釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北への仏教伝来

2011-02-28 12:50:05 | 歴史
夕方すぐそばまで迫っている釜石の山を眺めているとふと子供の頃四国愛媛で過ごした頃のことを思い出した。近くに釜石と同じような小高い山があり、夕暮れ時までよく友だちとその山で遊んでいた。シダの茂みに作られた「住処」やそこに通じるシダのトンネルがあちこちに張り巡らされていた。知らない者が来ると迷路のように思えただろう。銅鉱石の製錬所跡などもいい遊び場だった。山は暗くなるのが早く足下の石につまずきながら急いで山を下ったこともある。釜石と異なり熊などいなかったから出来た事だろうが。『北斗抄 七』の「東陸日迎之海記」に東北への仏教伝来について書かれている。「吾が国は倭国より早く山靼より仏法渡来す。古来、荒覇吐神一統信仰の故に、仏法の意趣、民心に染まざれば、閉伊の東海に西法寺を建立して安置せる、月氏渡来の仏陀像あり。地民知らずして、是を荒覇吐神とて祀りて拝す。その西法寺ぞ、今は邑名に耳遺りき。浄法寺の建立はその後にして、今は天台寺と改号しけるなり。西法寺の山田潟に移るは永保元年(注:1081年)にして、安倍正任の起願に叶ふも、是を仏法に非らず、アラハバキとて宮居に建立しければ、今にして地名をもアラハバキと遺りけり。 正平六年(注:1351年)に豊間根太郎睦任と称す者、此の像アラハバキ神にぞ非らずとて、瀧澤の報恩寺に移しけると曰ふも、そ寺跡ぞなし。 文久二年(注:1862年)五月三日 高橋導念」とある。現在も西法寺の地名は「岩手県二戸郡一戸町西法寺」として残っている。永保元年(1081年)に山田町へ移したのが安倍頼時の五男である安倍正任であればその嫡男が豊間根に逃れたこともあり、この閉伊の統治者であったのではないだろうか。現在山田町には西法寺に関係したものが遺されているのかよく分からない。地名が「アラハバキ」として遺っているとされているが、これが山田町の荒神社にあたるのだろうか。豊間根太郎睦任が仏陀像を正平六年(1351年)に「瀧澤の報恩寺」に移したとあり、この報恩寺は現在の盛岡市にある五百羅漢で有名な報恩寺のことのように思われる。ただ盛岡の報恩寺は応永元年(1394年)に青森県三戸の位置に南部守行により創建され、1601年に南部氏の本拠が盛岡に移されたことに伴い報恩寺も盛岡へ移ったとされている。各地の寺社はその由来を常にその時代の覇者と繋げるため事実が消されて行くことがある。浄法寺は確かに天台寺の名とともに岩手県二戸市に寺そのものが遺されていて前住職が作家でもある瀬戸内寂聴で名が知られている。月氏渡来とあり、月氏は紀元前3世紀から1世紀にかけての大陸の国家であるからこのころに東北に仏教が入ったことになる。年代的には矛盾はないと思われる。
カルガモの雄 甲子川でも1年を通して見かけるカモ類だ