釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

後三年駅

2016-04-26 19:17:45 | 歴史
最近は毎朝が楽しみになっている。庭の山野草たちを含めた花が次々に咲いてくれるのだ。昨年は剪定もしたためか、今年は藤の房が多く、それだけではなく、もう花を開かせて来ている房もある。花は咲かず、葉も落ちていた満作の木に緑の若葉が見えて、とても嬉しくなった。もうダメだと諦めていた。どの山野草も今年は早く咲きそうだが、今のところ敦盛草の芽が見えて来ないのが心配だ。熊谷草の方は既に葉を伸ばして来ているが。 先日、秋田県の武家屋敷のある角館に行く途中で、「後三年駅」の字が目に入った。後で調べてみると平安時代後期の「後三年の役」の戦場のあった地域であった。そのことからそこにあるJRの駅名に使われたようだ。奥州安倍氏に絡んだ戦いだと思っていたので、後三年の役も岩手県で戦われたものと思い込んでいた。しかし、奥州安倍氏を裏切った清原氏は出羽の豪族であったから、戦場が出羽になるのは当然でもあった。陸奥守であった源頼義は単独では安倍氏を滅ぼすことが出来なかったために、安倍氏とは姻戚関係にあった出羽の清原氏を懐柔し、味方に付けた。この清原氏と源頼義によって奥州安倍氏が滅亡させられたのが「前九年の役」である。安倍氏が滅んだ時に安倍氏に組した藤原経清も討ち死にしている。そして、その経清の妻は滅んだ安倍氏の娘で、経清亡き後に敵方となった清原氏に7歳の子供を連れて嫁ぐことになった。その子は清原氏の養子となり、清原清衡と名乗る。清原家の複雑な血縁関係の中で、清衡は義弟とともに義兄と対峙したが、義兄が急死するや、義弟によってあろうことか清衡の妻子が殺害されてしまう。難を逃れた清衡は陸奥守であった源義家を頼り、ともに清原氏と対峙した。この時の戦いが「後三年の役」である。清原氏は当初現在の横手市を流れる雄物川近くの沼柵に籠もり、清衡と義家の軍勢を打ち破った。しかし、その後、15Kmほど北東になる、現在金沢公園となっているあたりの金沢柵へ移る。攻めあぐねた源義家は秤量攻めを取り、勝利を得た。清原氏が滅亡すると、勝者となった清原清衡は父の藤原姓を名乗り、藤原清衡となる。奥羽で敵対するものがいなくなった清衡は居を現在の岩手県奥州市江刺の豊田館に移す。朝廷に馬などを献上することで、中央とのパイプも確保して、奥州藤原氏の基礎を築いて行く。奥州安倍氏は滅亡したが、安倍氏の血脈を持つ藤原清衡によって、再び陸奥に基盤が敷かれた。後に根拠地を20Km南西の平泉に移すが、そこでの居城の構えは清原氏の居城と類似していると言う。藤原清衡は幼い頃から多くの戦いと、そのための身内の犠牲を見て来たために、浄土思想に傾倒して行った。毛越寺や中尊寺の建立はそうした気持ちの表れと見ることが出来るのだろう。
街路樹の花水木