釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

自然はほんとうに逞しい

2011-06-10 19:53:38 | 文化
今日は朝は晴れていたが午後から曇って来て、夕方には雨が降り、雷も鳴り、蒸し暑くなった。岩手は日中と明け方では気温の差があり、夜休む時には暑く、油断して少し風邪気味になってしまった。のどが痛く、気分もすっきりしない。早めに薬を飲んで出勤した。職場の仕事も震災以前の三分の一くらいには回復して来た。一緒に職場へ来た娘は市の関連部署にも顔を出し、職場の同僚の方ともいろいろ来週の打ち合わせをしているようだった。午後には職場の階上にある避難所にモデルの冨永 愛さんが慰問に来られたようだが、忙しいスケジュールをこなして行く必要があるためか滞在はわずかだった。大船渡や陸前高田には歌手のさだまさしが来て、支援のコンサートを開いた。避難所もたくさんあるため、その全てを回ることは不可能だが、そうであっても訪問されなかった避難所ではむしろ不満が募っているようだ。特にこれまで一度もそうした慰問を受けることがなく、これからも受ける望みのなさそうな不便な避難所が。有名人の慰問で少しでも元気づけられるのであればできるだけたくさんの有名人が訪問してくれるといいと思うが、その調整が出来ていないので、同じ避難所が重複したりして、結局は取り残される避難所が出て来る。明日で震災から三ヶ月になるが、被災地全体で仮設住宅は予定の半数しかまだ建てられていない。まだまだ避難所生活をしている多くの人たちがいる。先日山田町や大槌町の瓦礫の撤去状況を見て回ったが、釜石よりも作業が早く見えた。しかし、これはどうやら被災の違いによるところが大きいようだ。釜石の場合は建物が壊れた状態で流されずに残っているため作業がはかどりにくいのだそうだ。山田町や大槌町は多くの建物が流されて更地状になっているので逆に作業が早く進められるのだと言う。建物が残っていると少しづつ遺体の有無を確認しながら瓦礫を除去しなければならない。建物も密集しており、尚、作業に手間取る。震災後はそれまでの通勤路だと朝晩渋滞になっているので通勤路を一部変更した。変更後の通勤路には斎場があり、毎日そこが使われているのに気付いた。ただいくつかある遺体安置所の一つである元の小学校の体育館前には少し前まで警備に当たっていた警察官が通勤時に目に入らなくなった。ここに収容された遺体の埋葬が終わったのだろう。夕方職場の駐車場近辺は蒸し暑さの中で蠅がたくさん飛んでいて、これからますます蒸し暑くなって行くので、できるだけ早く瓦礫の撤去を進める必要があるだろうと感じた。夕方さっと降った雨の後西の空が薄らとした夕焼けに染まった。庭の山野草や山木もほとんどが冬の枯れたような状態から甦って緑の葉を伸ばし、花を次々に咲かせてくれている。自然のこうした逞しさを見ていると人間も決して負けてはいられないのだ思える。被災者の人たちがみんな自力で元気に立ち上がれるよう環境づくりをするのが我々の役目なのだろう。国会中継で与野党が首相の退陣をめぐって議論している様子を見ているとどこか異次元のことのように思われて来る。
ネギの花 普通はネギ坊主と言われるが

支援活動の連携

2011-06-09 18:42:23 | 文化
今日も天気は良く、風も出ている。昨日ほどは最高気温も上がらないようだが職場にはクーラーも入った。窓を開けて風を入れた方が気持ちがいい。ただそうするといつもより蠅がたくさん入って来る。職場前の商店街の瓦礫も少しづつ取り除かれ、臭気も全くないわけではないが一時に比べるとずっと薄れて来ている。毎日クレーンやその他の工事の機械の音が聞こえて来る。耳も慣れて来ているのかあまり気にならなくなった。昨日夕方からは娘の携帯が鳴りっぱなしで、夜にかけてまで対応に忙しそうであった。U先生と元事務次官や東京大学の研究者たちとの東京での会合の日程合わせの連絡なども娘が間に入っているので、U先生とも長く話していた。その中で娘にチームリーダー役まで依頼されたらしい。チームジャパン300の三陸沿岸部での支援活動の下準備やチームの誘導などこれからますます忙しくなりそうだ。各市町村の社会福祉協議会やNPO法人とのU先生の連携活動を助けながら、さらに三陸沿岸での支援活動全体の連携を模索しているようだ。来週半ばには再びオリンピック金メダリストの米田功選手やU先生も釜石へ来られ、釜石市長と米田選手との対談が全国ネットのTV局が報道することになっている。その後はU先生は職場の職員対象に研修をされ、米田選手は前回避難所のみなさんから大変喜ばれたこともあって、他の避難所を訪問されるようだ。そのあたりのことも娘は職場の同僚の方や市の担当部署の方などとも打ち合わせているようだ。少人数のあまり顧みられない避難所こそがU先生も米田選手も訪問の意義が大きいと考えられているようだ。仮設住宅もまだまだ不足で建設中だが、釜石だけでも避難所が50を超えるので、全ての避難者の方達が仮設住宅に移るにはまだ2~3ヶ月はかかるだろう。避難所は集落単位で集まっているが、仮設住宅は抽選で決定されて行くため、それまでの集落単位とは構成が異なって来る。避難所生活よりも仮設住宅での生活の方がかえってストレスが高まる。さらに避難所はそれなりのスペースがあるため全体の人たちが集まって話し合うことも出来る。しかし、仮設住宅はほとんどそうした全体が集まる集会所のようなものがなく、各戸バラバラになり易い。仮設住宅に移った時こそこまめなフォローが必要になる。生活も自力でやっていかなければならないので経済的な問題にも直面しなければならなくなる。ボランティアによる様々のイベントも避難所はスペースを確保出来たが仮設住宅だと敷地一杯に住宅が建てられているため確保が難しくなる。互いの交流の場が確保しづらい。先日コメントいただいたO氏がなさろうとしておられるミニコミ紙はこうした仮設住宅の置かれている状況では非常に有意義なものになる。互いの情報の共有や情報源として大きく期待出来るだろう。多くのボランティア活動や自治体とも連携がとれればさらにそれぞれの活動の意義を高められるだろう。
ドイツアヤメ 甲子川沿いの道には今たくさん咲いている

瓦礫の撤去が進められ始めた

2011-06-08 19:32:38 | 文化
今日も昨日に続いて暑い夏日になった。岩手はしかし日陰に入ると風もあって涼しく気持ちがいい。今朝は庭の日光黄菅が咲き始めていた。遠野の福泉寺の山門を潜ったところにもたくさん日光黄菅が咲くので、今週末にはちょっと見てみたい。冬毛のままの犬たちはずいぶん暑そうだ。娘が買って来たすだれを使って日陰を作ってやったがそれでも長い舌を出して喘いでいる。今日は午後から娘とともに山田方面に出かけた。各地区の瓦礫の撤去状況を見てみたかった。釜石の被災した市街地も少し瓦礫の撤去が始まった。海岸沿いの45号線を娘の運転で進みながら、両石地区に行くと、ここは瓦礫の撤去作業にとりかかったばかりだった。鵜住居地区でも大型クレーンがいくつか動いていた。道路ではひっきりなしにダンプが行き交う。今日のように晴れ渡ると風で埃が舞い上がり、暑くて車の窓を開けていると埃が車の中まで侵入して来る。次の大槌町に近づくと釜石の市街地ではだいぶ薄くなった臭気が漂って来る。大槌町は町の周辺部まで臭気が広がっている。広範囲に被災した市街地では以前来た時とは違って瓦礫の撤去が盛んに行われている。しかし海岸に比較的近い所には水たまりが散在していて、道路も破壊されているため、瓦礫撤去のダンプが通る臨時の道路が未舗装のまま使われていた。市街地をまだ警察官が数人単位で遺体捜索に当たっている。警察の大型バス4台が移動中だった。臭気が漂うこうした被災地の中での作業を3ヶ月に渡って繰り返してくれている。警察官たちも最初はマスクを着用していたが、今はもうマスクもしてないようだ。暑さも関係あるかも知れないが。建物がほとんど残されていない平地になった民家跡らしき所ではよく見ると花が添えられている。それらの一カ所で「早く帰ってきて」と青い字で書かれてあった。山田町へ向かう国道沿いには鐘馗空木 (しょうきうつぎ)の薄いピンクの花やアカシアの白い花が緑の中でよく目に入って来た。山田町も瓦礫の撤去が進んでいて大槌町同様警察もまだ捜索を続けている。自衛隊員がノートをとりながら市街地を見て歩いていた。残っている建物には日付が書かれている。チェックが済んだ建物のようだ。山田町も被災地域が広く、残った建物が少なく風が吹くと埃が舞うため散水車が出ていた。車で回っただけでも今日は暑さと埃で気分が悪くなる。いつもの山田町船越の道の駅に立ち寄った。警察官やユニセフの職員、北海道の自治労のボランティア、静岡県の職員などもここで一息入れているようだ。店の中には女子プロの人たちがここを訪問したようで写真とたくさんの励ましの書き込みをした鯉のぼりが飾られている。「絆、IWATE」「絆、YAMADA」と書かれたTシャツまで売られている。トラックや個人の乗用車にも最近はよく励ましや支援への感謝の言葉が書かれていたりするようになった。街の被災しなかった商店などにも書かれていることがよくある。娘が人から聞いた話では遠野で双子の子供が支援の人たちへの感謝の言葉を書いたプラカードを持って道路に立って、支援の車が通るとそれを振っているそうだ。その光景に打たれて支援の車からも励ましのプラカードを振るようになったそうだ。ささやかだがちょっとした気遣いが人の励みになるのだ。
水の溜まりがまだたくさん残っている大槌町の被災地

花と言葉が添えられていた 大槌町市街地

山田町の市街地では瓦礫の撤去が進んでいた

山田町の市街地の側溝をボランティアの方達がきれいにしていた

山田町船越の道の駅 店内の鯉のぼりにはたくさん励ましの言葉が書かれている

過去を真摯に受けとめられるだろうか

2011-06-07 19:34:59 | 文化
今日は朝からよく晴れて気温も高く、予想最高気温が26度となっているが午後の暑さは恐らくそれ以上になっていたと思われる。東京や大阪よりも予想気温が高くなっている。釜石は海や山が近いので風が適度に吹いている。日陰にいると今日などはその風がとても気持ちがいい。職場の裏山の深い緑の中に青空を背景に薄紫の桐の花がよく映えていた。縄文時代末期から弥生時代にかけての遺跡は近畿地方より北部九州の方がはるかに貴重な遺跡が見出されている。しかしそれほどの重要な遺跡も内容に比べて歴史学では軽視されてきた。同じく東北も歴史の中では蝦夷という未開の辺境地として捉えられて来た。東北には北部九州に継ぐ早期の稲作があり、三内丸山遺跡のような巨大集落がすでに縄文前期から中期にかけて存在していた。岩手県二戸市には爾薩体(現在は仁左平)(にさったい)という遺跡の宝庫があり、やはりここでもその遺跡の重要性が顧みられることがない。歴史では全く無視されている。しかし『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』を始めとする青森県五所川原市飯詰の和田家に代々秘蔵されてきたいわゆる『和田家文書』には紀元前からの大陸との交流が盛んで平和が長く維持されて来た王国が東北に存在していたことが記されている。王居は先の爾薩体にもあったことが書かれている。北部九州にも各地の寺社の古文書として独自の王朝の存在を示唆する内容が残されている。東北や北部九州に存在した王朝は万世一系を前提とする現在の歴史学にとって認められる史実であってはならないのだ。そのことが発掘される遺跡よりも重要なことなのだ。それ故に歴史学と矛盾する東北や北部九州の遺跡は無視されて行く。地震学者の神戸大学石橋克彦名誉教授は1994年に『大地動乱の時代―地震学者は警告する』という書籍で歴史上の過去の超巨大地震が周期的に起きており、「技術的、あるいは戦術的な対応では到底凌ぎきれない」『迫り来る大地震活動期は未曾有の国難である』と2005年の衆議院予算委員会公聴会でも表明している。地震考古学者たちも各地に残された過去の巨大津波の堆積層を認めている。1771年にはすでに高さ85.4mもの津波が石垣島・西表島を襲ったことがやはり2005年には報じられている。地中に埋もれた歴史の記録がいずれも時の勢力にとって不都合な場合は無視されて来ている。そしていざその事態が現実になると「想定外」だと平気で語られる。1000年に一度の巨大地震は決して単発で訪れている訳ではない。巨大地震が次々に連動するそうした周期が1000年に一度過去に起きて来たということだ。従って今後は位置と時を変えて巨大地震が起きる可能性がある。「時」は月単位であるのか、年単位であるのか誰にも予測がつかない。明日起きるかも知れないし、7~8年後になるかも知れない。しかし、いずれはそう何十年も先ではないだろう。石橋克彦名誉教授はそのことをまさに何十年もかけて訴えて来られた。特にそうした危険が迫っている日本列島に50を超える原子炉が設置されている危険を訴えられて来られた。三陸の沿岸部の「復興」が始まりかけている。ここでも今回の震災の教訓が十分学ばれているか試されるのだろう。石橋克彦名誉教授の言われた「私たちの国土、あるいは社会経済システムというものの根本的な変革が必要ではないでしょうか」と言う提案はこの「復興」にも当てはまるだろう。
撫子(なでしこ) 唐撫子に対して大和撫子と言われ、それが日本女性の美称として使われて来た

相互協力が何故出来ないのだろう

2011-06-06 18:59:29 | 文化
今朝は雲一つない良く晴れたいい天気だった。周囲の緑も日一日と深くなって行く。昨夕は風が気持ち良かったので娘と二人でお気に入りの散歩コースを歩いた。道沿いに咲く花を眺めながらのんびりと川風に吹かれながら歩いた。お年寄りたちが立ち話をしたり、花の手入れをしたりしている。公園の仮設住宅にも人がもう入っている。時々鴨たちが驚いて飛び去って行く。上空ではミサゴが餌を探しながら川上に向かって飛んで行く。オオヨシキリがあちこちで甲高い声を上げる。カジカガエルのきれいな声も聞こえて来る。夕暮れの犬を連れた人たちの散歩姿もある。川の流れの音も気持ちがいい。コースの端には個人宅でやっている焼き鳥屋がある。美味しい臭いに誘われて二本づつ焼き鳥を買って歩きながら食べた。遠くに霞んだ愛染山を眺めながらの焼き鳥は格別に美味しい。郷里の子供の頃の郷愁を感じる風景だった。釜石の被災地域の瓦礫はまだ除去されていないので被災場所では蠅やカラスが群がるようになって来た。これから梅雨や初夏の暑さがやって来るとますます衛生上の問題が起きて来るだろう。隣接する大槌町や山田町の瓦礫はもうかなり除去されて来た。これらの地域は釜石以上に被災範囲が広い分、瓦礫の除去が急務だったのかも知れない。山田町では仮設住宅に入った人たちが早く元の土地に家を建てたいようで町に問い合わせたところ、町としてはまだ復興計画が出来ておらず、仮に元の土地に家を建てても電気やガス、水道などが敷設されていないし、いつ敷設されるかも定まっていない。大槌町は残された土地が少なく、仮設住宅の建設用地にも困っていて、釜石市の土地を借り受ける必要があり、釜石市に直接依頼せず、県へ依頼してしまった。釜石市は県から言われて了解はしたが、以前からの大槌町との軋轢もあってあまり快くはなかったようだ。江戸時代には大槌町に代官所があり、釜石はその代官所の支配下にあった。大槌町はそれを誇りにしているようで、そのことがかって持ち上がった釜石市との合併話を頓挫させた。釜石市は今回の大槌町の被災については従ってあまり積極的には協力しようとはしない。まして大槌町が県に直接依頼したとなるとますます反発するだけである。自治体同士のこうした軋轢は被災者とは何の関係もないはずなのだが。釜石市でも地域によっては未だにかなり不便な生活を強いられているところもある。三陸沿岸はリアス式海岸になっているためこれまでは豊富な漁場を提供して来てくれたが、リアス式海岸はそれだけ多くの半島を造り出しており、半島には少ない戸数の集落が散在する。何とか住居が確保出来ても車を流された高齢者などは買い出しが大変だ。仮設住宅に入った人たちの中にも職と家を失った人たちがいて、失業保険が出る間はいいが、それが切れると避難所と違って、食費や光熱費を負担しなければならないので、食事にも困窮する可能性も出てくる。かと言って、職は今の釜石ではそう簡単には見つけられない。そうした不安や仮設住宅の後どこに住めば良いか困っている人たちが多くいる。釜石市も普段の業務の上に支援と復興が重なり、被災者の現状に十分には対処し切れていない。県や国の助力がどうしても必要なのだが今の国にはあまり期待出来そうにない。
庭の梅花卯月(ばいかうづき)

自分たちの手で「復興」を

2011-06-05 19:32:24 | 文化
今日はあまりすっきりしない天気だ。昨日ほどは暑さを感じないが。家の中にいると小鳥たちのさえずりが聞こえて来て心が和む。庭の山野草たちの可愛い花を見ていても気持ちがいい。休日ののんびりとした一時がこうした小鳥の声や山野草の花に囲まれて尚寛いだ気分にさせてくれる。時折刺して来る日射しも夏の近付きを感じさせる。庭にいる大型犬たちはまだ冬毛のままなのでひどく暑そうだ。広く茂った紫陽花が夏の百合たちに覆いかぶさって来たので少しだけ手入れをした。今月の終わりにはこの紫陽花も咲き始めるだろう。岩手では紫陽花も一旦咲くと9月の末ぐらいまで見ることが出来る。ウグイスも8月初めくらいまでは鳴いている。この1週間忙しくU先生と行動をともにした娘も今日はたくさん撮った写真の整理に苦労している。デジタル写真は便利なのだがフィルム写真と違ってメモリさえ容量が大きいと何枚もの写真を続けて撮ることが出来てしまう。それだけ後で整理するのが大変になる。震災後をほとんど釜石で過ごしている娘は避難者への支援活動のかたわら、岩手の自然や人々のすばらしも少しづつ分かって来たようだ。自然の豊かさはもちろんだが釜石近辺で出会う人たちのこだわりの仕方にやはり気付いて来た。産直には山菜だけでなく地域のこだわりの品も並べられている。蜂蜜も様々な花の蜂蜜があり、石鹸のような日常品にもこだわったものがある。釜石は水もいい水があり、その水にこだわった銘酒などもある。橋野の水を使うと普通の茶も高級茶に変わってしまう。巨匠や匠がたくさんいることも知って驚いている。交通が不便で人の出入りが少なかっただけに目前にあるものへのこだわりが生まれたのではないかと思う。いい意味で人の文化が育っていると思う。ただ残念ながらそうしたことを地元の方々が自覚されていない。先日同じ職場を退職されて現在地元でNPO法人を立ち上げて復興活動にかかわっておられる方と話をする機会があった。その方はそうした釜石の良さを認識されていてそれを何とか今後の釜石の復興に生かせないか思案されていた。遠野の産直などは農家だけではやって行けないことを自覚した人たちが独自の生活手段として上手く活用出来るようになってきているそうだ。漁業の盛んな釜石だと漁師の方たちもこうした産直形式を農家とは違った形で工夫できないものだろうか。以前にも書いたが釜石周辺にはいくつかの高原があり、ほとんどが有効に活用されていない。そうした高原地帯も今後の釜石の復興の一環として組み込んで行くといいのではないかと思う。釜石は新日鉄という巨大企業に頼り切った町づくりが続いて来た。その結果として自力で町づくりをする発想が養われて来ていない。今回の震災による復興はその意味ではいい機会だと思う。再び他に依存した町づくりにならないように自分たちで町づくりの試案を策定して行く必要がある。そうしてはじめて真の「復興」と言えるのではないだろうか。すでに多くの若者や働き盛りの人たちが職を求めて内陸に移って行った。そうした人々を釜石へ留めるためにも今「復興」を真剣に考えねばならないだろう。
近所の仮設住宅のそばに咲くアヤメ

のんびり休養するのもいいかも知れない

2011-06-04 18:09:02 | 文化
昨日娘は宮古市へU先生の組織におられるチームの方たちと宮古市のボランティア活動に出かけたが、宮古市は被災の程度が他市町村より軽かったせいで市当局は現地でのボランティアに活動を任せっきりになっているようで被災者たちの現状を市の担当者からは聞く事が出来ず、ボランティア活動もできないままチームが盛岡経由で東京へ帰ってしまうことになった。仕方がないので娘は盛岡までチームのレンターカーに同乗させて頂き、盛岡からJRの「はまゆり」に乗って釜石駅まで戻って来た。宮古から釜石へは直通の交通機関が途絶えているのでどうしようもない。ひどく遠回りを強いられてしまったが、それはそれで楽しんだようだ。今週はスケージュールで詰まっていて疲れてしまったようだ。今日は山菜があるうちにのんびり産直周りをしたいと言う。釜石にも釜石自動車道の少し手前にあるファミリーマートのところに産直があるがこれまでは一度も立ち寄ったことがなかった。今回は娘の希望で最初に立ち寄ってみた。ここでもアツモリソウが販売されていて、やはりネットで見るより安い。さすがに産直だけある。娘が山菜を物色している間に少しだけ置かれた山野草を眺めていた。山菜と山野草を買って次は遠野の風の丘に向かった。娘の運転も気のせいか少しは上手になって来たようだ。遠野に入ると気温が26度になっていて窓を開けて風を入れると気持ちがいい。風の丘は相変わらず次々に車がやって来る。前回とはまた違った山野草が置かれていた。アツモリソウも同じ所に並べられている。最初は外に置かれている山野草を丹念に見て歩いた。いくつかめぼしい山野草を見つけて先に購入してしまった。店内もまだ山菜が売られていて、市内の人だと分かる人もそこそこ買っている。ボランティアらしき人たちも見受けられた。買い物が終わってから周囲を見てみると自衛隊の迷彩服を着た人が多くいる。駐車場のバスから下りて来ている。恐らく交替要員なのだろう。女性隊員も何人かいるが見たところ身体付きが華奢でとても自衛隊員のようには見えない。履いている隊員用の分厚いブーツが重そうに見えた。先月から自衛隊も縮小されるような話があったが、現在のところ釜石市内の自衛隊の基地では車両の数も以前と変わらないように見える。上空を自衛隊のヘリが今でも飛んでいる。帰りには上郷の産直にも立ち寄った。ここでも山菜と山野草を買ってしまった。山野草が200円前後の値段で売られているのでついつい手が出てしまう。マイクロバスでやって来た初老の女性たちが賑やかに産直へ入って行く。釜石自動車道へは入らずにそのまま直進して赤羽根峠の産直にも行くことになった。娘によると赤羽根峠の産直はちょっと他の産直と違っていて、気に入っているのだそうだ。遠野や釜石は南部藩だが赤羽根峠からは伊達藩であった住田町になる。長い江戸時代の文化の差が残っているのかも知れない。ここでも山菜を少しだけ買って、しばらくは山菜尽くしだと宣言された。
遠野の道の駅、風の丘

自衛隊員を乗せたバスも着いていた

店内には地元産のものがたくさん並べられている。壁にはアテルイの面が・・・

裏のデッキでのんびり休む隊員たち

デッキからは猿ヶ石川の流れが見える。遠くには夏雲が立ち上っていた。

報じられない危機

2011-06-03 12:59:00 | 文化
今日は久しぶりに晴れて気温も上がり気持ちのいい日になった。甲子川からはオオヨシキリの甲高い声が聞こえて来る。娘はU先生の別チームとともに宮古市でのボランティア活動に出かけた。出かけた直後にやや長めの余震があったので少しだけ不安がよぎったが、もう娘も警戒心は十分出来ているだろうと考えた。周囲の山々の緑が日増しに濃くなって行くが、これらの山も放射線の汚染からは逃れられないのだと思うと怒りすら覚えてしまう。政府やマスコミは相変わらず福島第一原発があたかも危険なく推移しているような情報しか流さない。文部科学省が公表する各地の放射線量のデータも専門家から見るとまるででたらめな測定法によるものでほとんど意味をなさない。発表は単に文部科学省に集積されて来る各地の自治体が基準のない自治体毎のバラバラな測定法に基づいて出て来たデータを出しているだけだ。測定高は大部分の自治体で人の高さより遥かに高い所に設置された測定器が使われていて、専門家の間では常識である人への影響を測定するのに適切な1mの高さでの測定を実施しているところが見られない。献身的な専門家たちによるデータの公表値(放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリング)によると各地の放射線量は確実に文部科学省の公表値より高い。5倍の数値になっているところもある。水産庁のHPでも海に流れた汚染水は希釈され、食物連鎖で濃縮は生じないかのような記載を平気で出している。5月18日付けの電気新聞「時評」に寄稿した日本原子力技術協会最高顧問石川迪夫氏は「溶融炉心が吐き続けるガス(放射性物質)が冷やされて周辺の冷却水に混入し、今もその濃度を高め続けている。」として、「その濃度だが、日本原子力の草分け、原研OBが集まっての(福島)原発対策検討グループの検討結果では、破損した3基の原子炉が持つ放射能の総量は、古い単位で恐縮だが、コバルト60に換算して約十数億キュリーと推定している。その僅か1%が混入したとして、冷却水が持つ放射能量は1千万キュリーにもなる。これはとんでもない恐ろしい量なのだ。」と述べている。「1千万キュリーとなると、それはもう、感覚外だ。10円(10キュリー)を遣り繰りしている貧乏人に、1千万円を都合せよと言うに等しい。さすがの原研第一世代も、この大量の汚染水を循環させて安定冷却に導くことに二の足を踏む。」冷却のための海水の注入についても「これは燃料と等量の塩が炉心に混在していることを意味する。この大量の塩が炉心にどう作用し、どのような性状の物体を作っているのか、僕には見当がつかない。」と続けている。「原研OBは、塩による配管や設備の腐食進行を心配する。・・・・現存設備に腐食が生じれば、高汚染水が外部に漏れ出す恐れすらある。」5月11日には3号機から高濃度汚染水が流出したことも報じられている。海水からは基準値の1万8000倍のセシウム134が検出されている。グリーンピースがオランダ政府を通じて海洋汚染の実態調査を申し出たが政府はそれを拒否している。(グリーンピースの行動には大いに問題はあるが)では誰が海洋汚染を調査するのだろう。あまりにも素人だましとしか思えないような記事を書く水産庁では信頼出来ない。5月22日には東京電力は1号機だけでなく2号機、3号機でもメルトダウン(炉心溶融)が起きていることを認めた。京都大原子炉実験所の小出裕章助教授(原子核工学)はすでに再臨界に達している可能性もあることを指摘されている。コントロール可能な状況での再臨界とは全く問題が異なる。緑豊かな三陸沿岸部は豊富な漁場を作り出して来た。その三陸の海が放射線で汚染されることを思うと、東京電力や政府のでたらめさに暗澹となる。何のための電力なのか。誰のための政府なのか。いずれにも住民の生活、生命を守る姿勢を感じることが出来ない。被災者の現状を見ないで政争に明け暮れる政治家たちには被災者から多くのブーイングが発せられている。
庭のエビネ 日本原種の蘭科の植物

現地に歓迎される慰問

2011-06-02 22:15:26 | 文化
今朝は釜石の唐丹地区の小白浜から職場に来られた高齢の方と話す機会があった。家の一階部分まで津波でやられたそうだ。強い地震の後最初は潮が引いて海底が覗いた。漁師の多いこの地区では普段から小さな津波は経験済みだったそうで、今回も皆が高いところへ避難したが、この方の家より低地にある50軒ほどの家は完全に波に呑まれてしまった。湾内で大きな渦が出来て、その渦の中に流された車が次々に引き込まれて行ったそうだ。波は真っ黒であっと言う間に陸に上がって来て逃げる人の足が簡単にとられて、倒れて行ったそうだ。幾人かは他の人が手を取ってくれたがそのまま波に引かれて行った人もいたと言う。難を逃れた人たちは内陸の花巻の古い温泉地に移って行き、話をお聞きした方は残って家族とともに1階の瓦礫を除いて、きれいに何度も洗って最近やっと臭いもなくなって来たと言う。食料は残っていた玄米だけを10日間食べていた。温泉地に避難した人たちは最初から毎日ちゃんとした食事が振る舞われていたそうだ。今ようやくその人たちも戻って来て仮設住宅へ移っている。船も流されてしまって、若い人ほどもう漁業をやる気力が失せているそうだ。この方の話を聞いている間にも予定していた元オリンピック金メダリストの米田功選手が職場の慰問に来て下さっていた。通常の有名人の慰問とは異なり、職場の一人一人に丁寧に対応され、求めに応じて一緒に写真を撮ったり、サインをしたり、予定の3倍もの時間をかけて慰問して頂いた。職員も、特に、若い職員たちは大いに元気づけられたようだ。なかなかの好青年で真摯な態度に皆心を打たれた様子だった。震災直後の辛い日々の心身の疲れもいくらかは軽くなったのではないかと思う。職場を離れる直前にこちらにも声をかけていただき、米田選手の金メダルを首にかけて頂いた上で味の匠の方と米田選手と三人で写真を撮って下さった。後で自分の机の上を見てみると米田選手のサインと写真が入った色紙まで置かれてあった。米田選手はこの後釜石市内の二カ所の避難所をU先生と娘とともに味の匠の方の運転で回られた。午後7時20分の最終の新幹線で東京へ戻らなければならないので、時間が心配でならなかった。当初の予定では帰りも釜石駅から4時前の電車で花巻に向かう予定だったが、とても間に合いそうにはなく、結局、大槌町まで回られたので、味の匠の方が娘とともにU先生と米田選手を車で花巻まで送って行くことになった。米田選手もかってU先生のメンタル・トレーニングを受けられ、見事金メダルに輝かれた。現在は米田選手もU先生の組織に所属されているようだ。U先生の方針通り、現地がほんとうに喜べ、励みになる慰問を実践されておられる。やはりここでもU先生の長い被災地との付き合いの経験が生かされているようだ。
釜石の被災の象徴である陸に上がった船の前で。(左からU先生、味の匠の方、米田選手、中村先生)

被災した両石地区で

避難場所の上栗林集会所で、ストレッチ体操をすすめる米田功選手

お年寄りも一生懸命だ

みなさんがまじめに教わっている

「被災者」のためのボランティア

2011-06-01 21:36:17 | 文化
2~3日まえから気温が再び下がって来て、暖房を入れるようになった。昨日は娘の関係するカウンセリング組織のトップのU先生にまた釜石へ来て頂き、職場の一室で釜石市の保健士の方たちを中心に研修をやって頂いた。今回も非常に好評で参加した方々も喜んでおられた。昨日はU先生に匠の方が宿を提供して下さったので、夕方からは匠の方のところへお邪魔させて頂いた。この日もふんだんな山菜料理で歓待して頂き、U先生もその美味しさに驚かれておられた。U先生の率いるチームはすでに石巻市で震災後3週間目からボランティア活動を展開されていて、岩手県下でも釜石市中心に沿岸部に長期的にボランティアチームを投入されようとされている。ただ釜石は交通の便が悪く、これまでU先生は2時間離れた花巻市や北上市、仙台市などに泊まられて来られたのでどうしても活動に時間的な制約があった。今回はスケジュールの都合もあって匠の方から宿を提供して頂いた。味の匠の方ご夫婦も交えて、釜石の両石地区の凄まじい津波の勢いが撮られているビデオなども見せて頂きながら、貴重なお話も聞かせて頂いた。今朝はU先生を匠の方のところへお迎えに上がり、職場で現在NPO法人を立ち上げ、街の復興に励まれておられる元同じ職場におられた方と午前中一杯互いの情報を交換され、今後の連携を約された。釜石へU先生がこられると娘もU先生の助手として常に同行し、精力的に動いている。午後は県立釜石病院の大会議室で会場一杯の聴衆を前にしたU先生の研修に初めて参加させて頂いた。2時間に渡る研修でワークも交えて参加者が真剣に聞き入り、具体的な質問にも適切なアドバイスをされておられた。現場で実際に被災者の方々と接する人にとっては非常に有益な研修だと思われた。研修を終えると、明日から山田町のボランティア活動に入られるチームの方々と合流して、職場に戻り、そこで明日からの打ち合わせもオブザーバーとして参加させて頂いた。打ち合わせ後は合流したチームとともに花巻のホテルに向かわれた。明日はU先生は2004年アテネオリンピックの体操の金メダリストである米田功元選手と一緒に釜石へ戻られ、被災した我々の職場やいくつかの避難所を回られる。ほんとうにU先生の活動には頭が下がる。ハードなスケジュールをこなす体力にも感心させられる。今週末には別のティームが初めて宮古市に入られるので娘もそれに参加させて頂けることになった。阪神大震災やオリンピック選手の公式メンタル・トレーナーの経験を活かして被災者の負担にならないボランティア活動に心がけられ、被災者が今ほんとうに必要とするものを探り出すところから入られる姿勢には感心させられる。多くのボランティアに全国から来て頂いているが、中には被災者や自治体に負担になるボランティアの押しつけもあるようだ。岩手は保守的な県民性もあって簡単には外部からの未知の人たちへは心を開かない。高齢になれば尚その傾向が強い。安易なボランティアは現場で拒否反応に出くわしてしまう。物資や体力の支援の時期が過ぎた現在は一層、被災者の心に留意する必要がある。
匠の方の奥様のすばらしい山菜料理を堪能されるU先生(左端)

今朝匠の方の庭先で

県立病院大会議室一杯の聴衆を前に話されるU先生

ドクターも真剣にワークに取り組んでいた

8時間かけて東京から合流した新たなチームとの打ち合わせ