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1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月18日・ロベルト・バッジョの目

2017-02-18 | スポーツ
2月18日は、インドの聖者ラーマクリシュナが生まれた日(1836年)だが、至上のサッカー選手、ロベルト・バッジョが生まれた日でもある。

ロベルト・バッジョは、1967年、イタリアのカルドーニョで生まれた。8人きょうだいの6番目の子で、小さいときからサッカーに秀で、地元のユース・チームの選手として活躍し、1試合で6ゴールを決め、プロ・スカウトの目にとまり、15歳のとき、プロ・デビュー。
彼は、セリエC1のヴィチェンツァというチームからキャリアをスタートした。高い技術に裏打ちされた、想像力豊かな華麗なプレーと、圧倒的なゴール決定力でチームの勝利に貢献し、18歳のとき、セリエAのフィオレンティーナに移籍。ところが、右ひざをけがし、2シーズンを棒に振った。それでも、チームはバッジョの回復を待った。けがが回復して、戦線へもどると、バッジョは大活躍して、地元フィレンツェはバッジョのプレイに熱狂した。バッジョが、当時の史上最高額の移籍金でトリノのユヴェントスへ移籍することが発表されると、フィレンツェでは暴動が起きたほどだった。これは、フィオレンティーナのオーナーの一存でおこなわれた移籍で、バッジョ自身も当惑したといわれるが、ユヴェントスへ移ったバッジョは、やはり大活躍して、チームをUEFAカップ優勝に導き、バッジョ自身も国際サッカー連盟(FIFA)の最優秀選手に選ばれた。以後、バッジョは、ACミラン、ボローニャ、インテル、ブレシアとチームを変えて活躍し、「ファンタジスタ」の名をほしいままにした後、37歳で現役を引退した。
一方、サッカー・ワールド・カップにおいては、1990年イタリア大会(第3位)、1994年アメリカ大会(準優勝)、1998年フランス大会(ベスト8)と、バッジョは3大会にわたって代表として出場し、いく度となく奇跡的なゴールを決め、母国を窮地から救い、勝利へと導いた。3大会を通じて、バッジョを擁するイタリアは、一度も試合のスコアで負けたことはなく、敗北はすべてPK戦による。
引退後は、国連食糧農業機関(FAO)の親善大使として、貧困や飢餓撲滅のために奔走し、病院への寄付、ハイチ地震への寄付、ミャンマーのアウンサンスーチー氏解放に尽力し43歳のとき、ノーベル平和賞受賞者世界サミット事務局から「平和サミット賞」を受けた。

バッジョはサッカー史に残る数々の名場面を演出してきたが、いちばん印象に残っているのは、サッカーW杯の1998年フランス大会、グループ・リーグのイタリア対チリ戦で見せた、相手ディフェンダーの手をねらって蹴ったボールである。
試合の後半の終わり近く、イタリアが1対2でリードされている悲壮的な場面で、バッジョは敵ペナルティーエリア内にいる相手ディフェンダーの手にボールをわざとぶつけ、PKを得て、みずからゴールを決めた。試合は2対2の引き分けで終了し、イタリアは貴重な引き分けポイントを手に入れた。
あのキックを見たとき、背筋に寒いものを感じた。勝負師バッジョのすごみを見た。どんな絶望的な状況でも、活路を見いだし、あらゆる手段を使って勝ちにいく。つねに自身の勝利を確信していて、最後の最後までその確信を捨てない、そういう強い意志を感じた。
バッジョの目はいつもキラキラと鋭く輝いている。それは、獲物をねらう黒ヒョウの目に宿る光である。あの光がほしい。バッジョの趣味はハンティングだという。
(2017年2月18日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

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2月17日・莫言と『雪国』

2017-02-17 | 文学
2月17日は、島崎藤村(1872年)や、梶井基次郎(1901年)が生まれた日だが、中国の文豪、莫言(モーイエン)の誕生日でもある。2012年度のノーベル文学賞受賞者である。

莫言は、1955年、中華人民共和国の山東省高密市で生まれた。本名は管謨業(コワン・モーイエ)。ペンネームの莫言は「言うなかれ」という意味で、作家の名として、また中国という言論統制がある国にいる作家の名として、二重にしゃれている。
60年代の文化大革命のために小学校中退を余儀なくされ、21歳のころに人民解放軍に入隊。軍に在籍しながら執筆活動をはじめた。『赤い高粱(コーリャン)』『豊乳肥臀』『酒国』『白檀の刑』などの作品があり、映画化された作品も多い。
米国の作家、フォークナーが米国南部のヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしていて「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる作品群を書いたのにならって、莫言は高密県東北郷という架空の農村地区を舞台にして、作品を積み上げてきた。

莫言は言っている。
「川端康成の小説『雪国』を読んでいて、文学に目覚めた」
川端の『雪国』のなかに、犬が温泉の湯をなめている風景を描写した一文があって、それを読んだとき、文学に目覚めた、それですぐに原稿用紙に書いたのが『白い犬とブランコ』の冒頭の一文なのだ、と。
件の箇所は、小説『雪国』の前半中の、雪国の温泉町の風景を描写したくだりである。
「雪を積らせぬためであろう、湯槽(ゆぶね)から溢れる湯を俄(にわか)づくりの溝で壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴(かび)の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた」(川端康成『雪国』新潮文庫)
このなかの「黒く逞しい秋田犬が……」という一文を読んだとき、莫言の頭に新しい着想が浮かび、ただちに原稿用紙にこう書いたのだという。
「高密県東北郷原産のおとなしい白い犬は、何代かつづいたが、純血種はもう見ることが難しい」(莫言『白い犬とブランコ』日本放送出版協会)

『白い犬とブランコ』には感服した。おろしろかったし、なにより「熱さ」があった。それは、メリメの「マテオ・ファルコネ」や、ジャヤカーンタンの「誰のために哭いたのか」に通じる「熱さ」だった。
これは、すごい作家だ。もっと広く読まれるようになるといいなあ、と、それから莫言がノーベル文学賞をとらないかとひそかに応援していた。
だから、2012年に莫言が受賞したときには、感慨もひとしおだった。言論統制を敷く中共寄りの作家だとか批判もあるが、それでも10年以上ひそかに応援してきた作家だったので、なんだかわがことのようにうれしかった。
(2017年2月17日)


●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月16日・ジョン・マッケンローの天才

2017-02-16 | スポーツ
2月16日は、法華経こそ大事だと説いた日蓮聖人の誕生日(貞応元年)だが、不世出のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの誕生日でもある。

ジョン・マッケンローは、1959年、西ドイツ(当時)のヴィースバーデンで生まれた。父親は当時、米国空軍の軍人で、西ドイツの基地に赴任中だった。その後、父親は家族を連れて米国ニューヨークへもどり、広告代理店に勤務しながら、法律学校に通った。
米国で8歳からテニスをはじめたジョンは、アマチュア時代から全仏オープンの混合ダブルスを制するなど、飛び抜けた成績をあげた。スタンフォード大学に進んだが、中退してプロに転向。1979年の全米オープンで、決勝でビタス・ゲルレイティスをやぶり、20歳の若さで優勝した。
以後、シングルスとダブルス、両方で活躍するトップ・プレイヤーとして、ビヨン・ボルグ、ジミー・コナーズらとともに数々の名勝負を繰り広げ、テニスの黄金時代を作った。
とくに、1980年の全英オープン(ウィンブルドン)の決勝における、4時間近いボルグとの死闘は、スポーツ史上に残る伝説的名勝負となった。
全盛期の1984年には、年間に負けた試合がたった3試合のみ、年間勝率96.5パーセントという大記録を打ち立てた。通算獲得賞金は、1250万ドル以上。だが、マッケンローはまだまだ健在で、2006年にはSAPオープンの男子ダブルスで優勝しているし、2012年の全仏オープンでは、シニア男子ダブルスで優勝した。

マッケンローは若いころ「悪童」と呼ばれ、コート・マナーの悪さで有名だった。映画「アマデウス」で、モーツァルト役を演じた俳優トム・ハルスは、軽薄で落ち着きのないモーツァルトを演じるために、マッケンローの試合中の行動を、テレビ録画で繰り返し見て研究したという。

かつて、米ニューヨーク、フラッシングメドゥのUSオープン会場で、マッケンローの試合をコートサイドで観た。中学のころからテニスをやっているけれど、マッケンローのテニスは、テニス理論を超えていた。目が信じられなかった。
マッケンローはコートにただ突っ立って、ぶらぶら歩いている。そして、ボールがくると、いつの間にかそのそばに立っていて、手先でラケットを振りまわして、ボールをひっぱたくのだった。
テニスというのは、飛んでくるボールに対してからだを平行にして、腰を低く沈めて構え、ラケット面を合わせ、ボールを送り出してやらなくては、ちゃんとボールが返っていかない、本来そういうスポーツである。マッケンローのように突っ立ったまま無造作にひっぱたくのでは、まともに返るはずがない。ところが、彼が打ったボールはネットの上すれすれのところをものすごいスピードですべってゆき、相手側のコートの、信じられないような場所に突き刺さるのである。観ている側は、理屈など無視した、目の前で実現される奇跡を、ただただ見て感嘆し、その意外性の連続を楽しむしかない。それがマッケンローのテニスである。こんなプレイヤーはほかにいない。「天才」「芸術家」の語は、テニスにおいて「ジョン・マッケンロー」と同意である。
(2017年2月16日)


●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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2月15日・白土三平の啓示

2017-02-15 | マンガ
2月15日は、ティファニー宝石店の創始者チャールズ・ティファニーが生まれた日(1812年)だが、マンガ家、白土三平(しらとさんぺい)の誕生日でもある。

白土三平は、1932年、東京で生まれた。本名は岡本登(おかもとのぼる)。父親は特高警察に捕まり拷問を受けたプロレタリア画家の岡本唐貴(おかもとこうき)である。
小さいころ、大阪の在日朝鮮人の住宅地を見て育った登は、太平洋戦争中の12歳のとき、長野の上田に疎開した。軍国主義一色に染まった片田舎の地で、将来は絵描きになると宣言した彼は、学校では兵隊になれと強制してくる軍事教練の軍人や上級生たちに始終殴られ、家では働き手として薪を集め、川で魚をとり、農家を手伝って働き、おがくずを食べられないかと口にするほど貧しい少年時代を送った。
上田で敗戦を迎えた登は、14歳のとき、東京へもどった。
焼け跡を駆けずりまわるその日暮らしのなか、手塚治虫のマンガを読み、刺激を受けた登は、中学を三年生の途中で退学。紙芝居製作を手伝いだし、19歳のころ、自分で紙芝居を描くようになり、実家を出て独立した。
やがて紙芝居が下火になると、貸本屋用のマンガ本を描きだし、26歳のとき、貸本マンガの傑作『甲賀武芸帳』全八巻を完成させた。千ページを超えるこの作品を、彼は1年あまりのあいだにスアシスタントなしで、たったひとりで描き上げたという。
続いて貸本マンガ『忍者武芸帳 影丸伝』を発表して評判を得た白土三平は、28歳のころから、当時黎明期にあったマンガ雑誌に向けて描きだし「風の石丸」「シートン動物記」「サスケ」の連載をはじめた。
「サスケ」はテレビアニメ化され、白土は一躍売れっ子マンガ家となった。しかし、彼の作品は人や動物が殺される場面が多く、残虐だと批判され、雑誌社側の自主規制によりしばしば変更、また連載中止となった。自由に描きたいものを描きたいとの欲望を募らせた白土は、『甲賀武芸帳』以来のつきあいで当時事業に失敗し困窮していた長井勝一を擁して出版社・青林堂を設立。マンガ月刊誌「ガロ」を創刊させた。白土は「サスケ」を連載している雑誌社に話を通して「サスケ」の単行本を青林堂から出版させ、その売上を「ガロ」の運営費にあてるという奇跡的な交渉を成功させ、「ガロ」に大長編マンガ「カムイ伝」を連載しだした。32歳のときだった。白土はプロダクション「赤目プロ」を立ち上げ、毎月百ページの量産体制を固めて「カムイ伝」を連載し、並行して「ワタリ」「カムイ外伝」を他誌に描いてスタッフの給料を払った。「カムイ伝」のための雑誌「ガロ」は、池上遼一、蛭子能収、杉浦日向子、滝田ゆう、つげ義春、永島慎二、みうらじゅん、水木しげる他の個性派マンガ家を世に送りだした。
白土は39歳のとき「カムイ伝」の第一部を完成させた。その後17年間の沈黙をへて他誌で発表された第二部は74歳のときに完結。現在、第三部の構想中という。

「カムイ伝」は忍者マンガである。が、それを超え、人間、動物をくるめた自然界全体を描いた全体小説的マンガである。マンガ史上に屹立する金字塔で、読後の感動はことばにしづらい。白土三平はこの作品を通して、生、集団、社会、歴史、権力、日本人などについて、とくに差別が権力者の支配の便宜のために作られた、あざとい、根拠のないシステムにすぎないことを、わかりやすく教えてくれる。蒙を啓いてもらい、感謝に堪えない。
(2017年2月15日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月14日・ジョージ・フェリスの輪

2017-02-14 | 歴史と人生
2月14日は、古代ローマで自由結婚を主張した聖職者バレンタインが処刑された日(269年)だが、技術者、ジョージ・フェリスの誕生日でもある。観覧車を発明した人である。

ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアは、1859年、米国イリノイ州ゲールズバーグで生まれた。父親は園芸家だった。
陸軍士官学校をへて、工科大学で土木工学を専攻したフェリス・ジュニアは、鉄道と橋の建設業界に進み、ペンシルベニア州ピッツバーグで、鉄道、橋梁用の素材の検査をする会社を興した。
折しも、コロンブスがアメリカに到達してから400周年を記念した、コロンブス記念世界博覧会が、1893年にシカゴで開かれることになった。
博覧会を主催する委員会側は、4年前に開かれたパリ万博の象徴であったエッフェル塔をしのぐ何かを、このシカゴ万博の会場に建設することを望み、その案を募った。
それに応じたのが、フェリスだった。彼のアイディアは、機械仕掛けで動く巨大な観覧車を会場に設置して、客はこの観覧車に乗って、会場全体を俯瞰できるというものだった。
委員会側ははじめ、この案に対し、危険すぎると怖じ気づいたが、最終的にはフェリスの案を認可した。
フェリスは建設費を捻出するために投資家を募り、資金を集め、観覧車建設に着手した。
完成した観覧車は、36個の観覧ボックスをもち、それぞれのボックスが40席の回転椅子を備え、60人を収容できた。都合、観覧車はいちどに2,160人を乗せてまわるという巨大なエンタテイメント施設だった。
乗客は、50セントの切符を買い、約20分かけて2周する観覧車の旅を楽しみ、観覧車は毎日、3万8,000人の観客を乗せて営業をつづけ、主催者側にばく大な利益をもたらした。
万博が終わると、フェリスと投資家たちは、利益の分け前をよこさないと、主催者側を訴え、ただちに法廷闘争へと移った。
フェリスは、1896年11月、腸チフスのため、ピッツバーグにて没した。37歳の若さだった。

「エッフェル塔を超える」
この難題にジョージ・フェリスは挑み、空高くそびえてまわる巨大な輪という解答を導きだした。
観覧車のことを、英語ではフェリスの名から、Ferris Wheel (フェリスの輪)と呼ぶ。
恋人たちが愛を誓う日、バレンタインデイと、恋人たちが愛を語らうデートスポット、観覧車とが、不思議な縁でつながっている。
(2017年2月14日)


●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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2月13日・ジョルジュ・シムノンの疑問

2017-02-13 | 文学
2月13日は、「風と木の詩」のマンガ家、竹宮惠子が生まれた日(1950年)だが、推理作家、ジョルジュ・シムノンの誕生日でもある。

ジョルジュ・シムノンは、1903年、ベルギーのリエージュで生まれた。父親は保険会社に勤める会社員だった。ジョルジュは子どものころから小説家志望で、15歳のとき、新聞記者になり、記事と並行して小説を書きはじめた。
17歳のとき、処女作を発表。19歳のとき、仏国パリへ移り、さまざまなペンネームで短編小説を量産しだし、稼いだ原稿料でヨットを購入し、そのヨットで航海しながら、推理小説を書いた。
28歳のときに発表された、パリ警視庁のメグレ警部が登場する推理小説の第一作が好評を博し、以後「メグレ警部」シリーズを百編以上も書いた。
1960年代には、シムノンは毎年6冊の長編を書き、それらは出版されるやいなや、27カ国語に翻訳され、世界中で読まれていた大ベストセラー作家で、ヴィクトル・ユゴー、ジュール・ヴェルヌと並び、世界でもっとも読まれているフランス語作家のひとりである。
70歳のころ、シムノンは「メグレ警部」ものからの引退を宣言し、1989年9月、スイスのローザンヌで没。86歳だった。

シムノンには、3人の子どもがあって、上の二人が男の子、いちばん下が女の子だが、この3人の子どもたちが3人とも、小さいときに夕暮れをこわがったという。
日が暮れるのを見てると、こわくて家に飛びこむ、逆に外へでたがる、ひとりきりになってもの思いに沈む、など、子どもによって、その反応はちがったが、どの子どももみな、沈み行く夕日を見て、
「明日も日がまた昇ってくるのだろうか」
と不安を訴えてくる。父親のシムノンは、とうぜん、
「お日さまは、明日もきっと帰ってくるよ。だいじょうぶだよ」
と請けあうわけだが、シムノンはそこに、自分がもの書きになってからずっと疑問に思っていた「われわれ人間がなぜ小説を読むのか」という疑問に対する答えを見つけた。
「小説とはなにか。なぜひとは小説を読むのか。自分と同じ人間が、自分と同じようなことをやっているのを見るために、わざわざ金を出して小説本を買ったり、劇場や映画館に出かけたりするのか」
その答えをみつけた、と。話を端折るけれど、シムノンが得た答えは、
「われわれを安心させるため。われわれを和解させるため」
というものだった。(参照・河盛好蔵「人間の小説」『文学空談』文藝春秋)

シムノンの説は、感慨深いものがある。ブログにせよ、ツイートにせよ、小説にせよ、人はなぜ他人の書いた文章を読むのだろう。
(2017年2月13日)


●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。

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2月12日・ダーウィンの魅力

2017-02-12 | 科学
2月12日は、第16代米大統領エイブラハム・リンカーン(1809年)の誕生日だが、ちょうど同じ同年同月同日に、英国では生物学者チャールズ・ダーウィンが誕生した。

チャールズ・ロバート・ダーウィンは、英国イングランドのシュルーズベリーで生まれた。父親は医師で、母親は陶器で有名なウェッジウッド家の出身だった。
子どものころから、博物学に興味があり、植物や鉱物を収集していたダーウィンは、父親の意向をくみ、エジンバラ大学の医科に進んだ。しかし、成績は芳しくなく、そこで今度は牧師になるようケッブリッジに移って神学を勉強した。
22歳のとき、英国海軍の測量船ビーグル号に乗船し、世界周航に出発。この乗船について父親は猛反対したが、叔父のとりなしで、ダーウィンは船に乗りこむことができた。
南アメリカ大陸の測量を主な目的とするこの航海は、英国プリマス港を出航、アフリカ沖のカナリア諸島をかすめて大西洋を渡り、南米ブラジルの海岸沖を南下し、マゼラン海峡をへて太平洋にで、ガラパゴス諸島へ寄り、オーストラリアのシドニーをへて、インド洋を渡り、喜望峰をまわって大西洋にでて横断し、測量の補足のためふたたび南米へ寄ってから、大西洋をとって返して本国英国へもどるという約5年がかりの大航海だった。
ビーグル号船上でのダーウィンの役割は、はじめ船長の話し相手、後に船医といったものだったが、船がいかりを下ろし、上陸した土地土地で彼は精力的に植物、動物、鉱物、化石など大量の標本を採集し、記録をとりつづけた。
帰国後、ダーウィンはもち帰った標本の研究を進め、『ビーグル号航海の動物学』『ビーグル号航海の地質学』『ビーグル号航海記』を出版し、好評を博した。
ダーウィンをもっとも偉大ならしめているのは、帰国したころすでに彼が着想を得ていた「自然選択」という考え方である。当時は(現在でも米国の半数以上の人々には)、人間を含め、すべての生物は神が作ったもので、それぞれの種は、まったくべつの、不変のものである、と考えられていた。しかし、ダーウィンはガラパゴス諸島の生態系など、航海中に得てきたさまざまな見聞により、種は環境に適応して、種が生き残る方向へとしだいに変異した者が生き残っていく、つまり、種は変わっていく、という結論を得た。
これが「自然選択」説であり、進化論の骨子である。
ダーウィンは、この理論に説得力をもたせるために、約20年間にわたって、さまざまな証拠を集め、研究を重ねた。そうして50歳のとき『種の起源』を発表。このセンセーショナルな書は、発売当日に完売し、即座に増刷され、大反響を呼んだ。ダーウィンはその後も動植物などの研究、論文執筆をつづけ、1882年4月に没し、国葬が営まれた。73歳だった。

若いころから『ビーグル号航海記』を読み返してきた愛読者で、彼の知力、忍耐力、情味、時代を超えた良識と、全き円的な人格には、いまも魅了されつづけている。

ダーウィンは、コペルニクス、フロイトと並び、人類の思想を根本からひっくり返した大天才のひとりとされる。でも、その人となりはきわめて平凡で、ダーウィンは家庭内ではよき夫、父であり、外ではよき友人であり、おだやかな晩年を送った。哲学の祖ソクラテスの酒飲みで、家庭をかえりみず、挙句の果てに毒を飲んで死んだ乱調人生とは対照的である。
(2017年2月12日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月11日・エジソンの一歩

2017-02-11 | ビジネス
2月11日は、神武天皇が即位した日を新暦に換算して決めた旧「紀元節」を、戦後に名称変更した「建国記念の日」だが、この日は発明王トーマス・エジソンの誕生日でもある。

トーマス・アルバ・エジソンは、1847年、米国オハイオ州ミランで生まれた。父親はオランダ系で、カナダで政府刷新を狙った反乱に参加し、それが失敗したために合衆国に逃げてきた革命家だった。
7人きょうだいの末っ子だったトーマスは、幼いときから好奇心旺盛で、にわとりの卵を自分で温めようとしたとか、学校では授業などうわの空で、教師を授業と直接関係のない質問攻めにして授業の妨げになるので、学校をやめさせられたなどの伝説があるが、一説によると、学校の教師があるとき、エジソンのことを「腐ったやつ」と呼んでいるのをエジソンが聞いてしまい、それで学校へ行かなくなったともいう。
いずれよせよ、家庭で母親が教師がわりになり、エジソンは勉強し、成長することができた。エジソンはこう回想している。
「母がわたしを作った。母はとても誠実で、わたしを信頼してくれた。それで、わたしは、自分が生きてゆくための何かをもっていると、感じることができたのだ」
7歳のとき、彼の家族は、ミシガン州ポートヒューロンへ引っ越した。そこでエジソンは、列車のなかの売り子になった。キャンディーや新聞を乗客に売って歩く仕事だった。
そんなあるとき、3歳の子どもを暴走列車にはねられる寸前に助けたところから、その子の父親である駅長から感謝され、エジソンは彼に電信の技術を教わる。それからエジソンは電信技師となり、比較的忙しくない夜間シフトを希望して、仕事中に読書や実験を繰り返していた。それから実用的な機械を発明しては、特許をとり、それをお金にして、さらにそれを実験に注ぎ込んでは発明を重ねていった。
21歳のとき、電気投票記録機を発明。22歳のとき、株式相場表示機。
30歳のとき、電話機と、蓄音機。32歳のとき、電球。
33歳のとき、発電機。44歳のとき、のぞき眼鏡式映写機。
63歳のとき、トースター。エジソンは生涯に約1300件の発明をし、ゼネラル・エレクトリック社など14の会社を創設した。そして80歳をすぎてもなお、1日16時間のペースで働きつづけたというタフな発明王は、1931年10月、84歳で没した。

エジソンは、自分で発明するだけでなく、他人が発明した技術を改良したり、買い取ったり、あるいは盗んだり、部下の発明を横取りしたり、といったこともさかんにしたようだ。
そういった、よくない風評や批判を差し引いても、エジソンのなし遂げた業績はなお偉大で、ことばもない。それに、数々の発明の実績もさることながら、エジソンの生きざまには、常人にはちょっとまねできない、強烈な魅力がある。
エジソンはこう言っている。
「わたしはがっかりしない。だって、まちがった試みは捨ててきたけれど、それらはすべて、前へ進むつぎの一歩となるのだから。(I am not discouraged, because every wrong attempt discarded is another step forward.)」
(2017年2月11日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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2月10日・ビル・チルデンの盛衰

2017-02-10 | スポーツ
2月10日は、女性解放運動の旗手、平塚らいてうが生まれた日(1886年)だが、テニス・プレイヤーのビル・チルデンの誕生日でもある。

ビル・チルデンは、米国ペンシルベニア州のフィラデルフィアで、1893年に生まれた。本名はウィリアム・ターテム・チルデン2世。父親は羊毛を扱う商人で政治家でもあった。母親はピアニストだった。
召使のいる大きな屋敷で育ったビルは、5歳からテニスをはじめた。
18歳で母親は失い、22歳で父親と兄を失ったチルデンは、数カ月間深いうつ状態となったが、同居していたおばに励まされ、テニスに打ち込むことで危機的な状態から脱した。
ペンシルヴェニア大学を中退し、テニス・トーナメントに出場したチルデンは、1メートル88センチの長身から放つ弾丸サービスを武器に、20歳のときにメアリー・ブラウンと組んで混合ダブルスの全国大会で優勝し、25歳のときにはシングルスで全国大会で準優勝。27歳から32歳まで、6年連続で全米のシングルス・チャンピオンとなった。
27歳のとき、全英ウィンブルドンに出場し、初優勝を遂げた。このとき、挑戦者決定戦の決勝で対戦したのが、日本の商社マン・テニスプレイヤー、清水善造である。
チルデンはアマチュア選手として数々の国際大会で優勝し、27歳から33歳までデビスカップの米国代表チームのエースとして活躍し、米国のデビスカップ7連覇に貢献した後、38歳のとき、プロに転向した。
アマチュア、プロ時代を通じてチルデンは、シングルスでは全英で3回、全米で7回優勝し、ダブルスでも全英と全米で優勝6回、混合ダブルスでは全仏、全米で5回優勝という大記録を残した。さすがのチルデンも40代半ばからは優勝から遠ざかり、テニスの個人レッスンをして収入を得ていた。
もともと出身が裕福だったチルデンは、プロ選手時代の初期のころに大金を稼いだが、ニューヨークの最高級ホテルのスウィートで暮らし、自分がプロデュースしたブロードウェイ・ミュージカルに大金を注ぎ込み、またセレブたちと派手なつきあいをし、資産は見る見るうちになくなっていった。
チルデンは同性愛者で、53歳のとき、ビヴァリーヒルズにとめた自動車のなかで14歳の少年といちゃついていたところを逮捕され、半年以上刑務所に入っていた。
56歳のときにも同様の事件を起こし、保護観察下の彼は個人レッスンで収入を得ることを禁止され、暮らしはいよいよ苦しくなった。親友の映画監督チャールズ・チャップリンはそんなチルデンに援助の手を差し伸べた。そのチャップリンも、赤刈りで1952年に米国から追放された。
翌年の1953年6月、チルデンはロサンゼルスのアパートで、心臓発作により没した。60歳だった。賞金目当てにテニス・トーナメントへ出かけようとしていたところだった。

チルデン著『チルデンのベターテニス』は中学生時代からの愛読書で、チルデンはジョン・マッケンローと並んで、もっとも崇敬するテニス・プレイヤーである。
チルデンの人生を振り返ると、人間とは業を背負って生きていく存在である、との感を新たにする。業を背負わず苦闘せずに、器用に難を避けて可も不可もない人生を通ったとして、その人生に意味があるのかどうか。
(2017年2月10日)


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『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


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2月9日・ラモス瑠偉の懐

2017-02-09 | スポーツ
2月9日は、作家の伊集院静(いじゅういんしずか)が生まれた日(1950年)だが、サッカー選手のラモス瑠偉(るい)の誕生日でもある。

ラモス瑠偉は、1957年にブラジルのメンデスで生まれた。父親は公認会計士で、ラモスが12歳のとき鬼籍に入った。家族のためにも、サッカー選手としてお金を稼ぎたいと考えたラモスは、18歳のときプロに選手になった。
19歳のとき、スカウトされ、日本の読売サッカークラブへ入団。以後、日本サッカーリーグ、1993年にJリーグが開幕してからは、ヴェルディ川崎、そして日本代表の柱として活躍。日本代表では、エースの背番号「10」を背負った。
同年10月、カタールのドーハでおこなわれた、ワールドカップ・アジア地区最終予選の、対イラク戦において、後半ロスタイムで同点に追いつかれ、この最後の最後の1点によって、ワールドカップ・アメリカ大会への出場権を失うという、いわゆる「ドーハの悲劇」を経験。以後、Jリーグ、フットサルで選手、またコーチ、監督として活躍している。

ラモス瑠偉は、ほかのサッカー選手とちがう、という発見をしたことが、2度ある。

1度目は、彼の技術的な高さについてで、省略するとして、2度目。
いつのころだったか、朝日新聞が、サッカー元日本代表選手のインタビュー記事を、日替わりで連載したことがあった。
趣旨は、「ドーハの悲劇」をふり返って、というもので、1993年、ドーハの対イラク戦で、あと一歩というところでワールドカップに進めなかった日本代表チームの当時のメンバーに、毎日一人ずつ、そのときをふり返って、語ってもらう企画だった。井原正巳、三浦知良、中山雅史など、当時の日本代表メンバーが、毎日そのコラムに登場した。
コラムでみなそれぞれ、当時の心境や、思いだしたくないとか、いまでも悔しいとか、いろいろ語っていたのだけれど、ラモスだけは、言うことがぜんぜんちがっていた。ラモスの語ったところは、おおよそこういう意味だった。
「イラクの選手はみな高い技術をもっていて、まとまったいいチームだった。イラクの代表チームは、当時の国情もあって、ワールドカップのアジア地区予選では、いった先々で不利な審判を下されることがすくなくなかった。しかし、彼らはそんな不公平な試合のなかでも、文句をいわず、黙々とフェアプレイを続けた。ドーハでの試合の結果は残念だったが、試合が終われば敵も味方もない、友である。あの後、イラクの選手たちがどうなったか、心配である。向こうは戦地。あのときの代表メンバー同士を集めて、また試合をしたいけれど、日本は同じメンバーが集まったとしても、イラク側は亡くなった選手もいるのではないか。とても心配している」
と、そういう旨の内容だった。
ここに、ラモス瑠偉という人間の懐の深さを、あらためて知り、仰ぎ見る思いだった。彼は、高いスポーツマンシップを獲得した、真の国際人である。
(2017年2月9日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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