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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

歳とって若い人に学ぶ私

2021-03-31 22:09:07 | マレーシアでニャー2021
最近の若い人たちは情報発信能力が高い。自分の世代はそれに比較するとかなり劣る。100分の1だろう。そりゃそうだよな。だって普通に就職とかすれば人生の大半はそれだけで済んでしまうと思い込んでいたわけだし。

そう言うわけで、歳とってくると若い人に学ぶ事はどうしても増える。当たり前だ。いつの間にか高校野球やってるのが同世代からどんどん歳下になり、そのうち子供と言って良いほど離れ、そしていつしか孫世代になる。ただ時間が流れていくと言う事なのだ。歳下だからと言って自分の方が彼らより野球が上手いって事は100%無かった。だから野球の事を知ろうと思えば孫より歳下であっても彼らに学ぶのは普通の事。

もちろん野球を学ぼうとは思わないが、いろいろな知識は学ぶ。本書いている著者だって今や歳下ばかりだろう。気にする事は無いが、きっとそうだ。まあ、それは前置き。


それで時々本も読ませてもらうけど、Youtubeも観る。動画を黙って10分とか20分観るのは自分にはちょっと苦痛なのだけれど、手軽だし無料だから。

両学長の「貧乏まっしぐら行動5選」と言うのがあって、Youtubeに紹介されてたから観てみた。全くもってなるほどなのであった。
簡単にその5つを言うと、

1)嫌儲(けんちょ) お金を汚いものと思い込む事。あるある、昔は若い人ほどこう思っていた。それは大人とか大人社会への反発的なところから来ていたし、純粋志向があって芸術とか科学とか、何しろお金は度外視して考えないといけない気がしていた。

2)リスクをとらない これもある。社会の何に反発しても、結局は従う事が最良の選択肢で、それはすなわち会社の中で上手くやっていく事が良いからそのやり方以外の方法は採らない。つまり反リスク志向。この先どうなるかわからない行動なんて一切やらない、やってみない。ダメなら死ぬ前に撤退するとかやり方ちょっと変えてみれば良いかもしれないのに、最初に踏み出さないからそんな事すらできない。

3)ゴシップ情報を見る 目立つ事すると誰かに叩かれると言う考えを身体に染み込ませてしまう行動。どんどんリスクを避けるようになるし、誰かに何か言われるんじゃないかとばかり思って自分自身の行動を規制してしまう。ハリネズミ的な生き方になり全然楽じゃない。

4)お金を持たない人の話に耳を傾ける そうだよな、知識持ってる人の言葉には聞けばいちいち納得するのに最終的には身近な人の言葉のパワーの方が強い。親とか。でも、親って自分で何も経験してないのにアドバイスしてるよな。子供はそれに気付けない。

5)感謝しない 気付けば周囲からはいろいろ与えられているけれど、それをありがたいとは全然感じなくて不満ばかり言っている。世界や社会やいろいろな部分に問題山積みなのは確かだけど、それがわかるのって実は自分が何かやるべき事に自分で気付いているって事だよね。

興味あればYoutubeで探して欲しいけど、ジジイのダメさ加減が良くわかる動画でした。そうして観ていたら、キャサリンさんに盛大にバカにされた。それは全然構わないよ。だってここまで生きてきて知らない事や反省すべき事なんてまだまだ山ほどあるし。

ところで、フッと今思った。そうやっていつもバカにされるけど、これまで自分がやってきた事ってどの程度の事なんだろうか?仕事していれば工業分野の事ならある程度、特に専門的な事じゃなければどうにかできる気がする。知らない分野の仕事に就いた時でもだいたい3ヶ月程度あればなんとかやっていかれるまでになっていた。そしてあるポイントではそこで10年やってた人よりも先に行く事もあった。別に自慢じゃなくてその程度の学習能力が発揮できたと言う事。それでどうにか生きてこられたし、誰にも言わないけどよかったと言ってもらえた事もたまにはあった。こんなのじゃ全然不足なんだろうか?そうかも。その程度の人間なんて世の中には山ほどいるだろうし。まあいいや。それでも誰も幸せを感じないのは事実。自尊心クソ喰らえか。

家の前で石鹸を売る時代へ

2021-03-30 21:16:57 | マレーシアでニャー2021
スランゴール州のCMCOは2週間延長も、出勤可能人数制限が撤廃されたので4月から通常出勤に戻る事になった。長かった。もう家にいるのが普通になってしまったが、本当はそれではいけないのだが。

今日はちょっとした用があって少し出かけた。そしてある方に会った。

その人、マレーシアで長く事業をやっていて存在は知っていたがこれまで会った事はなかった。海外で個人で長く事業を続けられるだけでもすごい事だと思うのだが、昨年来のコロナでダメージを受けた後も縮小にはなったものの続けられている。しかもたった1人で。物を扱う仕事なので身体と知識だけでは済まないので仕事場のアレンジも全て自分でやっているとの事。

そしてさらに驚くのは、自分のアイデアと興味から別の仕事を立ち上げられていた事だった。これは今日会って聞いた話。最初は趣味のようにして小さく始めて、徐々に認知されつつあるそうで、これからの展開が楽しみ。それに使う道具も自作、最初に作ってみたのは手間がかかり過ぎて商売にならないとわかり、似ているが別の物に変更したとか。ゼロから種蒔きして少しづつ少しづつ育てていく、そこに踏み出せるのが素晴らしい事だ。

普通に考えれば分野違いの何かをやろうとするのは無謀な事と思われる。しかもそれについて経験があるわけでなし、そしてもしかしたら既にやっている人もいるかもしれない。そんなどうなるかわからない事を続けてなんとかしようなんてなかなかできるものじゃないだろう。でも、よく言われるのが、アイデアを出す人はたくさんいる、けど実際に行動に移す人は1%もいないと言うやつ。まあ、それはその通りだと思う。やれない理由の方がその反対よりも遙かに集め易いから。とりあえず、羨ましい限り。


羨ましいとは言ってもだけど、大昔は皆そうして暮らしていたと聞いているからある意味そんな風に自分で何か作ったりして売るってのは特殊な事じゃないとも思う。大昔(また出た)、アメリカでは主婦が少し収入を足したい時に家で石鹸を作ったりして家の前で売ったとか。他にもあったかもしれないけど、要は家でできる何かをちょっと売ってみたりってのが一般的に行われてたと言う事だそうだ。

今のマレーシアだとあまり無いけどあの村のパン屋はそれだし、ロシアの生活とかをYoutubeで見てるとヨーグルトや手袋や毛糸の帽子や家の庭で採れた果物の干したのなんかを市場に持って行って売っている。インドネシアでも手作りの品を少しだけ作って売っている人を見かけたりいろいろやっている。それが普通でないのはどっちかと言うと日本だけかなと思う。日本は長らく経済成長しながら人を給料取りに押し込んで来たし、屋台なんかも迫害してできないようにしてしまった。

でも、これからは元に戻すようにすべきじゃないかと考える。だって日本はこれまでのやり方では貧しくなるだけなわけで、所得を補助する何らかの手段を多くの人に許すべきだと思うから。それやったからと言って今ある産業がダメージを受ける事もないだろうし、食中毒が蔓延してバタバタ人が死ぬ事もないだろう。まあ、ここでそう言っていても無理だろうけど。

でもね、まだ人生は続くのだ

2021-03-29 21:30:25 | マレーシアでニャー2021
昨日予告した通り、今日はこの10+年間マレーシアにいた事はどうだったかと言う点について書こうと思う。

良かった点は、これだけの期間、なんとか生きて来られた事。元はマレーシアに長期間いるつもりはなかったし、はっきりとしたプランがあって日本を出たわけでもない。日本にいても面白くもないし、リーマンショック後でもあったし、これからは東南アジアの方が成長するだろうから行けば仕事にありついて何かできるかも、と思っただけ。旅行と同じ事でスーツケースに着替えを入れて航空券だけ買って出てきた。ホテルの予約もなし。(本に書いた通り)

そんな状態から仕事紹介してくれるエージェントさんを探して本屋を探して地図を買ってと、完全にゼロからだった。当時はスマホなんて持ってなくて、マレーシアで安い通話だけの携帯電話を買って、インターネットはノートPCをホテルとKFCで使ってた。だから「よく生きてるな」と自分で思う。不思議だ。

それで、ラッキーにも仕事が見つかって今のような状態になった。途中会社が消滅したり、とんでもない会社に一時入ったりしたが、それでもなんとかサラリーマン生活が続いた。普通にラッキーだった。

途中の事はここでは言わない。今回の趣旨はあくまでも結論だから。そして今振り返って思う事は何か?

お金、ちょっと貯まった。給料なんて日本で大学出の初任給とそう変わらないが生活費が日本よりかからないだけ。でも、給料の額面はほとんど上がってない。なぜなら日系企業は相場から大きく外れる給料は絶対出さないから。相場って言うのはマレーシアの現地採用相場の事。言ってみれば、日本と違って長く入れば良いと言うのとは違う。そして為替の問題を考えればもっと不利になった。マレーシアのお金を日本に移してと考える人にはキツい。(これからどうなるかは知らないが。)

まあ、お金の事はそんな程度。大して重要じゃないかもしれない。もっと重要な事として考えるのは、時間だ。日本でも同じだけれど、サラリーマンである程度心配無くお金が入る生活に慣れてしまうと「考えなくなる」と言う事。

本来であればちゃんと心に思い浮かべつつ生活して行かなければならないはずの生活の着地点を全然考えていないと言う事だ。何をしないとかできるとかいろいろあるけれど、どんな生活を望むかを考えてそちら方向へ歩いて行かないのは重大なサボタージュだった。反省点。それをサボってしまう原因はどうしてもお金の事ばかり心配して生きるから。

暖かい海の近くのコテージに住むとか、(あくまでも例) そう言う事を考えられない生活になってしまったのが良くなかったところ。今はマレーシアに仕事を貰って入る人が多くなったようで、日本より良いコンドミニアムに住めるとかいろいろ宣伝されているけれど、そう言うのなんてまさに一番警戒しないといけない事だと今は感じる。そんなの足元に落ちている100円玉のようなもの。実際あまり意味がない。もちろん日本でも同じで、毎月お給料が入るって事はそう言う事。思考停止になる。

それはそうと、その事に気付けず、最終的にそれがどこに一番表れてくるかと言うと、うちの場合はキャサリンさんだ。この人があまり幸せそうじゃないのだ。最初のうちはそうじゃなかった。最初はもちろん仕事なんて無いしお金もそんなに無いのに小さなホテルの狭い部屋でなんとかやっていた。ホテルの人に近くの屋台のあれが美味しいと教えてもらって買って食べたり、特に何も無いのに楽しくやっていた。

でも今は何か不足していると常に思っている。もし海の近くの快適な場所に住んでいたら今日は良い魚が手に入ったと喜んでいたかもしれないし、山なら珍しい花が咲いたとか朝日がきれいとか言っている可能性もあった。今はそんなものが何もないし、そこへたどりつける方法もない。それが全てだと思う。

でもね、まだ人生は続くのだ。

ルンダンと粉挽き、信頼

2021-03-28 21:21:34 | マレーシアでニャー2021
さて、今回もまた、いつもの村のパン屋にパンの仕入れに行ってきた。

午後2時の引取りの予定が30分弱早く到着。パンがまだ熱い。そして釜から出たばかりだとちょっといつもと香りが違う。バターのような甘い香りが混じっている。しばらくしたらいつも嗅ぐ香りになった。そんな事があるとは知らなかった。



注文が少ない時はこのKomoのミルで小麦を粉にするそうだ。調べてみたら日本でも7万円ほどで買えるものだった。買わないけど。注文が多い場合はもっと大型の据置タイプのを使うとか。この小型で間に合うほどの注文でも商売としてやって行かれるのか、大したものだ。焼く日が決まっているから前日から長い時間かけて挽いているんだろうけれども。



パンを引き取る前にパダン料理店で昼食にした。前に行ったミナンのサテ屋の近くだ。前から気になっていた店だけれど今回が初めて。村の食堂だけれど、店構えから見るとちょっと高めかな?と想像したけれど、そうでもなかった。2人で飲み物込みのRM17だから田舎なりに安くなっているのだろう。でも、ジャックフルーツのルンダンは美味しかった。



ルンダンはどんな料理ここで説明しないとほとんどの人がわからないと思うけれど、似たものが無いので味を説明するのは至難だ。ルンダンはWikipediaで出てくるのでそれを見てほしい。味はそのうち食べてもらうしかない。でも世界一美味しい料理とかつて言われた事のある料理ではある。






ところで、今日は2つ書きたい事があったのだけれど、1つにする。

今日、いや、今日もキャサリンさんが怒った。だいたい何もなくても1日に3回から5回は怒る。それに慣れてしまったかと言うとそんな事は全くない。毎回同じように感じる。が、これは仕方ないと考えている。仕方ないのは自分が怒られるような事をしているとか、怒られるべき人間だからではなくて、キャサリンさんの人生の歩き方がそうだからだ。その点を、いくら自分が嫌な思いをしているからと言って否定する事はしない。キャサリンさんがそのやり方しか知らないとかそれが快適なのであればそう言うものだと思うしかないから。それにキャサリンさんはそんな風にしていても良い人であるとわかっている。世話焼きだし、他人に共感できる。そう言う意味で信頼している。

もう1つ書こうと思った事は明日にする。どんな事かと言うと、マレーシアに来て10年とちょっとだが、このやり方がどうだったかと言う事。ではまた明日。

医療は経済活動って思ってないでしょ?

2021-03-27 17:44:53 | マレーシアでニャー2021
そう言えば...と、思い出して書く。

よく海外で医者にかかったら高い。盲腸切る位で超高額請求されたみたいな話を聞くと思います。あまり臨場感が無いでしょう? 日本には国民健康保険があって良かったで終わりかと思います。

まあ、それは本当にその通りです。日本の外でちゃんと意識しておかなければならないのは「医療は経済活動の1つに過ぎない」って事です。慈善じゃないし日本的な意味での福祉ですらないのです。

マレーシアで病院は2種類あります。日本とこれは似ていて街にある診療所であるクリニックと総合病院であるホスピタルです。

クリニックは風邪でも怪我でも何でも診てくれます。だいたい24時営業。風邪程度だとRM50ほど(1300円)で済みます。会社等で提携しているのでない場合の自費での費用です。

※RM50今は少し高くなっているかもしれません。最低賃金が上昇していますのでで。ちなみにマレーシアの人はアルバイト時給RM6程度ですからRM50でも現金で支払いできるギリギリかもしれません。外国人労働者では会社補助が無いと無理でしょう。

ホスピタルの場合はホスピタルの中にいくつものクリニックがあって、それ以外に共通で使うレントゲン等の設備と入院病棟、緊急外来があります。クリニックには専門医がそこに開業しています。(出来高制でホスピタルと契約しているらしい) だから日本のような全体が1つの病院ではないです。会計は一緒に済ませる事はできますが。

日本との違いはすぐわかります。最初に会計受付に行くと保険治療か自費かを聞かれます。保険だと証書を見せて奥の係の人が確認してOKで次に進めます。保険が無いとホテルのようにデポジットを払います。そして専門医紹介されて専門医のところで待って診察されます。

医者は支払い能力に応じて診察と治療方針を決めます。保険のカバー範囲から出そうになる診察や治療となりそうな場合は医者があれやって良いですか?と聞きます。OKと言うと支払い誓約書にサインが求められます。MRI等がそれです。(マレーシアの場合MRIは高い検査の仲間に入る)又は入院できますか?と言うのもあります。入院するとホテルみたいなので高いです。

こうして保険、キャッシュでの支払い可能額面に応じて治療されます。もし支払い能力に限界がある場合はそこでストップです。MRIできないとなると触診と問診で診察は終わり。それ以上何もできない(経済的に)ので薬を買って帰ると言うわけです。逆に医者は保険の事も気にしてくれます。マレーシアの場合、医療機関での滞在時間がある一定以上でないと保険で支払われない契約もあるので医者は時間も気にしてくれたりします。

そんなわけで、「医療は経済活動の1つに過ぎない」がよくわかります。日本では皆保険なので誰でもある程度の医療サービスは受けられます。だから医療機関や医者にはお金の事よりも「人道」的な思考が求められます。家族が植物状態でも10年生かしておきたいとなればかなえてくれる場合もあります。マレーシアではそれは無理です。

マレーシアなんかは保険会社のビジネスと医療のビジネスが密接に連携してやってます。日本はそれを行政がほとんどやってくれているのでビジネスとは感じられません。アメリカではあのオバマケアに大反対の人が半分位いるの、日本人にはわけわかりませんよね。医療を何と思っているかの違いだと考えます。どっちが良いとは言い切れないですが、やり方は1つじゃないと言う事です。

自分を他人の作品として定義していないか

2021-03-26 21:10:05 | マレーシアでニャー2021
仕事場に日本から手紙を送ってもらった手紙が到着したおで取りに行ってきた。マネージャークラスは全員いなかった。前の時は少しいたけど今は事務員さん数人だけ。やはりMCO休み慣れが進んだか? そうだろうな。事務員さんも少なかったし。とりあえず、みんな感染しなきゃそれだけでOKだよ。



とてもつまらない事なのだけれど、自分を定義するとして、皆さんは何と言ってそれをするだろうか?

自分の場合、他人に聞かれたらエンジニアですと言う。特にマレーシアに来てからはそう言う。なぜならエンジニアと言う言葉があってそれで相手がそう言うものと思えるからだ。うーん、でも果たして自分はエンジニアなのか?と自分自身に問うと、わからない。一応工業生産に関しては少しは知識があって分野は多少違っていても何とか仕事ができる。だから間違いではないかもしれない。

でも、よくよく考えてみると自分はただのオッさんだし、エンジニアだなんて胸張って言えるほどエンジニアじゃない気がする。と言うのは、自分にはその仕事をしている以外にも別のことに使っている時間がたくさんあるわけだし、頭の中でだけだってそんな事ばかり考えてはいない。多少、こんな事できた良いなとか、その知識を活用する場合が多めかもしれないが。

それで、人ってのは多くの場合職業によって自分を定義付けて他人に言うと思うが、そのタイトルって、自分自身から出たものじゃないよね、と思ったりする。だいたいの場合は他人とか社会とかがそう言う人と言う定義と名前を先に作っておいてそこに入る。

つまりは自分はそうした名前を考えた人や社会やシステムや仕組みの作品にされている可能性が高い。もし時代が100年違ったら、自分は自分をそのタイトルで呼ばないかもしれないし、そもそもその仕事や立場自体、存在していないかもしれない。そう言う借りて来た名前で自分を定義するって、どんなものだろう?

タイトルと定義で自分自身をシンプルにしてしまってそれで大丈夫なのだろうか? 他人の作った何かであり、他人の定義した作品である事に自分自身として問題は無いのだろうか?

結論なし

楽に、楽に

2021-03-25 22:57:41 | マレーシアでニャー2021
物事にはネガティブな面とポジティブな面、ディスアドバンテージとアドバンテージの両方がある。それはワンセットである場合がほとんど。そのどちらを見るかで印象が全く違うと識者は言う。識者ならずともそれはそうだと感じる事ができる。例えば新しい環境に入る事をしなければ新しい何かを得られる事はない。進学、就職、転職で新しい環境に慣れるのは苦痛を伴う場合が多いがそこにいなければ知識やスキルが得られない、活かせないかもしれない。そして収入を得る事も。改めて言うまでもなくアホみたいに当たり前だ。



でも、だいたいの場合、苦痛の方を先に想像してしまう。そして入る前に感情はネガティブな方向を向く。とりわけ自分のように人付き合いが苦手だったり世の中を悲観的に生きている者の場合には。うちの場合、夫婦してどちらかと言うとネガティヴに構えている方なので新しい環境を思うだけで気が重い。環境のみでなく新しくやる事などもそうだ。嫌な面ばかり見てとてもとてもそれを客観的に冷静に見つめるなんて事にはならない。そう言う性格なのだ。だからこうして静かに周囲に当たり障りの無いようにひっそりと生きている。何も派手な事もなくやっている。



そうしてよくよく思うのは、そんなネガティブな感情を持つ有害さだ。これは他人や社会に対してどうこうでなく、自分たち自身にとってだ。考えただけでも多くの機会損失があって、そして多くの経験すべき事を経験していないかもしれない。こう言う人間がよく言う「死ぬ前にあれやっとけばよかった」と言いつつ死んで行く老人になるのだろうと容易に想像できる。

まあ、ネガティブな感情を持って良い事なんて何も無いし意味もあるわけではないのでそんな感情は放って置くべきなんだろうな。昔むかし、人間が猛獣に襲われる可能性が有ったような時代には危険察知能力として有効だったかもしれないが、今はほとんど何があっても死ぬほどの事はないし、やはり意味がないものなんだろう。大地震が予測されたりした場合は別として。



そんな感情をずっと持っていると人間、心がハリネズミみたいになってしまって他人を警戒する事に長けてしまう。そう言う人も世の中にはけっこう多くて困る。こちらはどうとも思っていないのにハリネズミさんは何かを心の中に抱いていたりする。そんな余計な事しなくても良いのにと思うが何言ってもそうなったらダメで始末に負えない。仕方ないなと考えるしかないのだ。

もっと楽に生きようよ。



ところで今日の写真は全てある村の名も無き食堂。本当に名前が無い。お昼なのに休んでいて夕方あたりから多分近所の人のために開けるのだと思われる。開けても昼には誰も来ないんだろう。

ここにはたまにしか行かないが、最初に行ってからもう5年位は経っている。はっきり覚えていない。お店のおばさんはだいたい覚えていてくれて閉店中なのにいつも注文するメニューを作ってくれた。マレーシアに来て生活していて良かったと思う事と言ったらこんな事だけだよなぁ、と感じる。はっきり言ってそれ以外のキラキラしたものはどうでも良い。プライスレスの価値。

ところで、この家族、こうして食堂とお父ちゃんは釣り人に釣り餌を売って生きている。子供は最初見た時にはシャイで子供こどもしていたけれど今は大きく立派になった。よくやってるなあ。そう言えばずっと以前に村の結婚式で頼まれたからとお饅頭を蒸していたっけ。それにしてもなぁ、家賃かかってない商売だからか?それでも生きて行かれるならかなり羨ましい。苦しいところを見てないだけかもしれないにしても。

報道ステーション ワンワンワン!

2021-03-24 21:18:18 | マレーシアでニャー2021
報道ステーションのCMへの批判がたくさん流れて来て何だ?と思ったが、あのCM自体は海外からは観られないように設定されているのだった。

これがどうして気になるかと言うと、その批判が言う人によっていろいろで、何を批判しているのかがわからなかったから。そうしたらハフィントンポストで「ジェンダー平等を掲げるのは時代遅れ」と記事にしていたので読んでみた。さらにわからない。だって、そのCMの意図って本当にその解釈で合ってるの?と言うところがわからなかったから。結局他の皆さんの批判と照らしてもわからない。

そもそもテレビ朝日ってのはジェンダー平等に反対と言う立場だったっけ?日本にいないからそれすらわからないけど、先日ある学者さんがテレビ朝日を左派とか言ってよくわからない批判をしてたからジェンダー平等反対とか言わないのじゃないかと想像するんだけど。

つまりはこの問題、日本特有ハイコンテキスト過ぎてここにいる自分にはCMの意図も批判の意図も全くわからないらしいとわかった。CMのセリフからはジェンダー平等反対じゃなくて、「今頃そんな事言ってて遅いんじゃない?」ともとれるんだけどな。そうなれば批判は的外れになると思える。まあ、これはきっとわからなくても仕方ないんだろう。諦めよう。


ところで、その批判の仕方の方だけど、どうも皆さん最初に感情的になるクセがあるみたいだ。言い方悪いけれど、犬のやり方に見える。批判の相手に対しててまず「ワン、ワン!」と吠える。みんな吠える。だからさらに皆で吠える。それで批判する中身なんてもうどうでも良いって感じになっていて言ってる事が皆ちょっとずつ違う。でも気にしない気にしない、ワンワン。

それ聞いてる方は全然わからない。

人間って、自分らが思うより野生種の動物で、常に喧嘩の相手を探して彷徨いてるって事?

ゼロからやり直す事を考えた

2021-03-23 22:55:30 | マレーシアでニャー2021
あるきっかけがあって珍しく家族会議を開いた。家族会議と言っても自分とキャサリンさんだけでつぶあんは寝ていた。おまえはどこぞの国会議員か!

まあ、それはそうとして、何を話し合ったかと言うと、今後の方針だ。毎年の事ながら、ビザが更新できなければマレーシアを出ると言うのは変わらない。それは誰の決意も決定も必要ない。物理的な問題だ。だからある程度常に準備はする。しかしながら今回に関しては日本へ行く公算がかなり強まった。

そろそろ引き時ではないかと考え始めたのだ。

もともとマレーシアにいる気は無かったのにこうして10年を超えていてしまった。と言う事はマレーシア自体自分たちが求めていたものでは無かった。これは常に思っていた事だ。確かにマレーシアは生活がしやすい。そして今は日本の小売業やサービス業もどんどん入ってきてさらに生活し易くなっている。が、自分たちに関してはそんなものは求めていないと言うスタンスだ。

いくら日本と同じ店ができて日本でしか手に入らない物が購入できるとしても、日本の劣化版など嬉しくはない。そう言う何かが欲しいと思ったら東京あたりに住む。東京は家賃が高いから福岡あたりに住めば良いと本当に思っている。日本のそうした業種が遅れて入って来る前にマレーシアにはヨーロッパあたりの業者が既に入っていてそれをやっている。それほどの意味を感じない。

そして今住んでいるここ、そして以前に住んでいた場所も、前にも書いた気がするが仕事の都合で選ばれたに過ぎない。その条件が外れればこの場所でなく別の場所を選んでいたはずだ。もしリタイアメントで来ていたらもっと快適な場所を本気で探したろう。つまり、移住したい国ナンバー1と今の実際の生活は何の関わりもない。自分たちの事じゃないのだ。


そう考えていくと、移動と言う選択肢の存在感は大きいと感じる。

もちろんここに慣れてしまったと言うのはある。でも、それはこれまでもやってきた事がどこに行っても繰り返されるだけだ。誰も知っている人がいないところで何とか家を探したり仕事を探したり、食べ物を調達したりバスに乗る事を覚えたり。その程度の事は言葉の通じない他の場所でも何度でもできる。1つの場所に慣れて不自由なく生きられるなんて特に素晴らしい技術でも何でもなくて誰にでもできる、難しい事じゃない。別の場所でまたやれば良い。

少なくともそうしたことができる体力と動く身体があるうちにまた、ゼロからやり直すのも良いかもしれないと考えた。

「安倍のマスク」が実は正しいやり方だった?

2021-03-22 21:33:58 | マレーシアでニャー2021
去年の確定申告を(マレーシアの)やっていたら還付金どころかさらに払わなきゃいけなくなってて驚く。何か記入ミスあったかな?と思って確認するも無い。そしてやっとわかったのは支給明細の方が去年と違っていた。ある部分が追加支給扱いになっていたのだった。その部分は源泉徴収されていなかったから年末での一括調整となったわけだ。

これはマレーシアの法律に従うの仕方ないと思う。でもね、いつもの事として言えるのはこの会社の人達って、それがわかった時、多分税務署が監査か何かしたと思うけど、大事な事、全然連絡してこないんだよな。本当にいつもの事なんだけど。わかった月から源泉徴収額修正とかしないものかな?とも思うし。

この連絡しないってのはこの件ばかりじゃなくてほぼ蔓延していると言って良くて、これもいつも言うけどマレーシア病の1つなんだよな。ずっと以前は問題にする事もあって、マネージャーは現場ばかりにいないで事務所でお互い顔見えるところにいろみたいな事言われてたっけ。今はそれも無しで、誰が何考えてるか全然わからないまま。月末のミーティングで、えっ!そんなことが1ヶ月前にあったのかになってる。まあ、それでも誰も困らないから良いんだけど。


まだまだ日本の非常事態宣言解除の事がTwitterでたくさん流れて来て目障りだな。

昨日だから何?って書いて、政府にできる事なんてそう多く無いと書いたけど、よくよく考えれば政府は国としてほとんど何もしないんだよね非常事態宣言で。だって非常事態宣言の実態ってのは指定された都や県の知事に飲食店その他への休業要請などをする法的根拠を与えているだけなんだよな。そうなるとその自治体の経済力に頼る事になるだけで、関東地区等の人が多いとか産業が発達している税金がたくさん入る自治体なら良いけどそうんでないとやりたくてもなかなかと言う事もあるかもしれない。普段人が少なくて観光客ばかりの自治体にGotoとかで人がたくさん入って感染拡大したりするところが一番困るのかな?

日本にいないし実情がわからないで書いているのでこれは想像だけだけど。

それにしても日本とマレーシアの顕著な違いは厳しくやってるとかそう言うのじゃなくて、政府自ら「行動してる」かどうかだと感じる。マレーシア政府がやってる事が正しいなんて言えないけど、とりあえず行動はしている。日本政府はニュースで見ている限り行動はしていない感じ。公務員は忙しいんだろうけど。

ウィルス感染の場合は完全に物理的な問題だからその経路を遮断すると言うミクロ的な対策しかないわけで、お店の休業なんかもそれにあたるし、最初に感染源になるのが飲食店だと統計で確認されているから休業要請は正しいと言える。(でも、その決定は政府としてやってない。知事にやっといてになっている)それに加えてマスクや手洗いみたいな個人的な防御しかないと聞いている。

そう考えるとあの大批判を浴びた「安倍のマスク」が実は一番正しい行動だったと思う。あの台湾はその代わりにマスクの在庫がある店をリアルタイムで教えてたし、マレーシアはマスクの価格統制をやってた。違うやり方だけど同じ事だった。日本の欠点はあのマスク調達の利権絡みの問題とマスクを実際に配ると言う行動を同一視して両方同時に葬ってしまった事だ。何となればマスクばかりかロシアから安い防護服でも調達して全員に配るとかすれば普通に活動できたかもしれないのに。あの安倍のマスク以降、日本政府はお金配った程度で行動しなくなっている。ちゃんと可能な物理的対策ってのは他にもありそうだけど。残念。

家庭内ハラスメントと従属主義

2021-03-21 22:00:26 | マレーシアでニャー2021
先日、キャサリンさんが見せてくれた、部屋の片付けと簡単なリフォームのYoutube動画。大工さん工務店さんにお願いするのではなくて自前でやっているものだった。だいたいはその家の奥さんがやっていて、力仕事のところで旦那さんが入る。

その旦那さん、口が悪い。ちょっとした事で奥さんを貶(けな)すような言い方をする。奥さんはそれが普通になっているのか笑っている。大きな日本家屋のようだったからどこか田舎なのかもしれない。でもあまり訛りは無いようだから関東か?いずれにせよ、リフォームでなくて言葉についてはあまり聞いていたくないものだった。

思えば、自分の父親もそんな人ではあった。あんな言い方されると家の中が安心できる場所でもないし、自分の居るべき場所だとも思えなかった。あの動画では奥さんは笑っていたから、自分とは違って安心してあそこにいられる感覚があるのだろうなあ。ちょっと不思議。もちろん夫婦の事だからこちらにはわからない事なのだけれど。でも、言葉だけ聞いてたら完全に家庭内ハラスメントだよなあ。

でも、あんなのに慣れてしまってそれを普通だと思えるようになる能力もあるんだな。自分は無理だけど。聞く話ではDVをDVと思わずにずっと耐えてしまっている女性も多いとか。怖い怖い。



そうそう、新規感染者はマレーシア全体で1300、スランゴールで350とだいぶ減ってきてはいるが日々凸凹はあるのだけれどまだまだ多い。あと10日でグッと減る...は実現できそうにないから4月からは州よりももっと小さな単位で規制が入るのだろうと想像している。まあ、仕事場へは行くようになるだろうな。


日本では非常事態宣言解除とか?
いろいろ言ってる人がいるけど、政府が何言ってもやっても感染を防げるのは個人が自分の行動を管理する事だけなのでそんなのどっちでも良いような気がする。それに最初から今の政府なんてダメダメなわけだし。解除とかGotoとか、問題にし過ぎだと思う。そんなのいろいろ言ってても死ぬとか苦しむのは自分自分の家族や近い人なわけで、自分で守る意外に何もできる事はない。これは去年始まった時から今までそうで、変わってはいない。政府にできる事は休業補償とかワクチンだけだろ。

そう思うと本当に日本人と言うのは従属体質だな。自分で自分の自由を捨てて拘束してしまっている。そう言うのって民主主義じゃないだろうに。

夢を持てる自体が才能なのか?

2021-03-20 21:25:23 | マレーシアでニャー2021
マレーシアは不思議な国で、国の花はハイビスカスと定められているのだが、ハイビスカスは南米原産だ。なぜラフレシアあたりにしないんだ?

そしてマレーシア桜と皆が言っているこの花、一見桜が咲いているように見えるが花は桜のそれよりもかなり大きめ。そして誰も本当の名前を知らない。和名モモイロノウゼンと言うらしい。さて、この花、これ原産地は南米。マレーシアとは無関係。なのにマレーシア桜と呼ぶ。「名前に何があるの? バラと呼ばれる花を 別の名で呼んでも、甘い香りに変りはない。」(ジュリエット) 全然関係ない。



聞いた話では80年代には無かったとか。けっこう最近に植えられている。成長は早い。そう言えばよく食べられる魚のテラピアも南米産だが今ではそれもマレーシアの魚のような顔をして食べられている。

いつも言うが、マレーシアは農水産業に興味が無いので大半の食料が輸入されていても誰も何とも思わない。スーパーに行くとわかるがほとんど輸入品でこれだけは国産を守ると言う物は無さそう。日本は自給率がどうのこうのと以前から問題だったけれど、マレーシアよりは国産比率が高い感じがする。ま、考え方でそれはどちらでも構わないが、とりあえず、自分たちの好むような味の農産物は入ってこない事だけは確かだろう。

仕方ないな。



来年の事を言うと鬼が笑うと言うが、そもそも鬼なんかいないし、じゃなくて、あまり先の事をよくよく考えていたりすると自分の頭の中がある程度納得してしまうとか飽きてきてしまって興味が失せる。そう言う事ってのはある事だ。なのである程度、その場になってからでないとわからない事は課題として取っておかないといけない気がする。課題を持っておけば長期間飽きないままにいられる。



そうしてやりたかったけど忘れてしまった事は多々ある。それじゃダメなんだろうな。ちょうどプレジデントオンラインに「運が強い人の共通点」と言うような記事が出ていて、最初のステップとしてはやはり夢を持つことが必要とか。持つと言うだけじゃなくて長期間持ち続けると言う意味で良いと思う。ああ、長期間思ってるから夢なわけで、すぐに忘れるのは夢じゃないよな。

と言うわけだから忘れるようじゃダメなのだ。ああ...



ところで、多くの人は夢ってのを持って生きてるのだろうか?とてもそうは見えないが。見えないだけか?多くの場合、毎日の生活で必要な事をして、だいたいそんな事で時間を埋めてしまうように見える。仕方ないからやる事ばかりたくさんあって、やりたい事はほんの少し。まして遠くにある夢みたいな事のための時間を使う人ってどれだけいるのか?

将来のために英語勉強するとか、プログラミングとか聞く事は多いけど、夢の向かってそれをと言う人はあまりいない感じ。とりあえずやっとけばとか、けっこう曖昧な動機だったりするのが普通じゃないだろうか。そう思うと夢を持てるってのだけでも特殊な才能か技能なのかもしれないな。どうなんだろう?


"I Have A Dream" (Lyrics) 💖 ABBA 💖 1979

One Of The Best Songs EVER by ABBA! Written by Benny Andersson & Bjorn...

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Dreaming - Blondie cover - For the dreamers ❤️

This single available http://smarturl.it/k8415g

This is a 1979 Blondi...

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I Dreamed a Dream/Susan Boyle 夢やぶれて レ・ミゼラブル/スーザンボイル

スーザンボイルの夢破れての字幕付き

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ジョーブラックも虜、ピーナッツバターとは

2021-03-19 21:47:45 | マレーシアでニャー2021
久しぶりに仕事場へ行ってきた。確定申告をしなければならないので給与所得証明書と言う感じの物を取りに。マレーシアでは給与所得者のそのフォームをEAフォームと言う。

行ってみたが、やはり事務所はスカスカだった。出勤が認められている人数は30%だからだが、それよりも少ない感じだった。仕事場に行かないのに慣れてしまったのだろう。自分の場合はライン上の仕事をしていないので完全に出勤停止組70%の中に含まれるようにしているので完璧に自宅待機。その代わりにほとんど家から出ない事にしているが。(感染したら自分だけの事じゃなくなるのが怖いし。)



いつものように全く関係ない話が続く。

最近食べていないが、そのうちまた食べたいと思うものがある。(あくまでそのうちと言うのであって直ぐにと言うのではない。) それはピーナッツバター。最近パンは美味しいのを食べる事ができているからジャムのような味の濃い添え物は要らない。スーパーで売っているヨーロッパのバターが有れば十分。

だけど、たまに思い出すのは、この上の村のフルーツ屋で売ってくれる挽きたてピーナッツバター。

ピーナッツバターなんて昔からあって珍しいものじゃないし、特別美味い物でもないとずっと思ってきた。そう言えば、いつか観たブラッドピット主演の「ジョーブラックによろしく」と言う映画で悪魔がピーナッツバターを初めて食べて虜になってしまったが、その時でさえ「なぜそんな物?」と思っていた。

でも、まさかだけれど、このマレーシアの片田舎のとんでもない場所でピーナッツバターを買って食べてみてやっとわかった。挽きたては確かに美味い。瓶に入って売っているあれとは同列だが別物だ。

と言うわけで、挽きたてピーナッツバター、日本でもやってくれる店があるらしいけど、ほとんど無いのは確か。もし日本に行くとしたら...と思うので (ピーナッツは活断層の母の家の近くにいくらでもある) マシンを探してみた。あった。素晴らしい!

頭の中に言葉が無い?

2021-03-18 20:58:56 | マレーシアでニャー2021
Twitter見ていたらある人が驚いていた。何にかと言うと、頭の中で言葉で考えている人がいると言う事に。その人は頭の中で考える時に言葉になっていないらしい。口から思った事を出す時に初めて言葉なるとか。

いや、それ聞いて驚いたのはこっちだよ。何か考えたりする時に頭の中の言葉が作られてないと言う状態ってのがあるのか!と。

ああ、でもよく考えたら子供の時とか、そんな状態だったかもしれないな。今だと口に出さないまでも「本当かよ!」とか、頭の中に言葉が出てきてしまうけど、子供の時にそうだった気はしない。もっと見たり聞いたりしたその状態そのものを受け取っていてそれに感情を付け加えて感じていただけかもしれない。よく覚えていないけれど。

幼稚園の頃、母が買い物に出ていて弟と2人で家にいた。だんだんと太陽が傾いて周囲が赤っぽく染まると、弟と特に何か話はしないがなぜか悲しいような寂しいようになってきて2人で外に出て母を探しに街へ出た事が何回かあったと思う。そんな時、頭の中のどこにも言葉があった気はしない。

いつから変わったんだろう?でも、言葉のない状態は長かったかもしれない。自分が何をどう感じてどうするとか、頭の中で整理して考えたりはしなかったと思うから。それは例えば小学校を卒業してその後に中学校入ると聞かされてそうなるんだろうとは思ったけれどそれだけの事で疑問とかそこからどうするとかそう言うのは無かったから。

今は逆にもっといろいろ簡単に考えるようになってしまった感がある。ああなればこうなる式だ。それも弊害はあるとは思うが。

例えばこの前ちょっと書いたけれど、音が音のままで頭に入らないとか、色なんかもそうかもしれない。紫がかったグレーのロバの色がとても好きなのだけれど、それとて「紫がかったグレー」と言う言葉に変換していなければ自分にはその色を覚えられないかもしれない。故黒川紀章が「離宮ネズミ」と言う色を言ったが、もしかすると氏も同じだったかも。名前を付けて初めて定義できて頭に入る色。そうなっている。だから音なんかは無理だ。ドレミまでは定義できるが逆に音を聞いてドレミは無理だし、その並び順に至っては完璧にダメだ。

利点としてはあまり感情的ならないで安定していられると言うのはあるかもしれない。他にもあるかはわからないな。

じゃ、また

2021-03-17 20:19:28 | マレーシアでニャー2021
ちょっとだけど、出かけて何か書こうと思ったんだけど、


止めた。



じゃ、また。



と思ったけど気を取り直してちょっとだけ書く。

夕刻に食器、まな板、包丁などを洗って水切りカゴから窓のところのフックに掛けて置いた。しばらくしてキャサリンさんが怒って呼んだ。包丁を掛けるところが違うと。

包丁は薄いプラスチックのまな板と同じフックに掛けるのだったが、間違えてキッチン鋏等のフックに掛けてしまった。

たまに似たような事はある。例えば円筒状の容器の蓋は円形のはずだが、長方形のタッパーの蓋を閉めようとして口のところまで持っていってしまう。原因は自分でもわかる。色も形も違うがそれらを単に「蓋」のカテゴリーに入れて抽象化して認識しているからだ。容器の蓋を閉じると言う行為をしようとして蓋と言う物体を手に取ってしまうが。蓋を具体的な色形で記憶していないのだ。蓋と言う記号なのだ。

数学の授業でよく公式を覚えなさいと言われるが、これは難題だ。覚えられない。だからやりたい事の意味を覚える。そうするとある程度公式と言うものが必要なくなる。少し時間はかかるにしても答えは導ける。漠然として意味のわからない物事を覚える事ができないのだ。

同じ意味で音楽の音符情報のようなのは無理だ。不協和音を使うジャズに限らずどの音楽でも音符の並びは全て無意味綴りになっている感じなので完全に無理だ。以前楽器を習った事があったけれどダメだった。全く覚えられない。

自分の頭は記憶容量を節約したいのだと思う。できれば文字とか記号とかに圧縮して覚えたいのせ、ダラダラっとした無意味綴りになる感じのものは覚えられない。

そう思えば、人間と言うのはいろいろなタイプがあって、自分と反対の人もいる。同じようにする人もいる。要は世の中は自分専用にカスタマイズされたものでないし、居場所を選べない事も多いのでできない事をしなきゃいけない場所にいてしまう事だって多いわけだ。そうして苦しんでいる人は多いのだろうなぁと想像。