池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

三つのタイプの書物について

2024-08-07 18:11:20 | 日記

以下の序文は、ダールケの思想的立場をよく表している。

三つのタイプの書物について

世の中には三種類の本がある。一つは、何も与えず、読者に何かを要求することもない本である。暇人のための空っぽのエンターテインメントがこれに当たる。二つ目は与えてくれる本である。読者に必要なのは記憶力だけで、マニュアル本がこれに当たる。三つ目は、与えると同時に読者にも与えるよう要求する本だ。これらは、文字通り、心の栄養食であり、心の発達プロセス全体に対して刺激を与え、その後決して失われることのない糧となる。

本書は、最期の分類に入ることを希望する。私が経験したことを、読者の経験にもしたいと考えているからだ。

なぜ現代は思想が混乱しているか(本当に利益となるものを理解していない)

現代における心の貧しさは、個人的な経験が不足していることにある。我々は、何も印象的でないものに感銘を受け、感銘を受けるべきところで感銘を受けない。我々は、自分にとって何が本物の利益であるかを勘違いしている。興味深いものとは、我々に利益があり分け前があるもののことだ。しかし我々は、本物の利益の前で愚かな傍観者となったり、世俗的な意味で面白いことのためにあらゆる危険を冒したりするなど、きわめて混乱している。現在の平均的な人間にとっては、仏教やキリスト教の教えを考察し体験することより、キリスト教は仏教の一派であるとかその反対だとかについて重箱の隅をつつくような議論を読む方が興味深いのであろう。このようなことは、現在我々が生きている世界の根底に横たわっている。

旧来の思索の方法(哲学と科学)は、どちらも「私」という根本的欠陥を抱えている。

思索は、いつでも生命という問題と対峙している。生命とは何かという疑問が、私にものを考えさせるのである。一本のろうそくは空間のある一部しか照らさず、そのために、まず見えていない部分が疑問の対象となる。それと同様に、思索も、自分に見えている空間すなわち「私」だけを照らし、そこから他者や世界が疑問の対象となり、それについて思索する。「私」というのは、世界のあらゆる見解の自然な出発点であり、客観的でもあり主観的でもありうる。

哲学は、純粋にこのような思索によって世界の概念を構築しようと試みてきたが、それ自体が無価値な試みであったので荒廃するに至った。自然科学は、哲学とは対照的に、「私」を超えた世界概念というアイデアを使って問題を追求してきた。しかし、その試みは永遠の失敗を運命付けられている。なぜなら、そのような世界理論を考えるのは「私」であり、世界の中には必然的に「私」自体も含まれており、この問題は解決のしようがないからだ。したがって、もはや我々は、古代人やスコラ哲学者が持っていたような哲学を持つことはできず、真に我々を助けうるような自然科学も持ち得ないというのが事実である。したがって現代の思想家は、ほぼ無力、空白の精神状態にある。仏教は、それに再びエネルギーを与えることができる。ただし、信仰に凝り固まった人は無理である。

今日、あらゆる思索家、あらゆる探求家は、一種の精神的空白の状態にある。本書が希望するのは、空気の大きな塊が不均衡な状態にあったとき、わずかな力を加えただけで旋回運動を始めることが多いのと同様に、同じく不均衡の状態にある現代の我々の心が、精神的台風とまでは行かなくても、せめて優しいそよ風であっても、刺激を受けて反応できるようにすることだ。人間には三つの種類がある。化学の不活性物質に喩えられるような無関心な人。彼らには、次のような孔子の言葉が相応しい。「腐った木は向きを変えることができない」。二番目は、物質に喩えられる信仰者。彼らの信心が本物であるかぎり、彼らが生きている間は天国という概念にしっかりと縛り付けられる。第三は、信仰を持たず自分で考える人達であり、発生段階の生命体に対応する。彼らには、ブッダの次の言葉が当てはまる。「人生の全ては苦である」。

本書は、三番目に当てはまる人だけに価値がある。無関心な人は、どれだけ高い教育を受けていようとも、そんなことを思索しようとは思わないだろう。信仰者にとっては、矛盾を引き起こすだけだ。信仰を持たない思索家と私が呼ぶのは、誰も逃げることのできないような、終わりなき無限のことを思い浮かべると、心に不安を感じるような人のことだ。それは、数学において無理数を前にして感じる知的な不安と比較しうるだろう。実際のところ、この二つは同じようなものである。本書の読者は、このように前もって制限されている。本書の対象が少人数であるように、実際にこのような人はわずかであろう。

真にものを考える人は、「私」という疑問に必ずぶつかる。科学や信仰ではこれに答えが出ない。仏教は真の答えを持っているが、概念操作に慣れ常識に縛られた私たちの頭には、奇妙な考えに思えて、仏教の教えを十分に理解できないようになっている。


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