時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

またそれかっ:八日目の蝉 (4)

2012年07月13日 | 
音声学ではここのところずっと第二言語習得にかかわらせた研究が非常に盛んですが、インディアナ大でも教員・学生ともに研究テーマにしている人が多かったので、授業でも第二言語の音声習得に関する話を聞くことが頻繁にありました。

そういうときの話しのマクラとして、「ある領域の音声について、1つの音韻カテゴリーしか持たない言語の話者は、その領域を2つの音韻カテゴリーに分ける言語の音韻対立に対して鈍感で、訓練してもなかなか知覚精度が上がらない」という知見が指摘されることが多く、そのばあいほぼ必ず、たぶん100%近く、日本語話者の、英語のrとlの区別が例に挙がります。論文でも、発表でも、講義でも。

6年もいると、もう何度聞いたか分かりません。後半はイライラしておりました。そりゃあ有名でしょう、日本語のr/lは。典型例でしょう。でも、他にもあるでしょ。毎回、「お前たちはこれ分からないだろ」と言われる身にもなれよ。自分の言語の例を挙げればいいじゃないか。他人を使うな! と。とはいえ、どの人も、たんにスムーズな導入ができれば事足りるわけで、奇をてらってあまり知られていない例を持ち出す理由もない。そしてまた、わが日本語の例を聞かされるわけです。不愉快。

さて、『八日目の蝉』、なかなか面白かった。永作博美さんは今回もまた素晴らしい(見たかった理由の半分は彼女)。映画の薫役の女の子かわいい!(演技もよい) 話しの筋も、文句がある人もいるようですが、私は嫌いじゃない。

ただ、なんでこんなに「母子の絆」のハナシが多い? 作者に文句はありません。作家がそれぞれ自身のテーマを追求するのは当然。そもそも、小説については、必ずしも「母子」がテーマというワケでもないようにも思うし。でも、映画の売り方や、需要のされ方についていえば、やっぱり「母子の絆」になるでしょう。そしてこの話では、またたいていの類似の話でも、出てくる男は、妊娠させて堕胎させる等、無責任・無関心な役割ばっかり。なんだか、男はどうでもいい、苦しむ女を生み出す役割でも与えとけ(実際そんなもんだろ)、と言われてるような気になります。

嫁さんを含め、Bloomingtonで知り合った女性たちが、子供を産むとあっさりと母親になって、がっちり子供を守っているのを見て、すごいなあ、と感心したものでした。「子供を自らのおなかに抱えて過す時期に心の準備ができるから」という説があるそうです。でも、自分の経験からすると、つわりの妻の背中をさすり、子供が蹴り上げる腹をさすりながらだって、心の準備はできる。男だって子供愛してるぞ。子育てがんばり、楽しんでる人はいっぱいいるぞ。それはどうでもいいのか? それじゃ不公平に過ぎないか? と。映画自体は楽しみながらも、頭の片隅でその不満がぬぐえません。ひがみでしょうか。

今読んでいるMother Natureという本で、筆者Sarah Hrdyさんが、「慈愛に満ちた献身的な母」は幻想、ということを丁寧に記述してます。逆にだからこそ、その幻想を強化するようなオハナシの需要が高いのでしょうか。まあそんなことより、このテの大衆文化の消費者が圧倒的に女性だからでしょう。日本語話者のr/lと同じ。目的に合致したお話しが選ばれているだけのこと。男性向けの大衆文化、もっとがんばれ~。

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なお、本当のところ、たとえネガティブな情報であっても、研究者コミュニティーで、常に自分の言語の話題が出されるというのは、悪いことではないでしょう。研究対象としての日本語需要が高いことは、日本語話者である研究者にとって、大きな利益のはずです。