諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

135 「ズレ」を考える #8 言語の外と内

2021年05月16日 | 「ズレ」を考える
道! 仙丈岳まであと少し。南アルプスの女王といわれ、山頂から広がるカール(右がわ谷間)も優雅に感じます。

もちろん言葉(文字を媒介とした場合でも)そのものにも、深い世界がある。
単なる、意思疎通の道具ではないではない。
言語を取り交わすうちにヒトは、一見"外にある言語"が、実は内面の発達に役立っていることを指摘したのが、かのヴィゴツキーである。
この説は当否を超えて、現場の私達にも興味深い見解である。改めてその説を読んでみよう。
佐藤学さんの説明が分かりやすいのでそのまま引用させていただく。

ヴィゴツキーは言語をコミュニケーションの道具としての「外言」と思考の道具としての「内言」に分けています。そして、ピアジェの「自己中心的な言語」を批判しました。ピアジェの「自己中心的言語」の考え方によれば、子どもの言語発達は独り言の「自己中心的言語」から出発し、その言語が社会化されていく過程をたどります。しかし、ヴィゴツキーは子どもの言語は最初から社会的なものであると主張します。子どもはコミュニケーションを通じて社会的言語を「内化」するというのです。ヴィゴツキーによれば、発達はまずコミュニケーション(外言)という社会的過程をして成立し、次にその「外言」が「内言」として「内化」される心理的過程として展開することになります。
 そこからヴィゴツキーの発達理論にとってもっとも重要な概念である「発達の最近接領域」という考え方が導き出されます。ヴィゴツキーは通常考えられている「教育と発達の関係」について、発達の後を教育が追いかけていく関係であると批判します。
 ヴィゴツキーは「一人で到達できる段階」(通常言われている発達段階・言下の発達水準)と「教師や仲間の援助によって到達できる段階」(明日の発達水準)との間の領域(ゾーン)を「発達の最近接領域」と呼び、教育と学びは「発達の最近接領域」において行われるべきであると主張しています。
 「発達の最近接領域」は学びの可能性の領域であり、教師や仲間との対話をバネにして学習者が背伸びとジャンプを行う領域です。旧来のレディネス(発達段階)の考えでは、学習者は一人で到達できるレバルに合わせて教育することが求められていました。それに対して、ヴィゴツキーは学びを個人主義的な活動として認識するのではなく、協同で社会的な活動として認識し、教師や仲間の援助によって到達できるレベルで教育すべきだと主張しているのです。


佐藤学『教育の方法』左右社

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