織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

「八ヶ岳:越年登山」(7)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳

「八ヶ岳:越年登山」(7)


明けて5時15分には起床、祝いの雑煮とお屠蘇で心ばかりの祝杯を挙げる。
6時30分を過ぎた頃、真正面に望まれる横岳、赤岳がモルゲンロート(朝焼け)に輝いてきた。 それが次第に、徐々に広がってきて、向かいの秩父の山稜が輝くばかりに染め上がってきた時、初日の御来光が周囲を射差した。
それは真に1970年の幕開けに相応しい、輝きと希望に満ちたものであり、至福のひと時である。 遠方の富士が一際、威厳をもって聳え立っているのが印象的であった。


さて、感激にばかり浸ってはいられない、先の道程も長く険しい。 この先、「八つ」最大の難所と言われる横岳のナイフリッジ状の長い稜線が控えているし、おまけに横長の大型キスリングを背負って踏破しなければならないのである。

昨日這い上がってきた西の壁である地蔵尾根の分岐である地蔵ノ頭を先ず通過する。
ゆるやかな稜線を下った後、岩場の登りが始まる、良く踏み込まれたトレースがしっかりしているので、特に危険は感じられない。 ハシゴを登り、1つ目の小さなピークを東側から巻くように踏み越える。
向かう遠方の北アルプスである「槍・穂高」の峻峰が手に取るようで、その峰々の最北部に白馬の三連山も鮮明である。 槍・穂高はつい最近の昨年の夏、登破しているので思い出深いところでもある。又、今年はあの白馬三山を人気の「大雪渓」から挑戦しようと、既にインプットしているが・・。

上空はあくまでも澄み渡り、白黒のまだら模様の岩塊とは対象的に、濃紺という黒に近い大空が広がっているのである。それに、全く幸いなのがこの狭い稜線上で風を全く感じないのである。
思い起こすと、小生が未だ山の味を覚えたての頃、「丹沢」や「谷川岳」以外の3千m級の山を始めて挑戦したのがこの「八つ岳」であった。 あの時、赤岳南方の権現小屋で大阪の女性達と意気投合し、苦楽を共にしながらこの赤岳から横岳の稜線尾根を夢中で踏破したのを、つい先刻のように鮮明に覚えている。
「八ヶ岳・1966」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/yatu1966-1.htm 
それは3年前の夏のことであった。 
今は山の様相は全く違った白銀の世界であるが、山の姿そのものは変わることはない。

横岳の岩場は二十三夜峰、日の岳、鉾岳、石尊峰、三叉峰、奥の院(主峰)などと特異な名称が並ぶ。
二十三夜峰と呼ばれる直立した岩峰の辺りからが稜線の核心部でもあり、横岳への岩峰群の道となる。  
基本的に危険な岩場には、例に拠って各種の安全装置・・?が設置されているので安心ではあるが、赤岳の下りでも経験積みで恐いのは急斜面の下降であろう、谷底へ持っていかれないように充分な注意が必要である。
高度感にも多少慣れたとはいえ、ピッケル、アイゼンを確実に利かせて注意して歩かなければいけない。
「カニの横這い」という奇妙な名前も現れた。実は、この後の「立山・剣山」をやったときにも急峻な岩場に同様の名称があったのだが・・。
ハシゴ、クサリと岩場のアップダウンが連続する。 
日ノ出岳と鉾岳の鞍部あたりはセッピ(せっぴ・雪庇:山の稜線の風下側に庇ヒサシのように突出した雪の吹溜り。崩れ落ちて雪崩の原因となる)が大きく張り出している。雪崩れないか、滑落しないか、雪質を充分に確かめる、 幸いその兆候はないようだ・・。
大権現の石碑のあるピークを過ぎ、ケルンの積まれた三叉峰を巻いていく。 ここは杣添尾根への分岐にもなっていて、その山稜が大きく裾野へ延ばしている。 そのすぐ隣には「県界尾根」が同様に枝脈を延ばしている。
鉱泉小屋からの眺めでもお馴染みであったが・・、横岳の主峰・奥の院からの大同心の巨大な岩峰が、稜線より離れて斜めに突き出したように異彩を放っている。
振り返ると赤岳がピラミダルの如くどっしりと構えて実に素晴らしい!
横岳(奥ノ院)の前後の急登の岩場も、クサリでさほど緊張せずに通過する。


硫黄岳付近より見る「赤岳と阿弥陀岳」

横岳の岩場もここまで来るといよいよ終盤である。 台座ノ頭からは硫黄岳が雄大に見え、その向こうは「北八ヶ岳」のなだらかな山並みが身近に見え出した。
足下には硫黄岳の「大ダルミ」が広がり、振り返ると赤岳、阿弥陀岳、その間に権現岳が顔を覗かせていて、まるで山岳シネラマを見ているようである。
相変わらず上空は一点の雲もなく、白の世界と空の青さのコントラストが実にいい。 谷から引き上げてくる刺すような寒風はあるが、とくに気にするほどではない・・。

さて、いよいよ最後の下りにかかった。
硫黄岳手前の広い登山道にはケルンが一定間隔に作られており、吹雪や見通しの悪いときなどは有り難い目印になる。
それにしても冬山には可憐な高山植物などは見ることがないが、この辺りは本来は華麗なお花畑が一面に広がっている処でもある。 
途中に、『取るは一瞬、育つは風雪百年』の指標が半分雪に埋もれて立っていたのを思い出した。

間もなく硫黄岳山荘に到着しする、山荘は半ば雪に埋もれるように在った。殆ど休息を取らず、無我夢中で踏破してきた後の大休止であつた。
本日の行動予定は、この後「硫黄岳」をやって、赤岩の頭からは鉱泉小屋まで下り、そのまま家路に着く予定である。 時間は充分にあった。
長い休息の後、その硫黄岳へ向かった。
気持ちの良い稜線歩きであるが、あまりのダダッ広いため吹雪や霧に巻かれると危険な箇所でもある。今は全くそのような心配はないが・・。
あっと言う間に山頂に着いた。 
なだらかな広い山頂には大きなケルンがあり、標識には「硫黄岳標高 2760m」とあった。
峻険な赤岳や破天荒な横岳が男性的とすれば、硫黄岳の山頂の優しさはさしずめ女性的とでも云えようか・・?。
しかし、この女性的な硫黄岳には隠された激しい面が有ったのだ・・!!


硫黄岳より横岳稜線、正面三角岩は「大同心」


硫黄岳より北部、「北八ヶ岳」方面と蓼科山


ご存知・・?、側面に巨大な爆裂火口をもつ広大な硫黄岳は、南八ヶ岳の中でもひときわ個性的な山でもある。
因みに、八ヶ岳連峰は、大昔(おそらく数万年以上前)は一つの巨大な火山であったらしい。 
「八ヶ岳」を西側の、又は東側の遠くから眺めると、裾野はきれいな円錐形をしているが、上部は吹き飛んで抉られたように不規則な形をしているのが判る。
すそ野の大きさから推測すると、富士山よりもかなり大きくて高い火山で、それが或る時、強烈な爆発性の噴火によって山全体が吹き飛んで、現在のような多くの山頂を持つ連峰としての形になったといわれる。 現在は、その名の通り「八ヶ岳」という名称になっている。
硫黄岳の山頂側面には、その時の名残である爆裂火口の一部を見ることができるのである。

「山の想いは尽きない・・」であるが時は待ってくれない、この感激を胸に収めて、いそいそと山頂を後にする。
「八ッ」の主峰や峰々に見送られながら一路、赤岩の頭から赤岳鉱泉を目指し、下山の帰路についた。


「終り」 



「八ヶ岳:越年登山」(6)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳

写真は赤岳山頂から「阿弥陀岳」、手前は中岳

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。


「八ヶ岳:越年登山」(6)

稜線に出て、先ずは赤岳石室小屋(現在の赤岳天望荘)で休憩とする。 そして、今夜はこの天下の稜線小屋で一夜を明かす予定でもある。
 
小屋の中は、今は薄暗くひっそりとしていて何の変哲も無いが、我等にとっては御殿のお城のようなものである。
時刻は未だ午前の域であり、昼食代わりに軽いビスケットと紅茶等を胃に詰め込んで早速、主峰・赤岳のアタックにかかる。
無論、大型キスリングは小屋に留めて、小ザックのみの身軽な出で立ちである。 
先刻の地蔵尾根の登攀では、やや緩めだったアイゼンの紐もしっかり結び込んだのは勿論である。
先ず、ツヅラ折りの急斜面を登ってゆくと、一枚岩のような平板の登りにさしかかる。
胸突き八丁の登りをアイゼンを効かせ喘ぎながら登る。 
堅い雪の斜面はアイゼンがよくきき登りやすいが、それでも先端部を充分に利かし、鎖に頼りすぎないようにピッケルでバランスをとりながら凡そ、垂直とも思えるような急斜面を攀じる。
幸いにして、この頃は風も止み、視界は透明感で溢れ、富士山もくっきり見えている。

鎖場の上部核心部も多少ビビリながらも無事に越えて、あとはジックリ進むこと20分余り、山頂の小屋がすぐ近くに見えだした。
山頂は小屋から南へ一分ほど歩いたところにあった。
石室小屋から1時間足らずで遂に、冬季における八ヶ岳主峰・赤岳の2899mの山頂立ったのである。 思わずバンザイと大きな声で叫びたくなる気分である。 遂に冬山で3000m級の山頂に立つことができたのだ。
厳冬期の山頂でこんなにゆったりできるのも、天気がよく無風な為であろう。
いずれにしてもコンディションもマヅマヅで、いい日和に恵まれたらこそで、天気が悪かったら初心者の我等の実力ではとても頂上は目指せなかったであろう。 
神に感謝である・・。

2800m代の標高は、富士山と北・中央・南の各アルプスとここ南八ヶ岳以外にはなく、わが国では貴重な高さなのである。
無論、頂上の展望は素晴らしいの一語で、遠く北アルプスの稜線から中央アルプスの稜線まで望め、たなびく雲の間から富士山が頭を出している。 そして何より素晴らしいのは、間近に見える南アルプスの稜線である・・、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、白峰三山に鳳凰三山と、南アルプス北部の山々を手に取るように眺めることが出来る。

赤岳(2899m)
赤岳は八ケ岳連峰の最高峰で、長野県茅野市と山梨北巨摩郡大泉村との境に位置している。 
その山容は南麓方面から仰ぐと、ヨーロッパ・アルプスのアイガーに似ているともいわれ、勇壮そのもなのである。
因みに、「赤岳」という山名は、酸化鉄による赤い岩肌からきたもので、早朝や夕映えの輝きはひときわ美しいものがあるという。

所謂、「有頂天」の一時を過ごした後、山頂を後にする。
さて、同じコースでの下りになる・・、登りではさほど怖いとは思わなかったが、急斜面やトラバース(横歩き)では緊張を強いられる、滑落すれば一巻の終わりである。
クサリ場あたりの断崖では慎重にピッケルを使い、アイゼンのツアッケ(尖トガった先の部分)をしっかり利かせて一歩一歩距離をかせぐ。 
はじめのジグザグのところまで下りきればもう安心である。


思い起こすと、今日は12月31日の大晦日である、この年も残すところ僅か数時間となった。
缶詰を開き、ウイスキーをチビリながら、彼と山の談義をし今年一年を振り返るのである。
小生自身の今年の10大ニュースは何だろう・・?、特にこの度(旅)の「八つ・越年登山」はどの位置にランクされるのか・・想いは巡る。
小屋の管理人も今日だけは許すであろう・・、周囲のグループ、大パーティなどは年越しの宴で大賑わいである。

トランジスターラジオ(現、携帯ラジオ)が、恒例のNHK紅白歌合戦を雑音とともに奏でている。 そう、下界では、其々が新年を迎える準備も整い、大晦日を楽しみながら「おこた」で寛いでいることだろう。 
小生達は、この山の頂で時を待つのであるが、果たしてこれで良かったのであろうか・・?、とフッと小心な気持ちを抱かないでもない・・。

・・・
床に入って・・・、気が付いて時計にヒカリを当てると、0時30分・・、既に新年は明けていた。
横の彼氏は鼻息をたてている、無言で「おめでとう」の挨拶を交わし小用で小屋を出て見ると、先刻までの風も止んで半月の光が周囲の山々を浮かび上がらせている。 
お月さんのご来光でもあり、非常に神々しいばかりの雰囲気であった。
明け方の好天を祈りながら、再び眠りに入った。


更に、続きます・・。


「八ヶ岳:越年登山」(5)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳

写真は地蔵尾根分岐付近より堂々たる「主峰・赤岳」と石室小屋(展望荘)


「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

「八ヶ岳:越年登山」(5)

一服した後、早速アタックに懸かる。
行者小屋の裏手の石段を登ると分岐の標識がある。
ダケカンバの林をぬって、グングン高度を上げてゆく。 この辺りへ来るとさすがに雪の量も多くなり気を揉むが、しかし、ここ4~5日好天にの恵まれているようで新雪などは降りてない、従って、前登山者がしっかりラッセルを済ませてあるので真に歩きやすいのは幸いである。
アイゼンをしっかり効かせ、白の大地を一歩一歩踏みしめて登る。 冬山、雪山に来ているんだなという感触実感が、全身で感じ取れる。 苦しいながらも無上の思いを込めて更に一歩一歩前進する。気が付くと樹林の背丈がドンドン小さくなってきているのが判る、森林限界に近づいているのである。

そこを抜けきると、屏風のように覆いかぶさる岩壁が行く手を塞ぐ様である。
雪に埋もれたような森の中の急登を出来るだけ息を切らさないペースで登ること3~40分、いよいよ岩場の急斜面に取り付く。 岩場といっても実際は岩の部分は所々尖鋭部分が見えているだけで、殆どは雪と氷の世界である。
それでも登攀ルート、足場は意外としっかり付いているのが判る、でも油断は禁物である。 アイゼンをしっかり食い込ませ、ピッケルでバランスをとりながら三点確保で気をつけて攀じる。 急斜面の危険な箇所は、ハシゴやクサリが固定されていて安心感もある。
後方、振り返ると先刻通った行者小屋は遥かに小さく望まれ、周辺のテント場は色彩を散りばめたように、白の世界に浮き上がって見えている。正月登山ということもあり、多くの色とりどりのテントが華やかなのである。 
それにしても多くのパーティは何処へ行ってしまったのだろう・・?、このルートに取り付いているのは我々のみの様で、幸いというか今のところ前後にパーティはいないようで・・、従って、下から煽られることも無く、上のパーティにイラツクこともなく自分のペースで攀れるのは幸いである。
一息つきながら、更に周辺景色を眺めてみると、遠くに御岳に乗鞍、ずらりと連なる北アルプスの山々が真っ白に化粧して鮮やかに紺碧の空に浮き上がっている。さすがに高度感溢れる眺めである。
余りの景観に気を取られて油断すると脚を取られることにも成りかねない、ここは氷壁のスペースの小さい一角なのである。 アイゼンをしっかり利かしながらであるが、そのアイゼンの紐がやや緩みかげんなのは些か心配である。このあたりも初心者の不具合い、不備が出ているようで反省点であろう・・。 しかし、この急峻な場所で、紐を整える程の余裕など全く無いのである。

この先、更に数箇所のクサリ場などをやりすごす。
ここまで来たら、もう地蔵尾根の核心部は越え、これ以上難しい岩場も無い模様なので一安心である。でも油断禁物、事故はたいてい危険ではないところで起こるものである。
上辺の視界が徐々に広くなってきて、稜線が近づいてきているのが判る。登山者の姿もチラホラ歩いているのが見えた。 
最後の鎖場を攀じ登って稜線に飛び出した。 稜線は細いナイフリッジ状になっていて、勢い余ると反対側である東の谷底へ吸い込まれそうになる・・、ご用心である。
地蔵尾根分岐の指導標が雪に埋もれて遠慮がちに立っていて、ほっと一息入れる瞬間でもある。

ここからの稜線の道は過去に歩いた道でもある、とは言っても無雪期の頃であるが・・。
やはりと言うか、さすがに厳冬期の「八ヶ岳」はそんなに甘くはなかった。まじい風である。 稜線に出た途端に強烈な風が襲ってきたのである。
小生の蔵書の一つ、新田次郎の小説「孤高の人」の加藤文太郎は、最初の冬山でこの八ヶ岳に入山している。そして、この赤岳への稜線で強風に会い、吹き倒されるというシーンがあった。

序ながら、登山家・「加藤文太郎」という人物について・・、
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう)は、大正期から昭和初期にかけての孤高の登山家といわれた。
当時の登山は複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされた。その常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残し、その登山に対する精神と劇的な生涯から新田次郎が、そのドラマのモデルとなっている『孤高の人』を著した。
当時の彼の住まいは神戸の須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。そこで、六甲全山縦走を始めたのが加藤文太郎の登山の始まりであった。 但し、非常に歩くスピードが速かった彼は、一日に2度往復し、その距離は約100kmに及んだという。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、また猟師などの山岳ガイドを雇って行く、所謂、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、また高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。
単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなっていた。
単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となった。
1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳・北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じた。
当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じている。

次回に続きます・・、

「八ヶ岳:越年登山」(4)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳
「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

「八ヶ岳:越年登山」(4)

赤岳鉱泉の現況について述べておこう・・。
バス停の美濃戸口から2時間30分ぐらい歩いて辿りつくのが赤岳鉱泉であり、南八ヶ岳の登山基地として標高2,300mに位置する宿である。
山の宿・「赤岳鉱泉」は、硫黄岳や横岳の荒々しい岩峰を眼前にする山の基地であり、通常のシーズンは家族づれ、高年齢の方でも最適な山小屋であるのは勿論、冬山のベースキャンプ地として賑わいを見せるところである。
昔は近くの河原でも硫黄臭がした・・?ように、鉱泉の沸かし湯であったらしいが、現在はそうではないらしい。 それでも、山の宿で風呂に入れるのは有り難い。
収容250名、テント200張、一泊二食で9,000円 素泊まり 6,000円・・通年営業。
山に入る前に予約しておくと安心であろう、南八ヶ岳で唯一通年営業しています。
電話090-4824-9986 


昭和44年12月31日・・、大晦日の日が快晴で明けた。
それにしても寒い・・!!、夜中も余りの寒さで目が覚め、あわてて持参してきたものを全て着込んだものであった。 宿の主人に聞いたら、「放射冷却もあってマイナス17、8度くらいまでは下がったんじゃないかな・・、普段はセイゼイ10度止まりなんだが・・」と・・。
午前6時少々過ぎであったが、悴む(かじかむ)手で慌てて、先ずは暖かいコーヒーを沸かしパン類を千切って口に放り込む・・、快晴なので一刻も早く出立したいのである。
それにしても昨日にまして眺めが素晴らしい、特に荒々しい横岳の姿がいい。たっぷりと雪のついた大同心も小同心も、横岳本峰も、とにかく荒々しく美しく、惚れ惚れする眺めである。

準備を急ぐ・・、
オーバーヤッケにスパッツ、アイゼン、ピッケルと一応の服装を整えて出発したのがそれでも7時半頃であった。
先ずは、「八つ」の主峰・赤岳を目指す。行者小屋から赤岳、横岳の稜線の道は、この鉱泉の裏手から続いていた。
鉱泉から行者小屋間は、丁度中間にある「中山乗越」という小さな峠を越えるようになる。先ずは殆ど平坦な道であるが、次第に緩やかな登りとなる。
昨夜は、夜中に寒さで起きはしたが、アルコール分のちからを借りて就寝時間は、たっぷり8時間はとれたろう・・、お蔭で体調はいたって快調のようである。それでもペースを乱さないよう気をつけながらジックリと歩と進める。 
さすがに今頃の時期は小鳥の声も聞こえず、ただ、雪を掻き分けるサクッ、サクッとした足音のみの「寂」の世界であった。
登りで凡そ40分もかかったであろうか、中山乗越の峠に辿りついたようである。 
赤岳鉱泉から見る横岳大同心は巨大な岩坊主のような姿だったが、ここから見る大同心は岩壁を垂直にそそり立たせた鋭い姿に変る。角度によって山の姿がだんだん変ってくるのも面白い。眼前に赤岳の圧倒的な迫力が迫り、阿弥陀岳も見えてくる。 快晴無風の抜けるような晴天は、いやがおうにも意欲を駆り立てる。


横岳・「大同心」


行者小屋と背後は横岳・大同心


下りは、30分もかからんで行者小屋についた。
ここでしばし体を休ませ、水分、食料を補給する。 水分は、今朝沸かした薄いコーヒーをポリタンに詰めてきたもんでであるが、因みに、水は凍る恐れもあるので持参してない、喉が渇けば雪をしゃぶれば良いと思っている・・、自炊の水も雪である。(小屋に水が無い場合)。 食料と言ってもチョコを少々齧っただけであるが・・。
それにしても行者小屋周辺は鉱泉小屋に比べて原っぱが大きく広くがっているせいで小屋前からの景色が良い。 特に、端正な姿であった「赤岳」が、すっかり高く、荒々しくなっているのが印象的である。
こちらも鉱泉小屋同様、色とりどりのテントが賑やかである。 やはり、年末年始の永い休日を利用しての愛好者が大勢入山しているようである。

さて、行者小屋から主峰である「赤岳」へのルートは、正面の地蔵尾根コースと右側の文三郎道に分かれる。
一般コース的には地蔵尾根コース、健脚向きには文三郎道といわれるが、いずれも山頂直下に出るコースで所要時間もほぼ同様のようである。
文三郎道は赤岳の山頂直下に出るコースと、途中から中岳のコルへ出るコース(中岳道)とがあるようで、右に聳える「阿弥陀岳」をねらうには中岳道が良さそうである。
我等は、冬山でもあるし時間的にも「地蔵尾根コース」を取ることにしている。

次回に続きます・・、

「八ヶ岳:越年登山」(3)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳
「八ヶ岳:越年登山」(3)

この「山ノ神」からは北沢の河原伝いを歩くことになる。


北沢から横岳の眺め・・、

「奥山の 谷間の梅の 木がくれに 水泡とばして ゆく水の音」

と島木赤彦(明治、大正期の地元・諏訪出身の歌人)が詠んでいるが、元よりこの辺りは瀬音激しく流れ落ちる渓流である。 今は「白氷」の時期であり、雪と氷に閉ざされた無垢の世界である。
普通なら、この辺りは既にアイゼンやピッケルが必要な世界であろうが、往来が結構あるのだろう・・、山道は鮮明にして踏み跡もしっかりしている。

周囲を見渡すと、さすがに山懐に入ってきたという感じで、谷筋も深く険しい様相を呈してきている。 ただ正面展望も利くようになり、右手に「美濃戸中山」の優雅な山容、その遥か奥まった所に陰惨な横岳の岩稜から硫黄岳の稜線が望まれるようになった。

河原に渡してある丸太を組合わせて設えた「丸太橋」を、危なっかしい足取りで数回渡る。
遥か上方には抉(えぐ)り取られた様な平坦な台地状のエリアが見渡せる、あの辺りが取り敢えずの目的地・赤岳鉱泉に違いないと、勝手に想像を膨らまして更に前進する。
「鉱泉までどれぐらいですかね?」下りてきた登山者に質問してみると頼りなげに「う~ん30分ぐらいかなあ」という返答が返ってくる。「あの辺りが鉱泉ですか・・?」と指差して更に聞いてみると「ああ、そうかもしれませんね・・?」とこれまた頼りない。 下ってきた人には、上りの時間はよく判らないものかもしれない・・。それとも、」冬山登山者はあまり挨拶を交わさないのであろうか・・?。単独者であり、個人的な自分の山歩きを大事にしているのかもしれない。

だんだんと、確実に、積雪も深さを増しているようであり、既に、この辺りで歩道の両横は膝から膝上まで達しているようである。 
「そろそろアイゼン付けようか・・?」、相棒にそれとなく聞いてみると、「否、何とか行けるだろう・・、小屋も近そうだし・・」と返してきた。 そうなのである、ニッカズボンに時おり、脇の雪が触れるくらいで、特にスリップなどの心配はなさそうである。 
思えば、急斜面でも上りは比較的安定して登れるものである。 新調した12本歯のアイゼンは未だ新調のままである・・。
それにしても、「高山の冬山」という未知のエリアに向かっている実感が、靴底から伝わってくるのである。 高度を増すごとに、雪の量も次第に深さを増してきている、ただ、有り難い事に、上空は一点の雲も無く、晴れ渡っていることは何よりである・・!。

黙々と歩を進めるうち、大小の色とりどりのテントの林が飛び込んできた。その奥まったところに堂々とした山小屋があった、待望の「赤岳鉱泉」である。
見上げると正面にギザギザした「横岳」稜線に異彩を放っているのが「大同心」とかいう岩峰で、鋭く天を指していた。雪を被って、更に陰影が鮮やかなためか圧倒されるほどの凄い迫力である。 明日は、あの尾根へ取り付く予定であるが、果たして・・。

時に正午を半分ほど回っていた。 本日はこちらで厄介になるのである・・。
早速、陣を取った・・、215号室、二階の15番目の個室の部屋であった。 思えば、槍(北アルプス・槍ヶ岳)の肩の小屋に似ているようにも思ったが・・、かなりデラックスな感じである。 棟は4棟あって、廊下ごしに各部屋がある。 自炊はこの廊下で行なうらしい、部屋からドア一枚隔てただけで真に便利である。
昼時なのでコーヒーを沸かし、ウイスキーを流し込みながら持参した菓子パンを齧(かじ)った。 後は、昨夜の寝不足もあり、アルコールも身体に回ってきて自然に眠りについてしまった。


鉱泉付近から横岳

気がついて・・、目覚まし代わりに小屋周辺を散策してみた。
小屋の出入り口に数人佇んでいたが人気はそれだけで、周辺は静寂な白の世界が広がっている。 吹き溜まりには1m程度の積雪があっただろうか・・?、雪の状況など小屋の人に伺うと、それでも今年は例年並みらしい・・。
小屋へ戻ると次には夕餉の支度である。 明日のアタックに先駆けて、持参した焼肉でスタミナをつける。併せて、ビールと熱燗の合わせ酒にボンカレー、二人きりの小さな個室であるが、余計な会話は不必要なくらい山の雰囲気をも充分に味わい、すっかり身も心も満足であった。
後は、明日の幸運を祈りながら夜の眠りに就いた。


次回に続きます・・、