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穂高岳登山(24) 「奥穂高岳頂上」
(画像の大部分は和田氏提供による、現地イメージ写真です)
本邦第3位の「奥穂高岳頂上」:dh60
奥穂高頂上より「槍ヶ岳」展望:dh61
涸沢岳より望む、奥穂高岳と奥穂高山荘:dh62
遂に来た・・!!。 遂にやってきたのだ・・!!。
この苦境のなか、艱難辛苦しながら、ヨウヨウにして奥穂高の頂上に立ったのだ。
日本で三番目の高峰、北アルプスの盟主・穂高岳3190mの最高峰に達したのである。
頂上には二つのピークがあって、一つは円筒型をした平板に山岳地の方位、方角を示す山岳表示盤が設えてあった。
隣の四角のケルンの上には穂高神社・嶺宮という小さな祠が風雨に晒されながら静かに鎮座している。
それにしても小粒で地味な祠ではあるが、3000mの頂の祠としてはこんなもんであろう・・?、
穂高山地の守り神である。
穂高神社(ほたかじんじゃ)は安曇野市穂高に本宮(里宮)が鎮座し、他に上高地の明神に奥宮、そして穂高岳3190mの地に穂高神社・嶺宮が祀ってある。
奥穂山頂の穂高神社・嶺宮:dh63
上高地・明神池の畔に穂高神社・奥宮:dh64
穂高町(現、安曇野市穂高)に鎮座する穂高神社・里宮拝殿:dh65
穂高の登山基地である「上高地:かみこうち」の名称は本来「神降地」、「神垣内」という漢字表記であったらしく、後に現在の「上高地」と表記するのが一般的となった。
「神降地」とは正に神が降臨した地で、穂高神社の祭神、穂高見命(ホタカミノミコト)が当地・穂高岳の山頂に降臨し、この地より更に、明神池の奥宮と穂高町の里宮に遷宮し祀られていることに由来している。
因みに、日本の山岳標高の第1位は勿論富士山であるが、2位が南アルプスの主峰・「北岳」の3192mである。
そして、当地、奥穂高岳山頂が本邦第3位にランク付けされているのは周知である。
ところが・・、
“ 奥穂(3190m)は南ア・北岳の3192mに次いで3番目の高さであるが、奥穂には山頂に3mのケルンがあるので、実際は3193mの高さがあり北岳を抜いて本邦2番目である ”・・と、本気とも冗談とも言える話しを聞いたことがある。
目の前のこの四角いケルンが3m以上あるかどうかは定かでない・・?。
夕刻迫る山頂には、既にもう一人の登山客しかいなかった。
風雨は止むことなく、間断なく吹き付ける。
この先、急峻な山頂からの下りを経て奥穂高山荘へ向った。
【付記】
山荘到着後、早速、先刻まで同行していた彼の女性が近寄ってきて、一言、二言礼を陳べに来た。
小生も特別礼を言われる程の事をしたわけではないので、かえって恐縮したが、
「ああ、いやいや、お互い無事で何よりでしたね、 ところで、明日は・・?」
「はい、明日朝このまま涸れ沢から上高地へ下る予定です」
初めて、被服を外した彼女の素顔を正面から拝見した。
意外と細身の体形に、いまだ初々しい赤ら顔の美少女らしい雰囲気を持った女性であった。
内心は、こんな美少女的女性と一緒に、ルンルン気分で同行できたら結構だな、と思ったが、ここは先輩男性らしく・・、
「小生は明日の体調によってですが涸沢岳、北穂を経て、涸れ沢から上高地へ下る予定です。 この先も危険な所も有るようですので気をつけて下りましょう」
「有難うございます。 お気をつけて」
彼女は既に受付は済んで、居場所の案内を待っているようである。
翌朝、昨日同様、天候は余りかんばしくなく、体調も今一であった。
従って、当初予定していた峻険・涸沢岳、北穂高岳の登行は次の機会に譲るとして断念し、
このまま奥穂高山荘直下の下山路・「ザイテングラード」から涸沢、上高地を目指した。
因みに、ザイテングラードとは、すり鉢状の涸沢の正面中央部に露出した岩の支稜のことで、この岩尾根が涸沢基部から穂高の稜線までの登山ルートとなっている。
ドイツ語のseitengrat:支稜線・支尾根という意味だそうである。
一般に、この文中にも出てくるが、カナ文字の山の各部の名称や山岳装備の名前にはドイツ語やフランス語が多く登場し、英語は意外にも希である。
昨年(2009年)公開された山岳映画『劒岳・点の記』に、日本山岳会の初代会長・小島烏水が登場しているが、日本アルプスが本格的に観光登山として認知されたのは明治期からであった。
この時期、ヨーロッパから登山用品を含め、登山という概念が登場しはじめる。
明治の日本では、近代化の促進のため、多くの外国人(主にヨーロッパ)が来日するが、
これらの外国人が、日本アルプスをはじめ数々の山岳地を開拓し、日本登山史の基礎を築いたとされる。
この日本アルプスと呼び名は、英国人技師ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳登頂に関する雑誌の寄稿に"Japan alps"としたのが始まりだそうである。
叉、英国人宣教師(探検家でもある)・ウォルター・ウェンストンはその著作『日本アルプスの登山と探検』において上高地や穂高を紹介していることは周知である。
『終』
尚、写真掲載の大部は「和田様」の御提供によるものであり、ご協力に改めて感謝いたします。
和田氏ホームページへ
http://www.tok2.com/home/pokopoko110/newpage172.html
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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穂高岳登山(24) 「奥穂高岳頂上」
(画像の大部分は和田氏提供による、現地イメージ写真です)
本邦第3位の「奥穂高岳頂上」:dh60
奥穂高頂上より「槍ヶ岳」展望:dh61
涸沢岳より望む、奥穂高岳と奥穂高山荘:dh62
遂に来た・・!!。 遂にやってきたのだ・・!!。
この苦境のなか、艱難辛苦しながら、ヨウヨウにして奥穂高の頂上に立ったのだ。
日本で三番目の高峰、北アルプスの盟主・穂高岳3190mの最高峰に達したのである。
頂上には二つのピークがあって、一つは円筒型をした平板に山岳地の方位、方角を示す山岳表示盤が設えてあった。
隣の四角のケルンの上には穂高神社・嶺宮という小さな祠が風雨に晒されながら静かに鎮座している。
それにしても小粒で地味な祠ではあるが、3000mの頂の祠としてはこんなもんであろう・・?、
穂高山地の守り神である。
穂高神社(ほたかじんじゃ)は安曇野市穂高に本宮(里宮)が鎮座し、他に上高地の明神に奥宮、そして穂高岳3190mの地に穂高神社・嶺宮が祀ってある。
奥穂山頂の穂高神社・嶺宮:dh63
上高地・明神池の畔に穂高神社・奥宮:dh64
穂高町(現、安曇野市穂高)に鎮座する穂高神社・里宮拝殿:dh65
穂高の登山基地である「上高地:かみこうち」の名称は本来「神降地」、「神垣内」という漢字表記であったらしく、後に現在の「上高地」と表記するのが一般的となった。
「神降地」とは正に神が降臨した地で、穂高神社の祭神、穂高見命(ホタカミノミコト)が当地・穂高岳の山頂に降臨し、この地より更に、明神池の奥宮と穂高町の里宮に遷宮し祀られていることに由来している。
因みに、日本の山岳標高の第1位は勿論富士山であるが、2位が南アルプスの主峰・「北岳」の3192mである。
そして、当地、奥穂高岳山頂が本邦第3位にランク付けされているのは周知である。
ところが・・、
“ 奥穂(3190m)は南ア・北岳の3192mに次いで3番目の高さであるが、奥穂には山頂に3mのケルンがあるので、実際は3193mの高さがあり北岳を抜いて本邦2番目である ”・・と、本気とも冗談とも言える話しを聞いたことがある。
目の前のこの四角いケルンが3m以上あるかどうかは定かでない・・?。
夕刻迫る山頂には、既にもう一人の登山客しかいなかった。
風雨は止むことなく、間断なく吹き付ける。
この先、急峻な山頂からの下りを経て奥穂高山荘へ向った。
【付記】
山荘到着後、早速、先刻まで同行していた彼の女性が近寄ってきて、一言、二言礼を陳べに来た。
小生も特別礼を言われる程の事をしたわけではないので、かえって恐縮したが、
「ああ、いやいや、お互い無事で何よりでしたね、 ところで、明日は・・?」
「はい、明日朝このまま涸れ沢から上高地へ下る予定です」
初めて、被服を外した彼女の素顔を正面から拝見した。
意外と細身の体形に、いまだ初々しい赤ら顔の美少女らしい雰囲気を持った女性であった。
内心は、こんな美少女的女性と一緒に、ルンルン気分で同行できたら結構だな、と思ったが、ここは先輩男性らしく・・、
「小生は明日の体調によってですが涸沢岳、北穂を経て、涸れ沢から上高地へ下る予定です。 この先も危険な所も有るようですので気をつけて下りましょう」
「有難うございます。 お気をつけて」
彼女は既に受付は済んで、居場所の案内を待っているようである。
翌朝、昨日同様、天候は余りかんばしくなく、体調も今一であった。
従って、当初予定していた峻険・涸沢岳、北穂高岳の登行は次の機会に譲るとして断念し、
このまま奥穂高山荘直下の下山路・「ザイテングラード」から涸沢、上高地を目指した。
因みに、ザイテングラードとは、すり鉢状の涸沢の正面中央部に露出した岩の支稜のことで、この岩尾根が涸沢基部から穂高の稜線までの登山ルートとなっている。
ドイツ語のseitengrat:支稜線・支尾根という意味だそうである。
一般に、この文中にも出てくるが、カナ文字の山の各部の名称や山岳装備の名前にはドイツ語やフランス語が多く登場し、英語は意外にも希である。
昨年(2009年)公開された山岳映画『劒岳・点の記』に、日本山岳会の初代会長・小島烏水が登場しているが、日本アルプスが本格的に観光登山として認知されたのは明治期からであった。
この時期、ヨーロッパから登山用品を含め、登山という概念が登場しはじめる。
明治の日本では、近代化の促進のため、多くの外国人(主にヨーロッパ)が来日するが、
これらの外国人が、日本アルプスをはじめ数々の山岳地を開拓し、日本登山史の基礎を築いたとされる。
この日本アルプスと呼び名は、英国人技師ウィリアム・ガウランドが槍ヶ岳登頂に関する雑誌の寄稿に"Japan alps"としたのが始まりだそうである。
叉、英国人宣教師(探検家でもある)・ウォルター・ウェンストンはその著作『日本アルプスの登山と探検』において上高地や穂高を紹介していることは周知である。
『終』
尚、写真掲載の大部は「和田様」の御提供によるものであり、ご協力に改めて感謝いたします。
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http://www.tok2.com/home/pokopoko110/newpage172.html
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