織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

表丹沢:「丹沢山迷記(3)」

2008年07月31日 | 丹沢山迷記
「登山、丹沢山塊、東丹沢・山迷記」
「人気の表尾根から東丹沢の札掛けへ抜けてみたが、
その札掛けからの帰路、とんでもない事になってしまった。
初春の、サンサンと雪の降る夜だった・・。」


表丹沢:「丹沢山迷記(3)」

昔、夢中になっていた「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながら記載しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。


「札掛」について・・、
最近は大分倒木がすすんでいるらしいが・・?、この辺り、中津川上流のこの地域はモミの木が群生する丹沢を代表する景観である。
江戸期の頃は、幕府の見回り役人が目印に大木に札を掛けたことから、その地名の由来とされている。

小生の住んでいる「厚木・あつぎ」という地名の由来であるが・・、
木材の集散地であったところから、アツメギがアツギに変化したとされるが定説ではない・・?。 
厚木周辺の北西方向の山域は「丹沢山塊」から派生する低山地帯を形成し、比較的人が入りやすい森林地帯でもある。

現在、神奈川県で唯一の村である「清川村」は江戸期には丹沢御林とも呼ばれ、七沢・煤ケ谷その奥にあたる宮ケ瀬の東丹沢山一帯に繁茂する森林は徳川氏が江戸に入るに及んで「丹沢御林」と称された、後に御料林と呼ばれた。  
御林は幕府直領下におかれ、江戸城修築や江戸の町並みを造営、其他の木材に使用の便に供された。
この山林を守り用材の諸役を課せられた村々は年貢・諸役を免ぜられていたともいう。 

丹沢東部に属する村々、愛甲郡煤ケ谷村、宮ケ瀬村、大住郡寺山村(江戸期の地名、現在の秦野市域)、横野村(江戸期の地名、現在の秦野市域)の四ヶ村に御林の警衛なども命ぜられている。
又、ここを丹沢を御留山(おとどめやま)とも称し、新編相模国風土記の記事に、右の四ヵ村の御料林役人や村民が御林を巡見した時の様子が記されている。
順回用の番札を掛けたことから宮ケ瀬から秦野へ通ずる林道上(県道秦野清川線)にある巡検所を、特に「札掛」と呼んでいたという。 


札掛に立つ石碑


幕府は、樅(もみ)、栂(つが)、欅(けやき)、榧(かや)、栗、杉の六木を留木として伐採を禁じていて、山麓の村々が交替で見回っていたのですが、その際、タライゴヤ沢と藤熊川の出合の広川原にあったケヤキの木の洞の中に見回りの番札を掛けていた。それで札掛という地名がついた。集落ができたのは明治時代になって木こりが住むようになってからです。

次回に続きます・・・、


表丹沢:「丹沢山迷記(2)」

2008年07月30日 | 丹沢山迷記
表丹沢:「丹沢山迷記(2)」

「水無川」について・・、
水無川は、表尾根の各峰を水源とする水域で水量も豊富であり、塔ノ岳直下の本谷をはじめ各支流は沢歩きでも人気がある。
その水無川は秦野市の中心を流れる。 
丹沢山系の「塔ノ岳」直下に源を発し、秦野盆地を潤し市街周辺の憩いの場所を提供している。盆地扇端部で流量の大部分が地下に伏流するため、以前はその名のとおり盆地内を流れる「水無」川だった。 
その為、この川の別称「砥川」(砥石のような石が河原に多かったため)ともいい、秦野市内にある「戸川」という地名の由来にもなっているという。
現在は、自然水やそこから流入する生活水流量は安定しているようである。


丹沢山塊から秦野盆地に注ぐ水無川、両側には「県立秦野戸川公園」広がる


また、水無川という名称は、弘法大師が関係している説もある。
弘法大師は旅の途中喉が渇いて・・、「この辺りに心の優しい人はいないものか・・?」と、わざと貧しい身なりをしてこの川の流域の住民に水を求めた。 水を求められた住民はその人が弘法大師とは知らず、貧しい身なりをしていたので水を与えなかったという。
「人の身なりで人を判断するとは何たる事だ・・!!」と怒った弘法大師は、この住民たちの生活用水である川の水を涸らしてしまったという。 そのため、この川に水が無くなってしまった、つまり「水無川」と言う名称が付いたとされている。
これは無論、伝説、逸話であるが、秦野市内には現在も弘法大師が修行したとされる「弘法山公園」や「弘法の水」、弘法の湯など、弘法大師に因んだ名称が多い。

弘法大師によって止められた水・・・??
水無川の伏流水は秦野駅近くから湧く「弘法の水」(雑誌などにも紹介されて有名です)など、丹沢の奥地から農家の庭先、街の中心を含め金目川や葛葉川、四十八瀬川、水無川一帯に点在する21ケ所から湧き出している。 
これらを「秦野湧水群」と呼び、昭和60年に日本名水百選に指定されている・・。
これも、善僧でなる弘法大師の置き土産であろうか・・。


花立山から塔ノ岳へ・・、



冬の名残の塔ノ岳山頂は、こんな感じ・・?。

さて、下山は「新大日の頭」から北側の「長尾根」に入った。
このコースは、ポピュラーな「表尾根」コースから外れており、尾根が北側に当たるためノッケから雪の量も大分多い。 しかも、トレースされていないため自然硬化した硬めの雪面を踏んで行くようになる。

雪除けのスパッツ、そしてアイゼンを装着してピッケルでバランスを取りながらの下山で、冬・雪山へ来てるんだという実感がこもり、嬉しい次第である。
雪庇による崩落やスリップ滑降に注意しながら夕刻の4時半頃には「札掛」に着いた。

次回に続きます・・、




表丹沢:「丹沢山迷記(1)」

2008年07月28日 | 丹沢山迷記

「登山、丹沢山塊、東丹沢・山迷記」
「人気の表尾根から東丹沢の札掛けへ抜けてみたが、
その札掛けからの帰路、とんでもない事になってしまった。
初春の、サンサンと雪の降る夜だった・・。」


表丹沢:「丹沢山迷記(1)」

昔、夢中になっていた「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながら記載しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。


山行日――――昭和45年3月8日~9日
天候―――――晴時々曇
ルート――――水無川本谷⇒源次郎尾根⇒花立⇒塔ノ岳⇒表尾根:新大日⇒長尾根⇒
札掛・・・・
同行者―――男性1人


水無川本谷より分かれて源次郎尾根に取り付いたのが午前9時頃であった。
急登を喘ぎながら登って、メインルートに到達したのが大倉尾根の堀山と花立の中間辺りであろうか・・。
この源次郎尾根にほぼ並行して花立山頂までロープウェイ架設の予定が有るらしく、現在調査用の仮ロープウェイが設置されていた。 
帰路に「富士見小屋」のオッサンに聞いたところ、「確かにあるらしい・・、だが、塔が岳の山頂近くまで道路開発の計画もあるらしいよ・・」と話していた、そして、「道路が出来たらロープウェイは採算が合わんズラ・・よ」とも・・。
後年、これらの計画はいずれも「自然保護運動」によって立ち消えになったらしい・

ロープウェイ構想とは・・?、
丹沢にロープウェーを建設するという話は、昭和47年2月、小田急電鉄が、秦野市の水無川上流の戸沢出合から塔の岳手前の花立まで、70人乗りのゴンドラで結ぶというロープウェー計画を発表した。
だが、発表になった当初から「ロープウェー構想」が山の愛好者や環境保護団体から不評だった。 
この時、荒廃する自然を守ろうという自然保護運動が高まり、丹沢自然保護協会や自然保護連盟は、「丹沢はすでに開発過度である。もう無理な観光開発は止めよ・・!」として小田急電鉄と県、秦野市に建設中止の要望書・陳情書を提出、後に県が着工に待ったをかけたため中止になった。

尚、大山にもロープウェー構想があったらしい・・、つまり、大山山頂までの「バリアフリー化」である。 このことも、地元の丹沢自然保護団体などに反対され御破産になっている。
大山は古来より山岳神道の根源地で、別名雨降山、阿夫利山ともいわれ、昔から霊山として信仰され畏敬されてきた。 大山のブナ林は「雨降木」とも呼ばれ、まさにご神木である。 かつて大山に東京電力の送電線関連施設が作られた時、「大山に角が生えた」と嘆きの声も聞かれたという。 しかも今回の発案者は行政であった。
バリアフリーとは、人間が作った人工的な障害を取り除くという意味で、自然破壊してまで、自由に往来できるようにするという意味ではない。
丹沢大山は国定公園であり・・、こんなことでは霊峰が泣く。

次回に続きます・・、



西丹沢・大室山(Ⅳ・完登)

2008年07月25日 | 西丹沢:大室山
武田信玄も通ったと言われる「犬越峠」からの風景


昔、夢中になっていた「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながら記載しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。


西丹沢・大室山(Ⅳ・完登)


山頂⇒犬越路⇒箒沢

犬越路に向かってガクンガクンと急坂を下りる。
暫くするとダラダラの道となり身の丈以上の熊笹が行く手を遮るようだ・・、両腕でラッセルよろしく掻き分けながらの行進になる。
途中、見通しの良い所へ出ると、日没前の「富士山」のシルエットが美しく冴えていて、明日の天気を約束しているようである・・。 一方を振り返ると、これまた「桧洞丸」の雄大な姿が、夕日に照らされてデンと座っている、日没も近そうだ・・。

先を急ごう・・、間もなく犬越峠に達する、以外と瘠せたコル(鞍部)であった。
当りは既に薄暗くなってきていて、北方、道志川沿いの村落の灯が点々と伺える程である。

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一服した後、用意してきた懐中電灯を取り出して足下を照らす、すっかりこのような時間帯になった・・。

月明かりも無い、ほぼ真っ暗闇の急坂を下る・・、
通常の場合、山歩きには登りと下りの両方あるもので、登りは比較的安全であるが降りるときに以外と危険が潜んでいるものである。 歩行中に滑ったり、捻ったりして怪我するのは大抵は下りが多いのである・・。
電灯片手に、急な坂を下りるのは充分に気を配らねばならないのである・・。

足音以外に何も聞こえない静寂の中、耳を澄ますと微かに沢音らしいのが聞こえてくる、
この渓流音が次第に大きくなったところで沢筋に達した。
「用木沢」の出合いであった、夜中の沢歩きは勿論始めてである。 
沢筋の道は、沢沿いと言うより河原と言った雰囲気の広い谷の緩い下りである。 昼間なら何ともない所だろうが夜間は見にくい、足下の灯りだけを頼りに見え隠れする沢道を、度々間違えては後戻しながら進む・・。
いやはや、こんなに苦労するとは思わなかった。
 
やっとのことで、今朝方進入した大きな「白石沢」の合流点の到達した。
林道を下っていると、途中5,6人の地元らしい人達と出会った・・、 もしかしたら我等の捜索・・?、と一時疑問をもったがそうではなかったらしい。

「もしかしたら、テントの人たちかい・・?」
「はい、そうです・・」 
「管理人のおばさんが心配してたよ・・!!」 
「どうも、すいません・・」 

二言、三言、会話を交わして分かれた。
箒沢のテント場に着いた頃は、すっかり夜も更けていた。 
テントを撤収し、山小屋のおばさんにそれなりの礼を言って、更に、中川温泉まで徒歩で下る。 
テントや各種部材が満載され、重量が一段と増したキスリングが容赦なく肩に食い込む。

本来、明日が休日ならこの温泉でユッタリしたいところだが、そこは勤め人の辛さ、バス便も無くなったので余計なお宝を払ってタクシーで山を降りた・・。
自宅へ戻った頃は、既に今日の0時を回っていた。 
いやはやとんだ山旅であった・・。  【終り】


次回は、「丹沢山迷記」を投稿の予定です。



西丹沢・大室山(Ⅲ)

2008年07月25日 | 西丹沢:大室山
大室山山頂


この破風口から大室山へ登り返すころから、多分、バイケイソウであろう・・、既に枯れ落ちた茶褐色の草原が目立ち始めた。 それらを保護するための木道も出てきて、一帯は次第にその大群落になってくる。 確か・・?、隣に聳える「檜洞丸」の山頂あたりもバイケイソウの群落があるらしいが、こちらも相当なものである。その、檜洞丸は後日訊ねる予定であるが・・。
又、シロヤシオの松肌の大木も目立ちはじめている。
バイケイソウといい、シロヤシオといい、そして何よりブナの新緑の・・、これらの季節にも是非訪れてみたいものである。 今はただ、生あるものは既に季節の眠りについているのである。

二等三角点のある大室山の小広い山頂に着いたのは夕刻間近であった。
ここもブナやアセビなどの木々に囲まれて展望は無かったが、静かで落ち着ける処だった。
それにしても、西丹沢の名だたる名峰のはずが、今は人影も無く、ただヒッソリトしていた。 
普通、丹沢の主な峰には大抵の場合、山小屋が在るはずであるが、ここにはそれが無かった。 従って、余計に寂寥感が漂うのである。
今は展望も無く、休憩するには西ノ肩の方が良さそうである・・。 山頂で一息入れた後、こざっぱりした西ノ肩へ戻って大休止をすることにした・・。

陽は既に、西に傾きつつあった。
昨夜の飲食のせいもあって朝の出立がかなり遅れ、出発した後も頭に昨夜のアルコールが若干でも残っており、決して体調はよろしくなかった。つまり、かなりのスローペースであったということである。
山歩きの基本は、「早立ち・早着く」であるが、これも完全に無視してしまって、今朝方出かけたのは10時を回っていたのであった。
ともあれ、何とか本日の目的地である「大室山」へは到達したので、良しとしよう・・。

持参してきたガスコンロで、インスタントラーメンを炊き、遅い昼食となった・・?。れにしても山で食べるラーメンの美味しかったこと・・、相棒も納得したらしく、顔を見合わせてニンマリとした。

山頂(西の肩)は、原生林の「ブナ」の林に囲まれて 本来、眺望の効かない山頂であるが、葉の落ちた木々の間から遠く南アルプスの白くまとった峰々が遠望できる。 
この時期、すでに人の姿も無く、小鳥のさえずりも聞こえず、山頂は閑散とし、時折、冷たい風が頬を通り抜けるのみである。

それにしても苦労して頂(いただき)に達し、登りきって目的地を極めたというのに、いつもの様な達成感というか充実感が余り感じられないのはどうゆうわけか・・?、こんな山歩きも珍しい・・。
相棒の鈴木氏も元々口数の少ない人物であるが、今日は特別無言に感じられるのである。これも人っ気が全く無く、自然も一年の内の終期に当たり、今はただ寂の様相である。 我等も自然の雰囲気に倣い、合わせる様にただ無言であった。
山登りといってもいろいろあるもんだなーと、妙に実感するのである。

昔の人は「秋の陽はつるべ落とし」と云ったが、言い得て妙、正にその通りで、あっという間に日が暮れてくる・・、今は冬枯れの時期であり昼の時間は極端に短いのである。 
時間は既に夕刻4時を回っていた、早々に下山しなくてはならない・・。


大室山(大群山)について・・、

登山地図を見ても(昭和50年代の「丹沢山塊」:日地出版・・現在は絶版)大室山を注記(括弧で括って)して、「大群山」(おおむれやま)と記載してある。 だが、最近の国土地理院の地形図には大室山と記されていて、今はこちらが由緒正しい呼び名らしい。 
いつ頃、どのような理由で名称が変わったかは定かでない。

「大室山」が属する西丹沢は甲州と相州との国境尾根を形成しており、大室山はその山域の雄峰でもある。
特に、道志方面や高尾山などの中央沿線の山々などからは大きくて立派な金字塔に見える。道志街道の裾野から根張り豊かなドッシリとした山容は、丹沢最高峰の蛭ケ岳を凌ぐほど、この山域随一の存在感を示しているのである。
因みに、東京の八王子方面などからはこの大室山が富士山を隠してしまうので「富士隠し」とも呼ばれるらしい。

ところが、大室山は登山対象としての人気は薄いようだ・・。
ガイドブックなどで展望の悪い山という評価が定着してしまったせいもあろうが、登山者が少ないおかげで整備された登山道は意外なほどよく保全されている。
この山は山頂の展望を目的とする山ではなく、美しい樹林の中、土の感触を味わいながら歩くことができる山であり、本来の山歩きそのものを楽しむ山なのである。


次回へ続く・・。