た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

前・後編読み切り  『旅は手と手を取りあって』  《前編》

2016年10月04日 | 短編

 

 都会暮らしの人がときたま田舎を訪れると、商売とか経済とか、そういったものの定義を根本から疑いたくなるようなものに出会うことがある。その建物もそんな出会いの一つであった。

 それは食堂であったが、今も経営しているかどうかの前に、そもそも人が住んでいるかどうかを確かめたくなる面構えであった。古民家と言われれば古民家とも言えた。幽霊屋敷と言われればどう見ても幽霊屋敷であった。しかし一応、「丸山食堂」の看板は出ているのであるし、多年の風雨にさらされたとは言え、その文字は何とか判読できた。

 東京から電車とバスを乗り継いできた大学生のカップルが、その建物の前で、丸五分間どうしていいかわからずに佇んだ。

 男はこの暑いのにワイシャツ姿で、黒いリュックを背負っている。顎と鼻梁のラインが細い。目つきはクールだがなかなか鋭い。腕まくりした長袖の折り目は正しく、四角い黒ぶちメガネと相まって、神経質な印象を彼に与えている。

 女はTシャツに色褪せたデニム、腰に巻いたブラウスの巻き方はいい加減で、肩まである黒髪も自然に伸びるに任せた観があり、男よりはずっとざっくばらんな性格を思わせる。顔つきは身なりほど粗野ではなく、均整の取れた目鼻立ちで、ギリシャ彫刻のような気品がある。ただ当の本人は、ギリシャ彫刻のようにおしとやかに納まるつもりは毛頭ないらしい。

 いずれにせよ二人とも、大都会からちょっと散策のつもりで電車に飛び乗って、思わずこんな遠方まで来てしまいましたと言わんばかりの軽装である。

 「仕方ないな。他にないんだから」

 男は腕を組み、いささかうんざりした表情で看板を見上げながら呟いた。

 「いいじゃん、風情があって」

 女は男と比べてずっと能天気である。腰に手を当て、彼女としては無意識であろうが、しゃべるときにお尻を振った。「こういうところが、案外すごく美味しかったりして」

 男は嘆息しながら首を振る。「それはないね」

 「まあ、ね。これが旅よ。冒険するつもりでさ、レッツゴー」

 

 狭い村であった。四方を囲む山々は、緑があまりに濃すぎて何だか窮屈そうに見えた。青空は強烈な八月の太陽を持て余していた。油蝉がしきりに鳴いた。ときおり木立の中で何かが悲鳴を上げた。村人たちはみんな昼寝をしているのか、どの通りにも人けがなかった。

 

 若い男女は食堂に入り、ラーメンとカレーライスを注文した。

 「はい、はい。ラーメンと、カレーね」

 注文を受けた老婆は、絶えずふらつく体を支えるために、瓶ビール用のガラス張りの冷蔵庫とか、椅子の背もたれとか、張り紙だらけの柱とか、とにかくいろんな物に触りながら厨房へと戻っていった。老婆の後を追って、痩せた猫も厨房へ消えた。 

 「大丈夫かな」と男。

 「いろんな意味でドキドキだわ」と女。

 「君はほんと、こういうの好きだよね」

 半ばあきれ顔で男はそう言うと、尻のポケットからスマートフォンを取り出した。話の途切れたときにそうするのが癖らしい。女はその所作に一瞬顔を曇らせたが、画面に視線を落とした男はそれに気づいていない。

 「一応、周辺の観光を調べておくね」

 男はちらりとだけ黒眼鏡越しに視線を上げて女に断った。

 「ありがと」

 男の一瞥を逃さず、女は髪の毛を払いながら笑顔でそれに答えた。

 客は彼らの他に誰もいない。

 土間にテーブルと椅子を置いただけの食堂内には、もちろんエアコンなど無い。全身真鍮でできた小さな扇風機が一台回っているだけであるが、案外涼しかった。煤けた梁に貼られた品書きには、ラーメンとカレーライスと日替わり定食とビールとラムネ。日替わり定食は、今日はねえさ、と断られたから、ラーメンとカレーにしたのだ。日替わりがないとはどういうことかと、立っているだけでも震えが来ている様子の老婆に問いただす勇気は、二人とも持ち合わせてなかった。

 店内のあちこちを興味深そうにじろじろ眺め回していた女は、向かい合わせに座る旅の伴侶に視線を戻した。彼はこまめに指を動かしながら、スマートフォンに集中している。

 「ねえ」

 彼女は自分の思い付きが楽しくてしょうがないかのように、含み笑いをして頬杖を突いた。

 男は右手から顔を上げた。「ん?」

 「ビール飲まない? せっかくだから」

 「昼間から? 本気?」

 「せっかくの旅行じゃない。一本だけ。せっかくだもん。ね。それにさ・・・どんなものが来ても、ビールがあったら食べられそうじゃない?」

 これには男も笑った。「消毒?」

 「消毒はひどいわね。そんなんじゃないけど・・・」

 「賛成。注文しよう。ただし、酔っぱらって午後一杯動けなくなっても知らないよ」

 「大丈夫よ、一本くらい」

 男は厨房に向かって「すみません」と声をかけた。が、返事はない。

 「すみません」

 鍋がコンロに当たる音や、菜箸の触れ合う音は聞こえるが、返事はやはりない。

 三度目に声を張り上げると、台所から猫がニャアと答えた。

 

 折り紙や広告紙で作った大小さまざまな紙風船が五個、油と埃の混ざったようなものをうっすら被って、窓の桟に並べてある。単なる紙細工であるが、長い年月を経て、桟に根を張っているのではないかと思われるほど、動かしがたい印象を受ける。埃がひどく、触るのに勇気がいる代物である。それらを眺めながら、女はグラスのビールを飲み干した。頬がほんのりと赤い。

 彼女は恋人に目を転じた。

 ところがかの恋人は依然として、スマートフォンに目を落としている。女は鼻息をついた。酔っているので、感情を包み隠そうという気が薄れている。気付いてもらえない空のグラスを、音を立ててテーブルに置いた。ビール瓶を持ち上げ、九割がた入っている男のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。

 「ユウ君」

 「ん?」

 「ラーメンが伸びるよ」

 「うん。残り食べてもいいよ」

 「あたしカレーでおなか一杯。結構おいしいラーメンじゃない。伸びないうちに食べれば」

 「うん」

 「ねえ」

 語気に驚いてユウ君は顔を上げた。

 女は怒りを顕わにしている。

 「ちょっと、せっかく二人で旅行しているのに、自分の世界に入り過ぎじゃない?」

 ユウ君は眉を顰めた。

 「僕は帰りのバスの時間を調べていただけだよ」

 「停留所で見たじゃない」

 「うん、でももう一つ早い便がないかと思ってね。というのもね、駅まで戻る別の路線バ スもあるみたいなんだ」

 女は火照った頬を膨らませ、小皿のたくあんを箸で刺すように摘んだ。

 「もうここを出たいわけ?」

 「この村には見るものはないよ」

 「そんなのわかんないじゃない。探索してみなきゃ」

 「無駄だよ。ネットで調べてみたけど、何の観光名所もない。やっぱり、無計画にバスに乗ったりするべきじゃなかったんだ」

 「嫌なのね。こういう旅が」

 「嫌ってわけじゃないけど・・・でも、ほんとに何にもないよ、ここには。古い寺しかない。怪しげな温泉施設が一軒あるけど、温泉に入るにはまだ早いだろ」

 「そうなんだ。ユウ君は、観光名所じゃなきゃ、見てもつまんないと思ってるのね?」

 「まず間違いないね」

 「つまんない男」

 「サヤ」

 どんなに大人しい男だって、こんなことを言われたら黙っているわけにはいかない。ユウ君は急激に湧いてきた憤りに押し倒されたように、椅子の背もたれに背中を押しあて、歯の隙間から息を荒げた。スマートフォンの電源を切って、機器をテーブルに置く。

 重苦しい空気が二人の間に横たわった。

 「サヤ、僕らは嗜好が違うのかも知れない」

 「違うわね。大いに違うわ。私は名もない山や川を見て十分楽しいけど、ユウ君は立て看板に説明書きと、広い駐車場と併設の土産物屋でもなきゃ、見る価値がないと思ってるのね」

 「それは言い過ぎだよ」

 「言い過ぎたのかしら」

 「僕だって田舎の風景とか自然とか大好きだ。だから今度の旅に賛成したんじゃないか。でも、せっかく二人で来たんだ。いろいろ日程を調節してさ。僕らにとって大事な旅行だろ?これは。だからこそ失敗したくないんだ」

 「失敗って何」

 「失敗だよ。わかるだろそんなこと? せっかく旅行してるのに、あんまり面白くなかったりとか、大したことなかったりとかしたら、嫌じゃないか。思い出として」

 サヤは空気が抜けた風船のように、頭を抱えこみ、首を横に振った。憐憫を込めた軽蔑というものを仕草に表せるとしたら、彼女は見事にそれに成功していた。

 「ユウ君、ユウ君のそういうところが、一番思い出をつまんなくさせるのよ」

 「そうだね。何しろつまんない男らしいからね」

 ユウ君はビールをがぶ飲みして、口元を手の甲で拭うと、憎悪に燃えた視線のやり場に困ったのか、スマートフォンの電源を再び入れた。

 サヤも腕組みをし、横を向いて押し黙った。

 (後編につづく)

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