チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「pppppp用にアルトゥル・二機種?/通りすがる開胸冬景色」

2010年12月17日 01時11分35秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
(♪小声そうなチャーィカ見つめ、鳴いていました♪)

※このエントリは、当ブログの
「チャイコフスキー『悲愴交響曲』にオケるバス・クラリネット使用の愚」(2009年01月09日)
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/5630eb5fb95e5465dff427524acc06e7
のコメントに対する回答です。

>通りすがりの演奏家さん、
通りすがりという捨てハンでのコメントというのは、
ネット上ではもっとも侮蔑的なものなのだそうですね。が、
私はどんな悪意があるかたに対しても
コメントを無視するような無礼な態度はとれない性分なので、
いちいち答えさせていただきます。
貴殿のことを「悪意ある」と言ってるわけではありません。
ただし、
まことに失礼ながら読解力に問題がないこともないと、
以下をご覧になれば気づいていただけるでしょうか。

<「さすがにプロは金のためだけ」という一節は、さすがに聞き捨てなりませんでした
……中略……一握りを除いて、音楽家はそんなに儲からないですよ>
▲【相当著名な「指揮者」「演奏者」がいますが、
チャイコフスキーやその音楽のことを何も知らない輩がほとんどです。
まあ、やつらは金や地位のために演奏してるのであって】
ここらへんをもう一度、読み直していただけますでしょうか。
私が言ってるのが、貴殿がおっしゃる"一握り"とほぼ同じであることが、
クラシック音楽に携われる程度の通常の知能のかたならご理解いただけると思うのですが。
また、コメントするにあたって引用する文は「そのまま引く」というのは、基本中の基本です。
"「さすがにプロは金のためだけ」という一節"、
などと勝手に改竄しないようにしましょう。
貴殿の見識はそこでもう疑われることになります。
それから、"金だけのためでない"、"芸術家"、などという高邁な矜持を誇示したいなら、
それこそ自分が勉強不足な作品や好きでない曲は
「できない」「やらない」と断るべきではありませんか?
それなのに恣意的な"芸術"を聴かせるなど、
金を払ってるはらってないに関わらず、
聴衆に対して著しく礼を失した行為です。

<指揮者が自分の芸術を前面に出すタイプなら>
▲私の認識では指揮者に"芸術"などとはおこがましい話です。
指揮者や演奏者はテクニシャン(技術屋さん)であるべきです。
"芸術"などという考えを入り込ませることが心得違いなのです。

<聞きに来られる方に、そのように思われているのは悲しいですし、
このような言葉を私のように見ることになる音楽家もいるのです>
▲先入観なしにもう一度、私の文章を読み直していただけますでしょうか。
私の文章すらきちんと読解できないいっぽうで、
"我々が楽譜に書いていない意図を見抜く"、などとおっしゃるのは痛すぎませんか?

<悲愴のように楽器を変更してしまう例は、他にもあります。
出ない音が書いてあるとか、楽器の都合上など、いろいろな理由ですが。
モーツァルトは、行く先々のオーケストラによって>
▲"悲愴のように"とおっしゃってるのに、
"もしかしたら他の楽器を意図していたかもしれないが、
都合により楽譜の方が改められた例"というように、
論旨をすりかえていらっしゃいます。よって、この場合、
モーツァルトの例が引き合いにならないのは自明です。それから、
いちいちことわらないと貴殿はとんでもない方向に曲解なさるかたのようなので、
ことさら申しあげますが、
チャイコフスキー当時の楽器でやれと言ってるわけではありません。さらに、
たとえば「バセットホルンをクラリネットに替えるな」とか、
「チェロでなくアルペッジョーネでやれ」とか、
「エラールやプレイエルでないピアノでショパンを弾くな」とかいう考えでもありません。
ppppppの箇所のファゴットをバス・クラリネットで代用するという行為が
根元的な誤りであることを悟れないかたには
何を申しあげても不毛でしょうけれど。

<この悲愴ですが、たとえばバスクラが用意できなかったとか、
オケにいなかったとか、何か初演時のファゴット奏者が最高に弱音が得意で、
使ってみたくなったとか…いろいろな可能性があります>
▲いえ。それらのような可能性はまったくありません。
寝る間を惜しんで、とおっしゃるわりには、僭越ながら、
職業音楽家としての相当なる勉強不足を指摘させていただきます。
音楽全般の基礎知識をきちんと身につけてのち、初めて
職業演奏者になるべきだと、私なら思います。

<しかし、ここから何を選ぶか、何を重要とするかは、
演奏家と指揮者が芸術家たる理由でもあるのです>
▲私の認識では、演奏家(指揮者も含めた)は芸術家ではありません。
医者や弁護士が芸術家でないのと同じです。
その道の専門家です。
医師は芸術で診断も施術もしません。検査結果と問診で判断します。
弁護士は芸術で立証はしません。証拠で立証します。

<仮にファゴットを用いるとして、それを可能な奏者が、
果たして世界に何人いるでしょう?>
▲逆に、100人いたらいいのですか? 50人ですか? 1人ですか?
0人なら貴殿の思う壺、ほらみろ、ですか?
そんな疑問は何の意味もありません。

<構造上、クラリネットのpppに、ファゴットが弱音で勝ることなど「あり得ない」>
▲それをチャイコフスキーが知らないバカだったと貴殿はお思いになってるのですか?
ちなみに、「クラリネットのppp」ではなく「ppppp」ではありませんか?
暗譜してないなら、せめて楽譜ぐらいあたってみましょう。

<もっと古典の作品を演奏するのにパート譜にあるfを信用して
みんながフォルテで演奏したら、音のデカい楽器の音と、
伸ばしの音ばかりが聞こえるはずです。それも、作曲家の意図ではありません>
▲異なる時代の話を比較しても不毛です。
強弱記号が大まかにしか手段も目的も持たなかった古い時代には、
個々の楽器に強弱記号は附されてません。
楽器間のバランスを調整することこそ、演奏者あるいは指揮者の技術、仕事です。また、
同時性の強弱の話をppppppのことに例えるのも論旨のすりかえにすぎません。
そもそも、この「ファゴットによるpppppp」をそういう別問題に置き換えても無意味です。

<我々が楽譜に書いていない意図を見抜かなくてはならない、とでもいいましょうか。
作曲家は音をイメージしながら筆を取りますが、紙にかける情報には限りもありますから>
▲楽譜には書き尽くされてない、という思いこみが、
一般的な演奏家のかたがたには常識のようにあるようですが、それがいけないのです。
このことが解らなければ、真っ当な演奏家たりえません。
「下手の考え、休むに似たり」ならまだいいのですが、余計なことをしてしまう。

<楽器を変える、というのは確かに特異で稀有な例ですが、
それも推測できうる作曲家の意図のうち、何を選ぶかでもあるのです>
▲チャイコフスキーのようなレヴェルの"作曲家"というものを、
近辺にいる「作曲家と称する」人らと同じ程度に認識してませんか?
"特異で稀有な例"どころではありません。
冒涜です。
チャイコフスキーを馬鹿にし無遠慮に凌辱しこきおろし踏みにじってる暴力措置です。

<ちょっと話が飛びますが、楽器で出るわけがない音をわざわざ書く作曲家がいます。
マーラー、リヒャルト・シュトラウスなど>
▲「この程度の作曲家ら」をチャイコフスキーの話の引き合いになさりたいのですか。

<ファゴットのppppppも、つきつめれば同じことです。「音の高さ」的には問題はなくとも、
音の大きさも、それは構造と相まって「不可能」なことなのです。>
▲おっしゃるとおり、"不可能"だと思います。しかし、これが大事なことなのです。
貴殿は"不可能"だからと拙速に他の手だてを考えようとしてしまう、
多くの誤った演奏家の仲間です。
第4楽章のホルンの低嬰ヘ音のffのブシェも「不可能」だから、
エイっ屁で代用しちまえ、というのと一緒です。
チャイコフスキーはなぜ"不可能"なことを要求してるのか、
という考えかたに向かうのが、真っ当な演奏家の姿だと私は考えてます。
"不可能"なことをチャイコフスキーは求めてるのだ! と心動かされないような"芸術家"なのですね。
チャイコフスキーが無理を要求してるというのに、それに応えようとしないのが、
どこが芸術家ですか。このことにこそ感動すべきでしょう。
この無理難題に感激しない者が、チャイコフスキーをやる意味があるのですか。

<ファゴットが失敗して音がかけたら、それこそ作曲家の書いた音がなくなったわけで、
そちらのほうが大問題ですし(笑)>
▲失敗して何が悪いのですか。失敗を嘲るような聴衆は所詮、
クラシック音楽の愛好家ではありません。気にすることなどまったくないのです。
プロの演奏者が失敗するほどの厳しさをチャイコフスキーが要求してることが解らない者は、
聴衆ではありません。見栄や成り行きで聴きに来てる、
ただの"通りすがり"にすぎません。

<哀しいかな、作曲家は「ホンモノ」を自分で残すことは出来ないのです>
▲これがすべてのプロの演奏家のかたの認識とは思いませんが、
私は"作曲家"が記した楽譜に残されてると認識してます。貴殿はつまり、
楽譜はすべて"書きかけ"だから補ってしかるべき、
とお考えのようですね。とんでもないことです。
貴殿が下記のように絵に喩えられたいようですのでそのようにしますが、
音楽は西洋絵画の絵とは違います。
ゴッホの絵の筆致が荒れたままなのでそれを削って原色でない色を塗る、
モネの絵の線描に絵の具を塗ってない箇所があるからそこに色を付け足す、
それが貴殿のおっしゃる"芸術"です。あえて絵の類に喩えるなら作曲家は
江戸時代の版画の場合の絵師です。
彫師は絵師の絵の線を違えて彫りますか?
刷師は絵師の色指定を無視した色使いをしますか?
20世紀の印刷屋のオペさんも、責了紙や校正紙の色合いを勝手に別のものにしましたか?
いいえ。そして、
彫師も刷師も版元も印刷屋さんも"芸術家"ではありません。
職人、商人です。その仕事が
舌を巻くような見事さでも、それは
芸術ではありません。職人芸です。
芸術家と呼べる者がその中にいるとすればそれは
絵師だけです。

<音楽が絵だとすれば>
▲音楽は絵とはまったく違います。が、まぁ、例え話として聞きましょう。

<書きかけの絵を、最後にフォーカスや明暗・色味を決めていくのが、
演奏という仕上げの作業なのです。つまり曲はホールで完成します>
▲この"描きかけ"という僭越な先入観を持つことが間違ってるのです。

<どの意図を汲み取るべきかは、最終決定者=指揮者と演奏者に委ねられます>
▲行為者の勝手だとは思います。それがどんなに荒唐無稽であろうとも、
支持し賞賛する者までいればなおさら。

<だから我々も芸術家なのです>
▲その傲慢さが考え違いだとは思わないようですね。

<問題の箇所をバスクラに変えることで、チャイコフスキーが
チャイコフスキーでなくなるとは思われません>
▲そうお思いになること自体は自由です。とめようとは思いません。
代用魚の回転寿司も「すし」と言いますし。
それから、そんなにバス・クラリネットがいいのなら、なぜ、
冒頭の序奏のファゴットもバス・クラリネットにしないのでしょう?
バス・クラリネットでやってるのを想像してみてください。あるいは、
実際にやってみたらどうでしょう。それでもなお、
チャイコフスキーの悲愴交響曲での低弱音ファゴットの起用の意図が見えてこなければ、
第4楽章でいわゆる第2主題が提示される前のファゴットの下降も、
どうぞ是非ともバス・クラリネットでやられたらいいのではないでしょうか。

<現に、「悲愴にバスクラを入れる」と、筆者様は表現されていますしね(笑)>
▲??? どこでそんなことを表現してますか?
いいかげんなことを書かないでください。
私がそんなことを書いてると誤解する人が出てきたらどうするのですか?
もしあるのなら、具体的にその箇所を指摘してください。
もし誤記してるか、あるいは、通常の認識能力があるかたにも
誤解される書きかたをしてるとすれば、
改めるにやぶさかではありません。是非、ご指摘ください。

<個人的な感想ですがバスクラのppppppも、名人が、
ここぞと音量を絞ったときの緊張感はなんともいえませんよ>
▲緊張感がいい、ということなのですか?
この箇所にそのような「巧く吹けるかふけないか」ということだけに
一喜一憂する低レヴェルの緊張感という嗜好をお持になるようでは、
僭越ながらチャイコフスキーはなじまないかと思います。が、
見た目が脂の乗りきった「ハマチ」やきれいな色をした「サーモン」などの
代用魚で満足な回転チャイコフスキー鮨愛好をこれからも貫くこともまた
有用かもしれませんね。
世の中には回転寿司が大好きな人がたくさんいるようですから、
そういうかたたちのためには、
一握りも"二握り"も供給してあげることも必要でしょう。
人の嗜好は本能に基づくもので、
あとからはどんなに啓蒙しても変えれませんので。

さて、
当該箇所をバス・クラリネットに吹かせるようにしたのは、
アルトゥル・ニキシュが始めたことだという説があるようです。
その真偽はともかく、ファゴットかバス・クラリネットか、などという木管
二機種の問題など、真っ当なチャイコフスキー好きには、
はじめから存在しないのです。
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2 コメント

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Unknown (以前コメントした者)
2010-12-30 18:14:51
私の下らないコメントにここまで返事をくださって感謝感激です。
HNに関して、不快感を与えたようなら謝罪しますが、わざわざ固定ハンドルでコメントするほどの事でもなかったもので。

読解力がないとか、人のことを傲慢だとか、散々な物言いですが、
あなたのおっしゃることも、大概、傲慢ということにお気づきにならないんでしょうか。
といっても、これも「どこが傲慢なのか説明せよ」とか食って掛かられても詮なき話ですので説明などしません。自分で気づけないのだとしたら、失礼ですが、他人の立場でモノを考える視点が、多少欠けているのではないでしょうか?

言葉だけは立派に並べていますが、貴方のやっていることは子供の口喧嘩と何も変わりませんよ(苦笑)

私も読解で足りない部分があったかもしれませんが、
貴方も、私の文章を理解していない部分がある。
これはお互い様ですよ。


「作曲者が楽譜に書いた」という「理由」は、
考え方・解釈のひとつであって、唯一無二の正解ではない、と私は考えています。
きっと貴方は唯一無二の正解だと思っておいででしょう。
「許されないことに決まっている」という言葉が物語っています。
誰がどう決め、どう客観的に処理したかは考えられていません。


まとめると、主観論の平行線で議論しても、答えが出ようはずもないということです。
我々は完全に相容れない思想をお持ちのようなので、
何を言おうと貴方は私を説得できませんし
私も貴方を説得できないでしょう。
芸術の捉え方とはそういうものでしょうから、これは皮肉でもなんでもなく大変結構なことだと思います。本当に。

そして周りには貴方を考え方をすべて理解してくれる方もいるのでしょう。

ただし、貴方は自分と違う考え方を持つ人間を「否定」しています。
そして、私という演奏家が芸術家であることさえも否定している。

>「それこそ自分が勉強不足な作品や好きでない曲は
「できない」「やらない」と断るべきではありませんか?
それなのに恣意的な"芸術"を聴かせるなど、
金を払ってるはらってないに関わらず、
聴衆に対して著しく礼を失した行為です。」
>「私の認識では指揮者に"芸術"などとはおこがましい話です。
指揮者や演奏者はテクニシャン(技術屋さん)であるべきです。
"芸術"などという考えを入り込ませることが心得違いなのです。」

極論ですね。それで音楽の世界が成り立たなくなる事、貴方と違う考え方をもった人がいる事、すべて無視していますね。他人の立場に立てていない。
「私の認識」つまり主観であることを証明しながら、
他人の意見を「心得違い」とは笑止千万。
引用云々と人を小馬鹿にする割には、論文・議論の初歩の初歩を、貴方も学んでいない。主観論を人に強要するなど、これを「傲慢」と言わずなんといいますか?
これが平行線の原因であり、あなたの主張を形だけのものにしてしまっています。

ええ、ならば言いましょう。
「私の主観では、作曲家も指揮者も演奏家も、すべて芸術家です。」

相手の職業を、他人の生きがいを侮辱するような物言いは、
たとえご自分が管理なさるブログでも、
他人に不快感をもたらします。
それこそ、匿名の世界を隠れ蓑にした、マナー違反ではないですか?
そう、きちんと貴方の文書を呼んでみれば、貴方にも非があり、誤りがあり、主観と客観の区別がつかないという重大な問題がある。
その読解力と文章構成能力のなさで、
私だけを貶めないでいただきたいものです。


念のため言っておきますが、チャイコフスキー云々については、私は貴方を否定はしていないつもりです。
「他人の考え方に対して心をひらいてみては?自分が楽しいと思わないことも一度楽しんでみては?」とお勧めしたにすぎません。
「根本的な誤り」と申されてましても、まぁ貴方の頭の中の世界では、きっとそうなのでしょうから、それを言われちゃあ私が言うことは何も無いですよ。
これも、主観と客観を一緒くたにしてしまう貴方に問題があるのですが、
頭ごなしに相手の否定ばかりする貴方には、まぁわかっていただけないでしょうね(笑)

別にあなたを否定するべくディベートや論議のためにコメントしたのではないのですよ。なので、チャイコフスキーについてのお話は、続けても意味が無いものと存じます。お終いにしましょう。
こちらに関しては私が余計な事を言った、ということで構いませんよ。

「世の中には演奏家を名乗ってとんでもないやつがいた」
とでも、お仲間と酒の肴にでもするとよいと思います。

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Unknown (passionbbb)
2010-12-31 00:01:08
>以前コメントした者さん、
昨日今日と日ごと寒さがつのってきましたね。
おっしゃるとおり、傲慢と言われれば傲慢でしょう。なぜなら、
チャイコフスキーの作品の演奏に関して、
自分の考えが正しいと自信をもってるからです。
主観・客観の別が正誤とは合致しないことが解らないようですが、
これは主観・客観などという類の区別ではありません。
また、
他人の立場で書く必要があると思ってません。
私は演奏者ではないので「生活のための妥協は無用」なのです。
「違う考えをしてる者」ではなく、
「心得違いをしてる者」になぜ「それはいいですね」
などと言わなければならないのですか。
代用魚を否定してるのではなく、私はそれは食べない、
と言ってるのも解らないようですが、
あなたに金をもらってるわけでもないのに、
なぜおべっかをつかわなければならないのですか。
金を得て演奏をしてるのに、
チャイコフスキーの意図も考えず、さっさと安易に
バス・クラリネットなどという姑息な手段で
ろくでもないものを提供するのとはわけが違います。

それから、
<現に、「悲愴にバスクラを入れる」と、筆者様は表現されていますしね(笑)>
なんてどこにありました? どうぞ、遠慮なさらずにご指摘ください。
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