釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

大船渡

2012-03-31 20:28:27 | 文化
今日は天候があまりよくないが、比較的暖かい日になった。昼頃から昨夜気仙沼から戻って来た息子と、明日はNPOの仕事があり、休みが今日しかない娘を連れて釜石の南の大船渡市へ出かけた。「大船渡」の由来は「大きな船着き場」から来ていると言う。地図で見ると大船渡市近辺もリアス式海岸で、棘のようにぎざぎざに入り組んだ海岸が並ぶ。その中で、大きな広田湾が広がり、良港を形作っている。昔から海運の盛んな場所だったのだろう。この地には807年、大同二年に蝦夷征討にやって来た坂上田村麻呂が討ち取った、気仙地方を支配し、「赤顔」と称していた鬼「金犬丸」の首を刎ねた後、埋めたその上に御堂を建て十一面観音を祀ったという伝説が残る。三陸沿岸は暖流が流れているため内陸に比べて、緯度の割には暖かい。大船渡は釜石より南にあるためでもあるのか、薮椿が多く自生し、太平洋沿岸部の薮椿の北限とも言われており、「椿の里」と呼ばれる。市内の熊野神社境内には樹齢1,400年と言われる日本一の古木もある。この熊野神社の近くには椿館が建てられ、毎年、世界13ヵ国600種類の椿を見ることが出来る。今日はこの椿館に行ってみた。雨模様であったが4月15日まで椿を見ることが出来るとあって、人も思ったより多く来ていた。様々の花の形と色をした椿が見事に咲き誇っていた。時間を気にせず、ゆっくりと館内をめぐり、最後は館内で甘酒を飲んで休んだ。よく見ると、震災後他県からよせられた励ましの言葉が壁に貼られている。昨年7月頃、大船渡市の北の小石浜を抜けて、市街地の北側を見て回った。まだ震災による悪臭が漂っていた。その時はこの椿館のある大船渡市でも南の地域は見なかった。今回、震災後初めてこの地域に来てみたが、大船渡市の南部も被害の跡があちこちで見られた。小さな漁港の防波堤が無惨に倒されてもいた。さすがにもう瓦礫はほとんど見えず、家々の土台だけが残されていた。こうなると以前とは景色がまったく違っており、初めての地を見るようだった。どこかで食事をしようということになり、椿館でもらった大船渡の名物である秋刀魚ラーメンのマップをたよりに、45号線沿いの「萬来食堂」へ行くことにした。道路脇の小さな古めかしい店だったが、初老の店主はひどく親切だった。「さんまうめーメン」なるものを注文した。秋刀魚と梅が使われて、薄くトロミとショウガが効いた変わった味のラーメンだったが、美味しいラーメンであった。一つ間違えれば、癖のある味になって食が進まない可能性もあったかも知れない。しかし、岩手の他の地方同様に適度の薄味になっていて、出汁も十分美味しく飲むことが出来た。雨模様の中で今期初めて梅が咲いているのを見つけて感激した。よく見ると自生する薮椿もすでに咲いている。ただ、やはり海岸部の自生薮椿が津波で数が減っていた。夜はささやかに娘の誕生日を祝った。
華やかに咲く椿

厳しい自然の中で生きている渡り鳥たち

2012-03-30 19:18:12 | 文化
今日は最近では最も暖かい日になった。2~3日後にはまた逆戻りが予想されている。それでも着実に春がやって来る。昨夕甲子川に沿った道路を車で走っていると1羽だけ残っている白鳥の姿を認めた。さらに車を走らせていると対岸の河川敷に3頭の鹿がいるのが目に入った。気持ちのいい夕方だったので、近くの空き地に車を止めて、少し河川敷を歩いた。付近で3人の初老の男性が釜石の方言を交えて、震災当時のそれぞれの状況を話していた。川の流れは緩やかで、水はきれいに澄んでいる。もうさすがに鮭の姿はない。3頭の鹿たちは雌なのか、角は生えていない。河川敷のわずかに芽を出し始めた緑の草を食べているようだった。山のある岸とは反対の河川敷にどうやって渡ったのだろう。今朝出勤時に見てみるともう鹿の姿はなかった。1羽になった白鳥だけが、他の水鳥たちと離れて優雅に流れに乗っていた。そのうち北国へ旅立つのだろうが、どこかで他の白鳥の群れと合流できるのか、心配になる。渡りの鳥たちは何百、何千Kmという距離を毎年往来している。白鳥についてはロシアと日本の共同研究の結果、シベリアから日本へやって来るルートには2つあることが分かって来た。シベリアからカムチャツカ半島を通り、千島列島へ渡った後に北海道に至るルートとサハリンから北海道へ入るルートだ。それぞれ途中で休みながら2週間かけて渡って来る。春にはこれを逆行してシベリアに帰って行く。白鳥にはオオハクチョウとコハクチョウがいるが、コハクチョウは身体が小さいため、少しでも天敵の少ない、出来るだけ環境の厳しい、オオハクチョウよりもさらに北方1,000Kmの極地で過ごす。白鳥は上空3,000mまでの高さを飛ぶことが出来、普段は時速50Kmの早さで飛ぶ。上手く気流に乗った場合は時速100Kmにもなるそうだ。雁行と呼ばれる飛び方で旅をするガンたちは9,000mもの高さを飛ぶことが出来る。世界最高峰の8,844 mあるエベレストさえ飛び越えることが出来るのだ。毎年10月下旬までに北海道に集結した後、11月に本州へ渡って行く。春を迎えた3月下旬に再び北海道に集結して、4月上旬にシベリアに向けて飛び立って行く。6月から7月にかけてシベリアでヒナが生まれ、生まれたヒナも9月から10月には空を飛べるまでに成長し、親鳥とともに越冬地に向けて旅立つことが出来るようになる。渡り鳥たちが方角を間違えないようにどうして飛ぶことが出来るのか、まだ正確には分かっていない。しかし、太陽と星、地磁気、風向き、日照時間などが指標になっていると考えられている。アジサシの仲間であるキョクアジサシなどは冬を南極で過ごし、夏になると北極に渡り、往復の距離は32,000kmにもなるという。当然これだけの距離の移動中には嵐に出会うこともある。毎年何事もなく渡って来ているように見える渡り鳥たちも様々な危険を冒して旅をしている。まさに厳しい自然の中で生きている。文明を手にした人間だけがその自然の厳しさを忘れる。海や山の幸で生計を立てている人の多い三陸沿岸では、それでもまだ自然の厳しさを自覚している方なのだろう。
若草を食む3頭の鹿たち この辺りも津波が襲って河川敷が削られている

優雅な姿を見せるがどこか寂しさを感じさせる1羽だけ残った白鳥

生きている地球

2012-03-29 19:17:02 | 文化
今日はとても気持ちのいい春めいた天気になった。朝は-1度だったが昼には10度を超え、わずかに冷たい風も歩いていると気持ちがよかった。職場の近辺では相変わらず、クレーン車が活躍しており、次々に被災して損傷を受けた建物が壊されて、更地になって行く。まわりにそうした光景を見ながら甲子川まで歩いた。1羽だけ残った白鳥も餌を食べに出かけたのか姿を見せなかった。たくさんの水鳥たちが水中に頭を入れて食事にいそしんでいる。小高い山の中腹にある小学校への坂道を上ると、山茶花が咲いていた。梅も蕾を出して来ている。人を含めて、生物は何があっても、生きている限り、太古から同じ営みを繰り返すのだ。7億~5億年前、ほぼ現在のアジア大陸の位置にロディニアと呼ばれる超大陸があった。ロディニアの東端は海に沈み込み、海底で東から西に向かって移動する海洋プレートがさらに地殻深く沈み込む海溝で、陸地の河川などを起源とする砂や泥の堆積物と、海底のプランクトンの死骸やサンゴ礁、泥などの堆積物によって付加体と呼ばれる新たな塊が形成された。これが日本列島の元となる。付加体は次第に成長し陸地となったが、16,00万年前に付加体で構成された陸地付近の地下ではホットプルームと呼ばれる高温のマントル成分が上昇し、陸地全体が一旦持ち上げられた後、大陸と分裂し、分裂した陸地の間に陥没帯が形成され、そこへ海水が浸入したことで日本海が誕生する。1,400万年前までにはプルームによってさらにフォッサマグナを境として列島が折り曲げられた。日本列島は全体がかっては海底にあったのだ。日本海溝付近では現在も同じような地殻の変動が続いており、列島へは東から西に向けての力が加えられており、太平洋沿岸部は総じて、西へわずかづつだが移動している。2001年06月に国土交通省国土地理院が発表した「水準測量データから求めた日本列島100年間の地殻上下変動」を見ると札幌、仙台、東京、名古屋、大阪などの大都市圏はすべて沈み込んでおり、逆に稚内や秋田、南アルプス一帯、紀伊半島および四国地方の太平洋側などは隆起している。これらの変動には1923年の関東大地震、1944年の東南海地震、1946年の南海地震も起因している。昨年の大地震は東北沿岸分などの地盤沈下をもたらした。地球の地殻で生じるプレートの動きは地中深くで熱せられたマントルがちょうどヤカンの中の水が熱せられて生じる対流と同じ対流を生じるため、その上に言わば浮いているプレートが流される形で、東から西へ動き、太平洋プレートが日本海溝で沈み込んでいる。地球はまさに生きている。太古からのこうした地球の大きな動きの中で、生成の初めからして、日本列島は地球上でも極めて変動の激しい位置の一つに出来上がった列島だったのだ。ある意味では地震が現在の列島を形作って来たとも言える。標高3000mを超える日本アルプスさえ、かっては海底にあった。従って、そこで、海の生物たちの化石が発見されるのも当然なのだ。陸地がホットプルームによって分裂し、日本列島が大陸から分離された時、新しく出来た日本海の海底のさらに深くでは上昇したプルームがあり、列島の日本海側に火山地帯が並んだのだ。大都会の中心では土も清らかな川の流れもなく、まるで地球の表情が見えない。しかし、地方では地球の表情は丸見えだ。地球とともに生きて行かねばならない以上、やはり、常に地球の表情を見ていたい、と思う。
山の日当りのいい南斜面に咲いていた山茶花

想定外の事故は再び・・・

2012-03-28 19:22:23 | 文化
昨日は久しぶりに職場の方々との親睦の席があった。震災直後職場で寝泊まりをともにして手伝ってくれた娘も一緒に出席し、楽しい時間を過ごしていた。そこへ、突然の揺れが襲った。岩手県沖を震源とするM6.4とM5.1の地震が2分の差で立て続けに起きた。その後もM4.8、M4.0、と次第に弱まって行った。今日の午前中にもM4.1の地震が発生している。幸い昨日の地震は津波は発生しなかった。しかし、一瞬、恐怖感に襲われるだけの揺れではあった。昨年の震源よりずっと陸に近い。恐らくプレート境界より陸側にある海底の断層が原因なのだろう。三陸沖で今後も予想されるM9.2クラスの地震はプレート境界よりさらに沖合が震源になる。揺れの規模より、津波の規模の方がずっと大きくなる予想だ。神奈川県の津波浸水想定検討部会は昨日、東海道沖を震源とした1605年の慶長地震のような大地震が発生した場合、最大で鎌倉市では地震発生後80分で14.4mの高さの津波に襲われると報告している。相模湾だけでなく、東京湾でも横須賀市では地震発生後1時間で10m弱の津波に襲われる、としている。東京湾は狭くなっているため、反射した津波が共鳴して波高が予想をさらに上回る可能性もある。宮古市の田老町の「万里の長城」と言われた防潮堤はそうして波高が一層高くなった津波により乗り越えられたことが検証されている。本年1月14日に公表された琉球大学木村政昭名誉教授の地震予測ではそれまでと違って、房総半島沖合南東方向にある3つのプレート境界付近でM9.0クラスの地震が2015年までに起きると変わった。富士山の噴火も同じく2015年までに起きるとされている。太平洋側も日本海側の断層のある地域もともに今後も大地震の可能性はあるものとして、備えておく必要がある。福島第一原発2号機の水位はこれまで東京電力は3mあるとして来たが、内視鏡を使った調査で60cmしかないことが分かった。原子炉を冷やすための冷却水が現在も1時間に8.8トンも流されている。冷却水はどこかへ流れて行っているのだ。また2号機の格納容器内では最大で毎時7万2900mSvもの極めて高い放射線量が計測されている。この場所では人が6分間いるだけで100%死亡する、という。核燃料が原子炉を壊し格納容器にまで溶け落ちたことが原因で、ロボットでも長時間の作業は難しいという。作動を制御する電子回路などが放射線で損傷を受けるのだ。政府や東京電力は30~40年後に廃炉にする予定だが、その実現は困難のようだ。昨年の震災より半年ほど前には原子力安全委員会は「日本では旧ソ連チェルノブイリ原発事故のような、高濃度(ホット)スポットができる事故はあり得ない」、「国内の原発では格納容器は壊れない」と考えられていたことが報じられている。「想定外の事故」が起きたにもかかわらず、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県)周辺で、活断層が3連動しても原発の耐震安全性に余裕がある、とした関西電力の試算を、原子力安全・保安院は本日「妥当」だと判断し、再稼働は政府次第という状況になっている。首相はすでに再稼働の先頭に立つ、と宣言している。電力会社や政府には未だに将来の災害を「想定外」で逃げ切れると考えているようだ。
巨大地震&噴火予想図(木村政昭名誉教授HPより)

梟の神

2012-03-27 19:18:30 | 文化
今朝は-1度だったが、もうさほど寒くは感じなくなっている。かえって気温が上がっても風がある方が寒く感じる。よく見ると職場に隣接する薬師公園の椿も蕾が開き始めている。やはり山の南斜面は日当りがいいので花が咲き始めるのも早い。3月もこの時期になると毎年恒例の官公庁の新しい人事が決る。職場の身内の方で、新しく教職に就かれる方がおられる。岩手県の沿岸部は被災した学校が多く、新任の教師もたくさん必要なのだが、その教師の赴任後の住居も被災のために少なくなっている。そのため県や市は地元出身で実家から通勤出来る学校に配属する人事を執っているようだ。復興庁が盛岡に設置され、その支所が設置された釜石では4月から副市長が2人体制になる。新しく着任する副市長は28歳の財務省主計局の現役官僚だ。一般的には財務省官僚は若い時期に地方の税務署長になると言われているが、着任する官僚は自ら希望して釜石市へ来ることになった。2年間と言う限られた期間だが、どれほどの仕事をしてもらえるだろうか。期待したい。県は今年度中にワカメやカキなどの養殖施設を震災前の6割程度まで復旧させる計画だ。京都新聞によると京都市内でオオサンショウウオの実態調査をしたところ、中国産外来種との交雑種が8割にもなっていた。1970年代に食用に輸入されたものが野生化したのが原因のようだ。犬や淡水魚なども人為的な変化を大きく受けて、自然界が変容している。自然界での変化は長い時間をかけて環境に適応するように営まれて来た。しかし、現代の人間文化がそうした長い時間をかけることを許さず、強引に動植物の環境を激変させて来た。今江戸時代末の探検家松浦武四郎の著作を読み始めたが、アイヌの人たちへの和人の行為もある意味では同じく強引な環境変化をもたらしたと言える。和人がアイヌの人たちに多くの感染症をもたらし、人口を激減させた。北海道の地名はこの松浦武四郎の「北加伊道」からの発案のようだが、「カイ」は「この国に生まれた者」を意味するアイヌ語だ。「この国に生まれた者」が他国者に滅ぼされて行く。東北にはアイヌ地名と言われる地名が多くある。一説では遠野や釜石もアイヌ地名だとも言われている。いずれにせよ東北の先住した民とアイヌとは何らかの関係があったろうと思う。人の歴史では敗者の記録は大部分残されて来なかった。アイヌや東北の先住の人たちは口承で歴史を伝えて来た。それらを近世から近代にかけて少しでも記録に残す努力が一方でなされて来た。松浦武四郎の著作や知里幸恵・知里真志保姉弟を助けた金田一京助の存在は人の文化のあるべき姿を示している。環境保護という言葉はただ今ある自然界をそのまま保護すればいいと言うものではなく、先ず我々がどういう生活を望むのか、もっと言えば、どういう日本を望むのかが問われており、そこから出発して初めてあるべき環境保護が見えて来るものだと思う。現代はあまりに目まぐるしく変転し、生活の中で自分がほんとうに何を望むのか、顧みるゆとりがなくなっている。たまには、アイヌに伝わる梟の神が歌った歌「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」に耳を傾けるのもいいのかも知れない。
しずく

考えられていた以上に危険な列島の中で

2012-03-26 19:15:03 | 文化
朝は晴れていて、出勤直後に職場の裏山の椿の木に久しぶりにゴイサギが休んでいるのを見た。昼前には空模様が変わって、一時だけ小雪が降り、風も出て来た。裏山の斜面に何本かある椿の木の一つで小雪が舞う中を蕾が少し開き始めて、赤い椿の花の色が目に入った。雪が舞っていても春の訪れを感じ、少し嬉しくなる。昨日から今日にかけて、北海道釧路沖から福島県沖までで、M5前後の地震が続いた。日本時間の今朝7時37分には南米チリ中部でM7.2の地震もあった。幸い、津波の心配はなかった。広島大学や名古屋大学、海洋研究開発機構などの共同研究で、房総半島南端から南東に百数十Km以上離れた太平洋の海底にほぼ南北に並行して走る長さ160Kmと300Km以上の長大な新たな二つの活断層が存在することが分かった。海底のそれらの断層の崖の高さは東側の活断層が約2,000m、西側は3,000m超ある。東側の断層は3つのプレートが接する「三重会合点」付近にある。断層全体が連動して動けば、いずれもM8~9の地震を起こす可能性があり、当然津波も発生する。研究グループの東洋大学渡辺満久教授(変動地形学)は「ノーマークで未調査の活断層。強い揺れや津波が関東南部や東海地方に及ぶ可能性があり、早急に詳しく調査するべきだ」、「いずれも大地震を何度も繰り返してきた可能性が高い」と述べた、と共同通信などが報じている。これまで、活断層は、海溝沿いなどで起きる「プレート境界型地震」との関連は低いとみられてきたが、同研究グループは昨年、東日本大震災で動いたとみられる約500Kmの海底活断層を日本海溝沿いで確認している。24日宮城県亘理(わたり)町の郷土資料館で行われた講演で、東北大学東北アジア研究センターの蝦名裕一氏(日本近世史)が1611年の東北沿岸を襲った「慶長大津波」についての古文書の記述と、東日本大震災の被災地調査を比較検証した結果を報告している。古文書に出てくる岩手県山田町や大槌町の寺社の浸水状況などから「慶長大津波の規模は、今回の平成大津波と同程度かそれ以上」だと言う。江戸時代の1596年から1615年までの20年の慶長年間にはM7規模の地震が6回も発生している。1605年には東海・東南海・南海連動型地震があり、1611年には慶長三陸地震があった。いずれも大津波を伴っていた。1596年には伊予(愛媛)と豊後(大分)で中央構造線に沿った地震が続いて起きている。その直後には近畿の活断層で中央構造線の地震に誘発された慶長伏見地震が起きた。慶長三陸地震の3ヶ月前には会津でM6.9とされる直下型の内陸地震が起きている。慶長大津波を引き起こした慶長三陸地震はM8.1とされているが、実際にはそれよりも規模が大きかった可能性があるということだ。こうした慶長年間のように現在もやはり地震の活動期のまっただ中にいるわけである。堆積物やこうした古文書の研究などが進めば進むほどこれまで考えられていた以上の地震や津波が過去に列島を襲って来たことが明らかになって来ている。震災後、こうした研究成果が一斉に出て来た。今回の震災が甚大な被害を与えたことから、こうした研究が加速されたこともあるだろうが、他方で、以前からの研究も過小評価されてきた側面があるだろう。日本全国くまなく原発を配置するためには、過去の地震や津波の規模は大きくては困るのだ。断層もまたかなり過小評価されて来た。原発は決して事故を起こしてはならなかった。しかし、過小評価は一旦天変地異が生じれば、逆に、過大な被害をもたらしてしまう。東京電力柏崎刈羽原発6号機が今日から定期検査入りする。5月5日からは北海道電力泊原子力発電所の3号機も定期検査が予定されている。この時までに関西電力大飯原発3、4号機の再稼働が行われなければ、全国の54基全ての原発が停止する。そうしたくない電力会社や政府は何としても大飯原発3、4号機を再稼働させようと画策している。
葉が落ちた木々が多い職場の裏山で、緑の椿の木が目立つ

ヒヨドリ

2012-03-25 19:18:02 | 文化
昨日も夕方から湿った雪模様になった。日中は午前中からU先生と行動をともにした後、娘は4時過ぎに一旦帰宅した。少し休むと、弟と二人で雪の降る中を5時過ぎに気仙沼へ出かけた。弟が活動するボランティア組織は気仙沼市で英語塾を開くクウェート人のご主人と日本人の奥さんご夫婦の好意でその敷地の一部を拠点としている。昨日、そのご一家とボランティア組織の親睦会のようなものがあった。そこに参加するのが目的で姉弟は出かけて行った。楽しく過ごしたようで、思ったよりも早く、10時半頃には無事帰って来た。ゴスペルを初め、歌の好きな姉弟は唯一自分たちが歌う機会がなかったのを残念がっていた。釜石と気仙沼は片道80Kmほど離れており、夜間には鹿が道路に出ることもある。まして、雪の降る中なので心配していたが、無事帰宅してくれた。姉はよほど疲れたのか帰宅後は早めに休んだ。姉弟の仲は一般的に見受ける家庭の姉弟よりずっといい。今日も午後から二人でショッピングに出かけて行った。東北にやって来てからは、以前いた愛知県ほどには野鳥観察に出かけることが少なくなった。愛知県だと都市公園や海岸付近で十分野鳥を観察可能だった。釜石でも野鳥はたくさんいるのだが、観察場所がどうしても距離のあるところが多くなる。水鳥のたくさんいる川なども川が大きく、水鳥たちとの距離もあることが多い。山へ入れば、迷彩色でカモフラージュしたテントを使って、比較的近い距離で観察可能なのだが、知らない山はつい敬遠してしまう。冬は雪が深く、夏は熊がいるため、野鳥が豊富でありながら、結局、山へは行けていない。昨日、降った雪の状態を見ようと、家の周囲を見て歩いていると、家の台所のドアの上に少しだけ飛び出した雨よけにイソヒヨドリが止まっているのを見つけた。すぐに家に戻って、カメラを持ち出して来たが、その間に、近所の別の場所に移っていた。それでも少し近づいて、何回かシャッターを切った。イソヒヨドリに近づいたのは釜石へ来てからこれで2度目だ。夜になって、休むために2階の寝室のベットに入った。いつものように本を読み始めると、何かネズミがいる時のような音が聞こえて来た。ネズミなどいないはずだし、音も少し違っていた。突然部屋の中を飛ぶ鳥の姿が目に入った。よく見ると日中に見たイソヒヨドリだった。同じ個体かどうかは分からないが、まさしくイソヒヨドリだ。どうやって寝室に入って来たのか、見当もつかない。窓は全く開けていない。ともかく、部屋から外へ出してやらなければならないので、窓を開けて、何度か、手で鳥を追うような仕草を繰り返すうちに、やっと、窓から暗い外へ飛んで行った。外の少し離れたところに見える街灯を目指しているように見えた。イソヒヨドリとヒヨドリの名が付くが、ヒヨドリとは少し種類が違うようだ。ヒヨドリの方は国内ではスズメ同様、珍しくもない、どこにでもいる鳥なのだが、世界的に見ると、この鳥はおおよそ日本に局在する、むしろ、珍しい鳥だ。古くから日本に棲んでいるようで万葉集では「呼子鳥」と詠われているのがヒヨドリだとも言われている。やはり万葉集では保呂之(ほろし)と詠われているヒヨドリジョウゴなど、植物にも何種類かヒヨドリの名が付いている。セキレイとともに太古から日本に棲んでいる貴重な鳥なのだ。
近所の空き家の軒下へ移動したイソヒヨドリ

受け継がれて行く腐敗した人脈

2012-03-24 19:20:32 | 文化
自然は毎年決ったように同じ変化を繰り返す。昨夜は例年通り3月の湿った雪がまとまって降った。この時期の雪なので日中の気温の上昇とともに溶け出して、高い所から滴となって落ちて来る。雪を踏むとシャーベット状であることが分かる。震災時、大量の瓦礫が海に流されたが、カナダ西部のクイーン・シャーロット諸島の沖合約220Kmの地点で傾いた日本漁船が発見されている。ヨットに乗って、潮の流れだけで太平洋を横断した人も何人かいた。太平洋上では、定期的に雨が降り、その雨を飲み水として溜めておき、食料には海から釣り上げる魚をあてる。洋上では魚は簡単に釣れるそうだ。この潮の流れも太古からほとんど変わっていない。先月6日多くの公害問題に国側の立場で関わって来た重松逸造氏が亡くなっている。1945年8月30日、原爆投下後の広島に政府の医学部門の調査団の責任者として東京大学医学部の都築正男教授が着いた。この調査団には当時同学部で血液学を研究していた加藤周一氏も加わっている。都築教授は世界で初めて「原子爆弾症」という病名を使い、原爆症の悲惨な状態を報告書や論文に載せた。しかし、米国の占領軍が日本へやって来ると、原爆に関する研究の発表を禁じた。同教授は「たとえ命令でも研究発表の禁止は人道上許しがたい」と反発したため、1946年公職追放処分を受け、東京大学を退官せざるを得なくなる。この後、都築教授に代わって占領軍の意向に従って原爆の医学的調査を主導したのが公衆衛生学出身の重松逸造氏であった。その後もイタイイタイ病やスモン、原爆被爆者追跡調査に関わり、疫学的に原因物質の因果関係を否定して、国や企業が有利になるよう導いた。チェルノブイリ原発事故後はIAEA(国際原子力機関)の事故被害調査団団長として現地調査を行ったが、「放射能の害は成人には見られなかった。むしろ放射線ストレスの方が深刻だった。放射能ではなくアルコール中毒で死んだほうが多かった」と報告。世界の研究者たちからひんしゅくを買った。1981年から1997年まで放射線影響研究所理事長として、年間100mSv(ミリシーベルト)以下は無害として原発推進を後押しして来た。重松氏の後を継いで同研究所理事長となったのが長瀧重信長崎大名誉教授で、昨年末の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(内閣府有識者会議)において主査の一人として、昨年4月19日に政府が出した年間20mSvは「健康リスクは他の発がん要因と比べ低い」と支持した。長崎大学で長瀧名誉教授の弟子であった長崎大学医学部山下俊一教授は政府の原子力関連委員をこれまで歴任して来ており、昨年3月18日、交通機関が止まった中で福島に現れ、「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます。」と説いて回り、後に加わった高村昇長崎大学医学部教授や神谷研二広島大学原爆放射線医科学研究所所長らと「安全論」を展開した。福島市は3月11日年換算では6.6mSvもあった。国のそれまでの基準は1mSv以下であり、これをそのまま適用すれば福島県はかなりの住民が避難しなければならず、おそらく、福島県は県として成り立たなくなっていただろう。日本学術会議会長の金澤一郎元東京大学医学部教授は「1ミリシーベルトという平常時の線量基準を維持するとすれば、おびただしい数の人が避難しなければならない」と述べている。彼らにはきっと人命よりも貴重なものがあるのだろう。
裏道は雪と水たまりでぬかるんでしまった

人々が認めようとしない太古の東北

2012-03-23 19:17:24 | 歴史
今朝は珍しく朝から気温が4度もあった。明日はまたみぞれが予想されている。気仙沼で今週のボランティア活動を終えた息子がみぞれが予想されている今晩、また夜道を釜石へ戻って来るのではないかと心配になる。北国の春は一筋縄ではやって来ない。釜石へ来た頃、最初に東北に残る文化に接したのは今も東北各地で保存されている石碑と山の神だった。匠の方の広い敷地の背後にある小高い山、かっては中世の館(たて)があったところに巨大な岩があり、そこに山神が祀られていた。その後も釜石周辺の山に出かけるたびに各所でやはり巨石のそばに山神が祀られているのを見た。当初は巨石の存在から山神を当然のごとく男神と捉えていた。しかし、その後、山神は女神であることを知り、あらためて、縄文の女性が尊ばれた時代を思い起こした。東北の遺跡から発見される多くの土偶と言われる遺物は多くが女性である。古事記で述べられる日本列島を生み出したイザナギ、イザナミの儀式は、柱を回って最初は女性であるイザナミが言葉を発したために不具のヒルコを生んだとして、失敗談として扱われている。しかし、この扱われ方は明らかに男性優位の弥生時代以降の見方であり、本来の縄文の元説とは異なるものだと思われる。聖書で描かれるアダムとイブの説話も同じく、アダムの肋骨からイブが生まれ、蛇に騙されたイブが蔑まれた形で登場するが、これも男性優位の視点から後世に改変されたものだろうと考えられる。古事記や聖書は各地に残る説話を集めて再構成されたものだろう。男女二人の神々の説話はギリシャ神話にも見られる。和田家文書では太古の時代に遠くシュメールの人々が東北へやって来た話が記されており、そうした人々によっても、メソポタミアをはじめとする西アジアの説話が伝えられている可能性が強い。和田家文書はその一つである『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』が当初偽書扱いされたが、そこに書かれている東北への稲作伝播が考古学的にも事実であることが明らかであり、さらに日向の族に追われて東日流(つがる)に逃れた安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)が稲と北部九州を淵源とする遠賀川式土器をも東北にもたらした可能性があることを東北各地の遺跡が明らかにしている。その一つである青森県八戸市の245,000平方メートルもの広大な縄文遺跡是川中居遺跡では、最近弘前学院大学地域総合文化研究所の研究によって、これまでに発掘されていた箆(へら)形木製品が縄文晩期にあたる世界最古の弦楽器であることが分かった。従来は紀元前5世紀の中国湖北省の「曾侯乙墓」から出土した10弦の瑟(しつ)が世界最古のものとされていた。最近の考古学上の編年では弥生時代が紀元前900年頃まで遡る可能性があるため、縄文晩期は紀元前1000年頃ということになる。何故東北に突如として世界最古の弦楽器が生まれたのだろう。和田家文書では荒覇吐(あらはばき)の神は遠くロシアのバイカル湖周辺の信仰に発するとされている。縄文時代、東北は西アジアやロシアなどからも人々が往来する文化の栄えた地であったのだ。
屋内で咲いていた椿 日本原産の花で太古の人たちも目にしたのだろう

世界は巨大地震が連鎖する“活動期”に

2012-03-22 19:21:13 | 文化
今日は珍しく予想最高気温が11度になっており、風が出ていても暖かかった。先日のニュース記事では高知県で桜が満開だった。岩手はまだ1ヶ月はかかるだろう。例年より寒さが厳しかったので場合によれば、5月初旬になるかも知れない。職場と娘のNPOの建物とは車で5分とかからない距離なので、娘は時々こちらの職場の9階にある食堂で昼食を摂るために誘って来ることがある。今日も昼休みにやって来て一緒に昼食を摂った。今晩からまたU先生が釜石へ来られて明日から2日間市の職員の方達などにも講演をされるのだ、とその時に教えてくれた。娘も運転手として付き添いながら、U先生のお話を聞きたいようだ。今年は7月から英国ロンドンでオリンピックがあるため、U先生も参加選手のお世話でかなりお忙しいはずなので、こうして釜石へ来ていただけるのはありがたい。現在、家では新聞もTVも見ることはないが、時々はNHK スペシャルの番組で見たいものがある。震災後も同番組はシリーズ「大地震」を特集して来た。恐らく、その第二弾となる「MEGAQUAKE II」が4月から始まる。4月1日は今回の地震で「世界でも類を見ない観測網が、捉えていた膨大なデータ」を元に「巨大地震の知られざる発生メカニズム」が画像化されて再現されるようで、「巨大地震発生の一ヶ月前から本震の震源に向かいながら起きていた無数の微小地震。そして3月11日、宮城沖で始まったM7クラスの地震は、発生から40秒後に予想外のプレート境界の破壊によって際限なく巨大化していった。」様子が描かれているようだ。そして、さらにGPSデータによって、「アメリカ、ニュージーランド、チリ、そして日本の南海トラフや北海道東部など、世界のプレート境界に潜む巨大地震のリスク」に迫り、「“次の巨大地震”の予測研究」も紹介される。4月8日には、「過去の津波の堆積物や巨大津波石の調査からは、世界各地で今回と同じような超巨大津波が数百年の周期で発生していることもわかってきた。」ことが紹介され、日本だけではなく、「世界は巨大地震が連鎖する“活動期”に突入したのではないか」という可能性が示される。昨年4月の米国地震学会でも、M7以上の大地震は、起きやすい「活動期」が存在し、現在がその時期にあたる、とニューメキシコ鉱工業大学のリック・アスター教授らが発表している。地球表層のプレートは互いに連携されており、20日(日本時間21日未明)にメキシコ中部で起きたM7.6の地震も太平洋プレートの動きと関連したものと思われる。東京大学地震研究所の古村孝志教授のシミュレーションによると、これまで南海トラフで起きる地震の想定では、東海、東南海、南海地震の3つが連動した1707年のM8.6とされる宝永地震が最大級とされて来たが、その宝永地震にさらに1605年の慶長地震が連動する東日本大震災タイプが起きた場合、津波の高さは宝永地震の約1.5~2倍に達するという。実際、高知県や大分県の沿岸部で津波堆積物の調査を行った高知大の岡村真教授らは約2000年前に宝永地震を上回る巨大津波が襲ったことを見出している。複数の断層が直下にある首都圏についても今月初め、文部科学省の研究プロジェクトチームは東京湾北部地震での震度を6強から7へ変更した。これにより、建物の損壊比率は数倍にまで跳ね上がるという。平安時代の800年代後半は貞観地震を含んで本州北部から九州まで内陸を含めた広範囲に大地震が多発した巨大地震活動期であった。富士山の噴火も見られた。現代はまさにその時代に酷似している。
富士山噴火による降灰領域 富士山火山防災協議会の富士山火山防災マップより
桜島の事例より1cm 以上の降灰がある範囲で停電が起きると考えられている
(2cm以上10cm未満の降灰域は都心を含め広範囲にわたっている)