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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月10日・大久保利通の志

2024-08-10 | 歴史と人生
8月10日は、米国の第31代大統領、ハーバート・フーヴァーが生まれた日(1874年)だが、明治維新の英雄、大久保利通(おおくぼとしみち)の誕生日でもある。

大久保利通は、文政13年8月10日(西暦だと1830年9月26日)、現在の鹿児島県鹿児島市で薩摩藩士の息子として生まれた。下級武士の長男で、子どものころに、勉強仲間、遊び仲間の西郷隆盛(さいごうたかもり)らと友情を結び、同志となった。
よく読書をし、討論に秀でていた大久保は、20歳のとき、藩のお家騒動に巻きこまれ、謹慎処分を受けたが、3年後に謹慎を解かれた。その後、大久保は新藩主、島津斉彬に取り立てられ、しだいに藩政の中心に進んでいった。盟友・西郷隆盛が藩主の逆鱗に触れ島流しにあうと、援助の手を差し伸べつづけた。
大久保は、島から生還した西郷と手を携え、強大な軍事力をもつ大藩・薩摩藩を動かし、もうひとつの有力藩・長州藩と手を結び、徳川幕府打倒、王政復古へ向かって邁進した。
大政奉還、戊辰戦争をへて、西郷とともに明治新政府の中心である参議となった大久保は、版籍奉還、軍整備に努めた後、41歳のとき、政府首脳陣で構成された岩倉使節団に加わり、米国、欧州やアジアの植民地を2年間近くにわたって視察してまわった。その間、日本政府の留守を守ったのが盟友・西郷だった。
日本の近代化が急務だと痛感し帰国した大久保は、中央集権化、殖産興業政策など富国強兵を推し進めるべく、43歳のとき、明治政府に内務省を設置し、みずから内務卿となって実権を握り、地租改正、徴兵令を断行した。一方の雄、西郷は大久保らと意見が衝突し政界を引退。故郷・鹿児島へ帰り、うさぎ狩りをしのんびり暮らしていた。
大久保が46歳のとき、鹿児島で元士族たちの蜂起が起きた。明治政府のやり方に不満をもつ元武士たちによる反乱「西南の役」で、反乱軍の首領は大久保の盟友・西郷だった。人情家で人望のある西郷は、郷里の不平士族たちに頼られ、担ぎ挙げられたのだった。
中央政府にいる大久保ははじめ、西郷は蜂起には加わらないと信じていたし、反乱軍に西郷がいると知ってなお、みずから出向いて西郷を説得するつもりでいた。しかし、政府首脳に危険だと止められ、二人の会談は実現せずじまいとなった。
反乱は、大久保が指揮する政府軍により鎮圧され、西郷は死んだ。盟友の死の報を聞いた大久保は、慶賀する政府首脳のなか、にこりともしなかった。
明治政府の内政、外交に辣腕をふるい、近代日本のレールを敷いた大久保は、1878年5月、馬車で皇居へ向かう途中、不満士族の一団に襲撃された。「無礼者」と叫んだのを最期のことばに、大久保は頭部を中心に十数カ所斬りつけられ、死亡した。47歳だった。死んだとき大久保は、生前の西郷からもらった手紙を携帯していたという。

威厳凛とし、近寄りがたい風のあった大久保利通は、西郷隆盛と同様、お金には無頓着で、清廉な人だった。政府の予算が足りないと、事業に自分のお金を投じた。彼が亡くなった後には巨額の借金が残っていた。しかし、貸し手たちは大久保の志を理解し、遺族へ借金の催促はいっさいなかったという。大久保が没し、すぐにお金に困った遺族のために、明治政府はあわてて金策をして遺族の生活費を工面した。

明治は遠くなりにけり。かつてこういう人が日本人のなかにいた、とは。
それにしても、ともに激変する時代に生き、力を合わせて新時代を斬り拓いた大久保利通と西郷隆盛。二人の運命を振り返ると、感慨深いものがある。人はなんで生きるか。
(2024年8月10日)



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