政権の批判を、有権者のひとりとして義務と考える寅です。戦争できる国づくりする勢力には断固として反対です。

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          ~寅~

大阪でハシズムを追いつめる反独裁・民主主義を守る戦いに声援をおくります

2011-11-26 17:05:00 | インポート
 明日27日(日)投票の大阪府知事選・市長選のダブル選挙が戦われています。 この選挙は大阪の地方選でありながら全国的に重要な意味を持っています。

 橋下徹府知事(当時)と橋下氏が率いる大阪維新の会が、大阪府教育基本条例案を9月の府議会に提出しました。
 その中身は、知事の気に食わない教員のクビ切りを含め教育関係者の罷免ができること、子どもの多様な能力の発達を抑え子どもから将来の夢を奪い学校現場を知事の思惑でがんじがらめに管理するものとなっています。*(激怒)*
 もうひとつの職員基本条例案は、知事の思惑に反する職員のクビ切りを含め、職員の管理強化を進めるものです。*(激怒)*

 この二つの条例案は4月の地方選では、公約されませんでした。公約しないで選挙民の審判を受ける、選挙民をバカにしたハシズムのやり方です。(橋下主義とファシズムを重ねて識者はこう呼んでいます)*(最低)*

 選挙で橋下「維新の会」が府議会で過半数の議席をかすめとり、突如、府議会に提案したものです。*(青ハート)*

 大阪市は政令指定都市です。市教育委員会は府教育委員会から独立しています。例えば市の教員採用は市の教育委員会が独自に行っています。その他、政令指定都市の市長には知事権限の多くが移譲されています。

 橋下氏は、知事の職務を任期途中で投げ出し、大阪市長選に出馬しました。橋下「維新の会」は、大阪市を乗っ取り、大阪丸ごと制圧を狙っています。*(雷)*

 選挙民をたぶらかし、議会と首長を乗っ取り、子どもの将来と大阪地方政治を橋下「維新の会」の思いどおりにする、これは独裁そのものの考えです。*(爆弾)*
 
 寅は、橋下氏を独裁者、「維新の会」を独裁政党と判断しています。*(グー)*

 大阪にこのような独裁の悪の芽が現れました。この芽を芽のうちに摘み取らなければ、必ずや増殖して全国に広がります。*(青ざめ)*

 大阪の反独裁・民主主義守る戦いに声援をおくります。*(チョキ)*

 大阪の独裁者を考察するために、ドイツの独裁者・ヒトラーの辿った道のりは参考の一助になると思います。下記にネット検索で出会った一文を紹介します。



平成17年度
一橋大学 加藤哲郎ゼミナール
学士論文
                     ヒトラー再考
                ー現代における評価と影響ー

                   一橋大学 社会学部
                     新井 麻衣子

                     第一章
                    ヒトラーの生涯

《誕生》
 ヒトラーは1889年4月20日、土曜日の夕方に、オーストリアの、ドイツ・バイエルン地方との国境近くにあるイン河畔のブラウナウで誕生した。有名な話であるが、ヒトラーはもともと政治家になりたかったわけではない。彼は当初画家を目指していたのである。しかし、美術試験の二次試験で不合格となり、その後は年金とときどき絵を売ることによって得た収入で暮らしていた。

 1914年、第一次世界大戦が始まると、彼はバイエルン陸軍に入隊を志願した。その間2つの階級の鉄十字章 [1]を授与されたが、この戦争の終わりを、彼は毒ガス傷病兵として迎えた。そして戦後もしばらく無職であった。ここまでは、ごくごく一般の人であり、脚光を浴びるような存在ではなかったのである。

《ナチスへ》
 30歳になった1919年の秋、彼はある小さな極右の政党に参加し、そこでやがて指導者的役割を演じることになる。この政党こそが、初期ナチスといわれている、ドイツ労働者党である。1920年に行われた党の大集会の際にドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党と改称し、現在知られている政党となった。ちなみに、この党の略称はNSDAPであり、ナチスというのは党の反対派がこの党に与えた軽蔑の意味をこめて呼んだ俗称なのである。

 1923年の11月、ヒトラーはミュンヘンで一揆を起こした。いわゆるミュンヘン一揆である。この一揆は失敗に終わり、ヒトラーは投獄されることとなったが、この獄中で『わが闘争』を口述筆記で記した、という事実は有名である。

《第一党への道》
 ナチスはその後、非合法的な手段から、合法的な手段に路線を切り替え、選挙戦に勝つことを目指していった。1928年5月の国会選挙では、得票率2.6パーセント、12議席の獲得に過ぎなかった。ところが、1929年に始まった世界恐慌がドイツにも襲来すると、絶望と不安のなかに投げこまれた新旧中間層、失業者、青年などの支持を得るようになっていった。1930年9月の国会選挙では、一躍得票率18.3パーセント、議席数107を獲得し、第2党に進出した。そしてついに、1932年の7月と11月に2度にわたって行われた国会選挙では、ナチスはそれぞれ得票率37.4パーセント、33.1パーセント、得票数はどちらも1,000万票を越え、第1党となったのである。

 しかし、議会の過半数を占めてはいなかったため、1933年1月には連立内閣という形をとって、ヒトラー内閣が誕生した。ところが、ヒトラーはすぐに総選挙を実施し、圧勝した。続いて3月には全権委任法という「民族と国家の困難を除去するため、政府に立法権をゆだねる」法、すなわち、国会の同意なしに、自由に法律を制定する権限を認める、という法を成立させた。これは、これまでのヴァイマル憲法の停止とヴァイマル共和国の崩壊を意味した。そして、10月には、ドイツの軍事平等権が承認されないことを理由に、国際連盟を脱退している。

《総統として》
 1934年、当時大統領であったヒンデンブルクが死去したのをきっかけに、ヒトラーは大統領制を廃止し、大統領・首相・党首の権限を持つ、総統に就任することとなる。そして、当時失業者が社会的な大問題となっていたが、彼はそれを解決するべく、アウトバーン [2]に代表されるような社会事業や軍需施設の拡大によって救済を図り、大成功を収めた。さらには、ザール地方を人民投票で大多数の支持者を得て併合し、ヴェルサイユ条約の軍事条項(徴兵制廃止・軍備制限など)を破棄し、再軍備宣言を行った。そしてそれだけではなく、1936年にはラインラントに進駐までも行なったのである。ラインラントはフランスとの国境付近で、非武装地帯とヴェルサイユ条約で定められていた地域であった。しかし、フランスもイギリスもこれに対して軍事的な行動に出ることはなかった。

 ヒトラーはこれだけではとどまらない。次に1938年オーストリアを合邦する。これも、大多数のオーストリア国民の支持を受けて成立したものであった。そして、これはヴェルサイユ条約で掲げられていた「民族自決」の基本理念を逆手に取ったものであったので、外国諸国も抗議のしようがないものではあったのだった。さらに続いて、同年チェコのズデーテン地方も併合することに成功する。このズデーテン地方はもともとドイツ人が多く住んでいる地方であった。そのため、この地方の処遇をめぐってドイツとチェコが対立し、それを調停するために開かれた、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳(チェコの首脳が呼ばれていないことはひどい話だと思うが)によるミュンヘン会談でズデーテン地方のドイツ併合が決定されたのであった。

 これでもまだなお、ヒトラーにとどまる様相はあらわれない。ヒトラーは翌年1939年にチェコスロヴァキアを解体、チェコはドイツの保護領となり、スロヴァキアは独立の後ドイツの保護国となったのである。またさらに、同年、ヒトラーはポーランドに対しドイツ「本土」と東プロイセン地方の間に挟まる回廊地帯であった、ポーランド回廊の割譲を求めたのである。

 これまで行動は起こさず、黙って見ていただけであった西欧諸国は、ここにきてようやく態度を変え、ポーランドの支援を約束するようになった。しかし、それに対して、ヒトラーは、ソ連との共同行動を模索していたイギリスやフランスを出し抜いて、電撃的にソ連との間に不可侵条約を結ぶことに成功する。これが、独ソ不可侵条約である。ドイツのナチズムとソ連の共産主義とは、まさしく犬猿の仲であったので、このことは諸外国にとって驚愕に値するできごとであり、青天の霹靂というべきことであった。

《第二次世界大戦へ》
 そしてついに、1939年9月ヒトラーはポーランドに侵攻し、これに対してイギリス・フランスが宣戦布告することになった。これをもって第二次世界大戦が開始されたといわれているのである [3]。

 開始後、ヒトラーはまたしても自らの目標を達成し続ける。なんとヒトラーは電撃戦を展開し、わずか1ヶ月ほどでワルシャワを制圧することに成功したのであった。さらに、1940年にはデンマークとノルウェーに、続けてオランダ・ベルギーを突破してフランスに侵攻した。そして、パリまであっという間に到達し、フランスは北半分がドイツの占領下におかれることになってしまったのである。

 この形勢をみて、イタリアがドイツ側について参戦した。したがって、ヒトラーは、イギリスを除いた西ヨーロッパを事実上ほとんど制圧することに成功したのである。

 しかし、ここまで破竹の勢いで成功劇を演じ続けてきたヒトラーにも、このあたりから暗雲が立ち込めてくる。

 ヒトラーは西ヨーロッパ制圧だけでは満足せず、続いて1941年ソ連に侵攻する。当初快勝していたものの、冬の装備すらしていなかったドイツ軍は、ロシアの冬を前にして、その勢いを失わざるを得なくなった。そして短期決戦を予定していたものの、長期戦の様相を呈するようになったのである。ヒトラーの全戦略は、ソ連を短期間で征服することにほとんどかかっていたので、ここでの失速および失敗は、戦争全体の失敗を暗に意味していたのであった。

 それにもかかわらず、日本の真珠湾攻撃に合わせるかのように、1941年、アメリカにまで宣戦布告をした。しかし、ついに1943年には戦力・戦意ともに尽き果て、対ソ連戦はあえなく降伏することになった。

 ここで全戦争をやめれば良いのに、と誰もが思うに違いないが、ヒトラーは戦争を続行した。そして相次ぐ悪戦況の中、1945年4月30日にヒトラーは自殺する。翌月である5月初めにはベルリンも陥落し、ドイツは無条件降伏をすることになった。

《ヒトラーの負の遺産》
 ヒトラーの自殺ということで、ここにおいてヒトラーの生涯は幕を降ろしてしまったが、ヒトラーの歩んできた道のりの中でこれまでに欠落してしまった重大な事項がある。それは、いわずも知れた「ホロコースト」(ユダヤ人の大量殺戮)をはじめとする、ジェノサイド(集団殺害)である。

 第二次世界大戦を引き起こしたということだけで、ヒトラーには戦争責任および大量殺戮という側面が付きまとう。しかし、それにさらに加えて、ヒトラーは自身の世界観・思想から、人種主義、反ユダヤ主義などを用いてジェノサイドを行なった。その典型例が「ホロコースト」なのである。簡単にその中身を見ていってみよう。

 ヒトラーのユダヤ人政策はほぼ3段階のエスカレート過程を示している。初めには、ユダヤ人の公民権剥奪と外国移住の暴力的推進を行なった。ついで開戦後に、全ヨーロッパのユダヤ人をドイツの委任統治領になるはずであったマダガスカル島に追放(強制移住)することも計画されたが、これは実行されずに終わった。そして第3段階目である「最終解決」の実行である。

 「最終解決」とはすなわち、ゲットーに押し込んだ大量のユダヤ人の「処理」のことである。しかし、この「最終解決」に関しては、さまざまな意見が出されており、目に見える証拠が残されていたわけではないため、すべてがはっきりと解明されているわけでない。そこで、ここでは、現在多数派とみられる意見のみを紹介するに留めることにしたい。

 この「最終解決」は、その根底にヒトラーの世界観が如実に現れているものであり、この決定が戦局の推移と密接にからみあっていたといわれている。そして、戦争が終わるまでにゲットーや各地の強制収容所で、餓死、射殺、ガス殺、その他さまざまな形で殺されたヨーロッパのユダヤ人の数は合わせて600万人近くに上る。しかし、殺害されたのはユダヤ人だけではない。ユダヤ人の大量ガス殺は、開戦後、ドイツの精神障害者約7万人が「安楽死」させられた方法の転用なのである。その上、シンティ・ロマ(ジプシー)約50万人も殺害されたことも忘れてはならない。

 また、ここで並べて提示しておくと、ポーランドでは兵員60万人、民間人はユダヤ人300万人を除いてもなお、300万人が犠牲になっている。ソ連では、兵員1360万人、民間人600万人とのことである。また、ドイツ軍の戦死者・行方不明者は500万人、負傷者は400万人、民間人の死者は50万人にもおよんだ。

 数字自体には諸説あると思うが、かなりの人数に上る人々が、この期間に死亡したことは疑いの余地がない。さらに言えば、戦争の最後の1年半の間に、その前4年間の2倍以上の戦死者がでているという [4]。

(表題の学士論文から第一章を抜粋しました。論文中の《》は寅の責任で付けました)

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