大峰の河童

法螺貝を習得中 

河童が「酷道与作」で肝を冷やし、戦闘機「紫電改」に遭遇

2016年10月05日 | 日記


土佐の酷道439号線で肝を冷やし、愛媛・愛南町の「紫電改展示館」を訪れる。一昨年も農水産物の「新鮮とれたて市」に訪れた際に、立ち寄っているが写真を撮り損ねた記念館である。

戦争末期に宇和島湾(久良湾)の海底に沈んでいた機体を34年後に引き上げ、展示している日本で唯一の物だそうです。松山海軍基地から飛び立っち空中戦を繰り広げたそうです。ゼロ戦の後続機の「紫電」を改良した機体が「紫電改」と呼ばれたものです。

戦後生まれの河童にとっては戦時の遺構体験の一つに高射砲陣地での遊びがあります。高射砲の台座跡や地下2階建て構造の兵舎跡は赤れんがやコンクリ-トで頑丈に建てられていて、子供にとって珍しい遊び場でした。周囲は木造建築物が大半で、学校も木造です。もちろん自宅は木造の長屋でした。

兵舎跡は4ケ所あり、独立していた様ですが奥の通路部分で各建屋が繋がっていた。完全な地下構造で上屋部分には2m以上の土が載せられていた。子供たちは暗闇に目が成れてくると地下2階や複数の部屋を繋ぐ中央通路(長さ50m)などを探検(肝試し)して遊んでいました。

大峰山中にB-29が墜落した時の機体エンジンが洞川の資料館に展示されている。又、以前に道端(豊中)にも小型飛行機のエンジンシリンダ-部分が錆びたまま放置されていたのを見た記憶がある。バイクのエンジンに似た十数個のシリンダ-は単なる鉄の塊だった。

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河童の竹弓造り 「弓芯の製作」 その二

2016年09月22日 | 日記


弓芯の材料をニカワで接着した。四本の竹ヒゴを黄櫨の側木で挟んで接着したニカワが、はみ出し、材料は凹凸に成って接着固定。 
弓芯にする為には表・裏を平らに削る。材質(外は木、中が竹ヒゴ)が違うのでカンナ掛けを心配したが順調に削れる。しかし、側木に順目と逆目が各所に有るので慎重に削る。

弓芯の加工度合は中央部分を厚くして、両端を薄く削る。これは遊びの弓で握り部分を分厚くした事と同じだ。竹が反発する力点を握り手の1ケ所(胴)から竹を二重に合わせて強化した端の2ケ所(鳥打と大腰)に分散して弓折れを防いで強弓にしていた。子供たちの遊びの中でも年嵩から下の者へ遊び道具の造り方が伝承されていた。矢は棒矢状態だったが40~50mは飛翔した。

和弓の定義では「握りの位置は弓の上部から約3分の2のところにあることを要す。」と決められているので上弭から2/3または3/5の位置決めを行い、長さ2m30の弓の握り部分・矢刷り藤付近を厚くする。反対に両端は薄く削るが、最終的に各所の厚み(サイズ)が不明。

適当に削っていくと、接着が外れた。電動カンナの振動の影響か? ニカワ(膠)の接着不良(ニカワと水の調合、溶解温度)? 何か所か隙間が空いているが、すべて竹ヒゴが接着不良になっている。 

補修接着を行いつつ削りを続行、「弓芯」が完成。「弓芯」に力を加えると、思いのほか湾曲する。弱弓が完成か! 目標の弓力は14㎏。 



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河童が「河童の里を訪ねて酷道に迷い込む」

2016年09月20日 | 日記



四万十川に住む河童を訪ねた後、「酷道与作」の一部を走破する羽目に陥る。国道381の轟から酷道与作(国道439号線)杓子峠を県道367の出合まで対向車はトラック一台だけ、その距離10数キロ。恐ろし酷道だった!

以前、奈良県の下北山村から十津川村に抜けて「昴の里」で綺麗な夜空を楽しむ為に先を急いだ事により迷い込んだ酷道425号線。この時の対向車は皆無。山からの落石に肝を潰しながら無事走破した。

今回は愛南町の「紫電改」と高知/四万十町の「かっぱ館」を訪ねるのが楽しみで車を走らせ無事到着。駐車場に停車する前から周囲の異様な雰囲気に呑まれてしまったのか、腹具合が悪い。しかし、元気を出して館内を見学。

撮影自由とは云え、照明の加減で中々上手に写真を撮る事は出来なかったが、自由な発想の造形美の河童達に多数出会えて楽しく勉強した後にトイレに座る。

先を急ぎ、ホピー館に寄らずに四万十市にナビを設定。ここで、呪われたー! 国道56号線を選ばずに近道の「酷道与作」を選択。今回も旅行で「酷道」に迷い込んだのは何かの祟りか! 河童の六地蔵を拝もう?

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河童の竹弓造り 「関板の加工」

2016年09月20日 | 日記

古家の解体現場に遭遇すると床柱や床框に弓の関板に再利用できる銘木が破棄されて無いか、気にかかっています。

手元で関板に加工する予定の材料は縞黒檀、枇杷、山桜の切れ端を所有しているが、初手の竹弓造りにつき側木の切れ端の黄櫨を使う。

関板は単に弦を掛けるだけで無い事は判っている。小さい頃の弓には関板が無い為、弦の張力に負けて竹の三つ角が裂けてしまう。短い弓、強い弓や三つ角の加工具合で良く壊れていた。

弓矢で合戦遊び中に弓矢が壊れて、降参することが無いように弦輪を掛ける弓の個所を糸で強化していた。もちろん、握りの中央部分も重ね竹にして張力に耐える加工をしていた。

夜店で売っている吸盤付の弓矢に比べると凄く強力な弓で、矢は鏃先を安全に加工していたが対戦相手を直接的にしている危険な合戦遊びだった。

しかし、子供の遊び道具の弓と違って本格的な弓の関板には、それなりの役目が有り、形状が上・下の関板で違いが出来上がっている。サイズや曲線の加工具合は手探りとなる。
まず、一つ造って、その形状は作製の過程で修正を加へる事にした。

上・下の関板の湾曲の程度、長さの比較が、今後の参考に成る様に定規も併せて造る。

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河童の竹弓造り「弓芯の製作」

2016年09月19日 | 日記

四本の竹ヒゴと二本の側木(櫨)を接着(ニカワ)して弓芯を造る。

接着剤のニカワは三千本を使い、水を加えて湯煎して溶かす。 子供の頃は合成の接着剤よりも膠が安価で学校の工作で数回、膠を使った経験はある。 水の分量・湯煎温度などはその時の経験を生かそう。

四本の竹ヒゴの節は重ならない様にずらして組み合わせる。 ヒゴの表皮・内側は二本ずつ同じように表皮側を外にする。 

側木は加工して5年しか経過していないが仕方がない。 10年、20年も乾燥を待つ事は出来ない。側木を保存中に木の根元が判らなくなった。 板材を真っすぐに製材したが、今は可成り反って来て、曲がっている。 一本の側木は木目が2ヶ所で裂けている、此れは作業前にひび割れを膠で接着して置こう。

部材を接着する際の紐は楔を打ち込み、接着の為の強く力が架かるのでタコ糸ではなく綿金剛打ロープを使う。 Z撚りに比べ撚り戻しが少ない。 手元にマニラロ-プが有るが少し、太すぎる。

充て竹は幅を30mm以下にして片方だけに当てるが、少し厚めの充て竹にして当てて片面をフラットにする。

出来上がりを長さ7尺六寸(2m30)にする為に、ここで弓芯の長さを決めるか?

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河童が毛利勝永の遺跡を探訪

2016年09月15日 | 日記


大坂夏の陣で大活躍した武将で「惜し哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と近世評価されながら現在ではあまり話題にも上らない毛利豊前守勝永の遺跡を土佐に尋ね、毛利(森)屋敷が有ったと言われている中久万天満宮(写真)付近や高知城に行く。 屋敷跡の傍を流れる久万川を利用して浦戸湾から大阪表に脱出することが出来たのだろうか?

毛利(森)勝信・勝永親子(小倉城主)は明治三十年発行の郷土誌で、小倉城の由来項目に「天正十五年六月七日秀吉班抵大宰府云々割豊前六郡予黒田孝高治中津、以其二郡予森勝信治小倉」と簡単に掲載されている豊前国企救郡・田川郡二郡六万石を十数年間治めていた大名である。 家臣団にキリシタン大名の高山右近が改易された際の家臣も居たようです。

今福匡 著の「真田より活躍した男毛利勝永」では伏見城の戦いで活躍したが関ケ原の合戦では決戦場には出陣不明としている。 (伏見城攻防戦の働きに対して知行三千石の加増を受けたが手勢の消耗激しく、次の戦場の三重・安濃津城攻めでは取首数「頸八 毛利豊前守」とあり毛利勝永軍の戦闘能力が著しく低下していた。)

西軍敗者に成り毛利壱岐守吉成・豊前守勝永親子は配流先の土佐山内家で厚遇を受けた様だが九度山・真田庵で配流生活送った真田昌幸・幸村親子と同じような経緯を辿って大坂冬・夏の陣で活躍した。

高知城の遺跡探訪では一豊の室千代の賢夫ぶりを称えて商工会議所婦人部が建立した銅像前でボランティアの方の説明を聞き入る。 勝永も大坂入城に際して「銃後の守りの鏡」とされる妻の励ましの逸話が残っていると言われている。(ボランテイアの方は勝永、妻を知らず)

夏の陣で天王寺口に陣を敷いた毛利勝永は左正面に陣を進めてきた将軍、徳川秀忠軍の先軍である本多忠朝、内藤忠興、真田勢(信吉・信政兄弟)、保科正光等を蹴散らし、小笠原家当主秀政と息子忠脩・忠真(後に小倉藩の藩主)部隊を壊滅させた。 北九州小倉藩の支配者は大坂の陣で勝者と敗者が入れ替わる因縁(毛利(森)- 細川 - 小笠原と代わり幕末を迎える。)の地だった。

今、話題の真田丸と同様、毛利勝永軍も天王寺陣営前の陣地には幅50間の堀切を構築し、攻守に当たっていた模様。 次は天王寺の南にある庚申堂付近の深堀跡を探索しよう。

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河童の竹矢造り 「箆の節抜き」

2016年08月04日 | 日記


「へら竿」造りでは竹の節を抜い(中抜き)て穂先の細い竿を太い竿の中に仕舞う。 これは「へら竿」だけでなく普通の釣り竿でも節を抜いている。

小学生時代は町内に有った釣具店で釣り竿を購入する事が出来なかった事を思い出した。 当時の子供立ちは遊び道具を買う余裕が無く、自作していた。 学校の裏山に生えていた「メダケ」や「布袋竹」を使い、海岸で拾った釣り糸・針・浮きで鯛・チヌや鰻を釣って家庭の食材を確保した小学校時代を思い出しながら、訪問した「へら竿師」に竿造りの工程を色々お聞きした。

矢竹では節を抜く、抜かない、どちらが正解か? 伊勢神宮の徴古館や奈良春日大社の宝物館の矢を見に行ったが、展示物では判る筈がない。

以前、針金の先を熱し節抜きに失敗の経験とは異なる「へら竿」造りの節抜き方法に挑戦。
「長い錐」を造る材料を近所の資材店で番線を購入(径の太いビアノ線は高価)。 錐先は熱を加えて急冷し、30cm~100cmの長さの錐を造る。

「節抜き」作業は手揉みではなく、電動ドリルを使用する。 回転が速いと熱を持ち、竹を割る・節芽に穴開く・錐のセンタ-がブレると竹が裂ける等のアドバイスを思い出しながら作業を進める。

一本目は簡単に節抜きが出来たが、二本目以降は続けて失敗。 節芽の反対側が裂けてしまう。 特に羽中節の処で失敗します。 錐先に節を強く押さえ付ける力加減? 錐先の加工の違い? 

矢竹から箆に加工途中の10本程度を無駄にしたが、その後は力加減を習得。 4個所の節を綺麗に抜く事が出来。 熱した鉄の棒で節抜きした時より簡単で、失敗が少なく、作業が綺麗だ。

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河童の竹矢造り、「疑問点の解明」

2016年07月06日 | 日記


暑い季節に成る前に昨年、山から取って来たヤダケの火入れ「荒矯め」を行う。
採取し、乾燥を終えた200本程度のヤダケ全てに火入れを行うのは「大変だなーぁー」と思いつつ午前中の時間を充てる。

最近、和歌山・あら川の桃を選果場の直売所で購入しているが、今年もその季節が訪れた。 近くの橋本・まちかど博物館を訪れた際に「へら竿」が展示していた。 係員の説明で「市内は「和竿」の特産地で、清水地区の池の事務所には沢山の「へら竿」が展示されている。」事が判明。

ヘラブナ釣りの「隠れ谷池」は織田秀信(幼名・三法師丸)の終焉の地の近くと見当をつけ車を走らせる。 だが、柿畑の路に入り込み、ユータ-ン。 池への進入道が判らない。 紀伊清水の駅前の地図や待合室の方の尋ねるも要領を得ない。

 諦め切れず駅前の店舗を望み込むと何と「へら竿」造りの真竹や火入れの釜が有りました。 「へら竿師」の工房に偶然、飛び込んだ様です。 これ幸いと、お仕事中にもかかわらず沢山の事をお聞きしました。

1. 竿の材料: 真竹、高野竹、矢竹を九州から購入。
1. 接着剤: 穂先には膠ではなく、混合接着剤
1. 節貫き: 穂先を入れ子で収容するための大きな穴の節貫き方法。
1. 防虫剤: 呉羽化学、カビ防止
1. 火鉢(七輪)の構造・燃料の炭:石川に特注、成型炭を使う。
1. 火入れ: 芯まで焦がす方法。
1. 荒矯め: 初手から材料を良く選別。

短時間の間に、沢山の質問にお答え戴き、感謝・感謝。 竹矢造りの参考になりました。

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竹法螺の作製

2015年02月22日 | 日記


河童のご先祖さまの故郷を調べてみると、村誌に[年貢を収納する際、「竹ボラ」を吹いて集落を回り、郷蔵に年貢を持ち寄る時を知らしていた]と云う。
「竹ボラ」とは如何なるものか?興味が湧き、ネット検索すると各地では竹製の法螺を使っていた模様だ。農民一揆で多数の人数が一斉に「竹ボラ」吹いて、代官や村役人を威嚇していた様だ。今でも南予地方では祭りに「竹ボラ」を吹いている。

 直ちに山に分け入り、竹を切り出してくる。法螺貝に対する長さや太さ及び穴の大きさ等を替える為、数個の材料を用意する。穴の開け方は手回しのドリルで開ける。手加減しながらドリルを回して穴を開けると竹が割れずに済む。吹き口はナイフで綺麗に面取りする。

出来上がった「竹ボラ」を早速吹いてみると、良い感じで大きな音が出る。只、高音が出ない。「竹ボラ」で調べ、発声、返し、吹上、留め、揺り、甲音、乙音などを試みるが不可。
法螺貝の五旋律に近い音色が出れば、高価で重い法螺貝に替る物と少し期待していたがかなわず。 

村の「郷蔵」の位置や面積、管理者等を調べた記事を読んだことが有る。年貢米を保管する村々の建物を郷蔵と称し、その蔵の鍵を管理していた村の家の屋号を「加儀屋」と名乗っていたそうだ。

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河童がカッパを共食いする

2014年12月16日 | グルメ
  

今春、ドライブ途中に道の駅で「カッパ」の値札を見つけた。珍しいネーミングに驚き、撮影を試み、商品を購入。

その後、訪問先の4歳の男の子から妖怪ウオッチが流行っている事を教えられる。ストーリー中の妖怪キャラクター名を言われるが年のせいか、覚える事が出来ない。たくさんの妖怪キャラクターの中で「ノガッパ」は頭に入った。中々ユニークなストーリーで、普段から保湿クリームを頭の皿に塗っていたおかげで相撲の勝負に勝利した。「ノガッパ」が変化して剣を取って戦う「旅ガッパ」になるなど、面白い。

明治時代、炭鉱で栄えた若松ではゴンゾウ(川筋荷役作業従事者)達の体力回復、強壮に馬肉を沢山、食していた事をドテラ姉さんが言っていた。ドテラ姉さんの年齢は母親よりも年上で、小六ぐらいまで会社の五右衛門風呂に一緒に入浴して共に背中を洗っていた事を思い出しながら、晩酌で初めて「カッパ」の共食いに挑戦。この姉さんの背中には「弁天さん」が綺麗に描かれていた。若松でも「カッパ」のネーミングで干し肉を食していたのか?

妖怪ウオッチの古典河童に近い大峰の河童は、これまでにも珍しい獣を食べてきた。札幌の「ラム肉ジンギスカン」、白川郷の「熊肉うどん」、洞川温泉の「鹿肉の刺身」、若桜の「たぬき汁」、武田温泉の「猪肉」・「雉だんご汁」を食す。雉肉ダンゴには数個の散弾銃の弾が入っていた。


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河童の創作民話 「鬼坂の河童」

2014年05月14日 | 日記
昔々の話です。上村には神様が放った天羽羽矢が飛んでいた、矢田の矢落神社に落ちた3本の矢は村の上空を横切った。弓の弭に留まる鵄が住む。このような大昔の伝説が上村にたくさん伝わっています。昔から村の真ん中には上津鳥見路に沿って流れる富雄川にはたくさんの鳥たちが住んで居て、狩場に成っていました。地位の高い役人が上村の狩場に来て白鳥などを弓矢で射て、狩をして腕前を競っていました。

ある日、弓矢の腕前が下手な役人がたくさんの家来を連れてやってきました。さあ大変です、空を飛ぶ鳥を狙った矢が間違えて何時、岸辺に飛んでくるか心配です。付近の川で遊んでいた河童たちは急いで富雄川に流れる寺谷川を上り「鬼ヶ坂」に隠れます。

その日、役人が帰って行った後に沢山の弓や矢が残されていました。白鳥や鴨などの獲物が取れなくて、弓矢を捨てていった様です。普段、河童たちは弓矢で遊ぶことはしません。しかし、今日は川で楽しく遊んでいた途中を邪魔されました。落ちでいる弓矢で「鬼ヶ坂」から遠くに見える鬼取の村に向かって弓矢を射て遊んでみました。

矢が飛んで落ちる途中にはたくさんの村人が働いています。大変危ないので矢田の行者山で修行していた山伏が河童たちの弓矢を取り上げ、塚に埋めてしまいました。それからは上村の空には矢が飛び駆る事が無い平和な村に成ったそうです。弓矢を埋めた「鬼ヶ坂」を弓塚と言い、山伏は西村の行者と言われているそうです。田畑では石の鏃が見つかっています。

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河童の創作民話「行基さんの相撲禁止」

2014年05月12日 | 日記
昔々の話です。清流の生駒川の南はずれに「まぐわ淵」と呼ばれる奇岩景勝の地があります。早瀬は曲りくねり川のあちこちに深い淵があり、鮎が沢山泳いでいました。

ここに住む河童たちは奈良の大仏を造るために遠く九州の八幡さんの指示で働きに来た河童達です。
大きな大仏の造営現場では沢山の人々が働いています。行基さんに従って沢山の大人たちは何日も何日も大仏さんの造営に働いています。昼間は里の大人たちが働き、夜は河童の大人たちが働き大仏さまを作っています。

子供たちは毎日、川岸の大きな岩場の上で相撲を取って遊んでいます。取り組みが進んで熱戦になり河童たちが両足を踏ん張ると、土俵の岩が崩れて川に落ちました。次の日も、次の日も相撲を取っていると足元の岩が崩れて川に落ちました。

ある夏の日、大雨が降ってきました。何日も降り続く大雨は「まぐわ淵」に流れ込みます。しかし、河童たちが川に落とした大きな岩に流れが塞がれ下流に水が流れません。川の水があふれて付近の村の家や田畑が水に浸かり、鮎たちも死んでしまい大変な事に成りました。行基さん達は大仏殿完成後も各地の池や河川の土木工事に手を取られ生駒川を綺麗に直すことが出来ません。それで行基さんは河童たちに「まぐわ淵」で相撲を取ることを禁止されました。

その後、何年も何年もたった後の事です。竜田の殿様にお願いして村の人々が総出で「まぐわ淵」の大きな岩を取りのぞき、改修工事が行われました。水の流れは良くなり田畑が水に浸かることも少なくなくなりましたが鮎は今でも生駒川に登ってくることはありません。鮎のいない川には今では河童も住んで居ません。

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河童の創作民話「河童の相撲大会」

2014年05月10日 | 日記
生駒山の東麓には淀川に流れる天の川と大和川に流れる生駒川があります。 
昔の事です、天の川と生駒川のどちらの川が沢山の水を称えて、たくさんの田畑を潤しているか相撲を取り、勝負する事に成り成りました。
相撲の土俵は二つの川の上流にある「お松の宮」に作り、神主に行司をお願いしました。 

 今年は雨が少なく、北の村も南の村も水田に引く水が少なく、お百姓さん達は困っていました。そこで、川の強さを決める相撲大会を聞きつけたお百姓さん達は自分達の村を流れる川の代表者に勝ってもらいたいと思いました。川の水量が増えるとお米が沢山作れます。
そこで、相撲大会に出場する河童たちの力付けに、お餅をたくさん作り川岸にお供えをした。相撲の勝負の日まで、何日も何日も、お餅を作っては川岸に持ち寄り、お供えをしました。河童たちはお餅をたくさん食べて、村の会所にある力石を持ち上げ、稽古に励みました。

いよいよ、相撲の試合の当日が来ましたが今日も朝から大変、暑い日です。神社の境内では応援の村人や見物の人で賑わっています。しかし、勝負の時間が来ても相撲を取る河童力士が現れません。試合会場の付近は天の川と生駒川の分水嶺です。旱で川に流れ込む水が無く河童たちは試合会場にたどり着くことが出来ません。河童たちの頭の皿には水飢饉で水がなく、歩くことが出来ません。

この話を聞きつけた、旅の山伏が二つの川の真ん中の高い広場で雨乞いの祈祷を行うと、石清水が涌いてきて小さな滝が出来ました。又、旅の僧が修行中に持ち歩いていた杖を突き刺すと池に水が涌いてきました。 しかし、何時までたっても此処の山里は雨が少なく、ふたつの川は繋がりません。相撲大会も開かれず、今でも天の川は北に流れ、生駒川は南に流れています。水が少ない、小さな川が分水嶺となり国境が出来ています。

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河童の創作民話 「モチ川の河童」

2014年04月28日 | 日記
 昔、奈良の都造りが始まると生駒山の麓では須恵器の食器作りが始まりました。
都で働く人達が食べ物や水を飲む、お皿やお椀が沢山必要です。山の斜面に穴を掘り、粘土で作ったお皿やお椀を周辺の雑木や薪を燃やして焼きます。煙突からは黒い煙がもうもうと出てきます、たくさんの燃えカスは川に流します。

 昔のモチ川は大変綺麗な川で、初夏にホタルが乱舞する山奥の小川です。ヤマメや鮎が沢山住んでいました。ある、暑い夏の日です。食器を作る人たちは仕事で汚れた身体をモチ川に入って洗っていました。
すると、岩陰から大きな声で「川を汚すな」「鮎を返せ」「ホタルが住む川に戻せ」の大合唱がします。
大きな声に驚いた人たちは作業小屋に急いで逃げ帰りました。

 次の日、いつもの通り食器を焼いた残りカスを川に捨てました。
そして、汚れた体を洗っていた時です、今日も岩陰から大きな声がします。「川を汚すな」「鮎を返せ」「ホタルが住む川に戻せ」の大合唱です。
しかし、須恵器の食器を焼く仕事を止めるわけにはいきません。都の人達の食器が沢山・沢山、必要です。
ところが数年後、都が京都に移ってしまうと、須恵器を作る人たちも京都に移って行きました。

 今、大雨でオオフジ池の堤が決壊してモチ川周辺の様子は随分、変わっていますが上流には「ナカクラの湧水」があります。
中流には須恵器を焼いていた「金毘羅の釜跡」や「長命寺の釜跡」があり、大きな声を出して「綺麗な川に戻せ」と言っていた河童たちは長命寺の本堂裏の水天宮に祀られています。
下流の川底には磨崖仏もあります。しかし、今も川は汚れたままです。夏のホタルや鮎は戻ってきていません。

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河童の木弓製作

2014年04月21日 | 日記


「木弓の材料」
材料の山桜は年初めに「鬼打ち式」を見学した時に行事で残った材料を役員さんから一本、貰い受けました。長さ2m16cm、根元の径が36mm、枝先の直径が24mmで少し、曲っています。

「鬼打ち式」の行事。
此処の集落では男衆が総掛かりで「鬼打ち式」の行事に使う弓や矢、的を当日作ります。 弓は山から切り出した数本の山桜が準備されていました。その中から適当な弾力を見極め、10分程度で2本の弓を作ってしまった。手慣れた作業です。
弓弭は弦輪を作って懸ける和弓の方法でない。木の両端に軽く溝を彫り、弦を巻き付けて解けないように結んだ簡単なものです。弦は麻ひもを細く縄撚りを施したもの。矢はすす竹で羽は厚紙、わざと筈を加工せずに弦から外れやすくしています。
弓の中央を握り、矢は素手で半分も引き分けずに7~8m先の鬼と書かれた大的に役員や見学者が交互に射る行事でした。

「手作り」の木弓
貰い受けた山桜から春日大社保存の国宝級槻弓の作成が目標! しかし、材料が曲り・短いので今回は簡単に加工して、遊戯用とする。
根元の太い方だけを鉈と小刀で削り、弓弭だけは丁寧に加工した。並寸の弦を張って肩入れを試みる。引き分けは軽く感じられるが矢尺いっぱい、会では大変強く感じられる。弓力は16キロくらいある? 矢擦籐の替りに葛の蔓を半分に裂いて代用品としたが矢擦り部分が少し分厚いので的前に抜ける様な気がする。握り皮は普通の皮をする。 

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