岡山県の林原美術館は今月23日、47点(全3巻)「石谷家文書(いしがいけもんじょ」の中に、本能寺の変直前の斎藤利三、長宗我部元親の貴重な書状が含まれていたことを公表している。1582年6月2日家臣明智光秀によって織田信長が本能寺で討たれた。明智光秀が何故突如として謀反を起こしたのか、謎であった。25歳の織田信長が尾張を統一した翌年の1560年、今川義元は尾張へ攻め入った。この頃四国では土佐の小領主であった父に従って22歳の長宗我部元親は同じく土佐の小領主であった本山氏との戦いで見事初陣を飾った。同じ年に亡くなった父の遺志を継いだ元親は四国平定を目指して行く。台頭して来た織田信長に対して元親は四国統一の許可を得た。そして、ついに1575年に元親は四国平定を果たした。しかし、長宗我部元親の勢力が拡大されてみると、一転して、信長は阿波南部と土佐以外は返上せよ、元親に迫った。元親は激怒し、信長の命を拒否する。これを怒った信長は三男の神戸信孝を総大将に任じ四国征伐を決意し、自らは中国地方の平定のために、翌日の出兵を控えて、本能寺に宿を取っていた。その日の朝早く、信長の重臣である明智光秀は本能寺を取り囲んだ。今回、「石谷家文書」の中から本能寺の変直前に関する2通の貴重な書状が見つけ出された。1通は1582年1月11日付けの明智光秀の重臣斎藤利三が土佐にいる、利三の実兄の義父で、元親の義父にもあたる石谷光政に宛てた書状だ。元親の軽挙を抑えるように依頼した内容である。もう1通は1582年5月21日付けの長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状で、信長の命に従うとしており、阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退するが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所であるからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと言う内容が記されている。明智光秀は長宗我部元親と織田信長の仲介役を果たして来ていた。長宗我部元親が信長の命に従うと軟化して来ているにも関わらず、四国征伐を強行しようとしていた信長に対して、元親を守るために四国征伐を止める目的で本能寺の変を起こしたのではないか、と考えられる有力な資料と見られている。しかし、光秀のこの行動も秀吉による同じ年の10万の兵力による四国征伐により、長宗我部氏は土佐一国のみの領有となり、長宗我部氏を守ることは出来なかった。そして、1614年~1615年の大坂の役で豊臣方についたため、長宗我部氏の直系は断たれてしまう。
庭の雪の下