諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

134 「ズレ」を考える #7 見えないボリューム

2021年05月09日 | 「ズレ」を考える
道! バスが入らなかったころ、この道の先、徳本峠を越えて上高地に入りました。今ではこの道はクラシックルートと呼ばれています。中間地点「岩魚留の小屋」附近。(行かれないので写真掲載も寂しいのですが。)


ベートーベンは田園交響曲で「田舎に到着したときの愉快な感情」を音楽で表した。音楽は、音によって情報を伝える。このことは、言葉(文字)にはできない。

料理についても、味覚によって感じられる美味しさは、言葉や文字では表せない。タンレントさんが「食レポ」と言って、どんなに言葉を選んでも(あるいは視覚として、美味しさを表情で示しても)、味覚としての情報は絶対代替えできない。

ところで、前に述べたように、ヒトという動物は、系統発生をくり返すうちに、ある個体(ある時代のある人)がもった想念を、言葉を記号に置き換えた文字によって、他の任意の個体にトランスポート(移送)するという、奇跡的な技術を身に着けた。
いろいろな脳の中の情報は文字に置き換えられるものに限って、時空間を超えて持ち出せることになった。

その結果、過去の文化遺産の蓄積を文字として後世に残し、現世代はそれを解釈、発展させ、人類の福祉のために提供することが可能になった。
科学技術は特に効率よくそれを可能にした。科学技術史年表などを見ると、その文字情報をバトンリレーしながら、科学技術は加速したことが分かる。

(その蓄積は簡単に見られる。例えばGoogle scalarである。試しに「内燃機関」と検索すると世界中の論文が16100件もヒットする。誰にでもオープンである。)

ついでに?言うと、有名なグーテンベルクの印刷術の発明直後、コメニウスは「学校は「印刷機」であり、子ども達は「白紙」であり、教科書は「活字」であり、教師の声は「インク」である」といって教授学を打ち立てた(17世紀)。教育にも文字のトランスポートを最大限利用できると考えた。現在も書籍が「主たる教材」(教科書)として定着しているから。学校教育は文字から学ぶことが基本である。

ところが、である。冒頭の例の通り、文字が再現できることは個人の想念の限定的ものに限られていることには変わりがない。
反対にいえば、個々人は、この奇跡のトランスポートに乗せらない想念をたくさんもっている。

(長くなるので省くが)実は、子ども達は胎児以降から、この言葉(ましてや文字)では表せない他者の表現によって、自己を見出していく。当たり前のことである。

久しぶりに祖父母の家に行くと、抱きしめられ、頬刷りされた。勉強を頑張った父親が握手してきた。友達が傘を貸してくれた。近所のおじさんに怒られた…。ま、なんでもいい。

これらが、どういう意味をもつのか、言葉(文字)では説明できない。でも。確かに意味のある何かがある。
「教育的なこと」といった時、言葉では表現できないだけど、存在するというものを多分に含んでいる。
もしかしたら、教育という仕事はこの言い表せないことの存在を証明するためにやっているのではないか、と思ったりするがどうなのだろう。

特に特別支援教育では、言葉(文字)以外のもので勝負することがあまりに大きい。

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