私事である。
一緒に酒を呑みに行く人から、君は呑んでも決して乱れないねと、しばしば言われる。感心と言うより皮肉であろう。付き合いが悪いんじゃないか?
振り返ってみると確かに、ここ何年も泥酔した記憶が無い。グラスを傾ける一方で、冷静な部分を頭の隅に保とうとしている自分がいる。つまらない話である。呑まない方がましである。なぜこんな呑み方をするようになったのであろう。大学生のころは、路上に寝るくらい酒を浴びたこともあった。トイレから動けなくなることもあった。そこまで本腰を入れないときでも、少なくとも今より酔っ払っていた。今は、思い切り酔うつもりでいても酔えない。私が酒に強くなったのか。違う。私は臆病になったのだ。臆病? そうだ、私は記憶を失くすことが怖いのだ。なぜ? なぜそんなに記憶の空白を怖がるのか────原因を考えていたら、一つの古い思い出に突き当たった。
大学生のころ、私は記憶を失くしていた。
いや、正確には、記憶力を失くしたというべきであろう。当時私は大阪にいた。選択した講座の関係で、数十キロ離れた二つのキャンパスを行き来していた。車で混み合う真直ぐに長い国道を走破するには、中古で購入したツーリング用自転車が実に適していた。自転車を漕ぐ私の姿を、友人が遠目に見て、脚の動きが見えないくらい速かった、とあとでからかった。実際、そのくらい全速力で漕がなければ授業に間に合わなかったのだ。
ヘルメットなど、もちろん被っていなかった。
晴れた、少し蒸し暑い日であった。国道全体が排気ガスに霞んでいた。
道のりを八割方走りきった地点である。脇道から飛び出してきた原付に跳ねられた。地面でしたたか頭を打ったらしい。面白いことに、私はそれでもすぐに飛び起きた。
原付に乗っていた少年や、集まってきた通行人たちが困惑した顔で私を見つめた。
「今何があったんですか」
私は彼らに尋ねた。
「あんた原付に跳ねられたんや」
「はあ。なるほど」
私は目をしばたたかせながら倒れている原付と自転車を眺めた。「今何があったんですか」
「だから、跳ねられたんやろ」
「そうですか。────今、何があったんですか」
何があったかどころではない。私は記憶が残らなくなっていたのだ。
異変に気づいた人が、私の手帳から私の友人の電話番号を見つけ出し、呼び出してくれた。私は友人に介抱されながら自分の下宿に戻った。そのはずである。事故後しばらくの記憶は、今もって再生していない。
それでも、断片的ながら強烈な印象を残した場面が幾つかある。事故直後のやりとり。それから、私はおそらく警察署に連れて行かされた。時間帯はわからない。警官に机上で質問を受けた記憶がある。何を聞かれてもすぐに聞かれたこと自体忘れる私に、警官は相当手を焼いたに違いない。
「だからお前さんも不注意だったんやろ」
なぜだかそんな風に話が進んだ。担当の警官は早く仕事を片付けたがっていた。
「お前さんも不注意やったんや。加害者の高校生はな、母子家庭なんや。ちょっと賠償は難しいで。だからまあ、人身事故やなかったということでええか」
ずいぶん理不尽な話に思えたが、こちらに非があると言われれば、非がある気もする。何が理不尽だったかすらすぐ忘れる始末なので、私は警官の言葉にただただうなずくしかなかった。私は一刻も早くそこを立ち去りたかった。
下宿に戻れば、私に付き添ってくれた友人を悩ました。
「すまんな、看病してくれて」
「だからもうええて。じっと休んどき」
「うん。腹減ったろ。ピザでも取ろうか」
「いらんて。腹減ってないから」
「そうか。なあ、ピザでも取ろうか」
「だからいらんって。何べん言うたらわかるねん」
彼に根気強く説明されて、私はようやく自分の陥った事態を把握した。不思議なことだが、古い記憶はちゃんとあった。彼が私の友人であることもしっかり理解している。事故以降の新しい記憶だけが残らないのだ。しかし例えば、ピザをおごりたいとか、今何があったか知りたいとか、そういう気持ちの部分は連続するのだ。
私は呆然となった。
私の言動にさすがに心配になり、友人は私を救急病院に連れて行った。そこで何万もするCTスキャンをとらされたが、脳に外傷は発見されなかった。医師の説明によると、衝突のような急激な脳の揺さぶりで、一時的に記憶が残らなくなることがあるらしい。まあ、時間が経てば、元に戻るでしょう。ご安静に。
嘘だ。私の落ち込みようはひどかった。信じられない。あの医者、なんて言ったっけ? ああ、私は、もはや普通の人のようにものを覚えることができない。一生このままなのだ。これからどれだけ生きても、私はすべてを忘れていってしまうのだ。
私は、こんなに馬鹿になったのだ!
記憶というものが、人間のアイデンティティの中でいかに大事な部分を占めるか。それを痛感した。私は、私自身が壊れる恐怖に襲われた。
私は肉親や親しい人たちに遺書を書いた。別に自殺する気などないが、記憶能力を失った自分は、過去の自分とはまったく異質の生き物になる気がしたのだ。何を書いているのか書く端から忘れながらも、私は必死にペンを握った。遺書を書きたい、お礼を言う理性が残っているうちに、今まで分のお礼だけは言っておきたい、という脅迫観念があった。
私は泣いたろうか? 覚えていない。たぶん泣かなかったろう。記憶が続かなければ、泣くことすらできないのだ。
結局、一晩経った翌朝には、記憶力はほぼ完全に回復していた。平生の生活にはすぐに戻ることができた。事故の印象は風化した。しかしあの時味わった、記憶を失くすことへの恐怖心だけは、どうやらいまだ、私の深層心理から拭い去れないらしい。
自分、という存在感は、水割りグラスに浮く氷のようにはかない。あのとき書いた遺書は、どこに仕舞ったかわからない。
一緒に酒を呑みに行く人から、君は呑んでも決して乱れないねと、しばしば言われる。感心と言うより皮肉であろう。付き合いが悪いんじゃないか?
振り返ってみると確かに、ここ何年も泥酔した記憶が無い。グラスを傾ける一方で、冷静な部分を頭の隅に保とうとしている自分がいる。つまらない話である。呑まない方がましである。なぜこんな呑み方をするようになったのであろう。大学生のころは、路上に寝るくらい酒を浴びたこともあった。トイレから動けなくなることもあった。そこまで本腰を入れないときでも、少なくとも今より酔っ払っていた。今は、思い切り酔うつもりでいても酔えない。私が酒に強くなったのか。違う。私は臆病になったのだ。臆病? そうだ、私は記憶を失くすことが怖いのだ。なぜ? なぜそんなに記憶の空白を怖がるのか────原因を考えていたら、一つの古い思い出に突き当たった。
大学生のころ、私は記憶を失くしていた。
いや、正確には、記憶力を失くしたというべきであろう。当時私は大阪にいた。選択した講座の関係で、数十キロ離れた二つのキャンパスを行き来していた。車で混み合う真直ぐに長い国道を走破するには、中古で購入したツーリング用自転車が実に適していた。自転車を漕ぐ私の姿を、友人が遠目に見て、脚の動きが見えないくらい速かった、とあとでからかった。実際、そのくらい全速力で漕がなければ授業に間に合わなかったのだ。
ヘルメットなど、もちろん被っていなかった。
晴れた、少し蒸し暑い日であった。国道全体が排気ガスに霞んでいた。
道のりを八割方走りきった地点である。脇道から飛び出してきた原付に跳ねられた。地面でしたたか頭を打ったらしい。面白いことに、私はそれでもすぐに飛び起きた。
原付に乗っていた少年や、集まってきた通行人たちが困惑した顔で私を見つめた。
「今何があったんですか」
私は彼らに尋ねた。
「あんた原付に跳ねられたんや」
「はあ。なるほど」
私は目をしばたたかせながら倒れている原付と自転車を眺めた。「今何があったんですか」
「だから、跳ねられたんやろ」
「そうですか。────今、何があったんですか」
何があったかどころではない。私は記憶が残らなくなっていたのだ。
異変に気づいた人が、私の手帳から私の友人の電話番号を見つけ出し、呼び出してくれた。私は友人に介抱されながら自分の下宿に戻った。そのはずである。事故後しばらくの記憶は、今もって再生していない。
それでも、断片的ながら強烈な印象を残した場面が幾つかある。事故直後のやりとり。それから、私はおそらく警察署に連れて行かされた。時間帯はわからない。警官に机上で質問を受けた記憶がある。何を聞かれてもすぐに聞かれたこと自体忘れる私に、警官は相当手を焼いたに違いない。
「だからお前さんも不注意だったんやろ」
なぜだかそんな風に話が進んだ。担当の警官は早く仕事を片付けたがっていた。
「お前さんも不注意やったんや。加害者の高校生はな、母子家庭なんや。ちょっと賠償は難しいで。だからまあ、人身事故やなかったということでええか」
ずいぶん理不尽な話に思えたが、こちらに非があると言われれば、非がある気もする。何が理不尽だったかすらすぐ忘れる始末なので、私は警官の言葉にただただうなずくしかなかった。私は一刻も早くそこを立ち去りたかった。
下宿に戻れば、私に付き添ってくれた友人を悩ました。
「すまんな、看病してくれて」
「だからもうええて。じっと休んどき」
「うん。腹減ったろ。ピザでも取ろうか」
「いらんて。腹減ってないから」
「そうか。なあ、ピザでも取ろうか」
「だからいらんって。何べん言うたらわかるねん」
彼に根気強く説明されて、私はようやく自分の陥った事態を把握した。不思議なことだが、古い記憶はちゃんとあった。彼が私の友人であることもしっかり理解している。事故以降の新しい記憶だけが残らないのだ。しかし例えば、ピザをおごりたいとか、今何があったか知りたいとか、そういう気持ちの部分は連続するのだ。
私は呆然となった。
私の言動にさすがに心配になり、友人は私を救急病院に連れて行った。そこで何万もするCTスキャンをとらされたが、脳に外傷は発見されなかった。医師の説明によると、衝突のような急激な脳の揺さぶりで、一時的に記憶が残らなくなることがあるらしい。まあ、時間が経てば、元に戻るでしょう。ご安静に。
嘘だ。私の落ち込みようはひどかった。信じられない。あの医者、なんて言ったっけ? ああ、私は、もはや普通の人のようにものを覚えることができない。一生このままなのだ。これからどれだけ生きても、私はすべてを忘れていってしまうのだ。
私は、こんなに馬鹿になったのだ!
記憶というものが、人間のアイデンティティの中でいかに大事な部分を占めるか。それを痛感した。私は、私自身が壊れる恐怖に襲われた。
私は肉親や親しい人たちに遺書を書いた。別に自殺する気などないが、記憶能力を失った自分は、過去の自分とはまったく異質の生き物になる気がしたのだ。何を書いているのか書く端から忘れながらも、私は必死にペンを握った。遺書を書きたい、お礼を言う理性が残っているうちに、今まで分のお礼だけは言っておきたい、という脅迫観念があった。
私は泣いたろうか? 覚えていない。たぶん泣かなかったろう。記憶が続かなければ、泣くことすらできないのだ。
結局、一晩経った翌朝には、記憶力はほぼ完全に回復していた。平生の生活にはすぐに戻ることができた。事故の印象は風化した。しかしあの時味わった、記憶を失くすことへの恐怖心だけは、どうやらいまだ、私の深層心理から拭い去れないらしい。
自分、という存在感は、水割りグラスに浮く氷のようにはかない。あのとき書いた遺書は、どこに仕舞ったかわからない。
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