瑛子の住む1DKのマンションの近くに、あまり利用する人のいない小さな公園があった。小さなジャングルジムと大人の腰までしかない鉄棒だけで、あとは滑り台をおくスペースすらない。脚を引き摺る薄汚れた犬を、瑛子はある日の夕方その公園の入り口で見かけた。
コリーの雑種かしら。瑛子はコツコツとヒールの音を立てて歩きながら犬に視線を送った。彼女は滅多なことでは歩調を緩めない女である。キャリアウーマンとしての六年間が、そういう歩き方を彼女に染み込ませていた。
汚い犬。車に轢かれたのかな。病気持ち?
犬から半径三メートル以内に近づかないよう、彼女は緩やかに弧を描いてそこを通り過ぎた。
犬はヤニの付いたどんよりした目で彼女を見送った。
「遠く離れていることが問題じゃないの」
瑛子は電話口で煙草に火をつけた。彼と同棲し始めたときにやめたはずの煙草。
「遠く離れていてもあなたから伝わるものがあったの、ずっと。それが伝わらなくなっただけ。
「え? 聞こえない・・・どうして? ねえ、風呂にお湯をはっている途中なの。水の音が聞こえるでしょ? え? もうそろそろお湯を止めなきゃ・・・ねえ、どうしてそういう言い方するの?」
彼女は煙草を持つ手の親指の関節で目尻を拭った。
「え?・・・そう。そうよ。よくわかったのね。最近また始めたの。落ち着きたいときとか。別にヘビーじゃないわ。ねえ、もうお湯止めなきゃ、もう溢れてるかも」
急いた口調とは裏腹に、彼女は深く長いため息をついた。
「何? 何が言いたいの? 煙草のこと? あなたに何の関係があるの。もう関係ないでしょ? ごめんなさい。そんな言い方ないわね。でもあなたわかってないでしょ。あのときやめることができたのは、奇跡だったのよ。すんごく辛かったの。ほんとは。できないって思ったの。それでも必死でやめたの。あなたそれわかってなかったでしょ? いいのよ、もうそんなこと」
それから三日後、彼女は会社の帰りに再び、公園の奥を歩くびっこの犬に気づいた。遠目ではあるが、汚れ具合といい足の引き摺り方といい、あの犬に違いない。ただ今日は、犬の近くに地味な服を着た婦人が立っていた。婦人は後ろ手に小さなビニル袋を握ったまま、のっそりと地面を嗅ぎ回る犬を見守っている。あの人に拾われたのかしら。あんなに汚かったのに。
瑛子はヒールに枯葉を潰す音を立ててそこを通り過ぎた。
「だから、お願い・・・。そう。しばらく一人で考えさせて。お願い。うん・・・大丈夫、私が悪いんだと思う。あなたじゃないの。私の気持ちがどうかしちゃったの」
瑛子は片手でずり落ちそうな毛布を肩にかけ直した。いつの間にか、夜が冷える季節になったと思う。
「お願いよ。ねえ、お願いだから、そんな変な声を出さないで」
彼女の顔から表情が消えた。ゆっくりと受話器を耳から離すと、じっとそれを眺めた。受話器を元に戻し、ベッドの上に毛布一枚でうずくまったまま、彼女は暗い顔でいつまでも宙を見つめ続けた。
公園の葉っぱはすべて散った。びっこの犬に赤い首輪と紐がついた。紐の端を後ろ手に握るのはあのときの拾い主である。別の婦人と熱心に立ち話をしている。犬は彼女らにほっておかれて所在なさそうに地面を嗅ぎまわっていたが、体は以前よりずっと清潔になっていた。目のヤニも取れている。
瑛子は犬のそばを通り過ぎたが、犬の方ではまったく彼女に気づいた様子はなかった。
マンションに戻ると鍵を掛け、ダイレクトメールの束を手にした。上着を脱ぎながら留守番電話が一件も入ってないことを確かめ、脱いだ上着をベッドの上に放り、冷蔵庫のドアを開けて中腰になって中を覗いた。中にはほとんど何も入っていない。
冷蔵庫の冷気を浴びながら、彼女は中腰のまましばらく決めかねていたが、ようやく缶ビールを取り出すと、鼻歌交じりにプルタブを開け、一口舐めるように飲んで、ちょっと苦い顔をした。缶ビールをテーブルに置き、ハンドバッグから煙草を取り出して火をつけた。流しの台に歩み寄って窓を開け、煙を吐くと、隣の建物と建物に挟まれた空間の向こうの通りを、あの地味な服の婦人が横切るのが見えた。そのすぐ後を、よたよたと、びっこの犬。
彼女は窓を閉めた。煙草を灰皿でもみ消す。彼女は自分の部屋を眺めた。テーブルの上の缶ビールと部屋の鍵を眺める。ベッドに脱ぎ捨てられた服を眺める。彼女は両腕を強く抱きしめると、身を屈めて、床に座り込んだ。
風邪をひきそうだと、彼女は思った。
コリーの雑種かしら。瑛子はコツコツとヒールの音を立てて歩きながら犬に視線を送った。彼女は滅多なことでは歩調を緩めない女である。キャリアウーマンとしての六年間が、そういう歩き方を彼女に染み込ませていた。
汚い犬。車に轢かれたのかな。病気持ち?
犬から半径三メートル以内に近づかないよう、彼女は緩やかに弧を描いてそこを通り過ぎた。
犬はヤニの付いたどんよりした目で彼女を見送った。
「遠く離れていることが問題じゃないの」
瑛子は電話口で煙草に火をつけた。彼と同棲し始めたときにやめたはずの煙草。
「遠く離れていてもあなたから伝わるものがあったの、ずっと。それが伝わらなくなっただけ。
「え? 聞こえない・・・どうして? ねえ、風呂にお湯をはっている途中なの。水の音が聞こえるでしょ? え? もうそろそろお湯を止めなきゃ・・・ねえ、どうしてそういう言い方するの?」
彼女は煙草を持つ手の親指の関節で目尻を拭った。
「え?・・・そう。そうよ。よくわかったのね。最近また始めたの。落ち着きたいときとか。別にヘビーじゃないわ。ねえ、もうお湯止めなきゃ、もう溢れてるかも」
急いた口調とは裏腹に、彼女は深く長いため息をついた。
「何? 何が言いたいの? 煙草のこと? あなたに何の関係があるの。もう関係ないでしょ? ごめんなさい。そんな言い方ないわね。でもあなたわかってないでしょ。あのときやめることができたのは、奇跡だったのよ。すんごく辛かったの。ほんとは。できないって思ったの。それでも必死でやめたの。あなたそれわかってなかったでしょ? いいのよ、もうそんなこと」
それから三日後、彼女は会社の帰りに再び、公園の奥を歩くびっこの犬に気づいた。遠目ではあるが、汚れ具合といい足の引き摺り方といい、あの犬に違いない。ただ今日は、犬の近くに地味な服を着た婦人が立っていた。婦人は後ろ手に小さなビニル袋を握ったまま、のっそりと地面を嗅ぎ回る犬を見守っている。あの人に拾われたのかしら。あんなに汚かったのに。
瑛子はヒールに枯葉を潰す音を立ててそこを通り過ぎた。
「だから、お願い・・・。そう。しばらく一人で考えさせて。お願い。うん・・・大丈夫、私が悪いんだと思う。あなたじゃないの。私の気持ちがどうかしちゃったの」
瑛子は片手でずり落ちそうな毛布を肩にかけ直した。いつの間にか、夜が冷える季節になったと思う。
「お願いよ。ねえ、お願いだから、そんな変な声を出さないで」
彼女の顔から表情が消えた。ゆっくりと受話器を耳から離すと、じっとそれを眺めた。受話器を元に戻し、ベッドの上に毛布一枚でうずくまったまま、彼女は暗い顔でいつまでも宙を見つめ続けた。
公園の葉っぱはすべて散った。びっこの犬に赤い首輪と紐がついた。紐の端を後ろ手に握るのはあのときの拾い主である。別の婦人と熱心に立ち話をしている。犬は彼女らにほっておかれて所在なさそうに地面を嗅ぎまわっていたが、体は以前よりずっと清潔になっていた。目のヤニも取れている。
瑛子は犬のそばを通り過ぎたが、犬の方ではまったく彼女に気づいた様子はなかった。
マンションに戻ると鍵を掛け、ダイレクトメールの束を手にした。上着を脱ぎながら留守番電話が一件も入ってないことを確かめ、脱いだ上着をベッドの上に放り、冷蔵庫のドアを開けて中腰になって中を覗いた。中にはほとんど何も入っていない。
冷蔵庫の冷気を浴びながら、彼女は中腰のまましばらく決めかねていたが、ようやく缶ビールを取り出すと、鼻歌交じりにプルタブを開け、一口舐めるように飲んで、ちょっと苦い顔をした。缶ビールをテーブルに置き、ハンドバッグから煙草を取り出して火をつけた。流しの台に歩み寄って窓を開け、煙を吐くと、隣の建物と建物に挟まれた空間の向こうの通りを、あの地味な服の婦人が横切るのが見えた。そのすぐ後を、よたよたと、びっこの犬。
彼女は窓を閉めた。煙草を灰皿でもみ消す。彼女は自分の部屋を眺めた。テーブルの上の缶ビールと部屋の鍵を眺める。ベッドに脱ぎ捨てられた服を眺める。彼女は両腕を強く抱きしめると、身を屈めて、床に座り込んだ。
風邪をひきそうだと、彼女は思った。
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