釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

釜石を訪れていた意外な小説家

2011-02-18 12:55:24 | 文化
珍しく昨夜から雨になっている。庭の雪も半分以上が融けた。甲子川の白鳥たちも雨に打たれながらもいつもの位置に留まっていた。雨になるということはそれだけ気温が上がっていると言うことだ。今日一日雨が降ってくれれば庭の雪はみんな無くなってくれるだろう。子供の頃に初めてロープウェイに乗ったのが広島県尾道市にある千光寺のロープウェイだった。今でもその千光寺の周りのむき出しの大きな岩や眼下に見える尾道の街や瀬戸内海の景色が脳裏に浮かび上がって来る。そして何故だかその時作家林芙美子の名前を覚えた。その記憶された名前と後にTV番組で聞いた「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」の歌が結びつき忘れることのない記憶が維持された。記憶では林芙美子ー尾道ー「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と、その後に追加された『放浪記』が自分にとっての林芙美子の全てであった。最近昼休みに職場から甲子川のカモや白鳥を見に出かけるが、その途中で偶然林芙美子の名が書かれた標識が目に入った。どうして釜石に林芙美子の名が・・・・。調べてみると林芙美子は太平洋戦争が始まる前に小説の取材のために釜石を訪ねていた。その取材をもとに小説『波濤』が1939年朝日新聞社より出ている。また同じ年に松竹大船撮影所でその小説を原作として同名の映画が製作されている。戦前の製鉄所が栄えていた釜石の街を主人公の口を借りて「釜石は東北の上海のような街だ」と言っている。林芙美子は1928年長谷川時雨が主宰する女性文芸誌『女人芸術』への寄稿がきっかけとなって作家として独り立ちが可能となった。そのきっかけを与えた長谷川時雨自身も1901年から3年間釜石に住んでいる。怠け者の夫のために仕方なく釜石へやって来たようだが。明治政府が殖産興業を掲げて以来製鉄は国策としても最も重要な産業であった。戦前の釜石はその意味でも戦後とは大きく異なっていただろうと思う。その重要な産業である製鉄の街であった釜石へは様々な人々が全国からやって来ていたのだろう。そこにはまた多種の人間模様も見られたことだろう。実際、長谷川時雨にとっての釜石の3年間は習作のための良き期間でもあったようだ。
製鉄所が無くなり自然が回復して白鳥も飛来するがそれを理解している住民がどれだけいるのだろう・・・

津軽地名

2011-02-17 12:45:04 | 歴史
昨日は晴れていて寒さは無論まだ続いているが日射しはもう春の日射しに変わっていることが感じられた。夕方愛染山にかかる雲が夕日に染まって遠くをジェットの飛行機雲が白く筋を引いている光景を眺めながら自然の作りだす美しさに感動していた。反対方向にはもう月が昇って来ていた。和田家文書には地名の由来や地名の変遷なども所々に記されている。ネットで調べたものと異なっていたり、ネットでは調べ切れない地名由来なども多い。以前からこの和田家文書にもかなりの頻度で出てくる十三湊(とさみなと)という地名が気になっていた。現在津軽半島の中央部で西岸に位置して岩木山から流れ下る岩木川が流れ込む十三湖(じゅうさんこ)が残っている。和田家文書によれば太古にはこの十三湖の周囲に阿曽辺族、津保化族が、また荒覇吐族が集った場所であり、後には安東水軍が拠点とした処でもある。十三湊や十三湖の「十三」にいかなる由来があるのか気になっていた。『市浦村史資料編 上巻』の『東日流外三郡誌』「東日流起源大要」によると東日流(つがる、とかる、の読みがある)は古称で十三浦と言われ、「西海を吹浦、東海を卒止浦、北海を有間浦、入江を安東浦と称しける。是に属して安方浦・神御田浦・白鳥浦・飛竜浦・石化浦・田光浦・金井浦・舞戸浦・浮田太刀浦(長砂浦)とも号す。以上十三浦を以て東西北東海浜に湊を成す。」として十三湊や十三湖の「十三」の由来が書かれていた。また同じく『市浦村史資料編 上巻』の『東日流外三郡誌』「日高見国東日流十三水門古事記」では「東日流とは古語にして、強固なる日の光る処の意にして、ツパン亦はツパル、次にはツパリとなり、次にはツカリ亦はツガルと称されられたり。漢字に依りて東日流・津刈亦は津軽と書き遺りきは何れも語音より発する意趣にして同意なり。」とある。13世紀後半にアジアを訪れ、モンゴル帝国のクビライにも謁見したと言われるイタリアヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロが著した『東方見聞録』は「黄金の国ジパング」を紹介している。ここで言われる「ジパング」が後の「ジャパン」になったことから、一般には「黄金の国ジパング」の「ジパング」は日本のことを指すと解されている。しかし、和田家文書に登場するマルコ・ポーロが元寇の役の時に飢饉で苦しんでいた東北に元の軍事物資を援助するよう口添えしたということを考え合わせると、津軽の古称「ツパン」が「ジパング」の実体であった可能性が考えられる。
夕焼けはたちまち色褪せて行く。そのグラーデーションに見とれていると飛行機雲が・・・
月がもう昇って来ていた

豊間根に逃れた安倍氏

2011-02-16 12:57:34 | 歴史
北海道と同じく東北の晴れた夜空は星がきれいだ。昨夜も冬の星座と言われるカシオペアよりもずっと大きく空に広がるオリオンが時間とともに南から西へ移って行くのが目に入った。これだけ晴れ渡ると朝は放射冷却で冷え込むだろうと思っていると、やはり今朝は土が凍り付き、霜柱が立っていた。残った雪の上を歩くとキュッキュと音がする。1051年陸奥守藤原登任が安倍氏討伐のため兵を挙げたことに発して前九年の役が始まる。安倍氏の頭領安倍頼良が反撃に出て戦いは奥州全域に及ぶ。安倍頼時と改名した安倍頼良は1057年一族の安倍富忠の手勢により深手を負い、鳥海柵(とのみのさく)で没した。安倍頼時には8人の男児がいたが嫡子である安倍貞任が頭領の座を継いだ。五男であったが側室の子であった安倍正任は北上川の中河岸に築かれた黒沢尻柵(くろさわじりのさく)、別名安倍館に陣取り防戦にあたったが、1062年衣川柵(ころもがわのさく)が落とされ厨川柵(くりやがわのさく)へ向かう安倍貞任を追った源頼義・清原武則らが途中にあった黒沢尻柵を取り囲んだ。ついに清原武則により黒沢尻柵は落とされ、安倍正任は戦いの途中から出家し、沙弥良増となった弟の安倍則任とともに出羽に逃れる。しかし守源朝臣齎頼の差し向けた追っ手からは逃れられず投降し伊豫国へ流される。HP『奥州江刺郡「豊田館」考』によると康平七年(1064年)三月二十九日に伊豫国司宛に出された官符では「帰降俘囚安倍宗任、同正任、同貞任、同家任、沙弥良増等五人、從類参拾弐人の事」として安倍貞任の名も出ていると言う。一般には安倍貞任は厨川柵で討たれて、首級は京へもたらされたとされている。尚、伊豫守は源頼義自身であったが自分は任地に赴かず安倍氏討伐にあたっていた。伊豫国へ流された安倍正任の正室である阿波見と14歳の嫡男安倍孝任は下女二人、従者ともども十七人で閉伊陸中に落ち延びる。居所も大槌、糠森と変え、味兵邑に土着する。味兵邑は豊間根である。姓も安倍から阿部、石至下、石峠、豊間根と変えて追及をかわした。こうして奥州安倍氏は滅んだが安倍頼時の次男安倍貞任の次男高星丸は津軽十三湊に落ち延びて安東水軍をおこし、安倍頼時の三男安倍宗任の末裔が松浦水軍をおこし、安倍頼時の五男安倍正任の嫡男が閉伊の豊間根氏となって生き延びた。
安倍氏の柵は北上川に沿って展開されている

カメラの歴史

2011-02-15 12:55:04 | 文化
昨夜も雪が降って朝はまた庭が一面真っ白になった。ただ湿っぽい雪で道路は融けているところも多い。相変わらず甲子川のいつものところには今朝もまだ白鳥たちがみんなそろっていて、水中に首を沈めては何か餌を獲っているようだった。犬と散歩をする人が近くを通ってもさほど警戒している様子はないようだ。暗い部屋の小さな穴を通して入った光が部屋の壁に投影された虚像として外の景色を写し出すことは紀元前から知られていたそうだ。これが後に「暗い部屋」を意味するCamera obscuraカメラ オブスキューラと言われるようになり、15世紀以降に箱を使った改良された様々なカメラ オブスキューラが作られた。Cameraのラテン語の意味は「小さな部屋」で、英語でのCameraの語源は「暗室」を意味する。カメラ オブスキューラはその場に写し出された虚像をただ見るだけのものだったが、記録として写し撮る現在のカメラの始まりは1824年のフランス人のジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが作った「ヘリオグラフィ」だと言われる。レンズを通過した光の熱でアスファルトが硬化する性質を使って記録するというものだった。1839年には彼の友人のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが銀とヨウ素を使ったさらに実用的なダゲレオタイプを発表し、これがジルー商会からジルー・ダゲレオタイプ・カメラとして世界で初めて市販された。これらは「板」に記録されたが「フィルム」に記録されたのは1885年のジョージ・イーストマンが紙フィルムを使ったのに始まり、彼は1889年にはセルロイドに変え、1888年に世に知られるイーストマン・コダックの「コダック カメラ」が登場する。日本では江戸末期の1848年(嘉永元年)にオランダ船によりダゲレオタイプカメラがもたらされ、それを薩摩藩藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)が配下のものから献上された。従って日本で最初の写真は島津斉彬の影像だ。カメラが日本人の手によって初めて作られ、販売されたのは1903年(明治36年)、後のコニカミノルタとなる小西本店による「チェリー手提暗函」と言われたカメラだ。そして日本のカメラ産業が産業として本格的に始動したのは1933年に「KWANON」(観音)名のカメラを出し、そこから「CANON]を後に名乗るようになったキャノンからだと言われる。
「ヘリオグラフィ」による世界で初めての写真「馬引く男」(版画を撮影した写真)
2002年パリの競売で5,700万円で落札された
日本で最初の写真「薩摩藩藩主島津斉彬」

古事記、日本書紀が書かれた理由

2011-02-14 12:55:55 | 歴史
最近は休日も寒いので出かけることがひどく億劫になった。最小限必要なときだけ出かける。外気温も庭にいる犬たちの寝姿をみれば分かるようになった。さほど気温が低くなければ手足をのびのびと伸ばして横になって寝ている。気温が低いと丸まって寝ている。さらに極端に低くなると鼻先を身体に埋めるようにして寝ている。ここのところ以前ほど気温が下がらないので厚手の冬の毛皮になっている犬たちはけっこう手足を伸ばして寝ている姿を多く見かける。東北の歴史が何故何も教科書的には書かれていないのか、と言う疑問に始まって少しずつ東北の歴史を調べ始めた。その過程で『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の存在を知り、その偽書説をめぐって古田武彦氏の著作に出会った。氏の初期三部作と言われる1971年の『「邪馬台国」はなかったー解読された倭人伝の謎ー』、1973年の『失われた九州王朝 ー天皇家以前の古代史ー』、そして1975年の『盗まれた神話 ー記・紀の秘密ー』で、いずれも朝日新聞社から出版された。これら三部作から衝撃を受けるとともに何か目が醒された思いもした。古事記や日本書紀が何故書かれたのかも見えて来たような気がし始めた。記紀を基にした歴史学によって構築された日本史では九州や東北には熊襲や蝦夷しか見当たらない。しかも記紀は神功皇后(じんぐうこうごう)や景行天皇(けいこうてんのう)と日本武尊(やまとたける)親子の偉業として九州や関東の大王たちの業績を剽窃している。つまり記紀は九州や関東、東北の史実を隠蔽するために書かれている。古田武彦氏がよく主張されているように弥生時代に三種の神器が最も多く見出されているのは北部九州、博多湾周辺の五王墓ー吉武高木遺跡、三雲遺跡、須玖岡本遺跡、井原遺跡、平原遺跡ーであり、この時代に近畿には三種の神器が見出された遺跡は皆無だ。東北の山内丸山遺跡が示すように縄文時代から東北にはすばらしい歴史が展開されており、『東日流外三郡誌』を真摯に読み取ることで古代東北の荒覇吐王国から奥州安倍氏や十三湊の安東氏に繋がる歴史を明らかにすることが出来るだろう。東北の都市開発が少ないことが遺跡の発掘の機会を少なくしていると言うハンディがなければ、もっと多くの考古学的な裏付けが出来るのだろうと思うが。
晴れ上がった空を背景に枝に積もった雪がまるで咲き誇る白い花のように見えた

江戸初期の釜石近辺

2011-02-13 12:58:46 | 歴史
今日は予報通りきれいに晴れ上がった。最低気温がー3度で、最高気温が5度だから愛知県にいたころの冬と変わらない。日が昇って日射しが出ると部屋の中は暖房をかけていて汗が出てきた。庭の松の枝の雪も暖められて、音を立てて落ちて行く。雪の融けた滴も雨のように落ちて来る。和田家文書の中ではよく「詠み人しらず」の歌が記されている。いずれも奥州安倍氏に繋がる人たちの歌なのだろうが。『北斗抄 六』に江戸幕府が開かれて間もない二代将軍の時代の寛永八年二月十日(1631年)の日付で浅香民部という人が「奥州歌選集」と題して55の歌を載せている。やはりいずれも「よみ人知らず」である。東北各地の風景や津軽十三湊の安東船を歌ったものや、山神を歌ったものなどがある。それらの歌の中にこの三陸の陸中にあたる釜石近辺の地名が入ったものがいくつか見られる。「山田湾 神の印や 二つ島 この浜護る 荒覇吐神」 「トドヶ崎 東の果つ 海に在り 吾が日之本の 日迎への郷」 「宮古とは いにしの社の 鎮む地と 浄土の浜に 立てば覚えつ」 「姫神の 嶺におはせる 石神は 早池嶺山と 何をか語る」 「つづき石 下踏む毎に 音なして 遠野の郷は 貞任二山」「釜石の 尾崎かはせば 波浄む 鉄堀りなせる ただら煙見つ」。沿岸の宮古、山田、釜石、釜石の内陸側に隣接する遠野が歌われ、とりわけ「トドヶ崎の」名はこの歌以外でも和田家文書ではよく見る。なかには老境を歌った歌もある。「知るべくや 五十じの坂を降りにし 鎧の重さ 今ぞ身にして」「逝くべくも 何を証に 黄泉の 旅も近けむ わが命かな」山田湾を歌った歌を見てもやはり現在の船越半島の南の付け根にある荒神社は荒覇吐神を祀るための社であったことが伺える。尾崎半島はおそらく「御崎」だったと思われるがー大船渡にも同名の「尾崎」の名があるがーその尾崎をかわして釜石湾に入ると湾内は湖のように波静かで、その波のない海を進むとたたらで鉄を造る煙が見えてくる。少なくとも1631年のこれらの歌が記された時点ではすでに釜石はたたら製鉄を行っていたことが分かる。宮古の浄土ヶ浜、山田のトドヶ崎、遠野のつづき石などが江戸時代初期の人々にもすでに良く知られていた場所だった。こうして詠み人知らずではあるが少なくとも江戸初期にすでにこれらの場所が歌に歌われて残されているというだけでも三陸に自然以外にも豊かさがあることを伺わせてくれる。(「トドヶ崎」の「トド」は魚偏に毛)
仙人峠に近いところで鉄鉱石が掘り出されていた

「陰陽の相をなせる女神」

2011-02-12 12:34:35 | 歴史
釜石では昨夜からずっと雪が降り続いている。空の様子からすると恐らくこのまま雪は降り続けるだろう。気温が以前ほど低くないので湿った雪になっている。明日の天気予報は晴れなので日当りのいいところは融けてくれるだろう。近所からは手押しで雪かきをしている。雪が降っている間はあまり雪かきはやらないが、車が通れないと困るので雪かきをやっているのだろう。2004年1月に古田武彦氏は大阪で行った講演で『トマスによる福音書』について話しておられる。1945年にエジプトのナイル川下流域のナグ・ハマディ村で発見された文書中にあった聖書で、『第五の聖書』などとも呼ばれるが、キリスト教では異端視されている。114のイエスの言葉が記されている。異端視されているだけあってむしろこちらの方が原初的な姿が描かれており、かえってリアルであると古田武彦氏は見ておられる。その『トマスによる福音書』の最後に 一一四 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国に)導くであろう。私が、彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」 と書かれている。親鸞研究の大家でもある古田武彦氏はこの文書と親鸞の『浄土和讃』中の「諸佛の大悲ふかければ 佛智(ぶっち)の不思議をあらわして 變成男子(へんじょうだんし)の願をたて 女人成佛ちかひたり」を想起してどちらも共通に女性はそのままでは天国へ入れない、成仏できない。一度男性に姿を変えてからでなければ、という考えが表現されており、『トマスによる福音書』の背景にヘレニズム文化の影響があり、親鸞の大乗仏教の背景にもヘレニズムからガンダーラへの思想的な影響を読み取られ、ヘレニズム文化の代表であるアテネの女神像について触れられている。アテネの美しい女神像には後ろに男性自身が表現されており、ホメロスの『イリアッド』に描かれた女性戦士アマツオーネとの関連をも考慮されておられる。『イリアッド』のトロイ戦争がシュリーマンの発掘が証明したように歴史的事実であったのなら、アマツオーネも当然歴史的事実と考えられるとされる。『北斗抄 六』寛政五年十月三日 和田長三郎記述の「安倍氏歴跡 一」に「荒覇吐神とは宇宙を造り、日月星を造り、万物を造りし神とて、世の総てが神なりと説きけるなり。像を造りしに二躯をなせるも、その一躯は雌雄背併せに造り、またの一躯にては陰陽の相をなせる女神なり。」とある。まさにアテネの女神と同じ「陰陽の相をなせる女神」が描かれている。荒覇吐神の由来がメソポタミアのカルデア民がもたらしたものであれば、シュメール文化がギリシアにも伝わり、太古の東北へも伝わったものと考えられる。「陰陽の相をなせる女神」の考えはシュメールが発祥なのではないだろうか。
重い雪が降り続き松の枝も少しづつ下がって行く
レンズ:旧東独Carl Zeiss Jena 135mm f3.5

野鳥の撮影をしたくなる今の甲子川

2011-02-11 12:49:24 | 自然
昨日も少し雪がちらつく一日だったが、昼の休みに持参の軽量カメラを持って甲子川まで出かけてみた。大渡橋上流に白鳥とカモたちの群れがいた。写真を撮りながらカモの種類を見定めてみた。オナガガモ、ヒドリガモ、カルガモ、キンクロハジロなどがすぐ目に入った。スズガモの雄と雌もいた。雌はまるでこちらに潜りの腕前を披露するかのようにすぐそばの流れの中で何度も潜っては息継ぎをして、少し川上に行くとすぐにまた戻って来る。カメラを向けているのをなんだか意識しているようにすら見える。白鳥も数えてみると親鳥と幼鳥を合わせて12羽いた。最初は三つくらいのグループに分かれていたが袋にパンをつめた人がやって来ると白鳥だけでなく少し離れたところにいたカモたちも一斉に飛び立ってその人のそばまでやって来た。しばらくその光景を見ているとそばにカメラを持った方が来られて、「こんなにたくさんの白鳥は初めて見ましたよ、釜石も豊かだったんですね」と声をかけて来られた。この光景を見て同じように感じておられる方がいたのだと嬉しくなった。鳥インフルエンザ騒ぎで野鳥に餌をやらないように、という声が上がったが、野鳥たちにはいい迷惑だろう。パンをもらうために集まって来た鳥たちの姿を見ていると安心し切って人に近づく鳥たちの単純さよりも純粋さを感じさせてくれる。話しかけて来られた方はニコンの300mmのズームレンズを持っておられた。話ではそのレンズを最近1300円で手に入れられ、カビや汚れが付いていなかったので安心されたとか。オークションかどうか聞かなかったが、多分オークションだろう。試し撮りに来られたようだが、野鳥は300mmの望遠ではちょっと難しい。よほど野鳥が近づいてくれないと。しかし、野鳥はこちらから近づくと必ず警戒して離れて行く。野鳥を撮るコツは決してこちらからは近づかないことだ。レンズもできれば400mm以上、一番いいのは600mm。ただ野鳥撮影で見かけるニコンやキャノンの600mmのレンズは通称「大砲レンズ」と呼ばれる大きなレンズで、重さもレンズだけで5Kg以上ある。手持ちで写すのは無理があるので三脚を据えなければならない。いずれにしても機動性に欠けてしまう。今野鳥撮影に使っているのはオリンパスのマイクロフォーサーズ形式というカメラを使っている。これだと解像力は期待できないが安い300mmレンズで実質600mmレンズと同様の拡大ができる唯一の軽量600mmレンズが得られる。レンズの重量はわずか430gだから楽々手持ちで野鳥を追える。ただ写真を見るとさらに欲が出て来て、解像度の遥かに高いレンズが欲しくなるのも確かだ。夕方も暗くなった帰宅時に再び甲子川沿いの道に出てみると白鳥たちがいた流れの浅くなったところには鹿までが3頭立っていた。
パンをもらうために集まって来た野鳥たち
こちらにかなり接近して来たスズガモの雌
続けて見せてくれる巧みな潜水
スズガモの雄が心配してやって来た

中国映画「三国志」

2011-02-10 12:54:50 | 文化
今朝も気になって甲子川沿いの道路を通って出勤したが、今までいた白鳥家族以外の白鳥もさらに加わったようだ。数が増えている。釜石へ来てから見る甲子川の白鳥としては恐らく一番多いと思う。相変わらずカモたちも周りに集まっていた。中学の頃から試験が終わると必ず映画を見ていた。映画を見ている間は別の空間、別の時代を感じることができる。ただ単に暇つぶしに見ることもあった。数からすれば当たり前だが米国映画が一番多いだろう。ヨーロッパのものは数が少ないが味のある物が多い。釜石には映画館がないので、どうしても大きなスクリーンで見ようとすれば内陸まで出かけなければならない。最近はほとんどレンタルDVDを21インチのiMacのディスプレイで見ることが多くなった。少し前からちょっと気になっていた映画があった。シリーズになった「三国志」だ。これまでにも多くの「三国志」の映画が作られて来たが、このシリーズものの「三国志」は映画として興味が惹かれていた。映画はみんな「三国志」の表題を付けているが、三国の一つ蜀の官吏で後に西晋の官吏となった陳寿によって3世紀に書かれた歴史書『三国志』によるのではなく、この歴史書を参考にしながら14世紀以後の明の時代に書かれた『三国志演義』に基づいて作られたものが多い。従って3世紀の中国で覇権を争った3名の「英雄」の内、漢を正統に継いだとみる蜀の建国者劉備を善玉、魏の建国者曹操を悪玉とする映画が多い。今回の「三国志」シリーズは先ずともかく量が多い。DVDで21巻、94話もある。中国のTVで連続番組として放映されたものだ。最初は以前の中国映画の決まりきったパターン化されたつまらない映画だろうと思っていたが、制作費に25億円をかけ、人民解放軍延べ15万人のエキストラを起用しているというのが気になり、さらに映画「ロード・オブ・ザ・リング」のスタッフによる特殊効果も加えられていると言うので見てみようという気にさせられた。まだすべては見ていないが、実際に見てみるとこれはほんとうに中国の映画なのか、と思わせられるほどいいできばえの映画だ。人物の描き方もかっての中国映画とはまるで別物で単純な人物像は見られない。特殊効果も立派なものだ。ついつい時間を忘れて引き込まれて行く。監督もさることながら、俳優たちの演技もかっての中国の影は全く見られない。みんな個性のあるのびのびとした演技をしている。確かにこうした映画を見せられると中国が少なくとも以前の中国とは大きく変わって来たことがはっきり分かる。
退職された匠の一人からいただいた番の白鳥(旧東独Carl Zeiss Jenaの怪獣レンズで)

落花生の豆まき

2011-02-09 12:47:09 | 文化
今日は午前中からまた雪が降り続いている。せっかく先日の南風で庭の雪も半分以上が融けたのだが、また一面が真っ白になっている。甲子川の二組の白鳥家族がまだ留まって今日も雪の中をのんびりと過ごしている。大型の白鳥がのんびりしているせいか他のカモ類までが白鳥たちのそばに寄り集まっている。こうした光景を見ているとほんとうに川が豊かなのだと思う。匠の方に言わせれば甲子川などに比べたら支流である小川(こがわ)の方がよほどきれいだと言われるが。先週職場のいつも使っている自分用の机の上に殻の付いた落花生がいくつか置いてあった。職場の誰かがお裾分けしてくれたのだろうぐらいに考えていた。今週に入り、職場のある方から「落花生、分かりました?」「節分でしたので・・・」と、言われてこちらは?マークになった。いったい何を言っているのか意味がよく分からない。落花生と節分がどう関係あるのか。良く聞いてみると釜石では昔から節分には落花生を「豆まき」に使っていると言う。それで思い出した、そう言えばそのころスーパーでいやにたくさん落花生を置いているな、と感じたことがあった。「鬼は外、福は内」の「鬼」を以前調べたことがあった。この「鬼」はどうも東北起源のようで異国から流れ着いて、山野に隠れ住んだ白人や山にこもってたたら製鉄に従事していた人たちを鬼と称した可能性があると言うことだった。とすれば落花生を撒くというのも東北で広く行われているのでは、と考え、調べてみた。どうやら東北だけでなく、北海道も落花生を使っていた。さらには鹿児島県や宮崎県の一部でも使われていた。そう言えば北海道に住んでいた頃、札幌の中学に通っていた子供が友だちが「豆まき」に落花生を使っているんだよ、と言っていたような気がする。全国落花生協会によると昭和三十年代からの風習だと言うのだが、職場の方の話ではもっと昔からだと言う。雪国では雪の多い中で大豆は「鬼は外」と投げても分かりにくいために落花生に変わったのだと言う話もあるようだ。しかし、どうもそんな簡単な話なのか疑問もある。地域としては大半がまさに古代に蝦夷と呼ばれたところではないか。節分の豆まきの風習は奈良時代に中国から伝わった宮廷の「鬼やらい=追儺(ついな)」の儀式に始まると言われる。都の東北を鬼門とも言う。まさしくこの時代の東北地方は宮廷にとっての鬼門であったであろう。蝦夷そのものが「鬼」だったのだ。ちょっと脱線したが、節分に落花生を撒くのは北海道や東北のかなり古い風習なのではないだろうか。そしてそれはかっての「蝦夷」と関係がないのだろうか。民俗的に興味が惹かれる。職場の方からは節分ついでに関西発祥の「恵方巻き」なるものについてもお聞きした。通常太巻きと呼ばれるものを節分の日にその年の吉方位=恵方に向いて丸かぶりするのだと言う。四国に生まれ、母が大阪生まれだったが記憶にはない。ただ太巻きは「巻き寿司」と呼んでいた。今ではメディアによってこうした一定地域の風習が他地域へも拡散して行っているようだ。
せっかく融けた庭の雪がまた積もり始めた