資料:立山曼荼羅絵
写真:岩峅寺「雄山神社」と芦峅寺「雄山神社」
立山・剱岳「天の記」(4) 「立山信仰と開山」
立山信仰の歴史的な話は、1200年以上にさかのぼるという・・、
時の天武天皇が夢の中で「いま越中の国に騒乱たえず,四条大納言・佐伯有若をして納めれば,即ち平安になろう」というお告げの下、越中の国司に佐伯有若が任じられたといわれる。 その後、有若の嫡男・佐伯有頼が立山山中で熊を追うため山に入ったとき、岩小屋の前で阿弥陀如来と不動明王の姿をあらわれ、「世の衆生を救わんがために直ちに立山を開山せよ」とお告げをしたという。
これが「立山開山縁起」といわれる話であり、有頼はその後、「慈興大徳」と改名して出家し、常願寺川の周辺にいくつかの寺を造り、立山修験道を完成したといわる。
立山には曼荼羅絵というのが数種類あるとされている・・、
曼荼羅絵というのは開山縁起、信仰の様子、現世や来世の地獄と極楽など信仰の過程や
様子を現したもので、日本の霊山には概ね所在されているという。
立山曼荼羅絵は、第一のモチーフ(表現の動機となった思想)として、佐伯有頼が阿弥陀如来の出現に感激して仏道に帰依し、そして慈興上人とよばれる立山の開山者となったという由緒があり、この事を「立山開山縁起」として描写している。 立山曼荼羅絵は、他にも山中に展開する地獄と極楽の描写など、立山登拝に関するすべての要素がリアルに描かれ、絵解きとして語られ、立山信仰の主要な教示となっているものである。
岩峅寺の雄山神社の参道の両側には、かつて、20を超える宿坊があったといい、最盛期の江戸時代には、一夏に7000人もの参拝者があったという。 そしてこの参道は極楽浄土を願って、険しい山頂を目指した人々の祈りの道でもあった。 ここから室堂までの41キロの道筋には、順に番号を振った石仏が配されており、参拝者を導いてくれたという。
又、同様に岩峅寺より10kmほど山裾に入った芦峅寺の集落には、やはり雄山神社や中宮寺などの古い寺社や宿坊が並び、こちらも往時の立山信仰の中心であったことが伺える。
雄山神社は立山信仰の中心となっている神社で、神仏習合の時代(江戸期)まで社殿は、岩峅寺の「前立社壇」と芦峅寺の「祈願寺」、そして立山(雄山)頂上の「峰本社」の三つに分かれていた。 江戸時代までは更に多くの宗教施設があったようだが、明治の廃仏毀釈によりその多くが破壊されたという。
明治時代、立山連峰の剱岳と大日岳から、奈良時代末期から平安時代初期の製作と推定される銅錫杖頭などの修験用の遺物が発見されている。
立山は、既に9世紀半ばから10世紀初頭の頃には開山されたとされ、その頃から立山山中にも諸国の峰々を巡り山岳修行に励む修験者や聖(ひじり)が存在していたといわれる。 こうした諸国回峰の験者や聖は、主に不動信仰の伝播者ともいわれる。
不動信仰の根本をなす回峰行の大本は、比叡山の「千日回峰行」であるが、この行は天台宗独特の不動明王と一体となるための厳しい修行でもある。
その天台教団系の宗教者たちの立山信仰の一拠点が、岩峅寺や芦峅寺であったとされる。 彼らには立山山中の「地獄谷」の荒れ果てた景観や「針の山」(剣岳)は、まさに仏教の世界で説く地獄の世界のように見え、その地獄に対する浄土としての霊山が頂点に立つ「雄山」であった。
次回、序ながら比叡山・「千日回峰行」
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