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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

KLの風景の変わり様ったら

2016-01-31 22:29:41 | マレーシアでニャー


本当に久しぶりにKLCCへ行ってみた。人が少なくてビックリ。マレーシアの人がホントに少ないので欧米人観光客が目立つ。こんな光景は初めて。

中華正月と関係あるのか無いのか、それはわからないけれども、一つにはテロを警戒してここには出てこないのかもしれない。ビンタンのスンガイワンプラザはいつも通り混雑していたから。


ところで、KLCCの紀伊国屋の窓から外を見るとまるで屏風のようにビルが視界を遮っているのが見えた。6年半前にここに初めて立ったときには、もっとずっと向こうまで古い小さなビルの上半分が見えていた。たった6年半でもうそこにはあの時見えていた物のほんの一部すら確認できなくてちょっとした浦島太郎の気分にさせられる。

日本もかつてはそう言う事があったのかもしれないけれど、その時代を身近に見ていたわけではないのでこう言う体験は自分にとって初めてと言っても良いと思う。ニュースでは上海とかドバイとか実際にKL以上に風景を変化させている土地がいくつもあると言うのだから世の中変わるわけだ。

今の日本はちょっと前の汐留とか川崎西口みたいに大地主が広い土地を手放した時位しかこう言うのは無いだろう。マレーシアは実際、KLの中心部ばかりじゃなくてとんでもない山の中に住宅地とか街っぽいものが突然作られたりしていて、お前らホントにそんな事で大丈夫なのか?、作っただけホントに使い道あるのかよ!、と大声で言ってみたくなる。(が、実際には言っても意味ないので言わない。)

何となく、お金集めるのが実際の目的であって、作ってから使おうが放置しようがどっちでも良いのかもしれない。"経済"ってある意味そんな事するって事なんじゃないだろうか。お金を作り出すにはどんな事でもあるきっかけが必要で、そのきっかけが実際以上に良さそうに見えればお金が集まってくる。集められたお金も新鮮味のある何かを見せてもらえなくなると飽きてしまってゾロゾロどこかへ歩いて出て行ってしまうかも知れない。

お金に無頓着に育ってしまって、いくら今買っとくと儲かるよと言われても、値上がりとか値下がりなんて毎日気にして生きていかなければならないと思うと面倒としか思えない自分には、どうもそんな風にしか感じられない。

そうした意味ではKLもまだ古いのをちょっとづつ壊して新しいのを建てていけるわけだからお金はまだこの街に滞在していてくれるのかもしれないけど、それができなくてなったら、どうなっちゃうんだろう? 寂れた観光地みたいに寒風が(熱帯なのに)吹き荒ぶんだろうか。と、そっちにも興味あるなあ。あと数年はここにいるかと思うけれど、そっちの方も見られるかもしれない。

急に上がるんだから急に下がるってのもアリだろう。

仕事中にFacebookをやれ

2016-01-29 23:15:14 | マレーシアでニャー
工場の中で自分のとこの職場だけ仕事中にFacebookやっても良い事にしている。

以前の新聞記事に出ていた事だけれど、マレーシアでは仕事中にFacebookやっている人と時間が相当多いらしい。日本でこんなにスマホって言う前からマレーシアはスマホだったみたいだけど、その原因はFacebookだった。普通の携帯電話からパソコンとか無くていきなりスマホだったからけっこう社会現象的になっていたんじゃないかと思う。

でも、会社ではFacebookなんかをやってるのはもちろん仕事しないで遊んでると思われるわけで、普通はどこも禁止って事になっている。ちょっと前ならスマホじゃなくてカメラが付いた携帯が秘密保持の目的で禁止だったけれど、今はそれよりオモチャ持ち込み禁止みたいな意味の方が大きい。

で、なぜ同じ工場内で自分のとこだけ禁止してないのかと言うと、ハッキリした休憩時間が無いから、と言うのが第一。普通に仕事してると、1シフトでnサイクルになるのだけれど、サイクルとサイクルの間が休憩じゃなくて、実は一番忙しい。だから機械が動いている間に休憩自分たちで決めて取って良いようにしている。でも、休憩時間に問題が発生すると、休んでいても仕事にもどらなければならないので、休み時間が休み時間とも言えなくなってしまう。

だから、椅子に座った時にFacebookしてても全然OK。だって、仕事中か休憩中か誰にもわからない。

第二の理由が、彼らの仕事が1日に12時間あるから。人間、どう集中しても6時間が限界。12時間が拘束時間だからと言ってその間に仕事の事だけ考えろと言っても絶対に無理。それにいつでも集中力が必要なわけじゃなし。緩んだり締めたりは仕事の流れによって必然的に決まってくる。緩められる時には緩んでいた方がいざという時に力が発揮できるのだ。それに危険防止にもなると思っている。

その12時間を自分に当てはめて考えれば容易に想像できると思うけれど、12時間ぶっ続けでガリガリ、それを週に6日、契約で3年間国に帰れない、家族や友達に会えないなんて事になると絶対に気が狂う。


第三の理由は報告し易いから。

ある程度のレベルの人間は報告書が書ける必要があるのだけれど、普通の作業者はそんな事できない。だって元々字が書けなかったり、字は書けても文まで到達しなかったりする。ましてや文章なんて絶対に無理。スマホなら写真が送れるし、友達に送るのと同じような感覚でちょっとした言葉を気軽に送れる。鈴木様とか、よろしくお願いしますとか、面倒な作法も要らない。受けるこちらもありがとね、で気楽に情報が集められる。こっちが休んでても外出しててもOK。

とまあ、そんなような事で、遊びのように仕事するのにFacebookとかスマホは禁止したくないと思っている。No Facebook, No jobなのだ。

アップデートまだまだ有り

2016-01-28 14:08:41 | マレーシアでニャー
さいきんはみんな、スマートフォンなんかを使っていると思う。自分もiPadを使っている。使っている中で一苦労なのが、アプリのアップデート。ついでにOSまで時々アップデートがある。

こうした事態はコンピュータがネットに繋がりだしてから起きている。昔はコンピュータもCD-ROMとかに入って売られていたのでなかなかアップデートと言うのも無かった。その時代でも不具合はあったわけだけれど、アップデートってのも簡単ではなかったから、CDに入っているものは一応"完成品"だと思っていた。

そう思っているのは買った方だけかもしれないが。でも、一応完成品だった。今はネットに繋がっているのが当たり前だから供給する方も最初から"未完成"のものを送ってくるらしい。後からアップデートすれば良いやと思っているような気がする。なぜかって言うとアップデート、やたら多い。先週までに溜めに溜めて23個位あったのを近所のWifiが有る店で一気にやってしまった。が、まだその後にもう5個も出てきた。イタチゴッコとかアップデートの自転車操業とか、何て呼んだら良いのだろう?


ところで、完成品じゃないと言えば、人間だ。例えば、会社とかで仕事していると、どうしても必要なスキルが足りなかったりする。はっきりと専門性が無ければ出来ない事だったら、人間をアップデートしないでどこからか連れてくるのだけど、もっと一般的な事だとアップデートと言う選択になる。

例えば、5S(整理整頓清潔清掃躾)とかだと、多くの人に関わるからこのために交換するわけにはいかない。報告書の書き方とかもまさかそんな事のために人を交換するって事はない。プレイベーとでは自分を交換なんかできないわけだから自分自身で本を読んだり学校に通ったり通信教育とか自分自身でいろいろやってみるような事をする。そうしてちょっとづつ人間はアップデートしていく。

そう考えると人間だってアップデートのネタに関しては切が無い。動物なんかはオテとかオスワリとかオシッコする場所とかのトレーニングがたぶん最後だろう。あまりアップデートはしなくて済む。

そうして、人間てのはいったい何時、完成品になるって言うのだろう。自分で勝手に完成、と思ったところでまだまだ先はあって、周りを見渡しても自分より何かが出来る人なんてたくさんいるし、何かやりたいと思うだけで見本が無くてもその時点で未完成と認識せざるを得ない。

昔の言葉で四十にして何とか、五十にして何とかとか(論語)あったけれど、これって人間は生きているうちはずっとアップデートがあるって意味だったのかな?

時間を意識する

2016-01-26 14:06:08 | マレーシアでニャー
少し前から♀猫のつぶあんが連続的に不調だったのが、最近は割りと元気にやっている。アレルギー、高熱と眠り病、菌感染、明日でやっと1日1回の飲み薬が終わる。その後1週間は何もせず様子を見て、その後にまた飲み薬が待っている。胴体の右側の穴のような傷はナメてしまうので回復が思わしくない。右手にも菌感染の症状がある。

それでも元気で夜と朝に散歩に連れて行けと言う。これだけ見ているとなんとも無いのだけれど、今後どうなっていくのだろうと思うと心配だ。猫によくある免疫不全になっているのじゃないかと疑っている。つまり、エイズみたいなもので、次々と菌やら何やらに感染してしまうのでそれへの薬は投与できるけれども、免疫不全そのものを治すことができない限り完全に治らないのだ。もし免疫不全だとしたら、つぶあんに来年と言う時間は来るのだろうか。


散歩に出て、ガードレールで仕切られた敷地の端まで歩く。いつもつぶあんは後からチョコチョコついてくる。道路をまっすぐに来ることはなくて、大概端に停めてある車の下を伝って来る。最後のところは大きなT字路だからその中央を走ってこちらに渡る。道路の排水溝に溜まった砂のところでゴロリと横になって頭だけこちらを向ける。お腹をさすって欲しいのだ。それをしない時にはこちらに向かって1回か2回、ニャーンと言う。

さっと横をすり抜けて歩道の上で座る。ただ、仲間と一緒にいるのが良いらしくて、こちらが動かないでいるとつぶあんも動かないでいる。虫かカエルがいるとそっちへ走ってちょっかいを出している。昨夜の月は大きかった。T字路のずっと向こうの小高い山の上に月に照らされたモクモク雲があって、そこから半分月が覗いていた。


つぶあんは月なんてどうでもよくて、ずっと道路を動く車のライトを見ていた。しばらくして家に戻るとつぶあんも戻った。すこしご飯を食べてまた2時間ほどするとまた散歩に連れて行けと言うので行った。月はもう高いところに昇っていて、舗装路を白く照らしている。つぶあん、またも道路の方を見ている。そのうち歩道にゴロゴロしてお腹をさすれと催促する。ちょっとやると満足して家に戻る。

こうした何の意味もないような時間があとつぶあんには何回訪れるのか、と思う。普通の野良猫でたぶん5年ほど生きれば良いだろう、家猫なら10年。つぶあんは去年の3月に産まれてまだ1年未満。同じような時に産まれた近所の子猫たちは知らないうちに姿を消してしまっていてそれほど増える事がない。

人間だっていつかは死ぬ。人間の場合は80年位生きられるらしい。でも江戸時代にはその半分近い50年程度だったそう。この歳になると残りの時間を意識するようになる。あとどれだけこの生活が続けられるのか、この仕事はどうだ、車を運転できるのは後何年....といろいろ。でもその残りの時間でも猫たちの寿命の数倍もある。せめてつぶあんには質の高い時間を、と思う。

SMAPはサラリーマンでストーンズは自営業

2016-01-25 14:03:27 | マレーシアでニャー
マレーシアにいますけど、日本のニュースもYahooニュースでチェックしているんです。

最近はマレーシア、テロ警戒と通貨安位しかあまり目立ったニュースはないらしいのですが、日本もトップニュースになってるのが芸能ニュースばかりで、世の中平和だなと思います。うちの奥さん、芸能ニュースが好きですが、基本的に自分はほとんど見ません。でもこう芸能ニュースばかりで、それに対してコメントしている人がたくさんいると、やっぱり気になって少しは見てしまいます。つまみ食いのようにちょっとづつ、ちょっとづつ。

SMAP独立か?ってのが最近ずっと出てますね。ある記事によると、独立、分解ってところが、キムタクが事務所に掛け合って?、謝って?、どっちかわかりませんがジャニーズ事務所に残る事になったとか。みなさんそれぞれ映画とかドラマとかで活躍できているのでジャニーズ事務所なんかにいる必要があるのかな?と感じます。

もしかして、ジャニーズ事務所辞めたら"あいつら使うな"みたいな圧力がかかって仕事が来なくなる事を心配しているのじゃないかと勘ぐってしまいます。


タレントさんの仕事と言うのは、外から見ていると自分の才能や努力、または特有の容姿等のようなものだけに依存しているように見えるので、野球選手のイチローとかと同じような事なのかな、と思っていました。

でも、このSMAP騒動を見ているとそうでもなくて、どちらかと言うとサラリーマンに近いようです。ジャニーズ事務所などは、小学生の頃からタレントとして勉強させて育てているわけですから、世の中の普通の事や常識みたいな事よりもタレントとして、事務所に"従順"である、または事務所の先輩、もしくはその関係を維持するシステムに従順である事を求められるのかもしれません。

SMAPの場合も変なカタカナ名前の親分がこうと言ったらこう、ああと言ったらああ、ライターじゃなくて昔ながらの火を熾(おこ)す小さな棒切れみたいな名前の先輩がオスワリと言ったらオスワリ、お手と言ったらお手みたいな事でしょうか。タレントさんも社畜なのね、と思えてなりません。(ある意味、見ている方の夢を潰す出来事ですね。)


我々一般人はまさに彼らと同じなんだと思います。会社を辞めたいって思っても、なかなかできません。家族を養っていかないと、ってのもありますが、会社なんて何年そこでやってても会社の外で使えるスキルに自信つく人ってそう多くはないと思います。

でも、そろそろ会社と言う殻の外でも使える何かってのを意識しながら仕事ってしていかないといけない時代なんじゃないでしょうか。SMAPはジャニーズ事務所が彼らに合った仕事とってきてくれるって事で成り立っているのでしょう。グループを組んだのだって事務所がメンバーを選んでくれたからです。

結局、SMAPって言うのはSMAPと言う5人のグループじゃなくて、ジャニーズと言うシステムの表現の一部に過ぎないと言う事になります。だから他の選択肢にはたどりつかないのでしょう。事務所を辞めたら定年退職した会社員て事になってしまう。表に出る部分での才能はちゃんとあるのにそれをマネジメントする方法は学んで来なかったんですね。

先日ローリングストーンズのミックジャガーがメンバーのXXとちょっと仲悪くなっていたってのがありました。理由はミックのずっとやっていた会計仕事に誰かが文句を言ったのだそうです。その後誤解は解けて今でもローリングストーンズはそのままですが、これにはちょっとびっくりです。ローリングストーンズは自営業だったんですね。レコード会社とかタレント事務所によって作られた悪ガキ風バンドじゃなくて、自分たちでいろいろ決めてるって事です。

SMAPとは大違いです。日本人的にはSMAP方式のがずっと楽ですけど、サラリーマンだっていつまでもそうやっていて良いようには思いません。人生をあの口にするのが恥ずかしいようなカタカナ名前の親分に全部牛耳られているのを想像すると、やっぱりちょっと気持ち悪いと思うのです。


ついでですが、外国で仕事する場合、ある程度自分で自分のマネジメントしながらやらないといけません、ビザは必ず有効期限ありますし、その後どこで何をやるか探す方法も考えないといけませんので。(それが自由ってものの一部かもしれませんが。)

Axia (アクシア) の実燃費は14km/L

2016-01-23 23:27:45 | カンガルーじゃないKangoo
しばらく何も書いていなかったAxiaについて、たまには書いておきます。

燃費、買ってすぐは13.5km/L位しか走らなかったのだけれど、なぜかその後数値が伸びはじめて、14.2位は普通に出るようになった。カタログ値が20なので、だいたい3割引と言ったところ。週末は買い物、平日は通勤。通勤は朝はまあまあ流れているけれど、帰りは20分程度は渋滞にはまる。もし渋滞が無ければもっと燃費は良いかも知れない。

ただ、不思議なのは、エアコンがONでもOFFでも燃費はほとんど変わらないと言う事。渋滞の方がエアコンより影響力が大きいのだろうか?


ところで、Axiaについて新事実判明。

Axiaの読みは"アジア"かと思っていたら、違うらしい。他の人もアジアって呼んでいたから間違いないと思ったのだけれど、車に付いているラジオでメーカーのPerodua(プロデュアと読む。マレー後はeをウに近い発音をする場合があるので) 提供の番組があって、その宣伝の中でAxiaを"アクシア"と発音しているように、どうしても聞こえる。だからきっとアクシアが正しい。

でも、日本で出ていたダイハツの公式発表ではアジアだったのだけど。ネットで調べてもやっぱりアジアと書いてある。どうして?

ザハさん、私も模型

2016-01-22 13:49:12 | マレーシアでニャー
少し前の話になるけれど、2回目のコンペで新国立競技場の案が決まって、よかったよかった、かと思いきや、勝った方は1回目のコンペで勝ったザハ案を下敷きにしていた事で、消えかかった火がまた燻り出しているらしい。

2回目のコンペで勝ったクマ氏(落語のクマさん八っつあんじゃなくて)も一応世界で活躍している建築家なのにどうしてそんな案出してくるんだろう?、と素朴に疑問を感じてしまう。だって、ザハ氏が不採用になったあの案出してくるまでにどれだけの労力を使ったかなんて、同じ建築家なんだからわかるはずなのに。


と、まあ、それは置いといて、実は自分の仕事場の工場の一部に設備増強をする事になったので、その設備を置く場所と配置のスタディを今日、やってみた。素案から2DのCADでだいたいの案を起こしてもらって、それを基に実際の場所の床にテープを貼って大物を置く位置を確認。そのテープの上に大きなダンボールを模型代わりに置く。

ダンボールを置き終わった後、実際の物の移動に使うパレットなどを置いて移動させてみた感じをつかむ。高さ方向はなかなか検討が難しいのだけれど、スケッチアップとか写真のインポーズのような事で検討。CADで想定した位置や広さを実物大模型で再調整、これをまたCAD図に戻して工事屋さんに見積もりしてもらうと言う手はず。


こんな事、マレーシアでは他人に任せておいたら誰もやらない。何となく図面が作られて、誰も文句も言わずにそのまま作られて終わり。実際に使うのは外国人労働者だから、使い勝手が悪くても仕事が非効率でも誰も気にしないと言う構造。だからあえてやらないと。


以前、建築を勉強したので、人間が使う大きな物を配置したり作ったりする時は必須だと思っている。建築やってる人はそう言うのをできるだけ何回もやって感覚を自分のものにしているらしい。実物大でできる機会はあまりないと思うけれど、テーブルとかドアとか階段とかだったらできるし、大きなものはその延長上にあるわけだ。

で、建築家の人は、何十メートルもの大きな建物を検討するのでもやっぱりそうして検討するのだとか。何十メートルの建物を何ミリ北に動かすとか東に動かすとかって事もあるらしい。もしそれが本当だったらスケール感がすごい。

まあ、そこまででは無いにしても数センチ程度の事は、ダンボール模型でも動かす意味ってのがわかる。やってみると、動かさなきゃいけないって思うものだ。


と言うわけで、そんな仕事の結果を横から勝手にいただいてコンペに出しちゃうなんて、そりゃ隣国のコピー商品天国とどう違うんだ!、と思ってしまう。



ところで、日曜日24日はタイプーサム。でもタイプーサムはもう始まっているって隣家のインド系の家族は言っている。家の前にバナナの木を飾っていたりする。

今はその位しか見る事はできないけれど、明日の午後から頭に思い飾りを載せた人が裸足で通りを歩き始めるはず。一晩その重いのを地面に置いたりせずにバトゥー・ケーブまで歩く。身内の中で病気から回復したとかそう言うのがあった時に神様に感謝してそうするのだそう。

道を歩いていたら気をつけてあげよう。

数字数字数字数字数字

2016-01-21 13:39:32 | マレーシアでニャー
時々会議と言うものに呼ばれる。

時々と言っても月に1回とか週に1回とか、レギュラーなのも多い。特にそうしたレギュラーな会議だと、みんな資料を用意してくる。席に座ると紙が10枚以上集まる。紙には、それぞれだけれどいつもと同じような書式で枠が描かれている。その枠の中に数字がいっぱい詰め込むように書かれている。

要はエクセルで作ったのを印刷してくるらしい。ほとんどの場合、前回(先月とか)の数字が縦に並んでいてその横に今回、一番下の段は合計とか。さて、それを見て今回は前回と比べてどうだったかと言うような事になる。こう言う段取りはけっこう普通だと思う。

が、その数字を眺(なが)めて.....紙を配る方は数字を"読む"かもしれないが、もらう方は"眺める"....、それでいったい、何がわかるのか? 実際のところ、ほとんど何もわからない。横の数字と今見ている数字のどっちが大きいか小さいか、それまではわかる。これがさらにその前の数字と比べてどうなのか、さらにその前とは...となるとなかなかわかり難い。

さらに、その数字が他のどの数字とどう言う関係を持っているのか、または無関係に変化しているのかまでになるともうほとんど無理な世界に入り込む。と、まあ、そう思うのはこの自分の事。


でも、もしかして普通の人間には、羅列されたたくさんの数字から何か読み取ると言う能力はあるものだろうか? マレーシアに来て、数字の羅列を作る人はたくさん見てきたけれども、それをグラフにする人と言うのをほとんど見たことがない。

自分は工学系の学部を出ているけれど、そこではデータ、つまり数字の羅列は"処理"するものと教わっていて、逆に処理と言うものをしないデータは自分でもわからない。例えば日が経つにつれて増えていく数字があるとする。144日してその数字が259だった。さらに215日経過したら371になっていた。457日目には826だったとして、さて、この数字と日数の関係が直線的に増えているのか、増え方が加速しているとか減速しているとか、数字を見せられてすぐには全くわからない。

例えば、これが営業成績だったとしたら、増え方が加速しているなら楽観的に思えるはずで、もし数字は増えていても減速だったら将来を危ぶまなければいけない。こうした事が数字だけ見てすぐわかって、会議の場でそれについて何か言えるものなのだろうか?と、いつも思う。

たまには天才的な人がいて、わかる人がいるかと思うけれども、みんながみんなそうとはとても思えない。こう言うのはこれまで確かめた事は無いのだけれど、普通どんなものなんだろう? 

誰か知っていたら教えて欲しい。

差別する心

2016-01-19 13:46:31 | マレーシアでニャー
今朝までつぶあんはリビングの掃き出し窓の外で寝ていた。

最初は洗濯機の横に置いているダンボール箱を1/3の高さに切った猫ベッドで寝ていたのだけれど、自分がリビングに寝て見える位置に移動させた。弱っているので置かれるがままにそこで寝た。夜中に何度か見るとどうやら普通に寝返りを打ちながら寝ていたので安心した。

ただ、普通、つぶあんは夜行性なので夜間にずっと寝ていたりはしない。まだ身体に力が入らないのだと思う。朝、仕事に出かけて来たあと、奥さんからメッセンジャーでつぶあんの写真が何枚か送られてきた。最初は家の表の小さな花壇でおくさんの足元にいるところ、その後はキッチンの外側の(マレーシアではウェットキッチンと言う)隅で丸まって寝ているところだった。

そうして普通にいつものように居てくれると、それだけで安心する。うちには子供がいないけれど、小さな子供の親と言うのは自分なんかが感じるよりずっとずっとこう言う気持ちが強いのだろうな、と思う。"こう言う気持ち"?、そう、こう言う気持ち。


こう言う気持ちが強く感じられれば感じられるほど、感じられない場面の方もあるのがわかる。感じる場面と感じられない場面、内に感じられる気持ちと外と思う気持ち、親近感と拒否感などなど。


20年も前、インドネシアにいた時の事。インドネシア人は初めて会った人に必ず出身地を聞く。けっこう詳しく聞く。XXXと言う街の出身とか、XXXの出身だけど△△で働いている、XXXには君と同じ○○○出身の人がいて友達だとか。何かと言うと、位置的な情報の中に共通点や接点を探すのだ。そうして近い方が親近感が湧く。遠めの人より近めの方がより友達として認識し易い。

共通点が何も無いとその人との関係が遠いと感じる。近いものがあると関係が深いと感じる。それは単に気持ちの持ちようと言ったらそれまでだけれども、気持ちは重要。オリンピックで戦っている相手の国の人より自国の選手を応援するのと同じようなものだ。それをもっっと具体的に、深くしたものと思えば良い。


人間の脳みそはそう言う風に何かと何かを差別するようにできている。より近いものに親近感を、遠くなったところにその反対を感じる。本当はその近さ遠さには何の合理的な理由も無いのだけれど。


お腹の中にあるウンチは自分の一部だけれど、出たとたんに汚いものになる。鼻くそや鼻水、ツバなんかもそう。物理的には体内にあるのと外に出た時とで何の違いも無い。外国の人、宗教が違う人には共感し難かったりするけれど、それも客観的には合理性が無い。

うちの"つぶあん"とこの前よく来ていた"ママレード(猫の名前、1月11日のタイトル写真参照)"、単にどっちも猫だけれど、自分の中では全然違うものとして認識している。それが自分の中ではあたりまえになっていて、つぶあんが寝ているだけで涙が出そうになったりする。

つぶあんの見えない未来

2016-01-18 23:03:42 | マレーシアでニャー
先週の火曜日につぶあんをクリニックに連れて行った後、アレルギーの赤い点々は無くなった。その後、日曜日の朝5時頃にご飯を食べた後、昼間はずっと寝ていた。

昼間寝ているのは猫としては普通なので放っておいたら、なぜか夜になっても寝ている。ご飯も食べない。オシッコは1回だけ。眠たくてモウロウとしているように見える。調べてみたけれど、もらった抗生剤で起こる副作用ではなさそう。一番近いのは抗アレルギー薬が抗ヒスタミン剤だったとしたら眠気とダルさは説明がつきそうだった。朝まで待って薬の効果が切れるかどうか見ることにした。


今朝になっても状態は変わらないので午後から仕事を休んでまたクリニックに連れて行ったところ、アレルギーの薬は抗ヒスタミン剤ではなかったので症状は薬によるものでは無さそうと言う事だった。雨に濡れるなどで体力が消耗したところに何か感染したのではないかとの診断。体温は41.3°Cと高い。

熱さましの注射をしてもらって、今日明日分の抗菌剤をもらって帰った。夕方になって起きてきてちょっとご飯を食べて水を飲んだ。少し安心したけれど、まだウンチもオシッコもしない。でもブラシをかけるとゴロゴロ言っている。もう少し辛抱しなければならない。


猫には未来を思う脳が無いと言う。猫は常に現状を受け入れつつ生きているようだ。兄弟のキナコ、今サカリだけれども、つぶあんの調子が悪くなってからつぶあんには見向きもしない。土曜日まではクンクン臭いを嗅いだり横に寝たりしていのに、今はもうつぶあんが居ないかのように振舞っている。つぶあんは今の状態がもうこの先もこのままであり続けると諦めたようにジッとしたり、ちょっと移動したり、眠ったりして時間をやり過ごしている。

そうした姿を見ていると猫は悪い状況を何とかして回復しようとはしないようなのだ。そうしてこのまま我々を置き去りにしてフェードアウトしてしまいそうで、怖い。つぶあん、元気になったらまた散歩に行こうと言うけれど、当のつぶあんにとってはそれは見えない未来なのかも知れない。

国際的な仕事って何?

2016-01-17 14:04:21 | マレーシアでニャー
マレーシアに来て、6年半、仕事場は変わったけれど一貫して会社と言うものの中で仕事をしつつ生活している。そんな中で振り返ってみて、一応日本の外で働いている事になる。けれども、だからと言って全然国政的な仕事をしていると言う感覚が無い。

確かに周りを見渡せば外国人ばかり。日系企業であっても日本語でやりとりする場面は多くない。それは当たり前で、スタッフはマレーシアの人、労働者はさらに他の国から来た人なのだから。こうした環境についてだけ言えば、確かに外国なわけだけれども、だからそれが国際的な活躍の場かと言うと、とてもそうは感じられない。

そもそも日系企業で働くのは、場所が単に外国であると言うだけで、国際的な仕事をするような場では無いのじゃないかと感じている。これからマレーシアなり、他の国で仕事を探してやってみようと言う人は、もしかしたら"インターナショナルな"キャリア形成を期待してやって来るのかな、とも思うけれども、もし(自分のように)語学がそれほどでもなくて、結局日系企業を選んでしまう、選ばなければならないとした場合、それは目的にかなう選択になるのかどうか、よく考えるべきかも知れない。

日本の会社で、マレーシアや東南アジアに工場を1つや2つ持っている程度のところが、どうしてそう出来ているかと言うと、そこにお金を貸してくれる銀行があるからなのだ。ではどうしてお金が借りられるかと言えば、売り先が決まっているからリスクが少ないと言う事。つまりは余程の大手を除けば、その大手の世界進出にくっついて出ているわけだ。言うなれば、マスコミを賑わせているアメリカの企業のように"世界に打って出る"と言うようなのとは全く違う。

実は、彼らに比べればもともとチャレンジでも何でも無い。もちろん勝手が違う外国なのでチャレンジの要素はあるにしても、本質的にはそうでもない。だとすれば、そう言うところで働く事になれば、自分にとってすごいキャリアアップになるかは疑問だろう。日常が外国の言葉であるのは当たり前。しかし言葉はキャリアとはほとんど何の関係もない。単に外国で仕事したり生活したりって、そんなのは本当に誰でもやろうと思えばできる。ずっと続けるのはちょっと苦労もあるかもしれないけれど、でも出来ないほど困難じゃない。

世の中を大きく変えたりしている中での仕事、そう言う場面を求めて外国へ行くのであればやっぱりそれなりの準備はすべきだろうし、ちゃんと選ぶべきかと思う。