我々は「成績」という言葉に弱い。滅法弱いと思う。せいせき。それは「評価」よりも確固たる権威を帯びた響きがあり、「能力」と言うにはずっと数値的であり、「成果」ほどには実のない、何かしら機械的で無表情な紙切れ一枚、という印象を受ける。成績が良ければとり敢えずは安心できる。家に帰っても誰にも叱られずに済みそうだ。もちろん、成績が良いだけでは、取り立てて何を生み出すわけでもない、ということは当人も周囲も重々承知の上なのだが。セイセキ。この言葉は結局、古く色あせた「学校」という追憶に永遠にまとわりついた亡霊なのである。ほとんどすべての人が、学校という教育機関に対し、潜在的に抱きつづけている恐れの源なのである。
道行くときに見知らぬ人に不意に呼び止められ、「あなたの成績は?」と訊かれることを想定してみられたい。誰しもぞっとするはずである。*十年生きてきた。私の成績は?
くだらない問いかけである。それがくだらないとはっきり判断できる人は、幸いである。
道行くときに見知らぬ人に不意に呼び止められ、「あなたの成績は?」と訊かれることを想定してみられたい。誰しもぞっとするはずである。*十年生きてきた。私の成績は?
くだらない問いかけである。それがくだらないとはっきり判断できる人は、幸いである。
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