大峰の河童

法螺貝を習得中 

河童が毛利勝永の遺跡を探訪

2016年09月15日 | 日記


大坂夏の陣で大活躍した武将で「惜し哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と近世評価されながら現在ではあまり話題にも上らない毛利豊前守勝永の遺跡を土佐に尋ね、毛利(森)屋敷が有ったと言われている中久万天満宮(写真)付近や高知城に行く。 屋敷跡の傍を流れる久万川を利用して浦戸湾から大阪表に脱出することが出来たのだろうか?

毛利(森)勝信・勝永親子(小倉城主)は明治三十年発行の郷土誌で、小倉城の由来項目に「天正十五年六月七日秀吉班抵大宰府云々割豊前六郡予黒田孝高治中津、以其二郡予森勝信治小倉」と簡単に掲載されている豊前国企救郡・田川郡二郡六万石を十数年間治めていた大名である。 家臣団にキリシタン大名の高山右近が改易された際の家臣も居たようです。

今福匡 著の「真田より活躍した男毛利勝永」では伏見城の戦いで活躍したが関ケ原の合戦では決戦場には出陣不明としている。 (伏見城攻防戦の働きに対して知行三千石の加増を受けたが手勢の消耗激しく、次の戦場の三重・安濃津城攻めでは取首数「頸八 毛利豊前守」とあり毛利勝永軍の戦闘能力が著しく低下していた。)

西軍敗者に成り毛利壱岐守吉成・豊前守勝永親子は配流先の土佐山内家で厚遇を受けた様だが九度山・真田庵で配流生活送った真田昌幸・幸村親子と同じような経緯を辿って大坂冬・夏の陣で活躍した。

高知城の遺跡探訪では一豊の室千代の賢夫ぶりを称えて商工会議所婦人部が建立した銅像前でボランティアの方の説明を聞き入る。 勝永も大坂入城に際して「銃後の守りの鏡」とされる妻の励ましの逸話が残っていると言われている。(ボランテイアの方は勝永、妻を知らず)

夏の陣で天王寺口に陣を敷いた毛利勝永は左正面に陣を進めてきた将軍、徳川秀忠軍の先軍である本多忠朝、内藤忠興、真田勢(信吉・信政兄弟)、保科正光等を蹴散らし、小笠原家当主秀政と息子忠脩・忠真(後に小倉藩の藩主)部隊を壊滅させた。 北九州小倉藩の支配者は大坂の陣で勝者と敗者が入れ替わる因縁(毛利(森)- 細川 - 小笠原と代わり幕末を迎える。)の地だった。

今、話題の真田丸と同様、毛利勝永軍も天王寺陣営前の陣地には幅50間の堀切を構築し、攻守に当たっていた模様。 次は天王寺の南にある庚申堂付近の深堀跡を探索しよう。

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