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哲学者 内山節さんの講演会があさってに迫ってきた。当日販売する書籍が出版元から届き、さっそく第一番に購入する。
「今日はじっくり本を読もうっと。……ブログはお休みしようかな」
なにげなくつぶやいたつもりだったのに、S藤さんがしっかり聞いていた。
「あなたは表現者でしょ。内山さんの本を読むのも大事だけど、日々を表現することも大事!」
「うひゃーっ」
ということで、今日もたくさんの人がなだれ込んできた。朝一番に見えたS木建設のS木さんが、「今日は静かですね」と言ったのがまるで別の日みたいな入れ代わり立ち代わり(あるいは、バッティング)状態。
印象的だったのは、昨日、カレッジ案内文書の発送作業を手伝ってくれたサイクリストO澤くんとS藤さんの会話である。O澤くんは「とはなにか学舎」のS藤ゼミ生であり、話は仕事観からはじまって生き方論にまで及んだ。
「いやあ、こういう話ができるのは嬉しいですよ。これからも、いろいろ勉強させて下さい」
とO澤くんが言えば、
「いや、勉強じゃないんだよな」
とS藤さんは腕を組む。
「例えば、浜野さんの話を聞いたり、内山さんの話を聞くのは、勉強って感じじゃないんだよね……。K住さん、どう思う?」
ほら来た。この「どう思う?」が、実にくせ者なのである。
S木くんとも話しているのだが、S藤さんの「どう思う?」は、まるでその答えから、私たちの成長度合いや、どこまでわかっているかを推し量っている、あるいは試しているんじゃないかと思えるような感じがするのだ。もしかしたら、口べたな私たちに、質問に対してすぐ自分の意見が言えるよう訓練してくれているのかもしれない。
このときも、
「勉強というより、浜野さんとお話したときは、ただただ楽しかったです」
と答えると、S藤さんはきっぱり言った。
「楽しい、っていうのとも違うな。浜野さんや内山さんの話を聞くと、自分にこんな引き出しがあったんだと発見できる」
「気づきですね」
S藤ゼミで訓練されたO澤くんが即座に答える。
「そうだな。そういう引き出しが自分にあったのだと気づかされて、しかも、その引き出しの深さや奥行きのなさにさらに気づかされる」
家に帰ってじっくり考えた。
浜野さんや内山さんの話を聞くことは、あるいはその著作を読むことは、たしかに勉強という感じではない。
S藤さんの言う「そういう引き出しがあったことに気づかされる」のと同時に、その引き出しから出して、その話題について話をしたかった自分の存在に気づく、という感じでもある。
「そう。そのことについて、私は話がしたかったの」
「もやもやしていたのは、そういうことだったの」
と明確に、目の前に引き出してくれる感じなのである。
言葉を変えて言うなら、
当たり前すぎて見失っていたこと、
大きすぎて見えなかったこと、
漠然としすぎてつかめなかったこと、
それらを軽々と意識の上にのぼらせてくれ、
「さあ、あなたが話したかったのはこのことでしょ」
「議論し、考え、深めていきなさい」
と引っ張り上げてくれるようなイメージである。
今後、このカレッジを通じて自分からどんな引き出しが出てくるのか、楽しみである。
さあ、苦手な「どう思う?」の答えを自分なりに表現できたので、今から、じっくり本を読もう!
【2時間後の追伸】
『「創造的である」ということ(上)農の営みから』(内山節著・農文協2006年刊)の半分を読み進めた現段階で、面白すぎる~~! 付箋が冒頭画像のようにいっぱいです。『「創造的である」ということ(下)地域の作法から』もタイトルを見ただけでメロメロしそう。
取り急ぎ、ご報告まで。