釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北の「えみし」

2011-06-28 19:47:09 | 歴史
曇天の中で時折日が射す一日だった。職場の裏山ではメジロの群れが飛び交っていた。隣接するキリスト教会には相変わらず多くの支援の人たちが訪れている。金髪の外国人も何人かいた。釜石の仮設住宅には日赤からの電化製品以外にも北欧家具で有名なIKEAからも食器がふんだんに寄付されているようだ。しかし気仙沼出身の職場の伝統の匠の方の話だと気仙沼では自宅に戻った被害にあった人たちの間では食器が逆に不足していると言う。IKEAの寄付は仮設住宅がどうも対象のようだ。避難所から自宅へ戻った人たちには支給されないのだ。被災した全ての人に行き渡るわけではない。このあたりも現場の状況が把握されないで支援が行われる矛盾が感じられる。先日娘の知人が大阪からボランティア活動に釜石へ来られた際、釜石がいかに自然が豊かなところか話をさせていただいた。当分は海の幸が期待出来ないのが残念なのだが。あらためてそうして釜石の自然の豊かさについて考えていると、ふと「えみし」と呼ばれた東北のことを思い出してしまった。かって青森県の津軽に先住した阿曽部族もアソべの森に住んでいて岩木山の大噴火により大部分が犠牲となった。残った阿曽部族や津保毛族を統一したのが「筑紫の日向の賊」に追われて津軽に逃れた安日彦・長髄彦兄弟であった。『東日流外三郡誌』の著者秋田孝季はこの「筑紫の日向の賊」を神武だと考えたようだが、古田武彦氏は神武ではなく天孫降臨のニニギであるとされた。佐賀県唐津市にある縄文時代晩期後半の菜畑遺跡の水田跡や弥生時代前期の福岡市博多区にある板付遺跡の水田跡のある地域に壱岐対馬領域にいた天族である天照の命により孫のニニギが攻め入った。板付遺跡には吉野ケ里遺跡で知られるようになった外的防御のための二重の環濠も造られていた。このとき水耕による稲作を行っていたのが安日彦・長髄彦兄弟たちであり、稲作技術を持って津軽に逃れた。その稲作が青森県の弥生時代前期の砂沢遺跡や弥生中期の垂柳遺跡の水田跡として遺された。実際、青森県の水田遺跡に見られる技術は板付遺跡のものと同じだ。神武が大和に侵入する直前に先住の者たちをだまし討ちにより勝ったことを祝って歌った「愛彌詩(えみし)を一人(ひだり)百(もも)な人人は云へども抵抗(たむかひ)もせず」(えみしは一人で百人分強いと人は言うけれど抵抗もしない)は古田武彦氏は神武のたちが歌った他の歌同様に北部九州での歌であり、さらにこの歌は天孫降臨時にニニギたちが歌った歌だとされる。すなわち菜畑の縄文水田や板付の弥生初期の水田を築き、ニニギに侵略された安日彦・長髄彦兄弟がまさに「愛彌詩(えみし)」なのだとされる。この時代は中国では周から漢にかけての時代であり、北部九州の水耕稲作を中国から伝えられた際に当然文字も一緒に伝えられたはずで、美辞である「愛彌詩(えみし)」はニニギの侵入以前から北部九州の水田地帯に先住していた人々が自らに付けた呼び名であるとされる。その「愛彌詩(えみし)」が中国の史書に載せられたとき「蝦夷」に変えられた。「遥かなる東夷」という意味合いだ。「一人(ひだり)」は「ふたり、みたり、よたり」と同じ数え方で濁音となっていて、この濁音も宮沢賢治の『雨にも負けず』にみる東北の濁音に共通していると考えられておられるようだ。
タンポポの穂種 東北ではタンポポが春から秋にかけて長く見られる

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