た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

定例会

2013年11月28日 | essay
 月に一回、「定例会」というものがある。

 何のことはない、単なる飲み会である。しかも参加人数は二人。私ともう一人、多種多様な職歴を経た、坊主頭の一風変わった人物である。彼とは飲み屋で知己になった。向こうが十歳ばかり年上である。たまたま気が合ったというか、二人ともたまたま寂しく飲み友達を探していたのか、何となく、次回も飲みましょう、を続けて早一年になる。こういう事例は私にとって極めて稀である。次回、次回と言い合っても、だいたいが社交辞令に終わる。「またいつか」という日は来たことがない、という格言がある。至言だと思う。

 だが我々の場合は奇跡的によく続く。あまりによく続くので、どちらからともなく「定例会」という呼称を使い始めた。呼称のせいで余計に止められない。

 上司と部下でもなければ、同僚でも、旧知の仲でもない。何の利害関係も日常的接点もない二人である。そこがむしろ気楽なのだろう。予算も一応決めてある。折半で三千円という破格値なのだが、最近はそれを越すことも多くなった。それでも懐に無理がなく、徹底した平等主義であるところが気兼ねなくていい。

 固定した会合場所は無い。落ち合ってから飛び込みで暖簾をくぐることもある。坊主頭の彼は、髪形に相応しく「縁」などの仏教用語をしきりに持ち出す癖がある。「これも縁だから」と言っては、その場にいる他の飲み客や店の人を巻き込んで騒ぐ。先日飛び込んだ小さな居酒屋では、厨房になかなか綺麗な娘さんがいたので、やたら気が大きくなってどんどんビール瓶の栓を抜くので困った。

 いろいろあるようでそんなにあるわけではない、と、最近、自分の人生について感じるようになった。年を取った徴(しるし)か。とは言え、今さら複雑多岐にわたる人間関係の構築は腰が引ける。月一回、野郎二人の「定例会」くらいが適当なのかもしれない。

 今年の締めくくりとなる来月は、珍しく、期日と場所がすでに確定している。坊主頭の彼が酔った勢いで、同じ店に予約を宣言したのだ。来月も綺麗な娘さんがいるとは限らないのに。確実なものなど、この世の中にそうあるわけではないのだ。

 確実なものなど────その事実に倦(う)んだ人間が集まっては、「定例会」などと看板を掲げてみる。そうやって、行事や儀式が形作られていく。世の中とは、そういうものなのだろう。



 
  
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 晩秋 | トップ | いくら’13 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

essay」カテゴリの最新記事