た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

休日雑感

2008年02月10日 | essay
 「明日雪が降りますよ」

 とK君が言っていたら、本当に降った。街は描き始めのキャンバスのように白くなった。K君がすごいのではなくK君の観た天気予報がすごいのだろうが、雪が降ると言って雪に降られると、覚悟が出来ていい。珍しく裏道まで雪かきをした。

 昼過ぎまであれこれと仕事をして、ようやく休日を迎え入れる。青空に雪山が映える。ロングコートを羽織り、マフラーを引っ掛けて街に出る。寒くても歩きたい気分である。

 星新一という作家を、若い一時期によく読んだ。初めは兄に勧められたはずだ。とにかく読みやすくて短い。スナック菓子でも頬張るように次から次へと乱読した。一、二冊読んだ後にようやく、それらがSFというジャンルに入るものであることを知った。どうりでやたら未来の機械が出てくる。どれも夢のような性能を帯びている。穏やかな朝の目覚めから洗顔から朝食の用意までしてくれる万能ベッドや、飲兵衛たちの接客のできる女性型ロボットなど。話が進むにつれ、それらがだんだん幸福をもたらすだけの発明に終わらなくなるのがSF小説のSFたる醍醐味なのだが、雪でぬかるんだ歩道を歩きながら、ふとあの空想世界のことを思い起こした。結局、星新一がペンを振るっていた頃は、科学技術に対する不信感というか不安が、まだ社会にあったのだろう。それは科学の進歩に対する期待感とない交ぜになって存在した。不安のない期待はない。おそらく。今はどうだろう。

 私は歩道を歩くのをあきらめ、車道に出た。どうせ車の滅多に通らない道である。左手は公園で、手付かずの雪が子どもたちに雪だるまにされることなく日差しに融けようとしている。

 インターネットは本当にすごい。携帯電話はもっとすごい。星新一もこういう形での社会の変化は予想していなかったんじゃないだろうか。いやしていたかも知れない。忘れた。それはともかく、と私は信号を待ちながら足踏みをする。

 今の我々は案外、星新一的不安を抱いていない。耳に押し付けたり指で叩いて画面を出している便利な機器が一体どういう仕組みになっているのか、はっきり認識している人はよほど少ないだろうが、必要性だけは強固に信じて今日も使い続けている。

 そういう我々は、もはや、進歩を期待しているというのとも違うのだろうという気がしてきた。当然のように我々はそれらを受容し利用していく。それは権利である。完全とまでいかない性能に不平さえ言うことのできる、消費者としての権利である。どこのショッピングモールに行っても、わくわくどきどきの玉手箱はない。

 星新一の話の一つに、超高層ビルを建設しながら街の風景に思わずうっとりと見とれる大工が出てくる。そんな豊かな感受性の人物は存在しない。未来永劫現れないだろう。

 街をさんざん彷徨した挙句家に辿り着いたら、留守番電話にM君からの伝言が入っていた。変わり者で、今ロシアに留学している。特に用事はなかったらしい。休日の夕方に私が在宅していないことくらい今までの長い付き合いでわかっていたろうに。だがメールじゃなくてなんだか良かった。彼との久しぶりの会話が実現することに、私はまだ期待し続けることができる。
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