諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

87 第4の教育課程#3 子どもの地点

2020年07月04日 | 第4の教育課程
「自分はこれでお別れだけど、お友達のことは頼んだよ」


今思えば、この「発言」が特別支援学校に着任したあとの大きな転換点になった。


現実の声ではないが事実として声が聞こえた。



 
これまでのやってきたことはあの子の期待に応えたものだったのか?。


 学校教育には、一定の教育水準を保つために、仕組みや取り決めがある。


その中で子どもの実態は把握される。


その枠組みの総体を広義の教育課程と言っていいだろう。


しかし、その枠組みとちがったところで捉えなきゃならない子ども観(子ども立場)があるのではないか。


 


人には一人ひとり死期が訪れる。それは避けられない。


そのことは、効率化を急ぐことが当たり前の社会にあっては、積極的には話題とはしない。


それが暗黙の了解であるように。


(このブログにだって死の話題を記しにくい。) 


 一方、子どもというのは、そんな世界には生きていない。


ふっとこの世に生まれてきて不器用にそこにいる。

その双方ギャップ。

捉えにくい子ども観(子ども立場)は、システム化、効率化の背後にすとんと落ちやすい。



 その子の「発言」(亡くなったお子さんの表情)は、そんなことを投げかけてきた。


子どもは「未来」だけではない、今をどうするという課題だけでもない、
存在そのものがもつニーズがあるのではないか。

そのことが「死」を通して見える気がする。



 かつて、アルフォンス・デーケン先生の「死の哲学」という講義を拝聴したことがあった。


死に向き合う人のこれまでの「生」をよく聴いておくことが、お別れとして大切であると伺ったように思う。もちろん送る人にとっても。



 きちんと聞くこと、見ること、分かろうとすることは、「認知」や「コミュニケーション」発達だけの問題ではないようだ。


                        (つづく)


 ※デリケートな問題でゆっくり行きます。読んでいただいて有難うございます。
 

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