た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

存外論

2020年02月03日 | essay

 生きているときの約半分は思い通りにならない。約半分なんて実にいい加減で、やけに潔い数字である。そこにはそれなりの根拠がある。人は生きていく中で日々選択をする。その選択の多くがYESかNOかの二者択一であり、そしてここが肝心なところだが、そのほとんどが突き詰めてみれば、何の根拠もない判断に基づく。したがってコインをトスして表か裏か当てるのと変わりない確率になるのである。今から映画を観るべきか否か、という判断に、見るべきだ、YES、という回答を出すとしよう。実際にその映画を観て思い通り面白かったか、思いの外詰まらなかったかは、結局コインのトスと変わらないわけである。人生の伴侶を選ぶとしよう。この人にするべきか?YES。NO。仕事を選ぶとしよう。この仕事が自分に合っているだろうか?YES。NO。行くべきか行かざるべきか?YES。NO・・・・・すべからくコインのトスである。

 だから裏を返せば、どんなに思い通りにならない日々でも、残り半分の時間は思い通りに過ごしていることになる。思い通りのものを食べる。思い通りの時間にうたた寝をする。思い通りに──願い通りに、と言った方が相応しいか──相手から微笑み返される。人生は、まずまず思い通りにならないが、まずまず思い通りに幸せである。おいおい、さっきから聞いてりゃ、思い通りになることはみな、比較的ちっぽけなことが多いではないか、と指摘するあなた。思い通りにならないことも案外ちっぽけなことの累積ではないか? どうしてもちっぽけな話が嫌なら、大きなことだって結構。生き死にも然り。人間、いつ死ぬかは思い通りにならない。が、そこまでなんとか生き延びることは、思い通りにできたのではないか?

 先日仲間で泊りがけのスキーに行った。予想通りの雪不足に予想外の同行者のけがが重なり、一泊二日で満足いくほどは滑れなかった。仕方ないから温泉に入った。古風な浴室に濁りのある濃い泉質で、期待以上に気持ちよかった。思い通りに行かない部分もあったが、思い通りに楽しんだ部分もある。さらに言えば、思いの外楽しんだ部分すら存在した。

 人間万事塞翁が馬、という故事が伝えんとするのは、この辺のところか。

※写真は高山村子安温泉入口にて。

 


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