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1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月15日・白土三平の啓示

2017-02-15 | マンガ
2月15日は、ティファニー宝石店の創始者チャールズ・ティファニーが生まれた日(1812年)だが、マンガ家、白土三平(しらとさんぺい)の誕生日でもある。

白土三平は、1932年、東京で生まれた。本名は岡本登(おかもとのぼる)。父親は特高警察に捕まり拷問を受けたプロレタリア画家の岡本唐貴(おかもとこうき)である。
小さいころ、大阪の在日朝鮮人の住宅地を見て育った登は、太平洋戦争中の12歳のとき、長野の上田に疎開した。軍国主義一色に染まった片田舎の地で、将来は絵描きになると宣言した彼は、学校では兵隊になれと強制してくる軍事教練の軍人や上級生たちに始終殴られ、家では働き手として薪を集め、川で魚をとり、農家を手伝って働き、おがくずを食べられないかと口にするほど貧しい少年時代を送った。
上田で敗戦を迎えた登は、14歳のとき、東京へもどった。
焼け跡を駆けずりまわるその日暮らしのなか、手塚治虫のマンガを読み、刺激を受けた登は、中学を三年生の途中で退学。紙芝居製作を手伝いだし、19歳のころ、自分で紙芝居を描くようになり、実家を出て独立した。
やがて紙芝居が下火になると、貸本屋用のマンガ本を描きだし、26歳のとき、貸本マンガの傑作『甲賀武芸帳』全八巻を完成させた。千ページを超えるこの作品を、彼は1年あまりのあいだにスアシスタントなしで、たったひとりで描き上げたという。
続いて貸本マンガ『忍者武芸帳 影丸伝』を発表して評判を得た白土三平は、28歳のころから、当時黎明期にあったマンガ雑誌に向けて描きだし「風の石丸」「シートン動物記」「サスケ」の連載をはじめた。
「サスケ」はテレビアニメ化され、白土は一躍売れっ子マンガ家となった。しかし、彼の作品は人や動物が殺される場面が多く、残虐だと批判され、雑誌社側の自主規制によりしばしば変更、また連載中止となった。自由に描きたいものを描きたいとの欲望を募らせた白土は、『甲賀武芸帳』以来のつきあいで当時事業に失敗し困窮していた長井勝一を擁して出版社・青林堂を設立。マンガ月刊誌「ガロ」を創刊させた。白土は「サスケ」を連載している雑誌社に話を通して「サスケ」の単行本を青林堂から出版させ、その売上を「ガロ」の運営費にあてるという奇跡的な交渉を成功させ、「ガロ」に大長編マンガ「カムイ伝」を連載しだした。32歳のときだった。白土はプロダクション「赤目プロ」を立ち上げ、毎月百ページの量産体制を固めて「カムイ伝」を連載し、並行して「ワタリ」「カムイ外伝」を他誌に描いてスタッフの給料を払った。「カムイ伝」のための雑誌「ガロ」は、池上遼一、蛭子能収、杉浦日向子、滝田ゆう、つげ義春、永島慎二、みうらじゅん、水木しげる他の個性派マンガ家を世に送りだした。
白土は39歳のとき「カムイ伝」の第一部を完成させた。その後17年間の沈黙をへて他誌で発表された第二部は74歳のときに完結。現在、第三部の構想中という。

「カムイ伝」は忍者マンガである。が、それを超え、人間、動物をくるめた自然界全体を描いた全体小説的マンガである。マンガ史上に屹立する金字塔で、読後の感動はことばにしづらい。白土三平はこの作品を通して、生、集団、社会、歴史、権力、日本人などについて、とくに差別が権力者の支配の便宜のために作られた、あざとい、根拠のないシステムにすぎないことを、わかりやすく教えてくれる。蒙を啓いてもらい、感謝に堪えない。
(2017年2月15日)



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