写真:剣山荘と剣岳ルート
立山・剱岳「天の記」(12) 「剣岳開山」
これは又、美事としか言いようがない・・!!。
剣沢小屋の横で見る剣山は、視野に入る総てが金字塔の如く輝いている。 別山尾根から一服剱、前剱のコブを経て三角の頂点、そして頂点右から八つ峰のギザギザな鋸歯が剣沢に落ち込んでいる。 山様は三角の裾の部分は緑の帯に囲まれているが、その上部は、どす黒い褐色の肌が突き上げているのである。
霧が晴れても尚、濃厚な湿潤の夕刻、云わばの大気のレンズ現象呈していて巨大な山塊は、更に、我々を圧倒するほどに迫ってきている。 山裾には、青い屋根(昭和46年・1971年当時)の「剣山荘」の姿が、小さく印象的である。
この眼前に迫る「剱岳」は、北アルプスの3000mの峰々が全て登り尽くされる中、最後まで残った山だという。
この冷めた威風は何と言おうか・・!、
他の山は存外、親しみ易く、取り付き易い感じを受けるが、このドス黒い山肌は冷徹にして拒絶反応が激しく、人を永遠に拒んでいるようでもある。
立山(雄山)が立山信仰の頂点に位置付けられ、信者はこぞって山頂参拝へ挑んだが、この剱岳だけは目の前に存在しながら信者たちは敬遠したらしい。 信者たちは、あの山は魔物が住んでいる「魔の山」であり、立山地獄における「針の山」と称して畏怖いたようである。 従って、立山が信仰の山、大衆の山であったのに対し、剱岳は永らく疎外されていて明治後期までは人跡未踏の山とされてきた。
この剱岳は明治40年、「未踏の山」の地形図作成のために三角点を完成すべく、剱岳への初登頂と三角点埋設測量を目的に登攀された。 未踏峰とされて頂上に達した彼らの見たものは、過去の人物によって踏まれていた形跡であった。 そこには槍の穂と錫杖の頭が風雪に耐えてあったのだ。 おそらく強い信仰心に駈られた修行僧であろうが、何処の誰で、どのコースからか、一人か複数か、そして遺物は記念品なのか、遺品なのか、これらは一切判らないという。 剱岳の頂上に残された槍の穂は長さ約1尺、修行者が頂上で修法する時に用いた宗教用の「剱」であったという。
立山信仰において立山(雄山)は霊山であったの対し、隣の岩山は魔の山、針の山であり、又、修行者によって頂上に置かれていた「剱」によって、この山はいつしか「剱岳」と命名するようになったのでは・・?。
ともあれ、測量隊一行が登頂を済ました後は、地元の芦峅寺の信仰心の強い猟師の彼らも、「剱さ、ついに人が入ったな・・、これで俺らも行けるぞ・・!、」と思ったかどうかは疑問だが(立山信仰では、剣岳へは入山禁足である)、宇治長次郎(明治末の測量隊に同行)、佐伯源次郎、佐伯平蔵らが其々の場所から登頂を果たし、其々の谷や尾根にその名前を残した。 その後、彼らは芦峅寺界隈の名ガイドに育っていったのである。
又、この時期、日本山岳会が小島烏水らによって設立され、間もなく剱岳へも烏水らによって登攀された。 この時以降、剱岳は立山信仰の対象の“禁足“の山から、一般登山者にも解放された山になってゆくことになる。
立山開山は奈良期の1200年以上も前のことであったが、即ち、剱岳開山は明治後期以降のことであった。
因みに、芦峅寺では佐伯という性が多いように感じられるが、確かにこの地域では7割が佐伯性、志鷹姓が3割とかいわれる。 この二大姓の由来については、「志鷹」姓は芦峅寺付近の先住民族の子孫とさ、又、「佐伯」姓は1200年もの前、立山を開山したとされる佐伯有頼一族の家系とも伝えられている。
次回、先ず、一服剣へ
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