就職活動へ向けて!!
『絶対内定2007』と『日経キーワード重要500』を買ってしまいました!!
絶対内定の方は人生論みたいに書いてあって汗苦しいほどに熱くてなかなか面白い。
キーワードのはですね 一般的な知識を身につけようと思いまして。
SPIテストの対策本を見たけど・・ さ 算数と国語??あと理科も。
でも就職活動はまだなんもしてない。あれれ。しないままかもしれない。あれれれれ。
+++++
面接官は、「用意してきたしゃべる内容」よりも、「しゃべっている人」そのものを見ている。
おぉ、大道芸と同じだ。。
観客は芸を見ているのではなく、芸を通してその人自身を見ている。
ビジュアル、ルックスを磨きなさいとはっきり書いてあるあたりも興味深かった。
パフォーマンスも、衣装にせよメイクにせよ、(僕は軽視しがちだったんだけど)「見た目の強さ」って大事だ。
人が人を判断する現場ってことですね。以上「絶対内定2007」より。
++++
でもパフォーマンスは、ずっと一人でやってたからなぁ。
学祭ではチームでやることもあったけど、仕事でやる時は一人でやるか、オムニバス形式ばかり。
あまり「たくさんの人を巻き込んで、ノセて、動かしていく」経験ってしたことない。
企画ステージやったのがほとんど唯一??でもあの時はむちゃくちゃヘタだったたぞ。。
周りの人と一緒に取り組むことで出来上がるもの・・ って考えると、もっといろんな夢を描けるんでしょうねきっと。
そういうのやってみたい。
++++++
全般的に、「より良い人間性を持つ人間になるには」ということが書かれている印象を持ちました。
この本では、それを「デキるヤツ」と表現しています。
あるいは昨年秋に送られてきたまま未開封だった、リクルートの「就活スターターキット」というのを昨日開封して読んでました。
「カッコいい大人ってなんだろう」が標語でした。
たぶんこれはここ5年にも満たない傾向なのでは??
何が言いたいかというとですね
今の日本社会においては、
「人間性」という、従来なら非常に曖昧なものとして捉えられてきたものですら、
「一つの技術」=「ノウハウが知識化され、多くの人が身につけようとして身につけられるもの」
として捉えられているのでは、と思ったんです。
+++++
この傾向は、就職活動に限らず見られる気が。
「声に出して読みたい日本語」の斉藤孝の諸著作なんかもその典型ですね。
「コメント力」「コミュニケーション力」などなど、「○○力」というのを一つの売り文句にしていますが、
それも本来「その人の性格」とか「生まれ育ちによるもの」「センス」などで片付けられてきたものを
「一つの技術」として捉えて、言語化している。
+++++
「昔の高度成長時代にはね、『いい高校・いい大学に入っていい会社に入ること』がステータスだったんだよ」
と、10年ほど前から言われるようになりました。
きっと10年後か20年後には、
「ちょうど2000年に入ったあたりからの時代にはね、「理想の人間像」というのが吹聴され、みんなそれを目指していたんだよ」
なーんて言われていることでしょう。w
そういや「下流社会」なんて本もベストセラーでしたね。
「それでね、「理想的でない人間像」をあぶり出すような本が売れていく時代だったんだよ。」
なーんて。笑
+++++
ただ一つ言えることは、少なくとも戦後社会の流れを鑑みるに、
「曖昧なものに次々とスポットライトが当たってきた」ということではないでしょうか。
NGO・NPOなど中間アクターの台頭が代表するような社会活動の分野においてもそう。
これは、従来なら国家や大企業が片手間にやっていた活動、あるいは軽視していた活動を専門に担う団体の台頭ということですね。
もちろん、上に挙げたような人間性・人格などコミュニケーションの範疇においてもそう。
あるいは、今やどの分野にも見られるような「多分野が相互横断的に入り混じる領域」における活動・研究もそう。
・・では、今の社会において未だに
「皆がよくわかっていないもの」、「皆が軽視しているもの」、「皆が『しょうがないこと』としてあきらめていること」
は、なんでしょう?
その辺りを意識しておけば、10年後になにかチャンスを掴めるかもしれませんね!!
++++++
とはいえ。
10年20年先には常識・価値観が変化している可能性も。
今の価値観を受け入れ、身につけることが今の社会でうまくやっていく方策とは思いますが、
さらに次の時代には人々はどんな価値観の中で生活しているのか・・
それを考えるのも、なかなか楽しいことですよね★
就職活動を通して、もう少し今の社会に詳しくなりたいなと思ってます。
わかんないことがあった時は、みなさん教えてください!(弟に「非常識人」扱いされヘコみ中なのです。。)
+++++
・・・ちなみに
・・・
「それでね、昔はね、「チャンスを掴む」なんて言葉があったんだよ。何を考えてたんだか・・」
なーんて可能性すら、ね。
『絶対内定2007』と『日経キーワード重要500』を買ってしまいました!!
絶対内定の方は人生論みたいに書いてあって汗苦しいほどに熱くてなかなか面白い。
キーワードのはですね 一般的な知識を身につけようと思いまして。
SPIテストの対策本を見たけど・・ さ 算数と国語??あと理科も。
でも就職活動はまだなんもしてない。あれれ。しないままかもしれない。あれれれれ。
+++++
面接官は、「用意してきたしゃべる内容」よりも、「しゃべっている人」そのものを見ている。
おぉ、大道芸と同じだ。。
観客は芸を見ているのではなく、芸を通してその人自身を見ている。
ビジュアル、ルックスを磨きなさいとはっきり書いてあるあたりも興味深かった。
パフォーマンスも、衣装にせよメイクにせよ、(僕は軽視しがちだったんだけど)「見た目の強さ」って大事だ。
人が人を判断する現場ってことですね。以上「絶対内定2007」より。
++++
でもパフォーマンスは、ずっと一人でやってたからなぁ。
学祭ではチームでやることもあったけど、仕事でやる時は一人でやるか、オムニバス形式ばかり。
あまり「たくさんの人を巻き込んで、ノセて、動かしていく」経験ってしたことない。
企画ステージやったのがほとんど唯一??でもあの時はむちゃくちゃヘタだったたぞ。。
周りの人と一緒に取り組むことで出来上がるもの・・ って考えると、もっといろんな夢を描けるんでしょうねきっと。
そういうのやってみたい。
++++++
全般的に、「より良い人間性を持つ人間になるには」ということが書かれている印象を持ちました。
この本では、それを「デキるヤツ」と表現しています。
あるいは昨年秋に送られてきたまま未開封だった、リクルートの「就活スターターキット」というのを昨日開封して読んでました。
「カッコいい大人ってなんだろう」が標語でした。
たぶんこれはここ5年にも満たない傾向なのでは??
何が言いたいかというとですね
今の日本社会においては、
「人間性」という、従来なら非常に曖昧なものとして捉えられてきたものですら、
「一つの技術」=「ノウハウが知識化され、多くの人が身につけようとして身につけられるもの」
として捉えられているのでは、と思ったんです。
+++++
この傾向は、就職活動に限らず見られる気が。
「声に出して読みたい日本語」の斉藤孝の諸著作なんかもその典型ですね。
「コメント力」「コミュニケーション力」などなど、「○○力」というのを一つの売り文句にしていますが、
それも本来「その人の性格」とか「生まれ育ちによるもの」「センス」などで片付けられてきたものを
「一つの技術」として捉えて、言語化している。
+++++
「昔の高度成長時代にはね、『いい高校・いい大学に入っていい会社に入ること』がステータスだったんだよ」
と、10年ほど前から言われるようになりました。
きっと10年後か20年後には、
「ちょうど2000年に入ったあたりからの時代にはね、「理想の人間像」というのが吹聴され、みんなそれを目指していたんだよ」
なーんて言われていることでしょう。w
そういや「下流社会」なんて本もベストセラーでしたね。
「それでね、「理想的でない人間像」をあぶり出すような本が売れていく時代だったんだよ。」
なーんて。笑
+++++
ただ一つ言えることは、少なくとも戦後社会の流れを鑑みるに、
「曖昧なものに次々とスポットライトが当たってきた」ということではないでしょうか。
NGO・NPOなど中間アクターの台頭が代表するような社会活動の分野においてもそう。
これは、従来なら国家や大企業が片手間にやっていた活動、あるいは軽視していた活動を専門に担う団体の台頭ということですね。
もちろん、上に挙げたような人間性・人格などコミュニケーションの範疇においてもそう。
あるいは、今やどの分野にも見られるような「多分野が相互横断的に入り混じる領域」における活動・研究もそう。
・・では、今の社会において未だに
「皆がよくわかっていないもの」、「皆が軽視しているもの」、「皆が『しょうがないこと』としてあきらめていること」
は、なんでしょう?
その辺りを意識しておけば、10年後になにかチャンスを掴めるかもしれませんね!!
++++++
とはいえ。
10年20年先には常識・価値観が変化している可能性も。
今の価値観を受け入れ、身につけることが今の社会でうまくやっていく方策とは思いますが、
さらに次の時代には人々はどんな価値観の中で生活しているのか・・
それを考えるのも、なかなか楽しいことですよね★
就職活動を通して、もう少し今の社会に詳しくなりたいなと思ってます。
わかんないことがあった時は、みなさん教えてください!(弟に「非常識人」扱いされヘコみ中なのです。。)
+++++
・・・ちなみに
・・・
「それでね、昔はね、「チャンスを掴む」なんて言葉があったんだよ。何を考えてたんだか・・」
なーんて可能性すら、ね。
年末にマラバリの練習でお会いしました西村です。
就職活動、がんばってください。
どうでもいい話ですが、take a chanceの訳語が
前々から気になっていたので、以下、ちょっとそのへんのことを
思いつくままに。
> 「それでね、昔はね、「チャンスを掴む」なんて言葉があったんだよ。
> 何を考えてたんだか・・」
いつの間にか、
take a chance→take a riskと変わりましたね。
世の中、好機はもう転がってなくて、むしろリスクが前提という
暗い世情を反映しているのでしょうか。失うものがなかった
右肩上がりの経済と、成熟期というより衰退期じゃないかという
元気のないニッポン社会というか(違うか)。
で、同じtakeでも、訳語は、
チャンスを「つかむ」、リスクを「取る」ですね。
元の英語のtake a chaneは「運に任せる、賭けてみる」という
当てずっぽうのニュアンスがあって、やや他力本願的です。
それを「つかむ」という能動的なニュアンスで訳したところに、
その言葉が流行った(と思われる)当時の日本の時代の空気が
感じられます(ほんとか) chanceは機会を意味するニュートラルな
言葉ですが、日本語ではなぜか好機だけを意味する、というのも
なにか示唆的です。
昔の日本では、リスクは「取る」とは言わずに、「冒す」と
言っていたように思います。冒険の冒で、あえて行動するという
意味ですが、「犯す」や「侵す」からの連想か、ネガティブな
感じを個人的には受けていました。リスクを冒すのは軽率だと
いうニュアンスです。これはrun a riskの訳語かもしれませんが。
take a riskというときのtakeは「引き受ける」「引き寄せる」
というニュアンスだと感じていますが、日本語の「取る」には
chooseの意味が強く感じられます。
だから、take a riskが、たんにリスクを引き受けるという行為を
ニュートラルに表現しているのに対して、「リスクを取る」という
言い方は「リスクを取らない」というもうひとつの選択と対を
なしていることが暗黙に示されているように感じられます。
ここに、「リスクを取れよ」「リスクを取ろうよ」という、
いまの日本の社会全体の空気を感じています。
> それも本来「その人の性格」とか「生まれ育ちによるもの」「セ
> ンス」などで片付けられてきたものを「一つの技術」として捉えて、
> 言語化している。
西欧のartという言葉には、高度な技術という意味がありますよね。
ところが日本語の芸術となると、技術を超えたモノで言語で記述できない
何か、という精神論的な感じが強くなります。絵は感性だからといって
日本の中学校の美術の時間には「好きに描け」というばかりでデッサンの
基礎さえやりません。精神論を説きすぎるあまり、技術軽視になっている
という感じです。作文も同じで、「感じたままに書け」と言われて
小学生は無限に続く原稿用紙の白いマスを前に呆然とするものです。
たとえ芸術が技術以上の何ものかであるにしても、その土台に技術が
不要なわけではまったくないというのに、基礎さえ教えないのは本末転倒だと
思うんですよね。コミュニケーションも技術ですよね。才能の差は
歴然としていますが、「センス」というコトバで済まされてしまうと、
誰も伸ばそうと思わなくなってしまいます。
ともあれ、曖昧な精神論や根性論でごまかしてきた部分で、最近は
「これは技術なんですよ」と明確に言い始めたのかなと、ぼくも
そんなふうに感じています。この風潮が行きすぎると、技術で何でも
かんでも片づくという極左が登場して、また精神論を説く時期が
訪れるのかもしれませんけど。
「人と話をするときにもっとも大切なのは心です」とか(笑)
ペン君がオール学生早く負けた場合は(笑)9日に最強戦でお会いしましょう。
非常に興味深いコメントありがとうございます!
そうか、今は「リスクを取る」社会でしたか。
そういえば最近、一昔前の「冒す」は使われなくなってきてますね。
堅実に積み立てるのを是とする社会からの変化ということでしょうか。
それにしても「冒す」→「取る」と変化しても結局もとの英語のニュートラルな意味からは離れているというのは興味深いところですね。
フランス語にも似た事例が見られます。
直訳すると「私は論理を保持している」となる《J'ai raison》は「私は正しい」と和訳されたり、
直訳すると「論理的な帰結」となる《aboutissement logique》は「当然の帰結」と和訳されるのですが、
それぞれ「大義」「因果応報」が連想されてしまいいつも違和感を感じます。(ちょっと違うかなぁ)
「技術」か「心」か、という話では
"art"はまさにキーワードですね。
技術として捉えることで前向きになれる面は
とても評価できると思います。
そういう意味で「技術論」の流行は、
「リスクを取る」今の日本社会の中で
就職に対峙して不安を抱える学生達に
前向きな未来像を与える役割を担うものとして、
とても適切なのかもしれませんねぇ。
「大切なのは心です」を謳う時代が来るとしたら・・
「技術としての人格」を身につける層と身につけない層の格差が生じた時とかでしょうか?
さらにそこに移民問題・文化衝突が絡んだり。
だとするとその時に謳われる「心」は、
国際的な評価を得ているかもしれませんね。
すいません想像膨らませすぎました笑
いやそれにしても長いコメント頂いて感激です。
返事書くのに時間はかかりましたが笑
長短問わずこれからもよろしくお願いします!
>よたろうさん
本のお勧めありがとうございます!
駒場の図書館においてあるようなので、
早速月曜に借りてくることにします。
「裏側」、やっぱりあるんですねぇ。笑
まあ当面は若者らしく?前向きに取り組んでいくつもりです。
大会日程が丸かぶりなのは残念ですが、
また機会ある時にぜひ色々とお話を聞かせてください!
「リスクを取る」を就活にからめて考えたのは、当然でしょうけど、
ちょっと新鮮でした。ぼくはリスクを取るという言葉で、
「脱サラ」や「独立起業」を想像します。技術論のほうは、
手取り足取り図の書き方やプレゼン方法、しゃべり方を教えないと
ダメな営業サラリーマン……。人間誰しも自分中心にしか
発想しないものですね。ははは。
> そういえば最近、一昔前の「冒す」は使われなくなってきてますね。
> 堅実に積み立てるのを是とする社会からの変化ということでしょうか。
このへんは、同訓類義語や同音異義語の使い分けが、
ゆるーくなっているという事情もありそうですよね。
いまや、まったく意味の異なる同音熟語が入れ替わったまま
バンバンネット上では流れています。「以上」と「異常」みたいに
紛らわしさがなさそうなものまで、もはや誰も気にしなくなったのかと
思うほど溢れています。これ、単に誤変換をめんどくさいから
修正せずに流しているのかと思ったら、どうもそれだけでもない
みたいですね。ワープロで漢字が書けなくなるという議論が10年前に
ありましたが、ぼくはローマ字変換によって、同音異義語が書き分け
られなくなるところまで行くんじゃないかと思ったりします。
日本語はますます表音化しているように感じていて、すごく
気になっています。いいことなのか悪いことなのか、両面ありそうです。
韓国系評論家の呉善花は「漢字を捨てた韓国と同じ轍を踏むな」と
警鐘を鳴らしています。不幸なことに、日本語も韓国語も漢字なしには
高度な概念や専門語を理解・伝達できない言語になってしまっている
という話です。特に音節の作り方に強い制限があって、
あまり多くの音を区別できない日本語では同音異義語を
漢字が支えているのだと、鈴木孝夫という言語学者が
指摘していて、なるほどなと思いました。表音文字って、
1000字とか2000字とか、数字は忘れましたが、ある臨界値を下回ると
システムとして維持できなくなるという話を聞いたことがあります。
はっ、コトバの話は、脇道に逸れやすいですね。すいません。
いくらでも何とでも言えるようなところがありますしね、、、
> 直訳すると「私は論理を保持している」となる《J'ai raison》は
> 「私は正しい」と和訳されたり、直訳すると「論理的な帰結」とな
> る《aboutissement logique》は「当然の帰結」と和訳されるので
> すが、それぞれ「大義」「因果応報」が連想されてしまいいつも違
> 和感を感じます。(ちょっと違うかなぁ)
うーんと、J'ai raisonって、「オレが正しいんだ!」という意味
じゃなくて、もっとニュートラルなニュアンスなんでしょうか。
和訳すると押しつけがましいというか、自己中っぽく響くという
指摘でしょうか。そういえば、Tu as raison! なら、エグザクト
モーンとあわせて、ぼくが使う数少ないフランス語フレーズ
だったりします(笑)
J'ai raison の厳密なニュアンスは詳しい人に聞いてみないとわかんないですが、僕としてはニュートラルな感じというか、リクツとして正しいのような意味なのかと思ってました。
ヨーロッパの思想に由来する「理性」により判断される「正さ」というか。
でもそれを日本語に直すと、日本に根付いている儒教的だったり仏教的だったりする発想を先に思い浮かべてしまうなぁという話のつもりでした。
んで「(ちょっと違うかなぁ)」というのは、
あまり背景知識がなくて言ってることに自信がないということでした。笑
「ローマ字変換」による影響ですか。なるほど。
たしかに、同音異義語をエンピツで書き分ける場合には(漢字の形が違うのだから)身体的な動きに違いが出てくるけれども、ローマ字変換だと同音異義語は「スペースキーを何回押すか」による違いしかないですもんね。
あとは・・
日本語の文字列を見た時に、うっかりキーボードでの指の運びを思い浮かべてしまうことがあったり、
でも不思議なのは、キーボードで「ち」を入力する時僕はためらいなく"ti"と打ち込みますが、
"ti"という文字列を見ても「ち」は絶対に連想しなかったり・・
そういう話の解釈はおいておくとしても、
パソコンを言葉と身体をつなぐ一つの装置として捉えらることには割と興味があります。
それにしても西村さんいろいろ詳しいっすね。
昨日たかふみが雑学本を買ってきてしきりに面白がって読んでいましたが、それとは数段違う深みを感じます笑
キーボード入力関係、かな漢字変換処理関係は、
仕事の関係ですごく詳しくなりました。
とはいえ、言語学方面へ話にしても、しょせんは
素人の雑学レベルです。
> それにしても西村さんいろいろ詳しいっすね。
といって頂けるのはうれしいですが、
それはたぶん、山内さんより、ぼくが少し長く生きている
からという程度の話じゃないかと思います。
生きていれば雑多な知識は増えるもので……。
というような年寄りじみたことを言う日が、
自分にもやってこようとは。ははは。
あるいはそのうち機会あったら飲みましょう笑
ではでは~