珍しく昨夜から雨になっている。庭の雪も半分以上が融けた。甲子川の白鳥たちも雨に打たれながらもいつもの位置に留まっていた。雨になるということはそれだけ気温が上がっていると言うことだ。今日一日雨が降ってくれれば庭の雪はみんな無くなってくれるだろう。子供の頃に初めてロープウェイに乗ったのが広島県尾道市にある千光寺のロープウェイだった。今でもその千光寺の周りのむき出しの大きな岩や眼下に見える尾道の街や瀬戸内海の景色が脳裏に浮かび上がって来る。そして何故だかその時作家林芙美子の名前を覚えた。その記憶された名前と後にTV番組で聞いた「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」の歌が結びつき忘れることのない記憶が維持された。記憶では林芙美子ー尾道ー「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と、その後に追加された『放浪記』が自分にとっての林芙美子の全てであった。最近昼休みに職場から甲子川のカモや白鳥を見に出かけるが、その途中で偶然林芙美子の名が書かれた標識が目に入った。どうして釜石に林芙美子の名が・・・・。調べてみると林芙美子は太平洋戦争が始まる前に小説の取材のために釜石を訪ねていた。その取材をもとに小説『波濤』が1939年朝日新聞社より出ている。また同じ年に松竹大船撮影所でその小説を原作として同名の映画が製作されている。戦前の製鉄所が栄えていた釜石の街を主人公の口を借りて「釜石は東北の上海のような街だ」と言っている。林芙美子は1928年長谷川時雨が主宰する女性文芸誌『女人芸術』への寄稿がきっかけとなって作家として独り立ちが可能となった。そのきっかけを与えた長谷川時雨自身も1901年から3年間釜石に住んでいる。怠け者の夫のために仕方なく釜石へやって来たようだが。明治政府が殖産興業を掲げて以来製鉄は国策としても最も重要な産業であった。戦前の釜石はその意味でも戦後とは大きく異なっていただろうと思う。その重要な産業である製鉄の街であった釜石へは様々な人々が全国からやって来ていたのだろう。そこにはまた多種の人間模様も見られたことだろう。実際、長谷川時雨にとっての釜石の3年間は習作のための良き期間でもあったようだ。
製鉄所が無くなり自然が回復して白鳥も飛来するがそれを理解している住民がどれだけいるのだろう・・・