織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

丹沢物語(7)

2008年07月23日 | 丹沢物語

「丹沢の渓谷」


裏丹沢、早戸川源流「早戸大滝」

次に、丹沢は渓谷、沢も魅力のあるところである。
「丹沢」の名称の由来は、秋になると山が赤く(丹は赤い意味がある)染まるからとか、アイヌ語のタンザであるとも言われるが、朝鮮語でタン(谷)からきているのが納得であろう・・、丹沢は真しく谷沢の山なのである。

渓谷は比較的明るく、新緑と秋の紅葉は素晴らしい。
渓谷下部はそのわりに広く、ゴーロ石が多い、これは大正期に起きた、あの関東大震災の震源地であり、この時大幅な崩壊現象があったという。中域から奥域にかけては大小の滝が連続し、山稜直下はガレや岩場が急峻となって突き上げる。 

丹沢の沢歩きは夏場が最適で、技術に応じて初級から超上級までバラエティーに富んでいる。
小生も主に表丹沢の沢である葛葉沢、新茅の沢、モミソ沢、本谷沢など比較的安易な沢に入っているが、沢歩きの楽しみの一つに渓谷植物・山草を眺めることでもある。
イワシャジンやランの類、イワヒバなど珍しいのが観られる・・、時には1株、2株頂いたこともあったが・・。

表丹沢の沢はどちらかと言うと、初級から中級クラスの沢が多く、比較的距離も短い。
丹沢の沢といえば、やはり西丹であろう・・、山そのものが奥深いため渓谷、沢も深く、大きく、急峻である。
主な渓谷では玄倉川水系の小川谷、ユーシン最奥部の各沢や中川川水系の東沢、西沢の各渓谷は初級から上級までバラエティに富み、渓流、滝も大きく険しいようである。
丹沢湖の西から流れ込む「世附川水系」は、もっぱら渓流釣りに人気があるようだ・・。

ここで、丹沢の滝のうち「大滝」を紹介しておこう・・、その名も「丹沢大滝」(早戸大滝ともいう)という。
宮ヶ瀬湖から早戸川に入ると林道が続く、観光センターまで車で入れるので、ここから先は徒歩になる。
雷平まで山道や河原を辿りながら、幾つかの枝沢を渡りきると本沢の早戸川は左の沢に入る、更に進むと右手から本谷沢が左手から大滝沢に出合う。
大滝沢に入ると間もなく三段の滝が見えてくる、これが早戸大滝である。 険しい尾根筋の直下にあって、この上は、かの丹沢山である・・。


昔は、山と言えば若者の独壇場であった・・!!。
丹沢は昔も今も大繁盛であるが、今はやはり中高年の登山ブームもあってか高齢者が大多数を占めるようであ、山も大分様変わりしたもんである。
丹沢は東京に近く、手軽に行ける、谷川と丹沢は東京近郊にあって大衆登山の二大流行地なのである。そして、谷川岳に劣らずこの山も遭難事件が頻繁に起こっている。特に、近年は高齢者の事故が多く、経験未熟な単純な遭難が起こっているらしい、小生も高齢の域に達したが心したいものである。

現在、丹沢山地は首都圏近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。登山、ハイキング、沢登り、渓流釣り、キャンプなど多彩で、帰途の最にはそろぞれの温泉も楽しめる。(東丹沢の各温泉や鶴巻や中川温泉等々)、レジャーや保養レクリエーションのエリアとして賑っている。


「そうだ、丹沢へ行こう・・!!。」
尚、次回からは、実際の丹沢山塊への入山の記録です。



丹沢山塊(6)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「丹沢の主峰」

山塊中央に聳える「蛭が岳」は標高1673mで、神奈川県の最高峰でもある。
かつては山岳修行の山で、蛭ヶ岳の山頂には薬師如来や毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)など多くの仏像が祀られていたという。 これから別名の薬師岳や毘盧ヶ岳と呼ばれるようになり、毘盧ヶ岳が転じて蛭ヶ岳になったと言われている。
又、この他にも「この山に蛭(ヤマビル)が多いから」と言う理由でつけられたという尤もらしい言い回しもあるが、有難くない名前であり、尚、この山域には高所でありジメジメした湿性の箇所は存在せず、山蛭などは生息しないであろうと思われるが・・?。 

蛭が岳は丹沢山地では最も奥深いところにある山であるが、頂上付近はブナなどの樹林も少なく、山塊一の標高を誇るだけあって見通しも良い。
天気が良ければ頂上から富士山や南アルプス、八ヶ岳、奥秩父などの山々を一望することができる。 

最も一般的なコースといして、南北に縦断する「丹沢主脈」ルートで、ヤビツ峠や大倉から登って塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳そして、ヒメツギ、焼山を越えて道志の青野原、西野々へ到る。頂上・蛭ヶ岳まで最低5~6時間はかかり、麓までは4時間以上かかる。1日コースとしては超健脚者向きである。尚、蛭ヶ岳より西へ向かって進み、桧洞丸、大室山などを経て西丹・箒沢へ下るのを「丹沢主稜」コースといって、主脈より尚一層ハードなルーととなっている。

蛭ヶ岳を含め西丹沢は他の山域と比して、各峰の頂上は樹林に覆われ、踏み後も鮮明でなく、特に天候不順なときなど迷いやすい。
山腹は深い笹が茂り、沢筋は深く、落差のある滝が連続する。地図上で実線で欠かれていても、登山道は鮮明でないところもあり、所要時間も記入されている以上に掛かることもしばしばである。
山道を外して迷い込んだ場合、高みの縦走路を目指すと猛烈な薮こぎが待っており、降ろうとすると峻険な沢筋が待っている、いずれにしても余計に数時間の格闘が強いられ、即、遭難ということも考えられるのである。
西丹沢では、一般的な山域での常識が、逆に災いの元になることがあるのである。

尚、裏丹沢の登山口も数ヶ所あるが、何れも下山に利用されているようであり、小生も丹沢へは数十回丹沢に入っているが、こちら側からの登行は1度もなかった。
いずれにしても丹沢山塊は概して高岳連山ではないが、1000m以上のピーク峰が60座以上もあることから、峻険の山塊といえるのである。


次回は、「丹沢の渓谷」



丹沢物語(5)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「西丹沢」

次に「西丹沢」であるが、こちらは小田急・新松田駅から富士急行バスで西丹沢、箒沢方面行きに乗込むことになる。
山麓ベースには御殿場線の「山北駅」などもあるが、乗継が不便なこともあって、やはり新松田駅がベースになるようである。
こちらは東丹沢や表尾根の山容とは異なり、バスで1時間以上も揺られることになり、従って奥深く静かな山歩きが楽しめる。

現在は、途中に「丹沢湖」(三保ダム:ダムは1978・年昭和53年に完成している)があるが、我等が西丹沢に入った当初の頃は未だ完成しておらず計画段階であったらしい。
丹沢湖には、丹沢主稜域より玄倉川(くろくらがわ)、世附川(よづくがわ)、中川川(なかがわがわ)等の支流が流れ込んでいるが、玄倉川といえばあの水難事故が生々しく記憶に残る。

1999年8月14日に玄倉川の中州でキャンプをしていた横浜市に本社を置く会社社員と子供6人を含む家族、社員の婚約者および恋人を含む客18人が熱帯低気圧の大雨による増水によって流され、社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4人を含む13人が死亡した事故である。
この水難事故においてはキャンプ客が水流に流される瞬間がテレビで中継されたため、世間に大きな衝撃を与えたのであった。

玄倉川上流部、事故現場から10km圏内の峰々には、雨山、鍋割、塔ノ岳、丹沢山、蛭、桧洞、石棚という丹沢の核心部である名だたる山峰が、ユーシン渓谷を中心に扇状に連なっているのである。
そして、派生する尾根や谷筋は全体的に急峻な渓谷が続き、谷壁斜面も急傾斜なのである。ここへ大雨がきたら雪崩のように一点集中で、短時間で河川へ流れ込むのである。 
遭難した人たちの中に、山の様子を知る人が一人でもいれば・・、と思うと無念でならない・・。

チョット反れたが・・、丹沢湖より先は「中川温泉」、更に先方に終点の「箒沢」のがある。 途中の中川温泉は、水と緑に囲まれた静かな温泉場である。
古くから「信玄公隠し湯」として知られ、信玄が北条氏康との戦いで負傷した傷兵に湯あみをさせたと伝えられる名湯である。中川温泉の特徴はアルカリ性が強く、pHが10以上にもなるということで、皮膚の表面を軟化させたり皮膚の脂肪や分泌物を洗い流すので「肌もつるつる」、傷に効くだけでなく「美人の湯」ともいえという。

終点の 「箒沢」は落人の集落として知られ、奥州から落ちのびてきた人達が道志から山を越えて来て、大きな杉が2本あったことから、この地に安住の地を求めたといわれる。へ入った来ると左手に巨木が姿を現す、箒杉である・・。
樹齢は県内で最高齢と推定され、その堂々たる高さや幹の太さの姿に圧倒され、現在も樹根や枝ぶりはまだまだ元気だという・・、当然国の天然記念物である。集落は二度の大火に見舞われて、の財宝や古文書などすべて消失してしまったと伝えられている。

この箒沢からは、桧洞丸(1601m)、大室山(1588m)、加入道山(1418m)、畦ヶ丸(1293m)、菰釣山(1348m)等の山々が扇のように周囲を取り囲んでいる。
小生も折にふれて西丹を訪れ、各峰に登っては帰りに中川温泉で汗を流して帰ったのを思い出す。
中でも箒にテントを張って集中登山をしたおり、帰りが夜半になり遭難してのでは・・?、と地元民に心配を掛けたのも今では懐かしく思い出となっている・・。 

桧洞丸と大室山の鞍部に「犬越路」というのがある、両方いずれかの山を踏破するとき必ずといっていいほど、この峠路を越えなければならない。1000mを越える大峠で武田信玄が犬を連れてこの峠を越えたことから犬越路という名称が付いたとも言われるが・・?、果たして史実はどうであろうか・・。
丹沢は1600m以下の比較的低山で、しかも八ヶ岳やアルプスのような峻険さは無い。だが、山が幾重にも重なり、山塊の中央核心部や西丹では、関東には珍しくブナ林が密生していて水量は豊富で、そのため多くの深い渓谷を形作っている・・、丹沢というのは、見た目より険峻なのである。
したがって、山中を縦貫し越えるのは容易ではなく、かろうじて東のヤビツ峠、西の犬越路だけなのである。
今は、峠直下に「犬越路トンネル」が完成しているが、ヤビツ峠と違い一般車両は通行禁止になっていて、犬越路を越えられるのはハイカーに限られている。

戦国期、16世紀の中頃は、この地は甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が合い争う三角帯の地域だったのである。
武田と北条の「三増の合戦」(1569年)については前述したが、この合戦は日本の合戦史上有名であり、結果として両者引き分けで相変わらず対峙状態は続いていた。
その2年後、今度は武田と北条の合戦において武田軍は今川領でもあった北条支配の「深沢城」」(御殿場市深沢・東名足柄SAの近く)を陥し駿東を手に入れた。
これによって武田は気兼ねなく西側からの北条と対することが出来る。
信玄は、小田原へ最短である大月、都留より道坂峠を越え、道志より更に西丹沢の西端である峠を越え、酒匂川より北条の小田原本城を覗ったとみえる。

武田信玄が北條攻めに使ったとされる道程は、道志村から三ヶ瀬川に沿って城ケ尾峠を越え、地蔵平に陣を張ったとされている。
地蔵平は、二本杉峠と経て中川温泉に出る「さかせ古道」が通過していた。
地蔵平の近くには、武田信玄が宿陣した「信玄平」や将兵が米をといだ水を流したという白水沢などの地名が残っている。
この中川温泉は昔から「信玄の隠し湯」としての言い伝えもあり、今も戦国期より開湯したという「信玄館」もある。
当時、この辺りの地は中川城(山北)、河村城(山北)といった小田原城の支城があり、北条氏康の支配下にあった。 ただ、信玄が中川城、河村城と交戦したという記録は定かでない様であり、両城は、後の秀吉との「小田原の陣」において落城するのであるが・・。

酒匂川上流界隈の地元民は、どうしたわけか地元の北条氏より武田(信玄)びいきであるという。 このことを考察すれば、この地での武田、北条の諍いは多少あったものの、激しい戦闘、戦乱はなく、従って、信玄は地元民を害することなく、しかも、慈愛の念をもって接したと言われる。 そして、ほぼ不戦の状態で甲斐へ戻ったとされる。
何故なら、これには多少の訳があった。
この時期、西域では信長、家康が伸張してきた時期でもあり、お家をこれ以上永く留守をすることは適わなかったからである。
撤退に及んで北の山、即ち箒沢から犬越路を越えれば最短で甲斐国(山梨県)へ達するのである。 信玄は不明瞭な峠道を軍用犬を先導に「犬越路」を越えたのではないかと想定されるが・・?、・・。
信玄は、翌年の元亀3年(1572年)12月、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」で、これに勝利するが、直後の元亀4年4月陣中で病没している、享年53歳。

次回は、「丹沢の主峰」

丹沢物語(4)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「表丹沢」

話を戻そう・・!
次に表尾根で人気の「塔ノ岳」であるが・・、
地図を見ても判るように山頂から登山道が網の目のようにというか、放射状のように敷かれている。
塔の岳は丹沢山麓の南側に面しており、山頂からは湘南海岸をはじめ、横浜や千葉、東京方面などの大パノラマを楽しむことができる。 

一般的な登頂ルートとしては、ヤビツ峠から表尾根を歩くことになる。
小生も何回となく歩いたコースであるが展望の良い、変化に富んコースで最も人気のあるコースであり、頂上は平坦に開けたところで山小屋も完備している。 
そして、帰りは大倉尾根を延々と山麓まで降ることになる。
逆のコースもそれなりに人気があるが、別名「バカ尾根」と呼ばれる関東圏でも屈指の急勾配で、標高差1,200メートルの尾根を延々と登ることになり、山頂まで優に3時間はかかる。
学生など山岳パーテーのトレーニング・ルートとしての人気もある。 

塔ノ岳の他の主要ルートとしては、南に連なる「鍋割山」(1272m)のコースも良い、又、本邦裾部へ大きく入り込む水無川(本谷沢)のコースも暑い盛りには良い、そのまま本谷を遡行するのも又、沢歩きとしても面白い・・、ただ本谷のコースはある程度の経験が必要である・・。

又、塔ノ岳の北方、徒歩1時間ほどに、その名も「丹沢山」が聳える、聳えるといっても峻峰ではなく、なだらかな山稜のブナ林に囲まれた静寂な山域である。
克って、この山域を歩いていて山道付近にて休憩している時、谷合・岩場付近に細かい葉を付けた“米ツツジ”のような這性の樹木を見て取れた。
気になったので後日、東部の唐沢川出合から塩水沢の林道をさかのぼり、ここから丹沢山に直登して先刻覗った岩場にまでいって確かめて観た。 
確かに「米ツツジ」(名前の如く小さなラッパ形の米つぶのような花を付け、ミニ盆栽的な風格を持っているツツジ)であった。

ツツジ科樹木の収集趣味のある小生にとっては、喉から手が出るほど欲しい樹木であった。自然を傷つける悪い所作とは知りながら数株丁重に戴き・・、又、丹沢山周辺、特に今登ってきた道のりには「シロヤシオツツジ」(特徴ある五葉の葉が出揃つてから白い清楚な花が咲く、大木になり木肌は松のような肌である)が群生していたので、ついでに小株を1本頂戴して山を降りた。
途中、車のガスが無くなったので煤が谷ので補給し車を走らせたところ、実はこれが運のつきであった。 途中で村の派出所の警察官に呼び止められ、樹木についての質問を受けてしまった。 更に、厚木本署まで連行されて尋問を受け、採取した樹木はすべて没収されてしまったのである。 
趣味によるもので悪質性は無いと見られ、書類送検はされなかったが、とんだ恥さらしで醜態を演じてしまった結末であった。
尚、米ツツジは正式名「箱根米ツツジ」といい、箱根連山、愛鷹山系など火山性の山の急斜面の岩場に群生、育成している。

次回は、「西丹沢」 


「丹沢物語」(3)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「丹沢を歩く・・、」

さて、丹沢山塊の登山のことであるが・・。
百名山で有名な深田久弥氏によれば、「丹沢山」は100名山のうち71番目に選ばれている。
その中で深田氏は「・・私が百名山の1つに丹沢山(丹沢山というのは山塊中の一峰である)を選んだのは、個々の峰でなく、全体としての立派さからである。丹沢山塊という名称は、多分、高頭式の『日本山岳史』』(日本山岳会創設とほぼ同じ1906(明治39)年に、第二代会長=高頭式によって、日本の山を初めて網羅した『日本山嶽志』が上著された。)から始まったのだと思うが、ただ表尾根を歩くだけでなく、その奥深く入れば、山の規模は大きく複雑で、容易にその全容はつかめない。・・・」としてある・・。

氏は、“丹沢山というのは山塊中の一峰である”としている。 
一峰の丹沢山・標高は1567mで、山塊中の峰々の標高では確かでないが5~6番目に相当するはずであり、主峰はその奥に控える「蛭ヶ岳」(1673m)である。
しかし、登山者、ハイカーの数や人気においては断然、表尾根の「塔ノ岳」(1491m)であろう。 
氏は、塔ノ岳では役不足、蛭ヶ岳では人気に今一ということで、敢えて「丹沢山」として百名山を選ばざるをえなかったのであろう・・?。

丹沢は首都圏に近く、東京・新宿から小田急線に乗れば凡そ1時間で、その雄大な山麓に達する。先ず、本厚木駅からは東丹沢の仏果山系(、鳶尾山・・、伊勢原駅からは霊峰・大山・・、秦野、渋沢駅からは表尾根、主脈である塔ノ岳、丹沢山、主峰・蛭ヶ岳、そして新松田駅からは西山沢の各峰へ到る事が出来る。

小生が始めて丹沢山塊へ足を踏み入れたのは昭和40年初頭の頃で、未だ20代の頃であった。 田舎(いわき市)から東京へ転勤になって間もなくの頃で、「東京はコンクリート・ジャングルで住むには余り歓迎しない所だな・・!、」と愚痴をこぼしたところ、職場の同僚が丹沢大山へ案内してくれた。実はこの事がきっかけで小生の”山歩き“が始まったのであるが・・・。

ケーブルを降りて豪華な社殿に参拝し、意気揚々と登っていたはいいが、余りの急な登りで息をゼイゼイ弾ませながら、やっと頂上へ着いた。頂上での記憶は無いが、下りに際して何故か本道・山道にはぐれてしまい、獣道(けものみち)と思しき道をひたすら下ると沢筋へ出てしまい、沢を四苦八苦しながら下ってゆくとどうやら林道らしきものに出た。更に、道なりに行くと、ようやく日向というところに到達したのであった。初めてにして、とんだ山歩きであったのを今でも鮮明に覚えているのである・・。

大山への一般的なコースとしは、ケーブルを乗り継ぎ下社(下宮)と呼ばれる立派な社殿に御参りした後、左手分社が控える登山口の急な階段から始まる。
道程のはハイキングコースとしては些か急な登りを辿ることになり、道中には昔の参道の名残で、下社を1丁目、頂上を28丁目とする石の標識があり、歩いた目安がわかって励みになる。
下山は見晴台から二重神社(二重の滝)を経て下社に到る。ゆっくり歩いても3時間ぐらいであろうか・・?。 又、体調、気分など登山としてのトレーニングコースとしては、山麓(ケーブル追分駅)から歩く場合もあり、男坂、女坂の2つの登山道がある。
追分から右に男坂、左に女坂の分岐点があり、名のとおり女坂は緩やかであるが、男坂は切り立つ様な石段で物凄い試練が待ち受けている、途中に大山不動尊の古刹寺院もある。

その他にも大山への登山ルートは幾筋か付いていて、いずれにしても比較的手軽に登れるため人気があり、山頂からの眺望も良い。特に、山頂社殿の裏側は、富士山や丹沢主稜の迫力ある展望が楽しめる、だが、大半の登山者は気がつないで降りてしまうようだが・・・。 登山口である表参道には多くの宿坊や土産物屋が軒を連ねて、これらも下山の際の楽しみの一つであろう・・。

大山の北東に位置する三峰山(みつみねやま)も良い、その名のとおり三つの峰が南北に波打っている。この山並みが我が家から望むとき、大山の端正な姿を半ば隠しているのだが・・。最標高935mの山で北峰、中峰、南峰から成り、丹沢山北東の丹沢三峰と区別するために大山三峰山(おおやまみつみねやま)と呼ばれる。
標高は1000mに満たなく丹沢山地ではやや低い山であるが、稜線では地形が急峻で痩せた尾根が連続し、ハシゴやクサリ場などが多く,チョットしたアルペン気分で登山を楽しめる。 しかし、この急峻な地形から毎年のように滑落事故も起きているという。
コースとしては、厚木・飯山温泉の奥、広沢寺温泉辺りがベースになる。林道を山ノ神トンネルから不動尻まで向かう、この道が意外と長いのである。ここから30~40分の登りで尾根筋へ達し、間もなくヤセ尾根、鎖場に梯子と変化に富んだ楽しい尾根歩きである。大山が競り上がってきて、その堂々たる姿がまじかに見てとれる。下りはこのまま煤が谷のへ・・。

又、東丹沢は本厚木をベースにした仏果山系や家族向きの鳶尾山系(厚木周辺には同じようなハイキンググコースが数種ある)・・、ただ近年、仏果山系北部、宮が瀬地区はすっかり様変わりしてしまったが・・。


序ながらその辺の事情について記しておこう。 
昨今、この宮が瀬地区に大きなダムが完成した、「宮が瀬湖」(宮が瀬ダム)といい、2001年4月から本格運用が開始されている。
中津川の上流愛川地区に「宮が瀬湖」がある。

この湖の東端、宮ヶ瀬堰堤・ダムが位置するダムサイトエリア下流の石小屋ダム付近は、かつて名勝・「中津渓谷」があった地域である。
深い緑と鮮やかな紅葉でハイキングコースとして人気があり、小生なども何度も訪れた地で首都圏でも絶大な人気があった。 コースのスタート地点には、堅牢な石造りでメガネ状の名物・石小屋橋が在り、現在はその名残を残しつつも宮ヶ瀬ダム建設に伴って取り壊された。
かっては、この石小屋橋から先が中津渓谷の見所、核心部であった。 日中でもあまり陽が指す事が無いほどV状に研ぎすまされ、深い峡谷の景観は我々を圧倒した・・。
ユックリ散策しながらも概ね1時間、薄暗い谷間を通り抜けるとそこには信じられないぐらいの明るい集落が広がっている、この地が宮が瀬で正に桃源郷の様相であった。

宮ヶ瀬ダム建設に伴って中津渓谷の終着である「落合地区」や南部の「馬場地区」など、多くの人々が移転を余儀なくされた。 
水没地の面積は45平方キロメートル、移転戸数は281戸に及び、新規造成団地「宮の里」に移住している。
これらの人々が、フト・・!我に返り、かって住み慣れた桃源郷の「湖底の故郷」を思う起こす時、どんな気持ちになるのだろう・・。 きっと胸が締め付けられるような思いにかられるに違いない・・。 

宮ヶ瀬ダム湖周辺は、現在は一大観光地となっていて、広大なピクニック広場、水の郷大吊り橋、ビジターセンター、交流館、カヌー場などがあって賑やかなところである。 又、宮ヶ瀬湖には例年のイベントがある、クリスマスの時期に美しく光輝くジャンボクリスマスツリーが名物となって、大人から子供までメルヘンの世界に招待してくれる。

次回は、「表丹沢」