池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

全世界の中で1つのことだけは、それについての概念と対象が分離されない形で成立している。それは、私自身である

2024-08-17 10:32:27 | 日記

ラテン語とは正反対で、パーリ語は著しく現実的な特徴を持つ言語である。見かけ上は論理とは反対であり、欧米の学者は多少なりともそのような好ましい性質をブッダのせいにしているが、そのような現実性の豊富さがこの言語の崇高さを高めると同時に、その思考も際だたせている。現実の中には、定義されたもの、または定義可能なものはまったく存在しない。それは冷酷なほど連鎖した動きでしかない。全ての定義は、現実との一種の妥協であり、全ての本物の思想家たちは常にそう見なしている。

仏教およびその言語には、このような現実性が含まれているので、ぴったりした翻訳がほとんど、または全く見つけられないような表現が多い。言語を使うことで、我々は、定義に次第に強くなるが、現実の把握には弱くなるという、一種の段階的な硬直プロセスを経験する。これは、明らかに、悪循環である。我々は、自分たちの定義能力を自慢にしており、物事を定義で飾り立てることに成功したとき、我々はそれを理解したものと思いこんでしまう。このような場合に、実際に我々がやっていることは、言ってみれば、物事のずっと上の方に思考の橋をかけて、自分の足を現実の中でぬらすことなく、概念的な「場所」から「場所」へと飛び移るだけのことである。ボンの近くのライン河には、こんな言葉を記した石碑が建っている。「カエサルは、最初に、この河に橋を建設した」。教室や実験室で、物事や現実の上に新しい定義を「押しつけた」とき、自分をカエサルのように感じる人は少なくない。このような賢者において、人生の謎々は、ほぼ完璧に定義によって解決される。しかし、結局のところ、ほとんどが定義だけで成り立っているような人生の謎々など、たいしたものではない。

世界の全ての物事は、対象と概念が分離できるような形で構成される。すなわち、概念は、対象と離れて「操作」できる。ある意味で、全ての精神生活というのは、概念と対象を一致させようという試みと言ってよいだろう。しかし、我々は終わりのない連続の中に迷い込んでいるので、この試みは永遠に失敗する。全世界の中で1つのことだけは、それについての概念と対象が分離されない形で成立している。それは、私自身である。なぜなら、私自身がある通りに私は私の概念を作るからである。概念を形成しようという試みは、いつでも、私自身の在り方の1つである。ここにおいて、私という概念は、それ自体が経験であり現実だ。私自身は、唯一であり、自分にアクセス可能な世界の純粋現実である。仏教は現実を教えるものである。それは、世界の純粋現実だけをもって出発し、この地点から、世界イベントのあらゆる振る舞いを例外なく、思考の渦巻きの中に吸い取ってしまう。そして、このことによって、我々はブッダ思想そのものが我々の前に現れるのを見る。

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