとのことだ。
西大寺駅で降りたのだから、西大寺も拝観しておこう。考えたら、西大寺は、今回訪問した東大寺と名前の上で対になっているではないか。そこで調べて見た。
ウィキによると、『「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。』
『しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。』
《西大寺》
本堂とその手前の東塔跡
本堂の手前に、東塔跡の土台が残っている。「東塔」というからには「西塔」もあったはずである。境内を歩いていたら、「西塔跡」に遭遇した(下写真)。
西塔跡
「西塔跡」碑の左手前にある緑色の観音様は一体何であろうか。
こうして、奈良の2日間の旅が終了した。
大阪での用事を済ませた後、大阪難波から近鉄で近鉄奈良駅に移動した。本日の宿泊は奈良ホテルだ。近鉄奈良駅からホテルまでは路線バスが利用できるようだが、われわれは歩いた。商店街を経由して到着した場所は、どうも奈良ホテルの裏側に当たるようだ。何とか最短コースを辿りたいと、最寄りのホテルに入ってフロントの人に尋ねたところ、とても親切に最短コースを教えてくれた。
奈良ホテルのたたずまいは、一見して由緒ある木造建築であることがわかる。
《奈良ホテル》
玄関と本館
本館は、建築家、辰野金吾氏設計による桃山御殿風檜造りの1909年に建造されたもの、とある。このような木造建築が、よくぞ消失せずに現存していると感心する。奈良であるから、戦災にも遭わずに済んだのだろう。
玄関
玄関ホール
ティールーム
奈良ホテルへの到着時には、ホテルの西側から裏道経由で到着した。翌日の出発時、ホテルから東側に出て、興福寺・東大寺に向かう。
荒池から見た奈良ホテル
奈良ホテルの廊下にこのホテルの歴史が書かれている。その中に、「男はつらいよの第1作」の表示があった。第1作で奈良というと、・・・寅さんが御前様とお嬢さんに偶然に出会ったのが確か奈良であった。そこで調べて見ると、
コラム9「男はつらいよ第一作目は奈良!」 が見つかった。
御前様とお嬢さんの宿泊先が奈良ホテル、という設定だったのだ。
巡り会った3人が、御前様たちの宿泊先である奈良ホテルにタクシーで到着し、寅さんは玄関前で別れる。上のサイトでは、玄関前の様子、荒池の湖畔から寅さんが奈良ホテルを振り返るシーンの写真があり、私たちが見た景色(上写真)と一致していることが確認できた。
男はつらいよの第1作で、寅さんがさくらの見合いに付き添いでついて行って大失敗し、とらやで大げんかの末飛び出した後、奈良で御前様とお嬢さんに偶然出会う。お寺の回廊で御前様たちが休んでいると、外国人二人連れが「オー、ビューティフル!」と出てきた。その向こうから「ビューティフル結構。結構毛だらけ猫灰だらけだ」と、例の声が聞こえてくる。寅さんが外人二人のガイドをしていたというわけだ。御前様たちの写真を撮るときの御前様の「バター!」をはじめ、懐かしいシーンが次々と思い出される。
奈良ホテルから下った荒池の湖畔からは、上の写真のように奈良ホテルが見えるとともに、興福寺の五重塔が遠望できる(下写真)。
《興福寺》
荒池から興福寺五重塔
興福寺五重塔
興福寺はその境内を通り抜けるだけで、次の目的地である東大寺へ向かう。
《東大寺》
南大門
金剛力士像
東大寺南大門は記憶に強く残っている。“何でだろう”と考えたのだが、現地に行って思い出した。上の金剛力士像である。
大仏殿
大仏
大仏殿と大仏の拝観は何回目かだと思うが、よくぞこのような立派な木造建築を造り上げたものだと感心する。
次の目的地は薬師寺である。東大寺前でタクシーを拾う。タクシーは真西に進む。右手に朱色を基調とした建物が見えてきた。運転手さんに聞いたら朱雀門ということだった。ネット上の案内には「現在の朱雀門は1998年(平成10年)に復原されました。間口約25m、高さ約20mの入母屋二重構造です。」とある。
同じく朱色を基調とした船が見えた。復原遣唐使船のようだ。
薬師寺に到着した。
木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)
上の本の著者の西岡常一氏は、法隆寺の宮大工だった。
「薬師寺の伽藍を復元するんで、わたしが呼ばれてきたわけです。火災や地震、大風などで、ほとんどの建造物がこわれ、東塔だけが残っておったんです。それを、金堂、西塔、中門と復元してきたんです。この後、三蔵院、大講堂、回廊とまだまだかかります。
回廊を復元するだけで、金堂と塔と中門を合わせたぐらいの年月がかかります。金堂が5年、塔で5年、中門で3年ですから、回廊だけで13年、それと講堂が7~8年、ここまであと20数年かかってしまいます。命がとても足りません。残りはほかの人にやってもらいます。」(1988年初版)
現在は、大講堂、回廊、さらに食堂まで含めて、すべて復元が完了している。
昔からの建物としては、東塔(白鳳時代・国宝)、東院堂(鎌倉時代・国宝)があるが、どちらも写真撮影を失念してしまった。東塔について、タクシーの運転手さんは「工事で足場がかかっている」と言っていた。東塔の解体修理が行われていたようだ。現在は大部分が完了した模様で、1層部分のみに囲いがしてあった。
《薬師寺》
西塔
金堂
西塔も金堂も、復元のもとになったのは東塔である。その東塔、長い年月の修理の中で、創建当時とそっくり同じにはなっていない。それに対して復元した西塔と金堂は、「東塔と西塔を比べてみればわかります。西塔は復元したものですが、文献を調べ、東塔を調査して、創建当時はこうだったろうと、思うとおりにしたんです。」(西岡著)
東塔(Wikimedia Commons)
Author 663highland
大講堂
大講堂は、江戸時代に造られた講堂を解体し、その後に復元されたものである。復元前の江戸時代の講堂の写真が、西岡氏の著書に載っている。上写真の現在の大講堂とは全く異なっている。復元後の屋根の形は、西岡氏のいう「羽ばたくような天に向かう大らかなもの」が表現されているのだろう。
旅から帰った後、西岡氏の「木に学べ」を読み直した。旅に出かける前に読み直しておくべきだった。そうすれば、薬師寺訪問でもっといろんなところに気を配ることができたろう。残念であった。
薬師寺からの帰路、西ノ京駅で近鉄橿原線に乗り、大和西大寺駅で下車し、昼食の後、近鉄で京都へ向かうことにした。
大和西大寺駅の北口から出て、近くのデパートの中華料理店で昼食にした。
窓から、遠方に朱色を基調とした建物が見える。店員さんに「どこのお寺ですか?」と聞いたところ、朱雀門だという(下写真)。
《朱雀門ではなく第一次大極殿》
遠方の山の斜面の一部が茶色っぽくなっている。ここは若草山の山焼きの場所に違いない。しかしそうとすると、朱雀門と若草山との位置関係が地図と一致しない。よくよく調べたら、上の写真の朱色の建物は、朱雀門ではなく、同じ平城宮跡の北方に位置する第一次大極殿に違いない、との結論に達した。
こちらで調べたら、今年の若草山焼きは2020年1月25日(土)ということだ。このサイトの写真、山焼きの手前に見えるライトアップされた建物、こちらは朱雀門に違いない。
Wikimedia Commonsの写真を拝借する。こちらも、若草山焼きと朱雀門の共演である。
Author 名古屋太郎
朱雀門と第一次大極殿、側面はよく似ているが微妙に異なる。屋根の両側に金色の鴟尾が設けられている点は一致しているが、屋根の真ん中、第一次大極殿には金色の飾りが見えるが、朱雀門にはそれがない。第一次大極殿屋根中央の飾り、これは法隆寺の夢殿を参考にしたとのことだ。
西大寺駅で降りたのだから、西大寺も拝観しておこう。考えたら、西大寺は、今回訪問した東大寺と名前の上で対になっているではないか。そこで調べて見た。
ウィキによると、『「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。』
『しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。』
《西大寺》
本堂とその手前の東塔跡
本堂の手前に、東塔跡の土台が残っている。「東塔」というからには「西塔」もあったはずである。境内を歩いていたら、「西塔跡」に遭遇した(下写真)。
西塔跡
「西塔跡」碑の左手前にある緑色の観音様は一体何であろうか。
こうして、奈良の2日間の旅が終了した。
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