た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無題

2005年10月01日 | 習作:市民
 川沿いの喫茶店に初めて入る。割合広い。二階席の窓から薄川(すすきがわ)が見える。道路も見える。土曜日の夕刻なのに、みんな車で移動して忙しそうである。

 忙しくない人はここに来ているのだ。私の背後の席では、四十代の男女が家賃の話をしたり黙っていたりする。部屋の隅のテーブルでは六十代の女性が黙々とインベーダーゲームをやっている。あんなものがまだあったとは。壁際の席では、禿げた老人がスポーツ新聞に顔を埋めている。窓際の中央のテーブルでは、フォークに真っ赤なナポリタンを絡ませて、私がいる。インベーダーゲームの乾いた電子音が、古き時代に対する鎮魂歌のように、各々の頭の上を過ぎていく。
 

 知人が一人、職を離れた。外に出る前、パソコンのメールでそれを知った。だから喫茶店に立ち寄ったわけではないのだが、スパゲッティーを咀嚼しながら、私はずっとその知人のことを考えていた。半年くらい前から職場の風当たりがきつくなっていたのは聞き知っていた。職場は彼を求めなくなった。彼も職場に期待しなくなった。そのような雰囲気の中で、彼は我慢し続けた。半年間。
 人の生き方については、誰も評価できっこない。
 ふと顔を上げると、薄川はいつの間にか秋の宵闇に埋もれていた。
 誰も渡らない横断歩道の信号機が点滅する。
 評価なんかしてはいけない。

 『存在と時間』。昔ちょっとだけかじった哲学書の名前を思い出した。マルティン・ハイデガー。どんな内容だったかは忘れた。どうして表題だけを思い出したのだろう?
 私は運ばれてきた珈琲に口をつけた。熱い。
 
 存在と時間。私は珈琲カップで両手を暖めた。──そうか。存在と時間。これからぽかりと日常の空く彼。河川敷を車で急ぐ人々。ゲームの画面を険しい表情で見つめる初老の女性。足りない時間。持て余された時間。自分という限られた存在と、人生という限られた時間の間の齟齬(そご)に、どう折り合いをつけるか。それが、ひょっとしたら────
 飲み干したカップを置き、裏返された伝票を手に取って私は立ち上がった。ハイデガーがそんなことを言いたかったわけじゃない。

 外が急速に冷え込みつつあることは、窓の景色からわかっていた。河川敷を撫でる風はことに冷気を帯びていた。それでも私は、多少ふらつきながらゆっくりと自転車を漕いだ。橋のたもとの交差点で、曲がろうとする車にクラクションを鳴らされた。

 存在。時間。それにしても、何と折り合いのつきにくいこの二つ。

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