"TSUNAMI"なる歌謡曲で大もうけした輩が、
その所属事務所のタレントらと、
メドレーにしたものを売り出して
震災のチャリティにすると、報じられてた。
事務所名義の募金にして日本赤十字社に回す、
とのことであるから、必ず「ナンボか」は抜かれる。
自分の病気のときはいの一番に発表して、
一泊16万円の60平米の個室に入院して手術を受けたくせに、
震災からは4週間も経ってから、しかも、
まだなお"ファン"から搾り取る形での基金である。
被災地の避難所の体育館で、"桑田ファン"の被災者といっしょに
一箇月でも過ごしたほうが、よほど世のため人のためである。が、
そうしないのはやはり、過去に数々の「反日発言」をし、
なりすまし日本人説もあるこの人物からは、当然のことかもしれない。
何の中国暦でなのかは、
地震の被災地で取材してるときに危険防止の
ヘルメットを被ってた丸岡いずみ女史が、
被災者に話を聞くときにはきちんとその
メットを外して対する礼儀をわきまえてるのに感心して
グッと目頭を熱くしてしまったような
甘チャンな私には突き止める能もないが、
4月8日は釈迦の誕生日なんだそうである。
いわゆる「花祭り」という記念日になってる。さて、
桜田門の桝形の片隅(渡櫓門の脇)に、
1本だけ桜が植わってる。毎年、
この花を見るのが、四十過ぎてからの私の楽しみのひとつである。
今年は桜田門への立ち入りが止められてるが、それでも、
この桜を見ることはできる。それはともあれ、
この枡形の外で、151年前に大老井伊直弼は襲撃された。
この井伊直弼によって幕閣から除かれたのが、
堀田正睦である。下総国佐倉城主(山形に飛地領あり)である。
佐藤泰然に、蘭医学塾「順天堂」(現在の順天堂大学医学部)
を開かせた。ちなみに、
だからQちゃんを育てた佐倉出身の小出監督は、
順天堂大(体育学部)に進んだのである。それはさておき、
正睦が米国との条約の勅許を受けるのに失敗してる間に
大老になったのが井伊直弼である。そして、
勅許を得ないまま「日米修好通商条約」を結んだのである。
この批准書を交換するために咸臨丸で随行したのが、
米国事情を知るジョン・万次郎だった。
自宅マンションから母のマンションに行くとき、
日本赤十字社医療センター(いわゆる広尾日赤病院)の脇を通る。そして、
「堀田坂」を下り、大横町坂を上ってヒルズ方面に向かう。堀田坂は、
堀田家の広大な下屋敷があったのでそう呼ばれる。この
堀田家は幕閣を担う譜代の宿命として、何度も転封になった。が、
徳川時代の後半(家重の代)は下総国佐倉に定まった。
佐倉は、千葉氏の本拠地が15世紀後半には、
その一族である馬加(まくわり=幕張)氏によって宗家が乗っ取られ、
現在の千葉市から移されたくらいに、
房総半島にあって重要な地だった。
徳川支配下では親藩・譜代が目まぐるしく入れ替わった。
当然である。岩槻、忍、川越と並んで、
江戸からもっとも近い城の一つだからである。
松平定信が陸奥国白河からこの佐倉への転封を願い出たほどである。
佐倉の堀田家は「江戸湾警備役」を呑んで転封をしのいだ、
というくらい、佐倉という地の利は捨てがたいものだった。
江戸からの便がいいから
幕閣を担った譜代がこの地に封じられた、ともいえる。
秀忠時代の大老土井利勝、
家光時代の老中堀田正盛、
家綱・綱吉時代の老中首座大久保忠朝、
綱吉時代の老中戸田忠昌、
その子で家継・吉宗時代の老中戸田忠真、
綱吉時代の老中稲葉正往(正通)、
吉宗時代の老中首座松平乗邑、
家重時代の老中首座堀田正亮、
など、錚々たる面々である。その他の城主も、
大阪城代、京都所司代くらいまでにはなってる。
綱吉擁立の立役者ながら途中から反目するようになった正俊が、
親戚の稲葉正休に江戸城内で刺殺されてから、
陽の目を見ない時代が続いた。が、吉宗が将軍に就任するや、
幕閣としてまた重用されるようになった。
堀田正俊の父正盛は、稲葉正成の娘である。
正盛にとって春日局は義理の母にあたる。そして、
春日局の親類ということで堀田家は出世したのである。ともあれ、
吉宗は青木昆陽に命じて甘藷の栽培を、
小石川薬園、下総国千葉郡馬加村、上総国山辺郡不動堂村、
でさせた。小石川薬園→小石川養生所→現在の小石川植物園は、
北緯35度43分3秒にある。いっぽう、
佐倉城趾公園の一角にある「国立歴史民俗博物館」では現在、
「侯爵家のアルバム 孝允から幸一にいたる木戸家写真資料」展が
開かれてる。桂小五郎ファンにはたまらない催しだろう。佐倉城は、
北緯35度43分19秒にある。
その所属事務所のタレントらと、
メドレーにしたものを売り出して
震災のチャリティにすると、報じられてた。
事務所名義の募金にして日本赤十字社に回す、
とのことであるから、必ず「ナンボか」は抜かれる。
自分の病気のときはいの一番に発表して、
一泊16万円の60平米の個室に入院して手術を受けたくせに、
震災からは4週間も経ってから、しかも、
まだなお"ファン"から搾り取る形での基金である。
被災地の避難所の体育館で、"桑田ファン"の被災者といっしょに
一箇月でも過ごしたほうが、よほど世のため人のためである。が、
そうしないのはやはり、過去に数々の「反日発言」をし、
なりすまし日本人説もあるこの人物からは、当然のことかもしれない。
何の中国暦でなのかは、
地震の被災地で取材してるときに危険防止の
ヘルメットを被ってた丸岡いずみ女史が、
被災者に話を聞くときにはきちんとその
メットを外して対する礼儀をわきまえてるのに感心して
グッと目頭を熱くしてしまったような
甘チャンな私には突き止める能もないが、
4月8日は釈迦の誕生日なんだそうである。
いわゆる「花祭り」という記念日になってる。さて、
桜田門の桝形の片隅(渡櫓門の脇)に、
1本だけ桜が植わってる。毎年、
この花を見るのが、四十過ぎてからの私の楽しみのひとつである。
今年は桜田門への立ち入りが止められてるが、それでも、
この桜を見ることはできる。それはともあれ、
この枡形の外で、151年前に大老井伊直弼は襲撃された。
この井伊直弼によって幕閣から除かれたのが、
堀田正睦である。下総国佐倉城主(山形に飛地領あり)である。
佐藤泰然に、蘭医学塾「順天堂」(現在の順天堂大学医学部)
を開かせた。ちなみに、
だからQちゃんを育てた佐倉出身の小出監督は、
順天堂大(体育学部)に進んだのである。それはさておき、
正睦が米国との条約の勅許を受けるのに失敗してる間に
大老になったのが井伊直弼である。そして、
勅許を得ないまま「日米修好通商条約」を結んだのである。
この批准書を交換するために咸臨丸で随行したのが、
米国事情を知るジョン・万次郎だった。
自宅マンションから母のマンションに行くとき、
日本赤十字社医療センター(いわゆる広尾日赤病院)の脇を通る。そして、
「堀田坂」を下り、大横町坂を上ってヒルズ方面に向かう。堀田坂は、
堀田家の広大な下屋敷があったのでそう呼ばれる。この
堀田家は幕閣を担う譜代の宿命として、何度も転封になった。が、
徳川時代の後半(家重の代)は下総国佐倉に定まった。
佐倉は、千葉氏の本拠地が15世紀後半には、
その一族である馬加(まくわり=幕張)氏によって宗家が乗っ取られ、
現在の千葉市から移されたくらいに、
房総半島にあって重要な地だった。
徳川支配下では親藩・譜代が目まぐるしく入れ替わった。
当然である。岩槻、忍、川越と並んで、
江戸からもっとも近い城の一つだからである。
松平定信が陸奥国白河からこの佐倉への転封を願い出たほどである。
佐倉の堀田家は「江戸湾警備役」を呑んで転封をしのいだ、
というくらい、佐倉という地の利は捨てがたいものだった。
江戸からの便がいいから
幕閣を担った譜代がこの地に封じられた、ともいえる。
秀忠時代の大老土井利勝、
家光時代の老中堀田正盛、
家綱・綱吉時代の老中首座大久保忠朝、
綱吉時代の老中戸田忠昌、
その子で家継・吉宗時代の老中戸田忠真、
綱吉時代の老中稲葉正往(正通)、
吉宗時代の老中首座松平乗邑、
家重時代の老中首座堀田正亮、
など、錚々たる面々である。その他の城主も、
大阪城代、京都所司代くらいまでにはなってる。
綱吉擁立の立役者ながら途中から反目するようになった正俊が、
親戚の稲葉正休に江戸城内で刺殺されてから、
陽の目を見ない時代が続いた。が、吉宗が将軍に就任するや、
幕閣としてまた重用されるようになった。
堀田正俊の父正盛は、稲葉正成の娘である。
正盛にとって春日局は義理の母にあたる。そして、
春日局の親類ということで堀田家は出世したのである。ともあれ、
吉宗は青木昆陽に命じて甘藷の栽培を、
小石川薬園、下総国千葉郡馬加村、上総国山辺郡不動堂村、
でさせた。小石川薬園→小石川養生所→現在の小石川植物園は、
北緯35度43分3秒にある。いっぽう、
佐倉城趾公園の一角にある「国立歴史民俗博物館」では現在、
「侯爵家のアルバム 孝允から幸一にいたる木戸家写真資料」展が
開かれてる。桂小五郎ファンにはたまらない催しだろう。佐倉城は、
北緯35度43分19秒にある。
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