1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月13日・西城秀樹の迫力

2024-04-13 | 音楽

4月13日は、『ゴドーを待ちながら』を書いたサミュエル・ベケットが生まれた日(1906年)だが、歌手の西城秀樹の誕生日でもある。

「ヒデキ」こと西城秀樹は1955年、広島で生まれた。本名は木本龍雄。小学生のころから柔道、水泳をするスポーツ少年だった彼は、ジャズスクールに通うドラマー志望でもあった。
高校のとき、ジャズ喫茶で演奏していたところをスカウトされ、親の反対を押し切り、なかば家出する形で上京。東京の定時制高校へ通いながら、芸能プロダクションに所属し、歌や踊りのレッスンを受けた。
17歳になるすこし前にシングル「恋する季節」で、西城秀樹としてデビュー。「ワイルドな17歳」として売り出した。
18歳で「情熱の嵐」がヒット。当時の若手アイドル、郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれた。以後「薔薇の鎖」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「恋の暴走」「君よ抱かれて熱くなれ」「若き獅子たち」「ラストシーン」「ブルースカイブルー」などヒット曲を連発し、派手なステージアクションで歌う情熱的肉体派の歌手として君臨した。また、カレールーのテレビCMに登場し「ヒデキ、感激」のセリフで親しまれた。
48歳のとき、脳梗塞になり、うまくしゃべられなくなった。再起が危ぶまれたが、懸命のリハビリの結果、またステージ活動に復帰した。
60歳になり「ヒデキ、還暦」とジョークを飛ばし、元気なところを見せたが、2018年4月下旬に自宅で倒れ、緊急入院し、月が替わって5月、急性心不全のため、入院先の横浜の病院で没した。63歳だった。

西城秀樹が24歳のときに歌った大ヒット曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、その振り付けとともに、日本全国老若男女、知らぬ者はないというくらいに広く知られた。
洋楽ファンで、米国のヴィレッヂ・ピープルの原曲「YMCA」を知っていたので、ヒデキが日本語版を歌うと聞いたとき、椅子からすべり落ちるほど驚いた。英語版の「YMCA」は、お金がなくても落ち込むなよ、安く泊まれるYMCAへおいでよ、ここに滞在すれば楽しい時を過ごせるよ、というゲイを匂わせる内容の歌詞だったからだ。
でも、ヒデキは原曲のゲイ色を一掃し、高校野球にふさわしい青春応援歌風の日本語訳で歌い、大ヒットさせた。ヒデキの日本語版だと、なぜYMCAなのか脈絡がわからない。
ヒデキは、この原曲をラジオかなにかで聴き、これは絶対にいけるとピンときて、すぐに権利をおさえてもらい、つぎに発売予定が決まっていたレコードをキャンセルして、急きょ「YMCA」を録音、販売した経緯があったらしい。すべて、ヒデキ本人が、24歳の若さと情熱で周囲を動かして作り上げた大ヒットだった。

その昔「イカすバンド天国」という番組があって、若者のバンドコンテストをやっていたのだけれど、その参加者たちに「もっとも影響を受けた日本人アーティストは?」というアンケートをとると、第1位が沢田研二、第2位が西城秀樹だったという。
西城秀樹は、歌謡曲の歌手というより、ロック・ヴォーカリストという感じが強く、歌への情熱を、180センチある長身全体にみなぎらせてぶつかってくるその迫力は、ちょっとほかの歌手にはないものだった。いまだにヒデキを超える肉体派のヴォーカリストは出ていない。やっぱり、なにかことを成すときは、ヒデキみたいな迫力がなくては。
(2024年4月13日)



●おすすめの電子書籍!

『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月11日・森高千里の実力

2024-04-11 | 音楽

4月11日は、評論家、小林秀雄が生まれた日(1902年)だが、シンガーソングライターの森高千里の誕生日でもある。

森高千里は、1969年、大阪の茨木で生まれた。幼いころに九州は熊本へ引っ越し、熊本で育った。音楽に熱中し、ギター弾き、ドラムをたたくなど、バンド活動に打ち込んでいた彼女は、ショッピングモールの食堂でウェイトレスのアルバイトをして、楽器購入費を捻出するという、典型的なバンド・ミュージシャンの青春を送っていた。
17歳のとき、コマーシャルのイメージガールコンテストでグランプリをとったのをきっかけに上京。東京の高校に編入してタレント活動を開始した。
18歳で映画「あいつに恋して」に主演。その後は歌手活動に力を入れだした。
19歳のとき、みずからの体験をもとに作詞した「ザ・ストレス」を発表。素朴で斬新な歌詞とダルな曲調、ミニスカートのウェイトレス姿でお盆をもって踊る「モリタカ」は一躍コスプレ系アイドルとして人気が沸騰した。
「ミーハー」「非実力派宣言」「臭いものにはフタをしろ!!」「雨」「勉強の歌」「この街」「ファイト!!」「私がオバさんになっても」「ハエ男」など、実感をそのまま歌にする生活詩人のシンガーソングライターとして活躍。はじめは美貌とスタイルのよさ、とくに脚線美を協調したコスプレで男性ファンが多かったが、その素朴な生活感のにじむ歌詞への共感から、しだいに女性へもファン層が広がった。
30歳のとき結婚、出産を機に芸能活動を休業。40歳ごろからドラマーとして、また歌手として、公の場に姿を見せるようになってきた。

「モリタカ」は、女性アイドルが苗字で呼ばれるようになったハシリである。
そして、「モリタカ」といえば、ミニスカートであり、脚だった。
1990年ごろ、女性月刊誌の、
「脚と聞いて、あなたが思い浮かべる有名人は?」
というアンケートでも、森高千里は断トツの一位だった。

いまでも「ザ・ストレス」の振り付けが踊れる。
この曲も衝撃的だったが、「臭いものにはフタをしろ!!」「ザ・バスターズ・ブルース」「うちにかぎってそんなことはないはず」といった歌にも驚かされた。「バスターズ・ブルース」など、OLが自室に現れたゴキブリと延々と対決する歌詞で、それをモリタカがセクシーなコスプレで歌うのである。

モリタカは「非実力派宣言」のなかで、こう歌った。
「始めから私はこんなもんよ。期待をしてたのね、ごめん」
「実力は人まかせなの。実力ないわ」
彼女はいまも、細野晴臣などベテラン・ミュージシャンたちとコラボレーションし、ボーカル以外にもドラマーとしてレコーディングセッションに加わる実力派ミュージシャンである。森高は、その美貌とスタイルのために、あえて実力をないものとして、それを看板に掲げるという、とても屈折した売り出し方をしたアーティストで、ほかにちょっといない、ユニークな存在である。
(2024年4月11日)



●おすすめの電子書籍!

『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月8日・タルティーニの夢

2024-04-08 | 音楽

4月8日は、お釈迦さま、ブッダが生まれた日(紀元前463年)で、お寺の花祭り(浴仏会)の日だが、作曲家、タルティーニ(1692年)の誕生日でもある。

ジュゼッペ・タルティーニは、1692年、ヴェネツィア共和国(現在はスロベニア領)のピランで生まれた。彼ははじめ僧侶になる勉強をしていたが、後にヴァイオリン演奏家の道に進んだ。剣の名人でもあったという。
20代前半のころ、タルティーニは、フィレンツェ生まれのヴァイオリンの名手、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏をはじめて聴き、そのみごとさに圧倒され、また、自分の技量のなさを恥じた。彼はそれからしばらくのあいだ、公衆の面前から姿を消し、閉じこもって練習に励んだ。そして、以前より太い弦を、長い弓で弾く、みごとな技術を身につけて再登場した。ヴァイオリンの名手となったタルティーニは、29歳のころ、パドヴァのイル・サント礼拝堂付きの指揮者となり、以後、長らくその職にいて作曲をし、音楽理論についての論文を書いた。
34歳からヴァイオリン学校を開校すると、ヨーロッパじゅうから生徒が詰めかけた。
多くのヴァイオリン協奏曲やヴァイオリンソナタを書いた後、1770年2月、パドヴァで没した。77歳だった。

タルティーニが友人に書いた手紙によると、50代のころ、タルティーニが夜、ベッドで寝ているとき、こんな夢を見た。
彼は悪魔と契約し、悪魔は彼の召使となり、彼のどんな願いをもかなえてくれるのだった。夢のなか、彼は悪魔にヴァイオリンを手渡してみた。悪魔がどんな美しい音を出すのか興味があった。ヴァイオリンを受けとった悪魔は、それを弾きだした。巧みな技量、知性のあふれた魅力的な演奏に、タルティーニは圧倒された。
タルティーニは息をぜいぜいさせながら目覚めた。
すぐにヴァイオリンを手にとり、いま夢のなかで聴いたフレーズの小片なりとも再現できないかと弾いてみたが、だめだった。
せめて、あの演奏に近いものを、と作曲したのが、ヴァイオリン・ソナタ ト短調で、終楽章は「悪魔のトリル」と呼ばれる。
タルティーニは手紙のなかで書いている。
「でも、それはあの、自分を圧倒した曲には遠く及ばない。あれが自分のものにできるのなら、わたしのヴァイオリンをたたき壊して、わたしが二度と音楽ができなくなってもかまわないとさえ思うのに」

アンドルー・マンゼが弾く「悪魔のトリル」を聴くと、いかにも弾くのがむずかしそうな曲だとすぐにわかる。さまざまな高度なヴァイオリン・テクニックがないと弾きこなせない難曲である。

ビートルズのポール・マッカートニーが、夢のなかで着想を得て「イエスタデイ」を書いたのは有名な話だけれど、すてきな悪魔が出てくる夢を、一度でいいから見てみたい。
(2024年4月8日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月7日・ビリー・ホリディの歌

2024-04-07 | 音楽

4月7日は、社会思想家シャルル・フーリエが生まれた日(1772年)だが、ジャズ・シンガー、ビリー・ホリディの誕生日でもある。

ビリー・ホリディこと、エリノラ・フェイガン・ゴフは1915年、米国ペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアで育った。父親はナイトクラブのジャズ・ギタリストで、エリノラが生まれても籍を入れず、実子の認知すらしなかった。そこで母親はエリノラを祖母など親戚に預け、売春をして生活費を稼いだ。
10歳のころ、エリノラが家にひとりでいると、隣人が侵入し、彼女は強姦された。
13歳のとき、エリノラは母親に連れられてニューヨークへ出た。母親は売春婦をして母子家庭の生活を支えたが、ニューヨーク市警には14歳のエリノラが売春容疑の母親とともに留置された記録が残っているという。
ハーレムのすさんだ生活のなか、十代でナイトクラブに出入りするようになったエリノラは、大恐慌時代だった15歳のとき、歌手の仕事につき、男の子のニックネームである「ビリー」に、血縁上の父親の姓である「ホリディ」を付けて芸名とした。
強烈な個性をもった歌声で、ビリー・ホリディはたちまち頭角をあらわし、以後、ステージやレコード・スタジオでデューク・エリントン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、マイルス・デイビスなどと共演した。
「月光のいたずら」「奇妙な果実」「暗い日曜日」「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」などのヒット曲がある。
圧倒的な実力を認められ、カーネギー・ホールで喝采を浴びながらも、黒人差別のために白人バンドとツアーができなかったり、麻薬やアルコールへの依存症に苦しんだり、麻薬所持で投獄されたためにナイトクラブでの仕事の免許を取り上げられたりと、多くの苦難をなめた。
大麻からヘロイン、LSDまで手を出し、アルコール依存症でヘビー・スモーカーだった彼女は肝硬変、腎不全などを併発し、1959年7月、ニューヨークのハーレムで没した。44歳だった。

出会う男がみな暴君で、殴られ、おどされ、しぼりとられ、麻薬漬け、借金漬けにされて、身も心もぼろぼろだった。それでも歌えば燦然と輝いた。そういう生涯だった。
彼女の生涯を描く映画「ビリー・ホリディ物語」はダイアナ・ロスが主演した。

世の中には「この歌はこの人に」という絶対的な組み合わせがときどきあって、それはたとえばエディット・ピアフの「愛の讃歌」だったり、郷ひろみの「男の子女の子」だったりするのだろうけれど、ビリー・ホリディの「奇妙な果実」もその一曲である。
「米国南部の木には奇妙な果実がなる(Southern trees bear strange fruit)」
とはじまる、この歌をはじめて聴いたときの衝撃は忘れられない。
米国史専攻で、担当教官は米国黒人史が専門だったので、感じるところが深かった。南部の木の枝からさがる「奇妙な果実」は、リンチを受け、首をロープで吊るされた黒人の死体である。
(2024年4月7日)



●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月5日・カラヤンの教え

2024-04-05 | 音楽
4月5日は、シンガーソングライター、吉田拓郎が生まれた日(1946年)だが、音楽指揮者のカラヤンの誕生日でもある。


ヘルベルト・フォン・カラヤンは1908年、オーストリア・ハンガリー帝国(現在のオーストリア)の、モーツァルト生誕の地として知られるザルツブルクで生まれた。父方の先祖はギリシア出身で、ザクセンにやってきた先祖は服飾産業の功績により18世紀末に貴族に列せられた。それでカラヤンの姓には「フォン」という貴族を表す接頭語が付くようになった。ヘルベルトの母方はスロヴェニア系だった。小さいころからみごとなピアノ演奏で神童と呼ばれたヘルベルトは、8歳からザルツブルクのモーツァルテウム音楽院で学び、教師から指揮に集中するよう助言を受けた後、18歳で同音楽院を卒業した。
20歳で指揮者としてデビューし、ウルム市立劇場の指揮者に就任。
25歳のとき、ザルツブルク音楽祭で指揮をし、30歳でベルリン国立歌劇場管弦楽団とベルリン国立管弦楽団の指揮者となり、その直後に「国家指揮者」に昇格。
以後、ベルリン、ウィーン、パリ、ザルツブルクを中心に、常任指揮者、音楽監督、芸術監督などを務め、ジェット機で飛びまわって世界各国のオーケストラや音楽祭で指揮棒を振り、ヨーロッパのみならず、世界音楽界の帝王として君臨した。
ベルリン・フィルでは終身指揮者だったが、1989年4月にこれを辞任し、同年7月、心臓発作のため、ザルツブルク郊外の自宅で没した。友人だったソニー社長・大賀典雄が来訪中に倒れ、カラヤンは大賀の腕に抱かれて心肺停止し、そのまま還らぬ人となった。81歳だった。


カラヤンは楽譜をすべて暗記していて、目を閉じ哲学的思索にふけるように指揮をした。その瞑想するような横顔が哲学的だった。


カラヤンは、ベルリン・フィルで重厚な厚みのある音と、緻密な音楽構成を作り上げたが、一方で、現代的なスピード感あふれる指揮者でもあった。同じ交響曲でも、彼が振ると、たとえばバーンスタインが振るのよりもずいぶん早く演奏し終えた。
カラヤンはスキーでは直滑降の名人で、ポルシェやフェラーリを乗りまわし、ジェット機やヘリコプターを自ら操縦するスピード狂だった。


日本人指揮者の小澤征爾は、カラヤンがほんとうにかわいがった愛弟子のひとりで、小澤が世界的な指揮者となった後でも、彼の演奏を聴きにきたときはかならず後で楽屋を訪ねて、あそこはこうしたほうがいいと細かくアドバイスしていったらしい。
カラヤンは、自分のお気に入りの女性クラリネット奏者をオーケストラに加入させようとして、ベルリン・フィルのメンバーたちともめたこともあった。自分の気に入った者には、人目をはばからず愛情を注ぐ人だった。


カラヤンは小澤征爾にこう諭した。
「(カラヤンは)演奏を盛り上がらせるばあいには、演奏者の立場よりもむしろ、耳で聞いているお客さんの心理状態になれと言った。方法としては少しずつ理性的に盛り上げて行き、最後の土壇場へ行ったら全精神と肉体をぶつけろ、そうすればお客も、オーケストラの人たちも、自分自身も満足すると言った。」(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』新潮文庫)
(2024年4月5日)





●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月30日・エリック・クラプトンの美神

2024-03-30 | 音楽

3月30日は、炎の画家ゴッホが生まれた日(1853年)だが、ロック・ギタリストのエリック・クラプトンの誕生日でもある。

エリック・パトリック・クラプトンは、1945年、英国イングランドのリプリーで生まれた。母親は未婚の16歳で彼を産んだ。父親は25歳のカナダの軍人で、エリックが誕生する前にカナダへ帰ってしまっていた。ティーンエイジャーの母親は、息子を母親(エリックの祖母)に預け、べつのカナダ軍人と結婚してドイツへ行ってしまった。残されたエリックは、祖母と祖母の再婚相手である義理の祖父に育てられた。
13歳の誕生日にアコースティックギターを買ってもらったエリックは、それを15歳のころから猛烈に練習しだし、とくにブルース・ギターに熱中した。
クラプトンは16歳でアート・カレッジに入学。しかし、学業はそっちのけで、音楽に入れ込んだ。17歳であちこちの路上で演奏するようになり、「ルースターズ」というリズム・アンド・ブルースのバンドに入った。
18歳のとき、ロック・バンド「ヤードバーズ」に加入。「フォー・ユア・ラブ」をヒットさせ、クラプトンはその卓越したギター演奏により「スロー・ハンド」「ギターの神様」と呼ばれるようになった。
20歳のとき、バンドのメンバーと意見が対立し、ヤードバーズを脱退。
その後「クリーム」「ブラインド・フェイス」などのバンドをへて、25歳のとき「デレク・アンド・ザ・ドミノス」を結成。「レイラ」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などの大ヒットを放った。クラプトンはザ・ビートルズのほか、さまざまなミュージシャンたちとセッションをし、ソロとしても多くのヒット・シングルやアルバムを発表している。

ビートルズの名曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の印象的なリードギターを弾いているのは、エリック・クラプトンである。
ビートルズのジョージ・ハリスンは当時パティ・ボイドと結婚していて、「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの名曲を書いた。
一方、クラブトンは、親友ジョージの妻パティに思いを寄せ、パティへの思いをこめて名曲「レイラ」を書いた。思う相手のパティは、ロン・ウッド(当時フェイセズ所属)との浮気が発覚し、ジョージと別居した。すると今度は夫ジョージとモーリン(リンゴ・スターの妻)との不倫が発覚し、パティとジョージはついに離婚。エリック・クラプトンは34歳のとき、独身となったパティと晴れて結婚した。しかし結婚後、クラプトンは妻に暴力をふるい、外ではあちこちで愛人や子どもを作り、結局、クラプトンが43歳のとき二人は離婚した。
名曲の豊かな水源。パティこそ「ミューズ(芸術の女神)」だった。

「ギターの神様」クラプトンは、風貌もその演奏ぶりも真摯だけれど、彼の私生活は痴情事件のオンパレードである。46歳のとき、彼がイタリア人モデルとのあいだにもうけた4歳の息子が、ニューヨーク・マンハッタンの53階の窓から転落死した。クラプトンは息子の死を悼み「ティアーズ・イン・ヘヴン」という名曲を書いた。パティとの離婚の直接の引き金になったのは、この事故死した不倫の息子の誕生だった。
クラプトンのギター演奏は、何度聴いてもうっとりする艶がある。それは父親の顔も知らずに生まれ育ったギタリストの「オイディプス王」の奏でる宿命の響きである。
(2024年3月30日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月14日・クインシー・ジョーンズの気づき

2024-03-14 | 音楽
「ホワイトデイ」の3月14日は、円周率のゴロ合わせから「数学の日」。この日は、物理学者アルベルト・アインシュタインが生まれた日(1879年)だが、音楽プロデューサーのクインシー・ジョーンズの誕生日でもある。

クインシー・ディライト・ジョーンズ二世は、1933年、米国イリノイ州のシカゴで生まれた。父親は大工でセミプロの野球選手で、クインシーの祖母は解放奴隷だった。
子どものころから、母親の歌う宗教歌や、となりの娘が弾くジャズピアノといった音楽に囲まれて育ったクインシーは、家族で引っ越した先のワシントン州シアトルの高校に通っていたころからトランペットと編曲を勉強しだした。
14歳のころからバンドで演奏しだし、そのころ、3歳年上の盲目のピアニスメト、レイ・チャールズがクラブで演奏するのを聴き、刺激を受けた。
18歳のとき、マサチューセッツ州ボストンの音楽大学の奨学生の資格を得て入学したが、ライオネル・ハンプトンのジャズバンドから仕事のオファーを受けると、学業を放りだして、トランペッターとしてバンドといっしょに巡業旅行に出た。
クインシーはバンドマンとして米国内や欧州をツアーでまわったが、生活にはつねに困窮していた。彼はミュージシャンから、レコード会社の音楽ディレクターとなり「涙のバースデイ・パーティー」をはじめとするレスリー・ゴーアの4枚のミリオンセラーをプロデュースし、31歳のとき、マーキュリー・レコードの副社長に昇進した。当時、音楽業界ではアフリカ系アメリカ人がそんな高い地位に昇った例はまだなかった。
エグゼクティブとなったクインシーは映画音楽の制作に乗りだし、「質屋」「夜の大捜査線」「冷血」「マッケンナの黄金」「ゲッタウェイ」「カラーパープル」「ウィズ」といった映画音楽を手がけた。
ポップソングのジャンルでは、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラら大物アーティストのプロデュースを手がけ、48歳のときにはアルバム「愛のコリーダ」でみずから世界的ヒットを放った。これは、大島渚監督の同名映画にかけたディスコ・ミュージックである。マイケル・ジャクソンのアルバム「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」をプロデュースし、52歳のとき、米国のスーパースターが一堂に会して歌った「ウィ・アー・ザ・ワールド」をプロデュースしたクインシー・ジョーンズは、米国音楽界に君臨する大御所である。

シドニー・ポワチエ主演の映画「夜の大捜査線」のエンディングは、レイ・チャールズが歌う「夜の熱気の中で(In the Heat of the Night)」が流れ、列車が高速で走り去っていく印象的なシーンだったが、あの映画の音楽監督がクインシー・ジョーンズである。
人種差別の激しかった米国で、黒人の地位向上に功績のあった黒人の功労者は、ジャッキー・ロビンソン、モハメッド・アリ、マイケル・ジャクソンなど、たくさんいるけれど、クインシー・ジョーンズもそのひとりである。彼は言っている。
「われわれは最高のジャズバンドだった。それでもなお、文字通り飢えていた。それで、気づいたのだ。世の中には音楽と、音楽ビジネスがあるのだと。生き残るためには、その二つのちがいについて学ばなくてはならないだろう。」
彼はちがいを学び、両方の分野でみごとな達成をおさめた。
(2024年3月14日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月13日・クロイツァーの種

2024-03-13 | 音楽
3月13日は、彫刻家・詩人の高村光太郎が生まれた日(1883年)だが、日本に亡命し、活躍した指揮者・ピアニスト、レオニード・クロイツァーの誕生日でもある。

レオニード・クロイツァーは1884年、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。両親はユダヤ系ドイツ人だった。音楽家を志した彼は、サンクトペテルブルク音楽院でピアノ、作曲を学んだが、22歳のころ、第一次ロシア革命が起きたロシアの騒乱を嫌って、ドイツのライプツィヒに引っ越し、指揮を学んだ。
24歳のころ、ベルリンへ移り、ピアニスト、指揮者として活躍。数年後にはロシアへ戻り、ラフマニノフのピアノ、クロイツァーの指揮で、ラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲を演奏するという豪華な凱旋コンサートを開いた。
ドイツへ戻った彼は、37歳のころには、ベルリン音楽大学のピアノ科の教授に就任し、ピアノ演奏のレコードを出した。自作の交響的パントマイム「神と舞姫」を初演し、42歳のころ、米国を演奏旅行し、と活躍を続けた。43歳のころ、クロイツァーはドイツ国籍を取得した。が、第一次大戦で敗北したドイツでは、失業者があふれ、超インフレ社会となり、ナチス勢力を伸ばし、ユダヤ人が迫害されるようになってきた。ナチスはクロイツァーを標的にした。1933年、ヒトラーが首相となり、ユダヤ人を公職から追放する法案が成立し、クロイツァーは大学教授の地位を追われた。その翌年、50歳のクロイツァーは二度目の来日を果たした。日本の指揮者・近衛秀麿に引き止められ、そのまま日本にとどまった。その後、彼のドイツ国籍はナチス政権下ではく奪された。
日本でクロイツァーは、東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授となり、後進の育成のかたわら、ピアニスト、指揮者として活躍した。
68歳になる少し前に、教え子の日本人女性ピアニストと結婚したが、その翌年の1953年10月、東京でリサイタル中に心筋梗塞で倒れ、2日後に没した。69歳だった。

クロイツァーの名を知ったのは、小澤征爾や加山雄三の文章によってだった。
「指揮者になりたいと思うようになったのは、日比谷公会堂で、レオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』を、自分でピアノを弾きながらオーケストラを指揮したのを見てからであった。」(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』新潮文庫)

「うちの3軒隣の家の前を通ると、ピアノの音が聞こえてくるから、学校帰りにいつも塀に張り付いて聴いていたんだよな。
 ある日、そこでピアノが流れるのを待っていたら、外国人が来て『何をしてるんだ?』『ピアノが聞こえるのを待ってるんだ』と答えたら、『ついてきなさい』。家の中に入って、少し待つように言われた。『バーン!』ってすごいピアノが流れてきた。その人が弾くショパンの『英雄ポロネーズ』だった。ものすごい感動したんだ。(中略)こっちは有名な人だなんて知らなかった。おやじがその話を聞いて怒ってね。『そんな人に『教えてほしい』なんて失礼だ!』ってね。でも、結局、そのクロイツァーさんの家の人が、(ピアノを)教えてくれる人を紹介してくれたんだ。」(加山雄三「人生の贈りもの」朝日新聞・2023年7月13日)

時代の嵐に翻弄されながらもクロイツァーは世界的に活躍し、多くの音楽家に影響を与えた。人を感動させ、行動を起こさせる奇跡的な芸術家。彼がまいた種はみごとに育ち、立派な花を咲かせた。
(2024年3月13日)


●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月10日・松田聖子試論

2024-03-10 | 音楽
3月10日は1945年、米軍B29爆撃機344機が飛来した東京大空襲の日だが、歌手、松田聖子の誕生日でもある。

松田聖子は、1962年、福岡の久留米で生まれた。本名は、蒲池法子(かまちのりこ)。蒲池家は柳川城城主の家系で、父親は厚生省の役人だった。由紀さおりの歌声にあこがれる歌好きの少女だった彼女は、ミッション系の高校に進んだ。高校1年、15歳のとき、歌手コンテストに出場。九州大会で優勝し、主催者のレコード会社にスカウトされ、歌手デビューを勧められた。しかし両親が反対し、彼女は高校生を続けた。その後も、東京のレコード会社側はときどき九州の久留米まで出向いて親を口説きつづけたという。
そして高校3年生のとき、彼女はついに芸能プロダクションと契約。上京し、東京都内の高校へ転校した。歌や踊りのレッスンを受けた後、18歳の4月に松田聖子として「裸足の季節」で歌手デビュー。同曲はテレビCMで流れ、続く「青い珊瑚礁」が大ヒット。レイヤードの髪型「聖子ちゃんカット」は若い女性のあいだで大流行した。以後彼女は「夏の扉」「赤いスイートピー」「秘密の花園」「Rock'n Rouge」「天使のウィンク」などヒット曲を量産し、アイドル歌手の頂点に君臨した。

1982年に発売が開始されたCD(コンパクトディスク)の、記念すべき世界初のCD60枚のうちの1枚が松田聖子の名盤「Pineapple」だった。ほかのアイドル歌手の楽曲とちがい、彼女の場合はシングルのB面や、アルバム中の収録曲も広く聴かれた。

松田聖子がデビューしたころ、洋楽ばかりを聴くロック少年で、新しい音楽に飢えていた。当時もデヴィッド・ボウイの新曲はつねに新しかったが、それ以外には海外のロック・シーンに目新しいサウンドがなかなか見つからなかった。そんなときに発見したのが日本の松田聖子だった。彼女の楽曲は、プロの作詞家や作曲家、プロデューサー、ミュージシャンたちが集まって作り上げた音楽産業の一商品である。ボブ・ディラン、ジョン・レノンやボウイの新譜を聴くのとは意味がちがうけれど、松田聖子の音は新しかった。

松田聖子はポップスを歌うために生まれてきた人である。曲の解釈能力と歌唱表現のイメージ喚起力が抜群で、彼女が歌うと、歌を通して「松田聖子」が聴く者の頭のなかへ押し入り、曲の風景をそこへ勝手に作り上げてしまう。作詞家の松本隆が自作「渚のバルコニー」を歌った彼女の「ばかね」というフレーズの圧倒的な説得力に脱帽したというのは有名な話である。
当時の日本のスタジオ・ミュージシャンのセンスや技術レベルは世界最高水準にあった。そこへ、歌うために生まれた稀代のポップスシンガーが加わり、最後のワンピースがはまった。それで世界の最先端、最高品質の音楽が出現した。

松田聖子のデビューアルバム「SQUALL」を聴いたときの衝撃は忘れられない。若い躍動感がスピーカーから押し寄せてくるようだった。そして「チェリーブラッサム」。ぐいぐい引っ張っていく伸びのあるボーカル。それと掛け合うギターサウンドのうねり。日本の歌謡曲が英米のロックを完全消化した瞬間だった。しかもタイトルは日本の象徴「桜の花」。日本のポップスが世界の頂点に達した瞬間の記念碑。それが松田聖子である。
(2024年3月10日)



●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月2日・ルー・リードの魅力

2024-03-02 | 音楽
3月2日は、米国の作家ジョン・アーヴィングが生まれた日(1942年)だが、ロックミュージシャン、ルー・リードの誕生日でもある。二人は同年同月同日生まれである。

ルー・リードこと、本名ルイス・アレン・リードは、1942年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。彼の家族はユダヤ系で、ルイスは同じニューヨーク州内のロングアイランドに越してそこで育った。
「自分の神さまはロックンロールであり、自分の信仰はギターを弾くことにある」
と言う彼は、高校時代からバンドを組んでいた。
彼は同じニューヨーク州のシラキュース大学に入学し、ジャーナリズム、映画撮影、作曲、詩作を学んだ。
22歳のとき、ニューヨーク市へ引っ越したリードは、作曲家として活動し、ミュージシャン仲間とロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」を結成。リードはギターとヴォーカルを担当し、ポップアーティストのアンディ・ウォーホルが手がけたバナナのジャケットのアルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」でデビュー。リード25歳のときで、このアルバムは世界のロックシーンに強い衝撃を与えた歴史的作品となった。
28歳のとき、バンドを離れ、ソロとなった。
その後、デヴィッド・ボウイのプロデュースによるアルバム「トランスフォーマー」のほか、「ベルリン」「コニー・アイランド・ベイビー」などの名作を発表。ヒット曲がなく一般大衆への知名度はいまいちながら、ロック・ミュージシャンの多くが影響を受け、尊敬する、玄人好みのロックミュージシャンとして君臨しつづけた。
2013年10月、肝臓疾患のため、ニューヨーク州サウサンプトンの自宅で没した。71歳だった。

ルー・リードの音楽は、かれこれ30年以上聴いているけれど、どうして彼が好きなのかは、いまだによくわからない。
学生時代、ルー・リードのファンだった友人が「コニー・アイランド・ベイビー」のレコードをかけながら、こう言った。
「ずっとこんな感じ。盛り上がらない。最初から最後まで淡々としているんだ」
まったくその通り、どうしてこんな地味なのだろうと不思議なくらい抑えた感じで、クイーンやレッド・ツェッペリンの派手さとは対極にある。
そういうところがいいのかもしれない。

キャリアは長かったが、いつがピークだったという時期もなく、キャリア的にも盛り上がりを持たないアーティストだった。でも、それがルー・リードらしさでもある。
「ベルリン」や「コニー・アイランド・ベイビー」をときどき、わけもなく聴きたくてしかたがなくなる。言葉にならない魅力をもつ、特殊なミュージシャンである。
(2024年3月2日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする