京都大覚寺の西2kmほど、嵯峨野の地には、俗に
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)と呼ばれる有名な寺がある。
そこには1度しか行ったことがないが、
じつに印象深い"地"だった。
鳥辺山とならぶ火葬場だった地である。そのもっと前は、
風葬の地だったらしい。そこに、
筆を選ばないくらいなので場所も選り好みは言わない、
嵯峨天皇派の弘法大師さまが、五智山如来寺というのを建立した。
高野山を開く5年前のことである。が、のちに、
弘仁2年(およそ西暦811年)、浄土宗の開祖法然がそこを
常念仏の道場とした。そして、
華西山東漸院念仏寺(かさいさんとうぜんいんねんぶつじ)となり、
現在に至ってる、ということらしい。
ちなみに、
化野という土地は、著名人がその文で言及してる。
吉田兼好は「徒然草」で、
[あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、
住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそ、いみじけれ]
(拙大意)あだし野の露が消えるときがないとか、
鳥辺山の煙が立ち去らないとかいうだけの、
人がずっとこの世に生きてるきまりだったら、
いったい「もののあわれ」ということがあるだろうか。
いや、ない。
ものすごいんだよな、この世は無常だからこそ。
と認め、西行は歌に、
[誰とても、とまるべきかは。あだし野の、草の葉ごとに、すがる白露]
(拙大意)(一般常識的には)
人は誰もこの世に留まってられるものだろうか、
いや、違う。(という、西行お得意の反語「ものかは」)
(が、私はこう感じる)
誰でも人は生を終えるさだめなことなのかなあ。
(ここは反語でなく、「か」=疑問の終助詞、「は」=詠嘆の終助詞)
あだし野の草の葉の一葉ずつに、
すがるようにくっついてるはかない露のような存在なことだ。
と詠んだ。
さて、
「あだし」という形容詞の意味である。その名詞
「あだ(ada)」は「あた(a-ta)」の子音濁化で、
「勿体/物体(もったい=本質)の否定」である。
→「あだ」=「本物でないもの」→「他」「異」「無駄」
→「あだし」=「異なった」「よその」「無駄な」
→「心がここでなくよそにある」「無常な」
→「虚しい」「はかない」「変わりやすい」「浮気な」
ということである。
この「あた」から派生した形容詞に「あたらし」がある。
「あたらし」=本物でないから残念→もったいない/惜しい
[平家物語-第九-忠度最期]
[よい首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、
箙に結び附けられたる文を解て見れば、
旅宿の花と云ふ題にて一首の歌をぞ詠まれける。
行き暮れて、木の下陰を、宿とせば、花や今宵の、主ならまし
忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。
太刀の先に貫ぬき高く差上げ、大音聲を揚げて、
「此日来平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿をば、
岡部の六彌太忠純討ち奉たるぞや」
と名乗れければ、敵も御方も是を聞いて、
「あないとほし。武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。
あ(っ)たら大将軍を」
とて、涙を流し袖をぬらさぬは無かりけり]
(本系によっては「あたら」は見あたらず、「よき」とされてる)
(拙あらすじ)寿永3年(およそ西暦1184年)の一ノ谷の戦いである。
身分がいい侍を討ったが誰かは知らなかったので、
箙(えびら)に結びつけらてれた文を解いてみると、
「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれてた。
旅の途中で日が暮れて、桜の木の下を宿としたので、
その桜の花が今宵の主人なんだろうな。つまり、
私にはもてなしてくれる主はもう桜の花しかないことなのだなあ。
そこに(薩摩守)忠度(ただのり)と書かれていたので、
初めて薩摩守とわかったのである。
薩摩守の首を太刀の先に貫いて高く差し上げ、大声を上げて、
「日頃名高い平家の御方である薩摩守殿を、
岡部忠澄が討ち申し上げたぞ」
と名乗ったので、敵も味方もこれを聞いて、
「ああ、お気の毒に。武芸にも歌道にも達者でいらっしゃった人を。
惜しい大将軍を」
と言って、涙を流し袖を濡らさない武士はなかった。
「作る」を粘素(mucin)のように粘性を発揮してことごとく
「拵える」にすげかえる橋田壽賀子女史でも、
「新しい(あたらしい)」を「あらたし」にアラタめることはないようである。
じつに「惜しい」脚本家である。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)と呼ばれる有名な寺がある。
そこには1度しか行ったことがないが、
じつに印象深い"地"だった。
鳥辺山とならぶ火葬場だった地である。そのもっと前は、
風葬の地だったらしい。そこに、
筆を選ばないくらいなので場所も選り好みは言わない、
嵯峨天皇派の弘法大師さまが、五智山如来寺というのを建立した。
高野山を開く5年前のことである。が、のちに、
弘仁2年(およそ西暦811年)、浄土宗の開祖法然がそこを
常念仏の道場とした。そして、
華西山東漸院念仏寺(かさいさんとうぜんいんねんぶつじ)となり、
現在に至ってる、ということらしい。
ちなみに、
化野という土地は、著名人がその文で言及してる。
吉田兼好は「徒然草」で、
[あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、
住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそ、いみじけれ]
(拙大意)あだし野の露が消えるときがないとか、
鳥辺山の煙が立ち去らないとかいうだけの、
人がずっとこの世に生きてるきまりだったら、
いったい「もののあわれ」ということがあるだろうか。
いや、ない。
ものすごいんだよな、この世は無常だからこそ。
と認め、西行は歌に、
[誰とても、とまるべきかは。あだし野の、草の葉ごとに、すがる白露]
(拙大意)(一般常識的には)
人は誰もこの世に留まってられるものだろうか、
いや、違う。(という、西行お得意の反語「ものかは」)
(が、私はこう感じる)
誰でも人は生を終えるさだめなことなのかなあ。
(ここは反語でなく、「か」=疑問の終助詞、「は」=詠嘆の終助詞)
あだし野の草の葉の一葉ずつに、
すがるようにくっついてるはかない露のような存在なことだ。
と詠んだ。
さて、
「あだし」という形容詞の意味である。その名詞
「あだ(ada)」は「あた(a-ta)」の子音濁化で、
「勿体/物体(もったい=本質)の否定」である。
→「あだ」=「本物でないもの」→「他」「異」「無駄」
→「あだし」=「異なった」「よその」「無駄な」
→「心がここでなくよそにある」「無常な」
→「虚しい」「はかない」「変わりやすい」「浮気な」
ということである。
この「あた」から派生した形容詞に「あたらし」がある。
「あたらし」=本物でないから残念→もったいない/惜しい
[平家物語-第九-忠度最期]
[よい首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、
箙に結び附けられたる文を解て見れば、
旅宿の花と云ふ題にて一首の歌をぞ詠まれける。
行き暮れて、木の下陰を、宿とせば、花や今宵の、主ならまし
忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。
太刀の先に貫ぬき高く差上げ、大音聲を揚げて、
「此日来平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿をば、
岡部の六彌太忠純討ち奉たるぞや」
と名乗れければ、敵も御方も是を聞いて、
「あないとほし。武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。
あ(っ)たら大将軍を」
とて、涙を流し袖をぬらさぬは無かりけり]
(本系によっては「あたら」は見あたらず、「よき」とされてる)
(拙あらすじ)寿永3年(およそ西暦1184年)の一ノ谷の戦いである。
身分がいい侍を討ったが誰かは知らなかったので、
箙(えびら)に結びつけらてれた文を解いてみると、
「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれてた。
旅の途中で日が暮れて、桜の木の下を宿としたので、
その桜の花が今宵の主人なんだろうな。つまり、
私にはもてなしてくれる主はもう桜の花しかないことなのだなあ。
そこに(薩摩守)忠度(ただのり)と書かれていたので、
初めて薩摩守とわかったのである。
薩摩守の首を太刀の先に貫いて高く差し上げ、大声を上げて、
「日頃名高い平家の御方である薩摩守殿を、
岡部忠澄が討ち申し上げたぞ」
と名乗ったので、敵も味方もこれを聞いて、
「ああ、お気の毒に。武芸にも歌道にも達者でいらっしゃった人を。
惜しい大将軍を」
と言って、涙を流し袖を濡らさない武士はなかった。
「作る」を粘素(mucin)のように粘性を発揮してことごとく
「拵える」にすげかえる橋田壽賀子女史でも、
「新しい(あたらしい)」を「あらたし」にアラタめることはないようである。
じつに「惜しい」脚本家である。
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