諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

89 第4の教育課程#5 次のハードルと学校

2020年07月18日 | 第4の教育課程
「不器用にそこにいる存在」について考えている。

 乳幼児期の死亡率については、近代に入りある程度環境が整ってきて減少の兆しが見えてきたが、皮肉なことに近代化する社会が子どもには過酷な環境を生みだした。

 マルクスの「資本論」から(孫引ですが)。
「夜中の二時、三時、四時に九歳から一〇歳の子供たちが汚いベッドのからたたき起こされ、ただ露命をつなぐためだけで夜10時、11時、12時までむりやり働かされる。彼らはの手足はやせ細り、体は縮み、顔の表情は鈍麻し、その人格はまったく石のような無感覚の中で硬直し、見るも無残な様相を呈している。」
「マッチ製造業は、その不衛生さと不快さのためにきわめて評判が悪く、飢餓に貧した寡婦等、労働者階級でももっとも零落した層しかわが子を送り込まないようなところだった。送られてくるのは「ぼろをまとい飢え死にしかけた、まったく放擲(捨ててかえりみないこと)され教育を受けていない子供たち」である。

 こうしたイギリスの児童労働の実態を見たことが、マルクスに「資本論」を書かせた動機の一つになったとういう。
以上の引用と解説は内田 樹さんの本からである。

 また、この以前から、教会からの親の子に対する宗教教育へのしめつけや、親の「(子どもに対する)懲罰権」というのもかなりのものだったようだ。そんな背景もありマルクスの時代に至ったらしい。

 19世紀、大人たちが達成と信じて行った社会の更新や、強者の秩序維持の影で子どもたちは、呆然とせざる得ない過酷な状況があった。

 ところが、同じ歴史的状況下、大人たちは「義務教育」を作る。
理念としては「両親と雇用者によるこうした権力の乱用」から子どもを守る装置として。
(もちろん、複雑な思惑があろうが)大人の良識が生かされた画期的な出来事といえるのだろう。

  そして、この理念は2回の大戦を経て、日本にももたらされていく。

   日本国憲法には間違いなく次のようにある。

第二十六条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

そして、
第二十七条
1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
3 児童は、これを酷使してはならない

 歴史を踏まえたものに違いない。

「不器用にそこにいる存在」の子どもは大人が義務を負って教育を受けられし、酷使されないのである。
学校はそういうところであり、元来児童福祉的な理念がある。

 では、実際の学校はどう機能してその子たちを導こうとするのか、ようやくですが教育課程を考えます。


※ 内田 樹『街場の教育論』を参考にしました。




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88 第4の教育課程#4 「七五三」

2020年07月11日 | 第4の教育課程
 前回、子どものことを「不器用にそこにいる存在」と書いた。
このことは、太古から、現代的な医療が整う前まで社会的な通念だったのではないか。
それほど子どもは無力だった。

 わらべ歌の「通りゃんせ」に「七つのお祝いに お札を納めに参ります」とある。
この風習が始まったころ乳幼児の死亡率が高く、7歳まで生き伸びることが今と比べて難しいため、無事に成長してその歳まで生きながらえたことを祝う儀式を表している…とする解釈がある。
「七五三」とは三歳、五歳、七歳の成長のハードルだったのではないか。

 医学も公衆衛生も今日のように整ていない江戸時代以前は、成人を迎えるられる人は約半数ではなかったかという。
徳川家のある将軍は、正室、側室のもと55人の子をもうけ、32人(約6割)が5歳までに亡くなっている記録があるそうだ。

 江戸時代までではない。
統計を見ると大正時代でも約15%の子が1歳の誕生日を待たずに亡くなっている。 

 元来、人類は超未熟児で生まれる。
他の動物のように数日のうちに自立することもないどころか、長期に渡って大人の慎重なケアが必要である。

 ケアができる人的環境、病気にならない環境、病気になった時対応できる環境、栄養管理ができる環境などが整わないと成長のハードルは超えて行かれない。

 ずっとずっと永い間、子どもは心もとない蝋燭の炎の揺らめきのような存在だった。
そういうイメージで大人たちは子どもを見ていたことだろう。

 現在、同じ統計で亡くなる乳幼児は0.2%である。
子ども死はごく稀になり、いわばタブーになった。
しかし、それは人類史上、この状況こそ稀であるとも言える
。元来、子どもはそもそも危うい存在として「そこにいる」ことに変わりがない。

その子ども観の中で育ってきたともいえる。

 古語辞典によると「かわいい」と「かわいそう」は同じ語源だという。

                           (つづく)

今回も読んでくださりありがとうございます。

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87 第4の教育課程#3 子どもの地点

2020年07月04日 | 第4の教育課程
「自分はこれでお別れだけど、お友達のことは頼んだよ」


今思えば、この「発言」が特別支援学校に着任したあとの大きな転換点になった。


現実の声ではないが事実として声が聞こえた。



 
これまでのやってきたことはあの子の期待に応えたものだったのか?。


 学校教育には、一定の教育水準を保つために、仕組みや取り決めがある。


その中で子どもの実態は把握される。


その枠組みの総体を広義の教育課程と言っていいだろう。


しかし、その枠組みとちがったところで捉えなきゃならない子ども観(子ども立場)があるのではないか。


 


人には一人ひとり死期が訪れる。それは避けられない。


そのことは、効率化を急ぐことが当たり前の社会にあっては、積極的には話題とはしない。


それが暗黙の了解であるように。


(このブログにだって死の話題を記しにくい。) 


 一方、子どもというのは、そんな世界には生きていない。


ふっとこの世に生まれてきて不器用にそこにいる。

その双方ギャップ。

捉えにくい子ども観(子ども立場)は、システム化、効率化の背後にすとんと落ちやすい。



 その子の「発言」(亡くなったお子さんの表情)は、そんなことを投げかけてきた。


子どもは「未来」だけではない、今をどうするという課題だけでもない、
存在そのものがもつニーズがあるのではないか。

そのことが「死」を通して見える気がする。



 かつて、アルフォンス・デーケン先生の「死の哲学」という講義を拝聴したことがあった。


死に向き合う人のこれまでの「生」をよく聴いておくことが、お別れとして大切であると伺ったように思う。もちろん送る人にとっても。



 きちんと聞くこと、見ること、分かろうとすることは、「認知」や「コミュニケーション」発達だけの問題ではないようだ。


                        (つづく)


 ※デリケートな問題でゆっくり行きます。読んでいただいて有難うございます。
 

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86 第4の教育課程#2 その子の語り

2020年06月27日 | 第4の教育課程
シリアスな話を続けます。無理がなければ。

「年に何回か生徒の葬式があるのがこの仕事のつらいところだよ」
と特別支援学校に転勤した時、先輩から聞いた。

 実際、すっと灯りが消えていくように知っている生徒が亡っていくことが時々あった。
「あの子はもう学校に来ないのか」
処理できない虚しさでいっぱいになってしまう。
その気持ちを抱えながら、慣例にしたって学校職員として葬儀に参列する。

 残された者の心境を「枯れ枝だけが長く長く残る」と記した小説があった。
例え身内でなくても、枯れ枝は積みあがっていくだろう。
それに耐えることが「この仕事のつらいところ」なのだろうか思った。

 そして忙しくしている中、結局、割り切り方なのではないかと微かに思ったとき、また機会が訪れた。


 確か小雨が降っていた。
学校から関係する先生方を送り出し、最後に斎場に到着すると、お坊さんのお経がちょうど終わるころになってしまった。

 お焼香をして、列にもどると、ほどなく会葬者が斎場を後にしだす。傘が開きはじめる。自分もその流れにしたがって退場するのが慣例だと承知していた。

 その時である。
柩の横にいた元担任のベテランの先生が、目に充てていたハンカチを小さくふってこちらに合図を送っている。
「お顔を見て行ってください」
というのだ。

 正直にいうと躊躇があった。
そんなことをして例のやり場のない感情があふれてしまう。

 柩に近づいた。
ハンカチの先生に招かれたかのか、その子に招かれたのか。

そして顔が見えてきた。

顔は意外なほど穏やかだった。

 鼻の管は今はない。素顔のままの表情は安らいでいるようにすら見えた。
それは印象でしかないはずだだが、確かにそう見えた。

 そして、その子の向こうには家族、親族の方がいる。横に担任の先生が付き添っている。
穏やかな表情は、この皆さんの想いが彼の短い生涯を豊かにしていたからではないか!。
理屈も何もないけど、確かにそう思った。
その人達は、棺を前に、肩をたたき合ったり、合掌しあったり、何かを話しかけたりしている。

 さらに、その子は、その表情の中でしっかりと私に向かって言った。
「自分はこれでお別れだけど、お友達のことは頼んだよ」
と。
                           (つづく)






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85 第4の教育課程#1 子どもの棺

2020年06月20日 | 第4の教育課程
今回のシリーズはシリアスな内容から始めます。ハードですが避けられません。よろしかったら読んでください。
 

 子どもの棺(ひつぎ)というものがあることをその後知った。
それまで、子ども死についてタブーというより、あり得ないことのように思っていた。


「出藍の誉れ」
 というのは、古来日本の善き教育観の一つである。
子どもというのは、未来社会をこれからつくる主体だから、今の世代をはるかに超えていってほしい、という願いが込められている。

 小学校で担任をしていたころ、無邪気なまでに子ども達の未来性を信じていた。
Jリーガーを目指す子を応援したし、パティシエ!という子にはせっせと情報を集めて話したし、頑張っているピアノの成果も何度も聴いた。
具体的な夢が語れないのならたくさん読書することを勧めたりもした。
そして、子どもの時の勉強はどんな将来であっても生きていく上での基礎になることを疑わなかった。

 当時の小学校自体にもそんな雰囲気があった。
「小学校(の教育)は種まきだけど、丁寧にまかないと芽がでない」
「紙飛行機はうまく風にのれないかもしれないから、できるだけ高く飛ばしてあげよう」
なんて先輩から聞いたりもした。

  大人を超えていく子ども達の夢を後押しする。

もちろんいろいろな状況の子があったし、その都度悩みもした。
それでも、若い小学校教師のモティベーションは「子どもの未来」にあったように思う。
紙飛行機と一緒に自分も飛んでたような……。

 そう、それはそれでいいはずだ。今でもそう思う。

 しかし、特別支援学校に転勤して、生きていること、生きて行くことの意味を深く考えざるを得なくなる。
「未来」だけってわけがない。

                     (つづく)

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