人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

日本文学Ⅰ(第8回):花の近世文学

2020-07-01 21:24:36 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

 すみません、今回も遅くなりました。第8回をアップします。

はじめに
 江戸時代になると、それまで貴族や豪商の間で楽しまれていた花見の習慣や、庭や鉢に草花を植える園芸が、庶民の間にも広まります。
 品種改良や株分けなど、人工的な栽培技術も発展し、薬用植物の歴史を明らかにする本草学の研究も、盛んになります。そのような花々は浮世絵において、花そのものとしても、物語や歌舞伎役者、女性のイメージと重ねられても描かれます。また、江戸時代は、出版文化が盛んになり、様々な文学ジャンルが生まれますが、その中でも花や、花のイメージは、重要なモチーフとなります。
 そこで今回は、簡単に江戸の園芸文化を見たうえで、文学作品の考察を行います。
 具体的にどの文学作品を取り上げるのか、というのはなかなか悩ましいところなのですが、第二回目にとり上げた『古事記』の石長比売との関連から、今回は『東海道四谷怪談』をとり上げましょう。『四谷怪談』のヒロイン、お岩さんの名前は、「石長比売」の系譜であると言われるからです。

1.江戸の園芸文化
 近世になると、園芸文化が発展し、庶民の間にも広まってきます。もちろんそれまでも、貴族や豪商の間では、桜狩りや紅葉狩りに出かけたり、邸内に自然を模した庭を作ったり、ということはありましたが、近世には庶民の間でも、身近な鉢植えを育てたり、花見に出かけたりということが、広まってきました。
「江戸時代後期の日本は世界でも有数の園芸大国」(大場秀章「序文」日野原健司・平野恵『浮世絵でめぐる江戸の花』誠文堂新光社、2013年)となり、

 江戸時代は、由緒ある寺社境内が名所としてもてはやされ、植物では、梅、桜、松が多く浮世絵に描かれています。江戸の市民は、こうした名所に出かけて、俳句や和歌を詠み、飲食をし、その季節感を大切にしました。 (平野恵「名所と園芸」、同書140頁)

 ただ、そうした花は、必ずしも自然なものではなく、例えば椿については、「植木鉢に植えて鑑賞するものであり、庭で自然に育てようというのではなく、極めて人工的な盆栽という手法をとった」(青木宏一郎『江戸の園芸:自然と行楽文化』ちくま新書、1998年、25~26頁)ことが指摘されています。
 この本では薬用植物と鑑賞用植物の区別がつきにくかったことも指摘されているのですが、江戸時代には、薬用植物の研究、本草学も盛んになってきます。

 本草学とは、「本草書をひもとき、薬物の歴史を明らかにする学問」[難波恒雄][御影雅幸]("本草学", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-06-28))のことですが、面白いのが、

 江戸本草学に生じた表象の事件は、江戸がヨーロッパ(や多分、明、清)とも共振し始めていたことを示す。(中略)人々が言葉と物の関係に対峙した極めて記号論的な時代が全世界に存在していた様子だ。意味を誘発するための単なるフォルム、意味性の空虚な器として、その時、花以上のものはまたとない。(高山宏「「物類」というタブローの宇宙:江戸本草学と花」『国文学』1997年4月号、136頁)

との指摘があるように、この時代の本草学の展開において、言葉と物との関係づけが試みられており、そこにおいては、意味を誘発するものとして花があったということです。

 いうまでもなく、品種改良は人工的な繁殖です。江戸時代に流行したサクラソウなど、種を取らず、株で増やすような栽培方法をとるものもありました。これは言ってみれば、生殖せず、分裂して、分身を増やすようなものです。しかも言葉と物との関係、花のもつイメージは、これまで以上に濃密になっています。
 そこでこのような人工的な栽培技術が、植物(花)のイメージにもたらす変容について、考えていきたいと思います。

2.石女(うまずめ)から産女(うぶめ)へ:『東海道四谷怪談』のお岩
 具体的に取り上げるのは、『東海道四谷怪談』。
 あれ、『四谷怪談』に花なんか出てきたっけ、と思う方も多いでしょう。確かに具体的に描かれているのは、お岩の妹のお袖が売っているお供え用の樒や、伊右衛門の夢に出てくるカボチャ、切子灯籠のアサガオの模様くらいなものです。
 ですが、お岩の名前は、石長比売の系譜であることが指摘されますし、植物系の名前がついているお梅は、妊婦を象徴する名であると言われています。

*郡司正勝「解説」(新潮日本古典文学集成、1981年)
「お岩」という名は、「岩藤」「岩根御前」など、『古事記』の「石長比売」以来のかたましい女の系譜に名付けられたかぶきの独自な命名法」
・新潮日本古典文学集成頭注
「「お岩」の名には」「夫に裏切られる妻の系譜があった」
「「お梅」は妊婦を象徴する名。巷説で妊娠したとされる伊藤の妾を当て込んだ」


 そして、『四谷怪談』では、民谷家伝来の「ソウキセイ」という薬や、お岩の顔を醜くする薬など、薬(←薬草、植物)も重要な役割を果たします。

 少し先を急ぎすぎました、とりあえず、『四谷怪談』のあらすじを説明しておきましょう。

 主な登場人物は、塩冶(えんや)家浪人民谷伊右衛門、その妻お岩。お岩の父左門、お岩の妹お袖。お袖のいいなづけ佐藤与茂七。お袖に片恋し、執着する直助。民谷家の下男で、塩谷家の家臣の臣下である小仏小平。伊右衛門に恋い焦がれる隣家の孫娘お梅、お梅の祖父で高野家の重臣伊藤喜兵衛など。
初日序幕:(浅草境内)楊枝屋に今日から売り子として勤務しているお袖、彼女に執着する直助、伊藤喜兵衛の孫娘で、恋の病につかれて寺参りするお梅などが登場。左門が許されない場所で物乞いをしたとして、浅草境内を縄張りとする乞食たちに捕まっていたところを、伊右衛門に助けられる。伊右衛門は左門の娘お岩の婿であるが、お岩は実家に戻っている状態であり、妊娠中であった。伊右衛門は左門に塩谷家に仕えていたころの悪事を言い当てられ、知られた上は生かしてはおけないと考える。
(浅草田圃)民谷伊右衛門は妻お岩の父四谷左門を殺す。一方、お岩の妹お袖に恋をする直助は、同じ場所でお袖のいいなづけ与茂七を殺すが、実はそれは人違いであった。そこにお岩、お袖の姉妹が通りかかり、伊右衛門と与茂七が殺したことを知らない二人は、左門と与茂七の敵を討つために、伊右衛門と直助の助けを借りることとなる。
初日中幕(雑司ヶ谷四谷町):民谷家の隣家に住む伊藤喜兵衛の孫娘お梅は、どういうわけか伊右衛門に恋い焦がれている。ところが伊右衛門には妻のお岩がいる。孫娘の恋をかなえてやりたい喜兵衛は、血の病に効く薬と偽って、産後のお岩に顔が醜くなる毒薬を贈る。そのことを知らされた伊右衛門は、高野家に臣下として推挙してほしい思いもあり、お梅との結婚を受け入れることになる。
 一方でお岩は、薬を飲んで容貌が変わった後、按摩(あんま)の宅悦(たくえつ)から事情を知らされ、憤死する。お岩の遺体の始末に困った伊右衛門は、民谷家秘蔵の薬を盗んだ下男小仏(こぼとけ)小平も殺し、お岩と小平の死骸(しがい)をともに、戸板の両側に釘付けにして川へ流す。
 その後何事もなかったかのように、お梅を迎え入れるのであるが、お岩にたたられ、お梅の顔はお岩と変わり、驚いた伊右衛門は殺してしまう(すると元のお梅の顔に戻る)。小平にもたたられ、喜兵衛の顔は小平に変わり、しかも赤子(伊右衛門とお岩の子供)を食い殺したかのように見えて、殺してしまう(すると元の喜兵衛の顔に戻る)。
初日三幕目(十万坪堀(おんぼうぼり)):直助は釣りをしていて、鼈甲の櫛を拾う(実はお岩が母の形見と大切にしていた櫛)。伊右衛門は、小平の父孫兵衛の後妻となっている、実の母お熊に会い、高野家に推挙してもらうための書物をもらう。伊右衛門が釣りをしていると、杉の戸板が流れ着き、引き寄せて見たところ、お岩の遺体を釘付けにした戸板であった。お岩の亡霊が恨みを述べるため、思わず戸板をひっくり返すと、今度は小平の遺体で、亡霊が恨みを語る。
後日序幕:(深川三角(さんかく)屋敷)(小塩田隠れ場):お袖は直助と、夫与茂七の敵を討つという約束で、名目だけの夫婦になっていた。しかしながら、直助から姉お岩の形見の櫛を渡されたことで、姉の死を悟る。夫だけでなく、姉、夫、父の三人の敵を討ってもらわなければならなくなったお袖は、直助と本当の夫婦になる。ところがそこに、死んだはずの与茂七が訪れる。お袖は直助・与茂七の双方に嘘をついて、それぞれ相手を討つようにと手引きして、自分が殺されるよう手配する。お袖は実は捨て子であったが、死に際し、お袖の本当の父を記した書き置きを渡す。書き置きを見た直助は、お袖が実の妹であることを知る。また、与茂七の話から、人違いで殺したのが実は、旧主の子庄三郎だったことも知る。主殺しと近親相姦の罪の重なった直助は、その重さにおののき、自殺する。
 一方で孫兵衛宅では、旧主で塩谷家浪人の小塩田又之丈が隠れ住んでいた。又之丈は病気のために、足が立たない状態にある。孫兵衛お熊は察してはいるものの、はっきりとは知らされていない。小平の亡霊が質に入った自分の着物などを持ち帰ったために、隠れ住んでいた又之丈に盗みの疑いがかかるが、討ち入りの分配金を届けに来ていた別の浪士がお金を払い、疑いを晴らす。隠れ住んでいる侍が塩谷家の浪士であることを確信したお熊は、質屋の庄七に捕らえさせて、高野家に密告しようとするが、小平の亡霊に届けられた薬を飲んだ又之丈は、病全快し、庄七を斬り返す。
後日中幕(夢)伊右衛門は秋山長兵衛を供に連れ、鷹狩をしていると、田舎家に鷹が迷い込む。その田舎家に、美しい田舎娘がいるが、実はお岩の亡霊で、伊右衛門が口説こうとすると、恨みを述べる。
(蛇山庵室(へびやまあんじつ))夢から覚め、流れ灌頂をしていても、その中から産女の姿のお岩が現れる。伊右衛門はお熊からもらった書き置きによって高野家に仕えようとするが、書き置きはお岩の化身である鼠によって穴だらけになっており、意味をなさない。伊右衛門は最終的に与茂七に討たれる。

 『四谷怪談』では、妊婦を象徴する名であるという「お梅」は、妊娠しません(元ネタである『四谷雑談集』では妊娠するようです)。一方でイワナガヒメの系譜であるはずのお岩が妊娠・出産しています。
 そして、お岩とお梅は姉妹ではなく、石(お岩)と花(お梅、小仏小平の妻お花など)という組み合わせは成立していません。妹のお袖が、仏前に供える香花を売っているくらいです(ただし、お袖は実の姉妹ではない)。
 また、お岩にも、伊右衛門が見る夢の中では、かすかに植物のイメージが重ねられています。

(後日中幕)
お岩 身で身を焦す蛍火も、露よりもろきはかない朝顔、日のめにあはゞたちまちに
     ト燈籠に目をつける(366頁)

【口語訳】(お岩)「身で身を焦す蛍の光も、露よりもろくはかない朝顔も、(朝になって)日の目にあうとたちまちに」と言って(軒端につった朝顔の蔓のまとう切子の)燈籠に目をやる。
  この燈籠へ、お岩の如き顔現はるゝ。(中略、伊右衛門の供の長兵衛が腰を抜かす、長兵衛が伊右衛門を呼ぶセリフ)
  ト呼び歩き、思はず軒を見る。這ひまとひしかぼちや、残らず顔と見える。(368頁)

【口語訳】この燈籠に、お岩のような顔が現れる。(中略)と(長兵衛は)呼び歩き、思わず軒を見る。軒に這いまつわっているカボチャが、残らず(お岩の)顔に見える。

 朝顔の蔓草の絡みついたデザインの切子灯籠や、カボチャがお岩の顔に変わっています。「一年草のアサガオは、種からの育成も比較的容易で、さほど園芸の知識がない人でも十分楽しめる」「江戸時代に流行した植物の中ではおそらく最も庶民的」(青木宏一郎『江戸の園芸:自然と行楽文化』、前掲、26頁)な花であったということですが、様々なデザインに取り入れられたのでしょう。朝咲いて昼にはしぼんでしまうことからはかなさ、つる草の絡みつく様子などから怨念を想像させ、幽霊と相性が良いのかもしれません。

 注目したいのが、 亡霊となったお岩が、産女の姿で現れることです。また、小平の顔に変わった舅が血塗れになり赤子を食い殺したように見える場面については、お岩と小平は二人で一人の存在であるとして、母親による「子殺し」と位置づけるもの(片岡徳雄「わが子殺しの系譜」『四谷怪談の女たち:子殺しの系譜』小学館ライブラリー、1993年)や、お岩の異形性を、出産時覗き見られた豊玉姫のような、「人の存在そのものが異形であるほかないという事態」(佐藤深雪「お岩変奏」(『国文学』1998年4月号、119頁)と位置づけるものもあります。

そこで、『東海道四谷怪談』における、赤子の描写を見ておきましょう。
 
『東海道四谷怪談』における赤子描写
(初日中幕)大きなる鼠出て、抱子の着類をくはへて引く。また候(ぞろ)鼠出て、件の鼠の尾をくはへて引く。同じく鼠段々出て、尾をくはへて、段々と鼠連らなり、跡ずさりに赤子を引いて行くを、見つけ(187頁)
【口語訳】大きな鼠が出てきて赤子の着物を咥えて引っ張る。またもや鼠が出てきて、その鼠のしっぽを咥えて引っ張る。同じく鼠が次々と出てきて、しっぽを咥えて次々と鼠が連なり、後ずさりに赤子を引っ張っていくのを、(伊右衛門は)見つけ

  と喜兵衛を引き起こす。その顔、小平の菊五郎の顔にて、抱子を食ひ殺せし体にて、口は血だらけ。(199頁)
【口語訳】(お岩の顔になっていたお梅を殺してしまった伊右衛門が)喜兵衛を引き起こす。喜兵衛の顔は小平の菊五郎の顔で、赤子を食い殺した様子で、口は血だらけ。

(後日中幕)雪しきりに降り、布の内より、お岩、産女の拵へにて、腰より下は血になりし体にて、子を抱いて現はれ出る。(383頁)
【口語訳】雪はしきりに降り、(流れ灌頂の)布の内から、お岩が産女の姿で、腰から下は血に染まった姿で、子供を抱いて現れ出る。

  やヽヽヽヽ、そんならあの子は、亡者の天塩で。〇
    ト嬉しげに赤子を受け取り
  まだしも女房、でかした\/。その心なら浮かんでくれろ。南無阿弥陀仏\/\/
    ト子を抱いて念仏申す。(中略、長兵衛の声で鼠が、というセリフがあり、鼠が出てくる)
    (中略)お岩、見事に消ゆる。伊右衛門、恟(びっく)りして、抱きたる赤子を取り落す。この子はたちまち石地蔵になる。(384~385頁)

【口語訳】(お岩に抱いている赤子を見せられ、伊右衛門)「ややややや。そんならあの子(小平の顔の舅に食い殺されたかと見た伊右衛門とお岩の子供)は亡者の天塩で育てていたのか」と嬉しそうに赤子を受け取り、「(怨霊としていろいろ害をなしたが)まだしも女房よ、よくやった、よくやった。その心なら成仏してください。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と子供を抱いて念仏を申し上げる。(中略)お岩が見事に消える。伊右衛門が驚いて、抱いている赤子を取り落すと、赤子はたちまち石地蔵になる。

 初日中幕の場面では、お岩の化身としての鼠が登場します。お岩=鼠というのは一貫するモチーフで、鼠年であるから、ということなのですが、石でも花でもなく、そしてまた女性の執着や怨念を表すものとしてよく使われる蛇でもなく、鼠、というのは少し気になるところです。
 後日中幕の場面では、産女の伝承を踏まえたものではあるのですが、お岩の子が石地蔵へと変わっています。
 ここでやっている「流れ灌頂」は、「水死者、難産で死んだ婦人、無縁仏などの供養のために行なわれる」(『日本国語大辞典』)もので、「産女」は「難産で死んだ女や、水子などが化したという幽霊」(『日本国語大辞典』)で、「道の辻(つじ)などに現れ通行人に赤子を預ける。赤子は徐々に重くなるが耐えていると、帰ってきた産女は礼に大力や財宝を授けて去る、という伝説」([渡邊昭五]『大日本百科全書』)もあると言います。
 お岩は難産で死んだわけではないのですが、まだ産後間もないころに憤死していますし、赤子の死から、産女のイメージが重ねられているのでしょう。

 この部分について、片岡徳雄は、

 『四谷怪談』のお岩も産女の姿で流れ灌頂から出るのだが、その亡魂の働きは(累と、引用者注)まったく違う。自分の抱子は自分(小平)が食い殺し、その抱子は甦ったかにみえて結局は幻影にすぎない。産女の民俗信仰と重なるところは、重い抱子を抱かせる不気味さだけである。ここにはたしかに、産女の俗信を逆手にとった「したたかな毒」がある。それは「深い孤独感」というよりはむしろ「したたかな攻撃」というべきではないか。(前掲書、196頁)

と指摘しています。また、清玄桜姫物、と呼ばれる、お姫様桜姫に恋をした僧清玄の物語に材をとった、同じく鶴屋南北の『桜姫東文章』について触れ、

桜姫のわが子殺しは(中略)来世と現世から解放されるべき、桜姫個人の自由のための、心を鬼にしたわが子殺しであった。(中略、お岩や累と)イエや夫に縛られない女に再生したという意味においては、大いに共通性があるといってよい。(213頁)

とも述べています。
 桜姫に関しては、同じく清玄桜姫ものの山東京伝『桜姫全伝曙草紙』について、「桜の精」のイメージ(高田衛「『桜姫全伝曙草紙』の側面:陰惨にして華麗なる花の精の物語」『国文学』1997年4月号)であることが指摘されていますが、『桜姫東文章』の中で桜姫は稚児の生まれ変わりで、子供を産んで子供を殺します。
▽繁栄や生殖を象徴するはずの「桜」が子殺し
▽稚児が姫に転生(そしてそれを女形が演じる)
▽生殖しない稚児と生殖する姫
などの観点から、比較して考察したいところですが、ちょっと今回手に負えませんでした。
 歌舞伎とか戯作については、もう少し…、というか、もう大分勉強しないと厳しいです。何か間違ったことやおかしなことを言ってるんじゃないかと思って、結構びくびくしてます…。また、当然見るべき論文もまだ届いていないものが多くて、参照できていないのです。

3.現代への変奏
 今でも夏の幽霊話というと、『四谷怪談』のお岩さんか、『番町皿屋敷』のお菊さんか、というくらい、『四谷怪談』は大きな影響を与えています。演劇・映画・小説など、様々なジャンルにおいて翻案されていますが、ここではほんの一例として、京極夏彦の『嗤う伊右衛門』(1997年)をとりあげます。

【梗概】
 浪人・境野伊右衛門は、蚊帳に隔てられた風景を、ひどく嫌っていたが、水辺の長屋は蚊が多いために蚊帳をつらざるを得ない。
 そんな伊右衛門はある日、小股潜り(口が立つこと、人をだますのがうまいこと)の異名を持つ又市の周旋で、御先手組同心・民谷家の婿養子となる。妻となる岩は、2年前の病によって容貌が大きく崩れていたが、誇り高く強い性格を持っていた。伊右衛門と岩は、互いにひかれあうものの、すれ違いが続く。
 一方で隣家の伊東喜兵衛の妾、お梅は伊右衛門に惹かれる。お梅は裕福な薬種問屋の娘で、大切に育てられていたが、喜兵衛にさらわれレイプされたことから、喜兵衛の妾となることとなってしまった。怒った父親が喜兵衛に使者を送り、談判するところに、たまたま居合わせたお岩の父が両者をとりなしたのだが、お梅の父側へは、自分が養女にして喜兵衛と正式に結婚させるからととりなし、喜兵衛にはひとまず他の妾を外に出して、両親には結婚したかのような振りをして妾としてお梅を家に迎えるよう勧めたためである。事は収まるが、お梅は喜兵衛に虐待され、地獄のような日々を送っていた。やがてお梅は喜兵衛の子を妊娠する。 
 そんな中、喜兵衛は岩、伊右衛門の両者をうまく騙し、岩を家から出し、お梅と伊右衛門を結婚させる。けれども喜兵衛は週に一回伊右衛門宅を訪れ、お梅をレイプするのだった。
 伊右衛門が幸せであればそれでよいと思っていた岩であるが、伊右衛門が幸せではないことや、様々な真実を按摩の宅悦から知らされ、発狂して宅悦を殺し、仮住まいを飛び出してしまう。その後様々な場所に岩が現れるという噂が立つが、お梅が産んだ子供が行方不明になり、遺体が捨てられているのが見つかる。お梅は岩がさらったのだと主張するが、実はお梅自身が殺したのだった。
 岩が発狂したとき、宅悦と同行してどうにか逃げたのが、かつて伊右衛門と同じ長屋に住み、友人であった、直助であった。直助は妹のお袖を喜兵衛にレイプされた恨みから(お袖は自殺、ただし、直助の言葉によると、お袖の自殺は直助が「その躰を清めてやる」と言って(363頁)お袖を抱いたことが原因)、喜兵衛に復讐する機会をうかがい、伊右衛門の中間となる。直助は喜兵衛に殺されるが、伊右衛門は喜兵衛の元に戻ることも実家に戻ることも拒否した梅を殺し、喜兵衛を殺す。蚊帳を嫌った伊右衛門は、ついに蚊帳を切り裂いて、喜兵衛を殺したのだった。
 喜兵衛が発狂し、お梅を殺し、中間の直助を殺したから仕方なく伊右衛門が切ったのだということにして、事件はすべて収まったかに見えたが、伊右衛門は少しずつ家を解体し始め、最後は桐箱の中に、岩とともに収まる。

『嗤う伊右衛門』が主にもとにしたのは『四谷雑談集』ですが、『四谷怪談』のなかの名場面も、巧みに取り入れられており、例えば高田衛が、

「物語の主要構成やその細部を、そのまま自己の小説の構成や細部に引きつぎつつも、中身は全く異なるものへ、異なる世界へと化してゆく文学的技法」(262頁)
「剣を抜くことのない、そして笑うことのない伊右衛門は、最終的に人を斬り、そして嗤う」「そこには正常と、狂気が交錯している。表現者京極夏彦の、複眼的な達成」(265頁)(「『四谷怪談』の虚像と実像」『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』洋泉社、2002年。初出C・ノベル版『嗤う伊右衛門』解説)


と述べるように、資料の再解釈と再編によって、新しい『四谷怪談』の世界を構築したものとして評価されています。
「正常と、狂気」とは、この伊右衛門とお岩、特にお岩の矜持や美しさは、非常に近代的な性格づけがなされているのですが、その正常なときの近代性と、古典の世界を引きずった狂気、という風に言い換えることができるかもしれません。
『四谷怪談』の再編として面白かったところを一つ上げるとすれば、蚊帳のモチーフです。『嗤う伊右衛門』の中では蚊帳が重要なモチーフになりますが、『四谷怪談』の中では、蚊帳は子供が蚊に食われるから質に入れないでくれと、お岩が伊右衛門に頼んだものでした。
 さらに、「お岩はこの上なく醜い。しかし同時にお岩はこの上なく美しい。それは女性の「美」が、その女性本人の矜持と、自律によって成り立つ」(前掲書、261頁)、「お岩と伊右衛門の」「男女の関係が」「たとえばプラトニックな愛であったという新解釈が、たんに成立するのみならず、一種のリアリティを獲得している」(同)と指摘されるように、伊右衛門やお岩は魅力的な人物として描かれており、大筋は美しい悲恋物語となっています。一方で喜兵衛は悪役です。
 
 そして、

 「この梅は――己が産んだ赤子を殺めたのだ。岩にできる筈がない。梅が先に殺めて捨てておいたのだ。そして襤褸を丸めて一日中、抱いたりあやしたり乳を遣ったりしておったのだ」
  あの時――赤ん坊は最初からいなかったのか。
 「岩の騒ぎに乗じ、自が邪念を満たさんと鬼畜となり、罪なき赤子を屠るとは――哀れなり」 (366~367頁)


とあるように、子供を産むのも子供を殺すのもお梅です(子供を産むのが梅であることは、『四谷雑談集』を踏まえたものだと思いますが)。お梅はいったん民谷家の養子になっていますので、姉お岩、妹お梅の義姉妹関係、つまり石と花の組み合わせが成立しています。

*引用文は、『東海道四谷怪談』(新潮日本古典文学集成)、『嗤う伊右衛門』(中央公論社、1997年)による。
*少し修正しました(7月3日)。

第7回
第9回

日本文学Ⅰ(第7回):『御伽草子』の植物:「かざしの姫君」を中心に

2020-06-26 14:32:47 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

すみません、今回も遅くなりました。
第7回をアップします。

はじめに
『御伽草子』については、バーバラ・ルーシュが
「中世小説においては、植物や獣、魚や昆虫にいたるまで、人間と自然との間に非常に親しい関係」「人間と人間以外の生き物がその種類を問わず共存し、お互い深く関わっていく」(「熊楠と御伽草子、そしてジェンダー」『国文学』1994年1月号)
と述べるように、人間と自然との親しい関係や、人間と人間以外の生物の共存が描かれることが指摘され、特に、菊の精と人間の姫君との恋物語である『かざしの姫君』については、「一人の女性の奥底に潜む寂しさをすばらしく描いたものであると同時に、その一方で植物もまた感情を持ち、我々と心を交い合える」(同)とも言われます。

『かざしの姫君』(梗概)
 中納言の姫君は、植物、特に菊を愛する。姫君のもとに、「少将」と名乗る、二十余りくらいの美しい若者が現れ、関係を持つ。
 ある日帝の「花揃え」があり、中納言は菊を差し出すよう御下命がある。
 その夜姫君のもとを訪れた「少将」は別れの言葉を残し、鬢のあたりの毛を一ふさ紙に包んで姫君に渡すと、庭の籬の菊のあたりに消える。
 翌朝中納言は菊を差し出し、褒められる。
 姫君は、その夜も少将の訪れを待つが現れない。姫君が渡された鬢の毛を開くと、それは菊の花となっており、紙には歌が書かれていた。「少将」は実は菊の精であったことが分かる。
 その後姫君は妊娠、美しい姫君を産むが、死んでしまう。生まれた姫君は美しく成長し、女御として入内し、皇子・皇女を産む。
 
 さらに、メリッサ・マコーミックによって、
「表面上は、人が異界の者、あるいは人ならざる者に出会う物語(異類物)の単純な形態であるが、『菊の精物語』は、生殖と再生を通して、皇族のもつ超自然的な権威」(永井久美子訳「『菊の精物語』における花の擬人化と皇統の再生」国文学研究資料館編『アメリカに渡った物語絵―絵巻・屏風・絵本』ぺりかん社、2013年)
とも指摘されるように、菊が中世頃には天皇家の象徴となっていたことや、菊の精と人間の姫君との間の娘が、後に入内し皇子・皇女を産むことから、皇統の物語としても考察されます。

 花である菊の精が、男性としてあらわれることからジェンダー論的な観点からも考察されます。菊の精が男性であることには、菊慈童(「中国の仙童。容姿が美しく、周の穆王(ぼくおう)に愛されたが、16歳の時、罪のため南陽郡県(れきけん)に流される。しかし菊を愛し、菊の露を飲んで不老不死になったという」『日本国語大辞典』)のイメージもあると思いますが、花のイメージとしては確かに重要でしょう。

 絵などから「性教育の役割」(同)があったとも言われるのですが、これについては、
「少女は、園芸を通して新たな生命を育み、愛護することを学ぶことが可能だと考えられていた」(渡部周子「実践教育としての「園芸」:ケア役割の予行」『〈少女〉像の誕生:近代日本における「少女」規範の形成 』2007年、新泉社)
などと指摘される、近代における少女と花との結びつきも想起させます。

 大枠としては「生殖と再生、皇族のもつ権威」という観点に首肯できるのですが、細かく見てゆくと、皇室に対する姫君の反抗心などを見て取ることもでき、それが最終的に皇室の権威の物語へと回収されてゆく構造として位置づけることができます。
 そこで今回は、『かざしの姫君』について、菊の精が男性であることや、生殖の観点から見ていくことにしましょう。

『かざしの姫君』考察
 中納言の姫君は、

 春は花の下にて日を暮らし、秋は月の前にて夜を明かし、常には詩歌を詠じ、色\/の草花をもてあそび給ふ。中にも菊をばなべてならず愛し給ひて、(293頁)
【口語訳】(姫君は)春は桜の下で一日を過ごし、秋は月の前で夜を明かし、常に詩歌を詠み、色々な草花を賞玩しなさる。中にも菊の花を並々ならず愛されて、

とあるように、風流を愛する姫君でしたが、特に草花、その中でも菊を愛していました。そんな姫君のもとに、

 年のほど二十余りなる男の、冠姿ほのかに、薄紫の狩衣に、鉄漿黒に薄化粧、太眉つくりて、いと花やかなるにほひの、やんごとなき風情(294頁)
【口語訳】齢の頃合いは二十歳余りくらいの男で、冠をかぶった姿がぼんやりとして、薄紫の狩衣に、鉄漿黒(鉄漿で歯を黒く染めた)に薄化粧、太い眉を眉墨でかいて、とてもはなやかな様子の、すぐれた有様

の貴公子が現れ、関係を持つことになります。
 ここで菊の精は男性の姿をとっています。
 菊の精は、人間と植物という観点からいえば他者ですが、庭の籬の菊であるという点からいえば、姫君にとっては身近なものであったといえます。したがって、「他者との交流」という面と同時に、生身の男性よりも庭の植物を愛するような、自分の手の届く庭の中に自閉してゆく姫の魂も見て取れるでしょう。

 さてその頃、帝の花揃えが企画され、中納言も庭の菊を献上するよう言われます。

 その頃、帝には、花揃へありとて、人\/を召さりければ、中納言殿も参り給ふ。帝、中納言をちかづけ給ひ、「世の常ならぬ菊の花揃へ奉れ」と綸言あらせ給へば、力なくして、中納言菊を奉らんとて、帰られけり。(297~298頁)
【口語訳】その頃、帝の御前で花揃え(花を集めて並べること)があるといって、人々をお呼びになったので、中納言殿も参上なさった。帝は中納言をちかづけなさって、「世の常ではないほどすばらしい菊の花をそろえて献上なさい」とお言葉がおありになったので、(拒絶する)力なくして、中納言は菊を献上しようとして、お帰りになった。

 ここで少し注意しておきたいのが、帝のお前に献上される菊が、実は男性であることです。後宮に帝の妻として集められるのは女性ですから、ここでは性別が転倒していることになります。

 その夜、姫君のもとを訪れた「少将」は、常よりもしおれた有様をしていました。

 鬢の髪を切りて、下絵したる薄様におし包みて、「もしおぼしめし出でん時は、これをご覧ざせ給へ」とて、姫君に参らせて、また「胎内にもみどり子残し置けば、いかにもくよきに育ておきて、忘れ形見ともおぼしめせ」とて、泣く\/出で給へば、姫君も御簾のほとりまで忍び出でて見やり給へば、庭の籬のあたりへたゝずみ給ふかと思ひて、見え給はず。 (300頁)
【口語訳】鬢の髪を切って、下絵のある薄様(薄い鳥の子紙)におし包んで、「もし(私を)思い出しなさるときは、これをご覧になってください」と言って、姫君にお渡しして、また「(あなたの)胎内にも赤子を残し置いたので、どうにかどうにか良いように育てて、忘れ形見ともお思いになって下さい」と言って、泣く泣くお出になるので、姫君も御簾の側まで忍び出て見送りなさったところ、庭の籬のあたりに佇みなさったかと思うと、見えなさらなくなる。

 ここで菊の精である少将は、「胎内にもみどり子残し置けば」と言っているように、生殖するわけですが、まるで意図的に妊娠させられるみたいで面白いセリフですね。

 さてその翌日、菊は切られ、帝に献上されました。帝は大変喜び、この上なく賞美しました。

 かくてその夜も明けぬれば、中納言は菊を君へぞ奉らせ給ひけり。君叡覧限りなし。(300頁)
【口語訳】こうしてその夜も明けてしまったので、中納言は菊を帝へ献上なさった。帝はご覧になって賞美なされることがこの上なかった。

 姫君は夜になっても少将が訪れないため、嘆き悲しんで形見の品を開きます。そうすると鬢の毛であったと思ったものは菊の花になっており、紙には歌が書かれていました。

  にほひをば君が袂に残し置きてあだにうつろふ菊の花かな
とありて、その黒髪と思ひしは、しぼめる菊の花なれば、いよ\/不思議におぼしめし、さては詠み置く言の葉までも、菊の精かとおぼえて、(絵)
 その白菊の花園に立ち出で給ひて、のたまふやうは、(中略)。「御花揃へなかりせば、かゝるうきめはあらじ物を。とてもかくても長らへはつべき我が身ならねば」と、思ふもなか\/心苦し。(301頁)

【口語訳】香りをあなたの袂に残し置いて、空しく色あせる菊の花であることだなあ
とあって、その黒髪と思っていたものは、しぼんだ菊の花であったので、ますます不思議にお思いになり、それでは詠み置いた言の葉である歌までも、菊の精であるかのように思われて、その白菊の花園に立ち出でなさって、おっしゃることには、(中略)。「(帝の御前での)花揃えがなかったならば、このようなつらいことはなかったものを。なんにしても、(このまま)長らえ果てるべき私の身ではないから(早く死んでしまいたい)」と、思うのもかえって心が苦しい。

「少将」が菊の花の精であったことに気づいた姫君は、「帝の花揃えさえなかったら!」と悔しがります。ここには、花揃えをきっかけとした、帝への反抗心のようなものが見て取れるでしょう。
 しかも姫君は菊の精によって妊娠し、そのために両親は彼女を入内させることをあきらめざるを得ません。

(父親の中納言殿)「たぐひなく浅ましきかな、内参りのことをこそ明け暮れ思ひしに、さてのみやまん本意なさよ」(305頁)
【口語訳】「この上なく驚きあきれることであるよ、入内させることを明け暮れ願っていたのに、このようにしてやめることの残念さよ」

 結果的にではありますが、菊の花の精は、自らは帝に献上されましたが、姫君を妊娠させることで、姫君の入内を阻止したことになります。

 月日が重なり、姫君は美しい姫君を出産します。
 さるほどにやう\/月日も重なりて、姫君いよ\/御心弱く、頼み少なき御有様に見え給ふ。乳母を始めて女房たちあまた介錯申しければ、まことにいつくしく姫君いでき給ふ。中納言殿も北の御方も、かしづき給ふこと限りなし。されどもかざしの姫君は、今を限りと見えさせ給ふ。(305~306頁)
【口語訳】そうするうちに、だんだん月日が重なって、姫君はますます御心弱く、頼りないご様子にお見えになる。乳母を始め、女房たちがたくさんお世話し申し上げたので、本当に美しい姫君がお生まれになる。中納言殿も、北の方も、大切になさることはこの上ない。けれどもかざしの姫君は、今が最期(臨終)の様子でいらっしゃる。

 ですが姫君自身は衰弱しきり、娘の姫君のことを頼む言葉を残しながら、「朝の露と消え」てしまいます(306頁)。
 ここでは、常套表現ではありますが、姫君の命が「露」にたとえられています。姫君はまさに「露」のような存在であり、菊と露の取り合わせとして、この二人の恋が描かれているのです。

 さて、娘の姫君は成長するにしたがって、かざしの姫君に似ていきます。

 御齢の行くに従ひて、かざしの姫君に相似させ給へば、御いとほしみ給ひて、若き女房たちあまたつけ、かしづき給ふほどに、月日重なりて、七歳にて御袴着せ参らせ給ひけり。(307頁)
【口語訳】成長するにしたがって、かざしの姫君に瓜二つにおなりになるので、(両親は)可愛がりなさって、若い女房たちをたくさんつけ、大切になさる間に、月日は経って、七歳で御袴着(幼児から少年・少女になることを祝う儀式)をなさった。

 どんどん美しくなる姫君のうわさを帝も聞きつけ、女御として入内させるようにという、勅が下ります。

 さる程に、君きこしめされて、「女御に参らせよ」との勅によりて、女御にぞ定まり給ひける。(308頁)
【口語訳】そうしているうちに、帝は(姫君のうわさを)お聞きになって、「女御として参内させなさい」との勅命によって、女御に定まりなさった。

 入内した姫君への寵愛は深く、皇子と皇女が生まれました。

 さても帝は寵愛甚だしくこそ聞えけれ。いよく浅からず御心にもかなひ給へば、程なく若宮、姫宮打ち続きいでき給ひて、まことにめでたきことにぞ、人\/申しあへり。(308頁)
【口語訳】それにしても、帝の(姫君への)寵愛は甚だしくていらっしゃった。ますます深く、御心にもかなっていらっしゃったので、間もなく皇子・皇女が引き続いてお生まれになり、実にめでたいことであると、人々は申し上げあった。

 菊の精とかざしの姫君との娘が、皇子・皇女を産んだという結末は、かざしの姫君の反抗心も垣間見えたこの物語が、最終的には王権に回収されたものと考えることができます。

まとめ
 『かざしの姫君』では、菊の花の精が男性として描かれますが、『秋の夜長物語』と異なり、菊の花の精は生殖します。帝の花揃えに男性として描かれる菊の花が献上されることは、帝のもとに入内する女性たちと、性別が転倒しています。
 一方で、ヒロインである姫君は、出産後はかなくなくなったことが、常套表現ではありますが、「露と消える」と表現されます。これは、姫君が菊にかかる露を象徴する存在であることを示すものでしょう。「菊の花の精」は、人間ではないという意味においては他者ですが、庭の籬の菊という意味では、身近な、自分の世界のなかにある存在でもあります。姫君は人間の男性と交わるよりも、自分の庭の植物を愛するような、自閉する魂を持っていたのです。また、菊の花の精の子を身ごもったことで、入内せず、菊の花の精が帝の花揃えのために死んでしまうと、「花揃えさえなければ!」と思う姫君は、帝や王権に対して反抗するかのようにも見えます。
 しかしながらそのような反抗心は、菊の花の精と姫君の娘が入内し、皇子・皇女を産むことで、最終的には王権の物語へと回収されるのです。

*引用は、岩波新日本古典文学大系『室町物語集 上』による。

第6回
第8回

日本文学Ⅰ(第6回):稚児物語『秋の夜長物語』における植物のイメージ

2020-06-19 15:10:06 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

すみません、今回も遅くなりました。
第6回をアップします。

はじめに
 中世には、「稚児物語」という、寺院でつかえる少年「稚児」を主人公とした物語群が生まれました。
 稚児が「理想化された美しさ」で、「神仏の化身」のように描かれ、「僧侶と稚児との、あるいは稚児同士の、また稚児と寺院外の女性との恋愛」を、「宗教的要素を濃くして、幻想的にかつ悲劇的に物語化した」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』、担当徳田和夫、JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-06-13))稚児物語は、「王朝物語においては成立しなかった、中世のみの文学現象」「室町物語のみが表現しえた世界」(濱中修「室町時代に於ける童子の位相」『室町物語論攷』新典社、1996年)と言われています。
 注目したいのが、「理想化された美しさ」で描かれる稚児は、花や紅葉にたとえられるのです。
 今回は、そんな「稚児物語」の中でも一番有名な、『秋の夜長物語』を見ていきます。

【梗概】
『秋の夜長物語』は、西山の瞻西上人、もとは比叡山東塔、勧学院の律師桂海と、三井寺の稚児梅若が主人公。
 桂海は石山寺に参篭し満願の夜、夢に美しい稚児の姿を見るが、その夢で見た稚児の姿が頭にこびりついて離れず、再び石山を訪ねる。その途次、三井寺のあたりで雨宿りをすると、夢に見たのとまったく同じ稚児の姿が見えた。
 稚児は梅若といい、花園左大臣の子息であった。梅若君に恋い焦がれた桂海は、梅若君の側に仕える童である桂寿の手引きを得て、やがて結ばれる。
 その後、梅若君は桂海に焦がれ、童の桂寿のみを連れて比叡山に赴こうとするが、その途次で天狗にさらわれ、石牢に閉じ込められてしまう。梅若が行方不明になったことに大騒ぎを始めた三井寺では、桂海がかどわかしたのだと思い込み、実家の花園左大臣も知らないはずはないと言って、花園左大臣邸を焼き討ちしてしまう。それに憤った叡山は三井寺を焼き討ちする。
 その頃、梅若が閉じ込められている石牢に、新たに「淡路の翁」と名乗るものが入ってきた。「淡路の翁」は実は竜で、梅若の涙の水によって本来の姿を取り戻し、梅若たち閉じ込められた者を助け出してくれる。
 ところが、梅若は実家も三井寺もすべて焼失してしまったのを見、絶望して入水する。梅若の死を受けて桂海は菩提心を起こし、遁世して名を瞻西と改めて、東山雲居寺を建立して住んだ。

「稚児物語」への評価について
 ちなみにこのような稚児物語に関する研究史を、便宜的に第一期、第二期、第三期に分けるとすると、以下のように変化してきました。
第一期:(1950年~1970年頃)
 この頃は、例えば市古貞二の「男色はいふまでもなく同性愛の一種であり、不自然な行為であり、変質者にみられる変態性欲」を正当化するための方便として語られたものとする評価(「児物語」『中世小説の研究』東京大学出版会、1955年)のように、同時代的な同性愛への偏見を色濃く映すものでした。
第二期:(1970年~2000年頃)
 その後、「〈幼な神〉とそれを〈育むもの〉という古代物語の型」「ほとけを幻視できぬ人々の、〈稚児〉を通してみようとした人々の熱い思い」(長谷川政春「性と僧坊―稚児への祈り」『〈境界〉からの発想―旅の文学・恋の文学』新典社、1989年、初出『国文学 解釈と鑑賞』1974年1月)、「児をめぐる性愛が発端となり、児の受難によって〈聖なるもの〉が顕われる」(阿部泰郎「神秘の慈童―児物語と霊山の縁起をめぐりて」『湯屋の皇后 中世の性と聖なるもの』名古屋大学出版会、1998年。初出、『観世』1985年、10・11月)などの言葉にあらわれるように、研究のトレンドは、稚児の神聖性や信仰と関わる読解や位置づけへと変化していきました。
第三期:(現在)
 現在では、稚児の実態(現実問題としてどうかということ、歴史的に考えてどう評価すべきであるかなど)とフィクションとしての読解、ジェンダー論など、より多角的な位置づけが試みられています。
 例えば木村朗子は、稚児が〈産まない性〉であることに着目し、平安・鎌倉時代の(木村が主な対象とするのは、室町期よりは古い時代のもの)「〈性〉の制度」や「〈性〉の配置」と関わらせて論じます(「〈稚児〉の欲望機構―交錯するセクシュアリティ」『恋する物語のホモセクシュアリティ―宮廷社会と権力』、青土社、2008年)し、『ちごいま』という、稚児が女装して一目惚れした姫君のもとで仕える物語を考察したメリッサ・マコーミックは、『ちごいま』を「児物語が女性の視点から改作されたもの」として位置づけます(もともとは英語論文「中世の児物語における女修験者について―山、呪術、そして母なるもの」Melissa Mccormick ‟Mountains,Magic,and Mothers;Envisioning the Female Ascetic in a Medieval Chigo Tale″(Crossing the Sea;Essays on East Asian Art in Honor of Professor Yoshiki Shimizu,Princeton University Press,2012、ですが、服部友香「世界にはばたく『ちごいま』―メリッサ・マコーミック氏の論文の紹介」阿部泰郎監修、江口啓子・鹿谷祐子・末松美咲・服部友香編『室町時代の女装少年×姫(ボーイ・ミーツ・ガール)―『ちごいま』物語絵巻の世界』笠間書院、2019年から引用)。

1.『秋の夜長物語』における植物のイメージ
 それでは、『秋の夜長物語』における植物のイメージを見ていきましょう。
 梅若の様子は、桂海が見る夢の中や、垣間見の場面において桜にたとえられます。例えば、垣間見場面には

◇登場場面…桜
 三井寺の前を過ぎけるに、降るとも知らぬ春雨の顔にほろくと懸かりければ、暫く雨宿りせんと思ひて、金堂の方へ下り行く所に聖護院の御坊の庭に、老木の花の色ことなる梢、垣に余りて雲を凝せり。(中略)門の側に立ち寄りたれば、齢二八計の児の、水魚紗の水干に薄紅の衵かさねて、腰囲ほそやかにけまはし深くみやびかなるが、見る人ありとも知らざりけるにや、御簾の内より庭に立ち出でて、雪重げに咲きたる下枝の花を一ふさ手に折りて、
   降る雨に濡るとも折らん山桜雲のかへしの風もこそ吹け
とうちすさみて花の雫に濡れたる体、これも花かと迷われて、誘ふ風もやあらんとしづ心なければ、(中略)いふいふとかゝりたる髪のすそ、柳の糸にうちまとはれて引き留めたるを(462~463頁)

【口語訳】三井寺の前を過ぎたところ、降るとも知らないほどのかすかな春雨が顔にはらはらと降り懸かったので、暫く雨宿りしようと思って、金堂の方へ下り行く所の聖護院の御坊の庭で、老木で花の色がことさらに美しい梢が、垣に余って雲のようだった。(中略)門の側に立ち寄ったところ、年の頃が一六(二八というのは、二×八のこと)くらいの稚児で、水魚紗(水と魚の縫い取りのある紗)の水干に薄紅の衵をかさねて、腰まわりがほっそりとして蹴廻し(袴・衣の裾口)が深くみやびやかであるのが、見る人がいるとも知らなかったのか、御簾の内から庭に立ち出でて、雪が重たそうに咲いている(桜の)下枝の花を一ふさ手に折って、
  降る雨に濡れるとしても折ろう、山桜を。雨雲を吹き返す風も吹くから。
とうちつぶやいて花の雫に濡れている様子が、これも花かと迷われて、花を誘う風もあるだろうか(稚児に心をかけて誘う僧もいるだろう)、と心が穏やかでなく、(中略)ゆうゆうとかかっている髪の裾が、柳の糸(柳の葉が細く糸のようであることを、「柳の糸」という修辞がある)のようにまつわれて引きとどめているのを

とあるように、桜にたとえられています。桜にたとえられる様子は、何となく『源氏物語』の紫の上を思わせますが、髪の毛を「柳の糸」にたとえているのは、女三の宮の様子も思わせます。

 一方で、入水した亡骸が発見される場面では、「紅葉」にたとえられます。

◇遺体が発見された時の様子…紅葉
 せかれてとまる紅葉は紅深き色かと見て、岩の影に流れかゝりたる物あるを、船さし寄せて見たれば、あるも空しきかほばせにて、長なる髪流れ藻に乱れかゝりて、(中略)。声も惜しまず啼き悲しめども、落花枝を辞して二度咲く習ひなく、残月西に傾いてまた中空にかへる事なければ、濡れて色こき紅梅のしほ\/としたる、雪の如くなる胸のあたり冷え果てぬ。(480~481頁)
【口語訳】流されてとまる紅葉は、紅深き色であるかと見えて、岩の影に流れかかっているものがあるのを、船をさし寄せて見たところ、あるというのも空しい(梅若君の)顔つきで、丈の長い髪が流れて藻に乱れ懸かり、(中略)。(桂海は)声も惜しまず啼き悲しんだが、枝から落ちた花が二度咲くという例はなく、西に傾いた残月がまた空の真ん中に帰ることもないので、濡れて色が濃くなった紅梅の衣がびっしょりとしていて、雪のような胸のあたりはすっかり冷えきってしまっている。

 ここでは、水に濡れてぐっしょりした紅梅の衣装をまとった梅若の遺体が岩陰に流れかかっている様子が、「せかれてとまる紅葉」にたとえられています。と同時に、枝から落ちた花、西に傾いた月や、梅若=紅梅のイメージも漂います。
 
 梅や桜、紅葉のような植物的イメージについて、「焼身往生を説く経典」を、「女人から稚児へという形を取って」「裏返し、入水往生を説く作品として」『秋の夜長物語』を位置づける阿部好臣は、「桜・花そして植物の属性を示す梅若と、雲そして水の属性を示す桂海」の対比を見、「梅若の属性は、入水することにより、木から水に転化するし、それが逆に石山観音の化身であったことをうかびあがらせる」としています(「秋の夜の長物語」三谷栄一編『体系 物語文学史 第四巻 物語文学の系譜 Ⅱ』有精堂、1989年)

 ところで、木村朗子によると、稚児は〈産まない性〉でした(前掲)。その稚児に、梅や桜、紅葉のイメージが重ねられるのです。
 ここでは、梅や桜、紅葉などの植物は、生殖のイメージからも離れ、女性であることも裏返されながら、美しくはかない存在を表すものとして用いられています。

☆稚児である梅若=桜のイメージ
☆稚児は〈産まない性〉(木村朗子、前掲)
☆産まない性である稚児に桜のイメージ
☆生殖のイメージからも女性であることからも離れて、美しくはかない存在を表すための桜(紅葉)

2.変奏・翻案
 このような『秋の夜長物語』の翻案として、稲垣足穂の「菟」をとりあげておきましょう。

【梗概】
 「私」(男性)は「私」の家の裏二階から見える部屋に住んでいる少女と親しくなる。少女は「私」も知っている、「山の人」(女性)と呼ばれる年上の女性の知り合いであり、どうやら「山の人」と恋愛関係にあるらしい。やがて少女は「山の人」とけんかして別れ、数学という共通の対象を持つ私と恋人同士となるが、彼女は結核を患いはかなく亡くなってしまう。

 稲垣足穂(1900―1977)は、「天体や科学文明の利器を題材にした超現実派的な異色の作風」が特徴で、戦後は「自伝的、哲学的な傾向を強めると同時に、少年愛のテーマが前面に出てきた」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』担当曾根博義、https://japanknowledge.com , (参照 2020-06-15))と言われていますが、その著書『少年愛の美学』(1968年)のなかで何度も、『秋の夜長物語』に言及しています。

 1939年が初出の「菟」(初出時のタイトルは「柘榴の家」)は、どうやら数学者であるらしい「私」という青年と、はかなくなくなってしまう少女の物語です。「少女型自意識」の誕生と変遷を考察する高原英理の『少女領域』(国書刊行会、1999年)のなかで、「少女という機能を逃れて」として取り上げられる小説ですが、この小説はかなり明示的に『秋の夜長物語』を引用しているのです。

 例えば、「私」が「何かお伽草子めく雰囲気」(79頁)を感じた場面には(『秋の夜長物語』は『お伽草子』の一つ)、「昔見し月の光をしるべにてこよいや君が西へ行くらむ。――ちょうどこの気持だった、と後日、秋夜長物語中に瞻西上人が草庵の壁に記した歌を知って、私は思い当たったものだ」(79~80頁)とあります。

 さらに、「私はその途端、何云うこともなしに此世ならぬ、寂光くさいものを感じた。身をくねらせたひとの面に観音様の影が射した、と云っても差し支えない」(70頁)とか、「虱」が「千手観音」にたとえられる(75、76頁)など、観音様のイメージがあるのも、稚児梅若が観音の化身であったとされる『秋の夜長物語』を思わせますし、「私」の恋のライバルでもある女性が「山の人」と呼ばれるのも、「山」=叡山をイメージさせます。

 ただしもちろん、大きな違いや、物語の裏返しもあります。
 一番大きいのが、稚児から少女へ、という変化でしょう。
 桜や紅葉ではなく、「うさぎ」という動物的イメージがヒロインに重ねられることも、大きな差異です(月からの連想)。
※ただし病床で「開く花が見たいのだ」と主張したことも(87頁)
 この「うさぎ」のイメージについては、それはそれで考察したい部分ではあるのですが、今回は置いておきましょう。
 また、『秋の夜長物語』においては僧侶と稚児であったものが、「菟」においては数学者と、深く数学に心を入れる女学生へと変わっています(末尾に前世らしき場面が描かれるのですが、そこでも二人は江戸時代の数学者です)。
 この少女は、「科学はその実験室にテーブルなんか並べているから、物理のようには感服されない」「結晶した鉱物が一番偉い」(74頁)と主張するように、永遠なものへの憧れを持ちますが、その表情は、「凡そ私の頭に残っている数々の表情は、それぞれに一回きりであって、其後は何処にも取戻されない類いであった」(68頁)と語られるように、はかない一回きりのものですし、はかなく死んでしまいます。
 細かく見ていけば、「山の人」に関しても、『秋の夜長物語』では桂海が叡山の僧、梅若が三井寺の稚児なので、桂海のポジションにあるのが「私」であるとするならば、ライバルである人は三井寺の僧侶にたとえられる何かであるはずで、ずらされています。
 そして「観音様」にたとえられることもある少女は、『秋の夜長物語』のように菩提・遁世に導くことはなく、「菟」ではこの二人は転生を繰り返しています。

まとめ
『秋の夜長物語』においては、少年である稚児が桜や紅葉にたとえられますが、稚児は〈産まない性〉であることが指摘される存在です。『秋の夜長物語』においては、桜や紅葉のイメージは、生殖からも女性であることからも離れて、はかなく美しいものの比喩として用いられます。
『秋の夜長物語』における稚児は、女性を転換・裏返したものと指摘されることがありますが、『秋の夜長物語』を明確に踏まえる稲垣足穂の近代小説「菟」では、さらに稚児が少女へと転換されます。
 ところがこの少女に対し、植物的な比喩は用いられず、彼女は「うさぎ」にたとえられています。少女は「観音様」にもたとえられますが、『秋の夜長物語』において観音の化身である稚児が菩提遁世に導くのに対し、この二人は永遠に転生し続けるのです。

【次回について】
『御伽草子』の植物:「かざしの姫君」を中心に
すみません、『御伽草子』の植物に関しても、今回扱う予定にしていましたが、量が増えて来た(というか準備が間に合わない、必要な文献が入手できていない)ため次回に回します。

したがって、次回以降の予定については、以下のように修正いたします(たびたび申し訳ありません)。
7週目…『御伽草子』の植物:「かざしの姫君」を中心に
8週目…近世文学における花のイメージ
9週目…夏目漱石『それから』
10週目…尾崎翠『第七官界彷徨』
11週目…野溝七生子『山梔』
12週目…石井桃子『幻の朱い実』およびまとめ

*引用は、『秋の夜長物語』は、岩波大系日本古典文学全集(旧大系)、「菟」は『稲垣足穂全集』七巻(筑摩書房、2001年)による。ただし私に一部改めた部分がある。

第5回
第7回







 

日本文学Ⅰ(第5回):『紫式部集』における女性同士の絆

2020-06-12 12:38:37 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

すみません、ほんとに遅くなりました。
第5回をアップします。

 今回は紫式部の家集である『紫式部集』についてお話します。
 今日のお題は二つ、
・従来男女間の贈答だとされてきた4番歌、5番歌を女性同士の贈答として読み替える。
・冒頭部分に注目することで、『紫式部集』を、すでに失われてしまった女性同士のつながりを、和歌によって、心の交流として、構築するものと位置付ける。

 それでははじめます。

はじめに
『紫式部集』冒頭部分は、悲しい別れに彩られた女友だちの贈答が続きます。幼い頃からの女友だちと再会してもほのかにしか会えず、その女友だちは再び遠くへと旅だってゆく…、あるいは遠くに行った女友だちに対し、文の贈答を約束することで慰める…。そのような中にあって、次の四番歌、五番歌は男性との恋の贈答であると言われています。

〈本文引用1〉
    方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて
4 おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
    返し、手を見わかぬにやありけむ
5 いづれぞと 色わくほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしき

【口語訳】方違えで来た人がなんだかはっきりしないことがあって帰った翌朝、朝顔の花をやるといって
4 なんだかはっきりしない。そうであったのかなかったのか、明け暮れにぼんやりしていた朝顔の花、あなたの顔は。
    返歌、手跡を見分けなかったのであろうか
5 どちらかと区別している内に、朝顔があるかなきかになったのが侘びしいこと。

 これについては、「なまおぼおぼしきこと」が何を指すのか、「手を見わかぬにやありけむ」とはどういう意味なのか、またこの贈答の相手が後に結婚した宣孝であったのかなどについてさまざまに論じられています(1)。そしてその焦点は、肉体関係があったのかどうかにほぼ絞られ、恋の贈答であるか否か、相手の性別についてはさほど検討されていません。
 しかしながら、「方違へにわたりたる人」の性別は明示されていません。また、「なまおぼおぼし」の用例はなく、「おぼおぼし」の用例も、視覚、聴覚、物事などがはっきりしないことを指す(2)のであって、特に男女関係を指すものではありません。確かに男女関係について朧化した表現を用いる場合は多いのですが、朧化した表現であれば必ず男女関係であるとは断定できず、そもそも朧化した表現であるかも検討を要するでしょう(3)。また、女友だちとの贈答が続く中に男性との恋の贈答が置かれるのはやや唐突です。
 そこで、相手の性別について検討した上で、当該歌の位置づけについて考察します。結果、女性同士の親愛の情を表したものととることとなるでしょう。

1.紫式部の「エス」的感性
 ということで、『紫式部集』冒頭の女性同士の別れや、女性同士の親愛の情について、見ておきましょう。

〈本文引用2〉『紫式部集』
    姉なりし人亡くなり、また人のおとと失ひたるが、かたみにあひて、亡きが代りに思ひ思はむといひけり。文の上に姉君と書き、中の君と書きかよひけるが、おのがじし遠き所へ行き別るるに、よそながら別れ惜しみて
15 北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲のうはがき かきたえずして
    返しは西の海の人なり
16 行きめぐり たれも都に かへる山 いつはたと聞く ほどのはるけさ

【口語訳】姉であった人がなくなり、また人の妹を亡くした人が、互いに出会って、亡くなった姉妹の代わりに思い思われよう、と言った。文の上(表書き)に姉君と書き、中の君(姉妹のなかの二番目のこと)と書き合ったが、それぞれ遠いところへ行き別れるのにつけて、別所にありながら別れを惜しんで
15 北へ行く雁のつばさに言伝ててください。雲の上を雁が羽ばたくように、手紙の上書きを書き絶えないで。
    返歌は西の海の人である
16 鹿蒜山や五幡(という地名があると)聞くが、(任国を)行き巡り、誰もみな都に帰るというが、(再会は)いつまた会えるだろうかと思うほどのはるか先である。
▽「雁のつばさ」に言伝るという発想は、漢の蘇武が雁の脚に手紙をつけて送った故事を踏まえる。
▽雲のうはがき=雁が雲の上を羽ばたく/手紙の表書き
▽鹿蒜/帰る、五幡/いつはた。
▽鹿蒜山、五幡は紫式部が下る越前国の地名。

 これは、紫式部が仲の良い友達と、それぞれ親の国司赴任について行くので遠いところに別れなければいけなかったときに、送り交わした贈答です。紫式部は姉を亡くしており、友達は妹を亡くしていたというので、お互いにその亡くなった姉妹の代わりに思おうと言って、姉よ、妹よ、と呼びかけあっていたのだと言います。
 注目したいのが、(昭和の半ばころの研究で)この部分を根拠に、

〈参考〉岡一男「紫式部の少女時代及び文芸的環境―越前への旅行―」(4)
 彼女が姉をうしなつたかはりに、妹をうしなつた友だちと、姉妹の約束をしたといふのだから、紫式部には同性愛的傾向が著しいといはねばならぬ。

などと指摘されることです。でもちょっと待ってください、なぜ姉妹の約束をしたからと言って「同性愛的」なのでしょう。姉妹の関係というものは、「同性愛的」なのでしょうか?
 この指摘は、対象や昭和初期頃の女学校の中にあった、「エス」という関係を想定しなければ、ちょっと理解できません。

〈参考〉久米依子「エス―吉屋信子『花物語』『屋根裏の二処女』」(5)
 「シスター」の略である「エス」は、主として女学生同士が恋愛のようにシスターフッドを深める仲を、やや隠語的に指す。(中略、吉屋信子の小説が)一人の少女が美しい女性に出逢って思いをつのらせるが、相手は余儀なく幻のように去り、少女は悲しい別れをいつまでも思い続ける

 岡一男は1900年の生まれですので、こういった関係が花盛りである頃に、青春時代を過ごしたのでしょう。「エス」は女学生同士のシスターフッドであって、同性愛そのものとは異なるのですが、男性である岡の眼には、「同性愛的」に映ったのかもしれません。
 しかも、久米依子が「一人の少女が美しい女性に出逢って思いをつのらせるが、相手は余儀なく幻のように去り、少女は悲しい別れをいつまでも思い続ける」とまとめる吉屋信子の小説の構造は、『紫式部集』の和歌の配列にも当てはまるのです。
      
〈本文引用3〉『紫式部集』冒頭部分
  はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、ほのかにて、七月十日の程に月にきほひてかへりにければ
1 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よはの月かな
    その人、とほき所へいくなりけり。秋の果つる日きて、あかつきに虫の声あはれなり
2 鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや かなしかるらむ 
「筝の琴しばし」といひたりける人、「参りて御手より得む」とある返り事
3 露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
    (中略、本文引用1)
    筑紫へ行く人のむすめの
6 西の海を おもひやりつつ 月みれば ただに泣かるる ころにもあるかな
    返り事に
7 西へ行く 月のたよりに たまづさの かきたえめやは 雲のかよひぢ
・    遠き所へ行きし人の亡くなりにけるを、親はらからなど帰り来て、悲しきこと言ひたるに
39 いづかたの 雲路と聞かば 尋ねまし つらはなれたる 雁がゆくへを

【口語訳】早くから幼馴染であった人に、何年かたって再会したが、ほんのわずかな間で、七月一〇日頃の月と競うように帰ってしまったので
1 見たかどうか、それかどうかも分からない間に、雲に隠れてしまった夜半の月のように、出会ってすぐに帰ってしまったあなたであることよ。
   その人は、遠いところ(親か夫の任国)へ行くのだった。秋が終わる日に来て、暁に虫の声が切な  
   い
2 弱弱しく鳴く籬の虫も、(遠くへ行くあなたを)止めることの難しい、秋の別れが(私と同じように)悲しいのだろうか。
   「筝の琴をしばらく(借りたい)」と言っていた人が、「お伺いして直接教えてほしい」とあるのに対する返事
3 露の多い蓬のなかの虫の音のような、粗末な家で弾く私の琴を、いい加減な思いで、人が訪ねて来るだろうか(酔狂なお人ですね)。
    (中略)
    筑紫へ行く人の娘が(詠んだ歌)
6 西の海を思いやりながら月を見ると、ただひたすら泣けてくるこの頃であるよ。
    返事に
7 月が西へ行く雲の通い路がかき絶えることがないように、(あなたへの)お手紙が書き絶えることがあるだろうか。
・   遠いところに行った人が亡くなってしまったことを、親きょうだいなどが帰ってきて、悲しいことを言っていたのに
39 どちらの雲路であるかと聞いたなら、訪ねていくのに。列から離れてしまった雁(あなた)の行方を。
▽39番歌で亡くなっているのは、六、七番歌、15、16番歌の贈答の相手。

 もちろんここで登場する女性たちは、いわゆる「少女」ではありません。ですが、父について任国に下ったり、結婚であったり(夫について任国に下ったり)、亡くなったり、ということで、相手が幻のようにはかなく消えてしまうという基本構造は、共通するように思います。
 ところで、最初に見た「朝顔」の詠みこまれた4、5番歌も、この贈答歌群の中に配列されています。その中にあって、4、5番歌だけ男女関係の贈答と読むのはなぜなのでしょうか。女性同士の贈答と見たって良いのではないでしょうか。

▽39番歌で亡くなっているのは、6、7番歌、15、16番歌の贈答の相手。
▽女性同士の悲しい別れ。
▽朝顔歌(4、5番歌)も、女性同士の贈答の中に配列されている。
▽朝顔歌だけ男女関係の贈答と読む根拠はないのでは?

 ということで、4、5番歌について、再度詳細に見ておきましょう。

2.『紫式部集』朝顔歌の解釈
 ここからは、それぞれのことばについて、同時代以前の用例を、少していねいに見てゆきます。
 まず、一番のポイントとなる「朝顔」について。

〈参考〉朝顔の用例(一部)
・『紫式部集』
    世の中の騒がしきころ、朝顔を、同じ所にたてまつるとて
53 消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな

【口語訳】世の中が騒がしい(=疫病の流行など)頃、朝顔を同じところに差し上げるといって
53 消えない間の身(=自分の命がほんのわずかであること)をも知りながら、朝顔の露が消えるのと争う(ように人が亡くなる)世を嘆くことであるよ。

・『古今和歌六帖』第6中巻
     あさがほ やかもち
  春日野の野べの槿面影に見えつゝ妹はわすれかねつも(『万葉集』では「高円の野辺の容花」)
  おぼつかなたれとかしらむ秋霧のたえまに見ゆる槿の花

【口語訳】朝顔 家持
 春日野の野辺の朝顔を見ると、面影にちらついて見えて、恋しい人を忘れることができない。
 はっきりしなくて、誰であるかと(はっきり)知りたい、秋霧の晴れ間に見える朝顔の花(のようなあなたの顔)を

・『小町集』
96 しどけなき寝くたれ髪を見せじとやはた隠れたる今朝の朝顔
【口語訳】だらしない寝起きの髪を見せるまいとしてか、隠れてしまった今朝の朝顔(朝の顔)である。
▽朝顔=女性の顔

・『源氏物語』
    「咲く花にうつるてふ名はつゝめどもをらで過ぎうきけさの朝顔
   いかゞすべき」とて、手をとらへたまへれば、いと馴れて、とく、
      朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る/(中略)
をかしげなる侍童の(中略)花のなかにまじりて朝顔をりてまゐる…(夕顔、1巻110頁)

【口語訳】(源氏)「咲く花に浮気をしているという名が広がるのは隠しておきたいが、折らないで過ぎることがつらい今朝の朝顔(=あなたの美しい朝の顔)
どうするべきか」と言って、(源氏を送ってきた六条御息所の侍女、中将の君の)手をとらえなさったので、とても馴れて、早く、
  朝霧の晴れ間も待たない様子で、花に心をとめないものと見る(=主人である六条御息所のこととして詠んで、早く帰る源氏をとがめた歌)
 可愛らしい侍童が、花の中に混じって朝顔を折って参る…
 
 枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれて、あるかなきかに咲きて、にほひもことに変はれるを、折らせ給ひてたてまつれ給ふ。
      (中略)
    見しをりの露忘られぬあさがほの花のさかりはすぎやしぬらん
      (中略)
 おとなびたる御文の心ばへに、おぼつかなからむも見知らぬやうにや、とおぼし、人\/も御硯とりまかなひて聞こゆれば、
    秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつるあさがほ
  似つかはしき御よそへにつけても、露けく。 (朝顔、2巻257~258頁)

【口語訳】枯れている花々の中に、朝顔がこれやあれに這いまつわって、あるかないかわからないくらいに咲いて、色つやもことに変わっているのを、折らせなさって差し上げなさる。
(源氏)見た折の露が忘れられないように、全く忘れられない、朝顔の花(であるあなたの顔)の盛りは過ぎてしまっただろうか。
  落ち着いた御文の文面に、はっきりしないのも情趣を解さないようであるか、とお思いになり、人々も御硯をとり準備し申し上げたので、
(朝顔斎院)秋が終わって、霧の籬にからみつき、あるかなきかの様子に移ろってしまった朝顔(である私)
  似つかわしい御たとえであることにつけても、露っぽく(涙に濡れる)。
 
 をり給へる花を、扇にうちおきて見ゐたまへるに、やう\/赤みもて行くも、なか\/色のあはひをかしく見ゆれば、やをらさし入れて、
   よそへてぞ見るべかりける白露のちぎりかおきし朝顔の花
 ことさらびてしももてなさぬに、露落とさで持たまへりけるよ、とをかしく見ゆるに、おきながら枯るゝけしきなれば、
   「消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるゝ露はなほぞまされる
 何にかゝれる」 (宿木、5巻43頁)

【口語訳】お折りになった花を、扇にちょっと置いてご覧になっていると、だんだん赤く色変わりしてゆくのも、かえって色合いが美しく見えたので、そっと(朝顔の花を御簾の下から)差し入れて、
(薫)(あなたに)よそえて見るべきであった、白露(のようにはかなくなくなってしまった大君)が、約束した朝顔の花(であるあなたを)。
 ことに注意していたわけでもないのに、露を落とさずにお持ちになったことよ、と面白く見えるのに、露が置いたまま枯れる様子であるので、
(中の君)「露が消えない間に枯れてしまった花(=大君)のはかなさに、遅れる露(である私)はさらに(はかなさ、頼りなさが)まさっている。
  露が何にかかるのか=私は何を頼りにすればよいのか」
▼朝顔=女の顔(6)
 
『紫式部集』の用例は、朝顔のはかなさに、人の命のはかなさをたとえるもので、こういった詠み方も、朝顔のよく詠まれるパターンの一つです。
『源氏物語』の用例を見ても、確かに恋愛のイメージは濃厚なのですが、ここで注意したいのは、「朝顔」に誰かの顔がたとえられる場合、その顔は女性の顔なのです。さらに、後で見ますが、『紫式部日記』には、女性同士で男女関係、というか夫婦関係であるかのような表現が用いられる贈答もあります。
 最初に見た『紫式部集』の歌は、贈歌である4番歌が、紫式部(女性)の歌、答歌である5番歌が相手の歌です。4番歌では紫式部が相手の顔を朝顔にたとえてなんだかよくわからなかった、と言っており、5番歌では相手の手跡を見分けているうちに朝顔の花がしおれてしまったと言っています。
 ですから、紫式部が自分の顔を朝顔にたとえているのならばともかく、相手の顔を朝顔にたとえている以上、相手も女性であると考えたほうが良いように思うのです。

 ここで、朝顔が詠みこまれ、女性同士の贈答と解されている和歌があることに注目しましょう。

〈参考〉『中務集』 方違えと朝顔
    琴を借りて、人に
182 年を経て 音に聞きつる 琴の音を 手にならしつる 秋ぞうれしき
    返し
183 音にのみ 聞きけることに 劣ればや ならしそむるに 秋のそふらん
    方違へに人の家に行きて帰りて、翌朝、萩に朝顔のかかりて咲きたるををりて、彼より
184 初秋の 萩の朝顔 朝ぼらけ 別れし人の 袖かとぞ思ふ
    返事
185 袖の色も 見えやはしけむ 朝顔の 昼は移ろふ 別れならぬに

【口語訳】琴を借りて、(その琴を貸してくれた)人に、
182 長年うわさに聞いていた琴の音を、手に慣らして鳴らしている秋が嬉しい。
    返事
183 噂でのみ聞いていた事に琴の音が劣っているからか鳴らし始める秋に飽きが添うのだろうか。
    方違え(陰陽道で忌むべき方向を避けるために、目的の場所とは別の場所にいったん泊まること)に人の家に行って帰って、その翌朝、萩に朝顔がかかって咲いているのを折って、あちらから
184 初秋の萩にかかった朝顔は朝ぼらけのなか別れた人の袖かと思うことだ。
    返事
185 袖の色も見えたのだろうか、朝顔が昼は色が変わってしまうように、昼は心変わりする別れではないのに。

『中務集』は、平安中期の歌人であり三十六歌仙の一人である中務の家集ですが、この部分の配列は、琴をめぐる贈答と朝顔をめぐる贈答が並んでおり、『紫式部集』ともよく似ています。
 これについて、

▽木船重昭『中務集相如集注釈』(7)は、
「人の家」とは「女ともだちの家」「さきの夜は、しみじみと語り合い、夜明けに帰っていった、その朝、さっそく中務がなつかしくて、某女詠みよこす」「お別れして帰っては来ましたが、もうこれきりのはかない別れではありませんでした。またお会いしましょう、の心」

として、親しい女性同士の贈答と解しています。残念ながらその根拠は示されていないのですが、少なくとも配列や詠歌状況の類似した贈答について、女性同士によるものであると解されていることは、『紫式部』4、5番歌についても、女性同士と解してもよい根拠にはなるでしょう。

▼親しい女友だち同士の贈答
▼詞書「方違へ」「帰り」「翌朝」「朝顔」・・・詠歌状況の類似
▼「袖の色」、「見え」→『紫式部集』詞書「手を見わかぬ」、5番歌「色わく」
▼琴を借りること・・・配列の類似

「これかあらぬか」は、
〈参考〉それかあらぬか
・『小野篁集』三の君との結婚後、亡き妹の霊が恨み言を言う
 さて、そのころ、妹のある屋に行きたりければ、いと悲しかりければ、寝にけり。
 妹、
30 見し人にそれかあらぬかおぼつかなもの忘れせじと思ひしものを

【口語訳】さて、その頃、妹の(霊の)いる家に行ったところ、とても悲しかったので、寝てしまった。
   妹(の霊)、
30 見た人(恋人であった人)であるのかそうでないのかはっきりしないあなたは、私のことを忘れはしないと思っていたものを(なぜ私のことを忘れてしまったのですか)。

*『篁物語』…『小野篁集』とも。古くは『篁日記』『小野篁記(おののたかむらのき)』などともよばれた。平安時代の物語。作者・成立は未詳。平安中期成立とする説、平安末期成立とする説が並存する。(中略)第一部は篁の異母妹との恋が語られ、篁の子を身ごもった妹が母親に仲を裂かれて悶死(もんし)し、亡霊となって現れるというもの。第二部は右大臣の娘に求婚した篁が、大君(おおいぎみ)や中の君には断られたが、三の君と結婚して栄達したというもの。 [小町谷照彦]『日本大百科全書(ニッポニカ)』 JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2020-06-07)

・『古今和歌集』巻第三 夏歌
     題しらず よみ人しらず
159 去年の夏なきふるしてし郭公それかあらぬかこゑのかはらぬ

【口語訳】去年の夏さんざん鳴き古してしまったほととぎす、その同じほととぎすであるのかないのか、声が変わらない。
・巻第十四 恋歌四   題しらず  よみ人しらず

731 かげろふのそれかあらぬか春雨のふるひとなれば袖ぞぬれぬる(『古今和歌六帖』第四句「ふる人みれば」)
【口語訳】そうであるのかないのか分からない陽炎のように、そうであるのかないのか分からない古人(幼馴染)であるから、春雨の降る日となれば袖が(涙で/春雨で)濡れてしまう。

などの用例にみられるように、かつてよく知っていた対象に、時間の隔たりなどを経て再会する場合に用いられる表現です。

「そらおぼれ」は、
〈参考〉そらおぼれ
・『源氏物語』惟光による夕顔の調査
   「案内も残る所なく見給へおきながら、たゞわれどちと知らせてものなど言ふ若きおもとの侍るを、そらおぼれしてなむ隠れまかりありく。(・・・・・・)」 (夕顔、1巻112頁)
【口語訳】「家の案内も残るところなく拝見しておきながら、ただ自分のことと思わせてものなど言う(自分が言い寄る相手となるような)若い女性がいますのを、そらとぼけて隠れて出かけていく。(・・・・・・)」

・六条御息所の死霊の歌(本当にその人かと問う源氏に)
  わが身こそあらぬさまなれそれながら空おぼれするきみは君なり(若菜下、3巻371頁)
【口語訳】私の身こそかつてとは異なった様(死んで霊になっている)であろうが、空とぼけているあなたはあなただ。

・『公任集』
     五月五日につかはしける
548 郭公いつかと待ちしあやめ草けふはいかなるねにか鳴くべき
     返し  馬内侍
549 五月雨は空おぼれする郭公ときに鳴く音は人もとがめず(『新古今和歌集』。『馬内侍集』初句第二句「五月雨の空くもりする」)

【口語訳】五月五日に送った歌
548 いつかと待ったほととぎすが、五日のあやめ草の根ではないが、今日はどんな音で鳴くだろう。
     お返事  馬内侍
549 五月雨に紛れて空とぼけるほととぎすが、時に合わせてなく音は人も聞きとがめない

などの用例にあるように、わざと周りに紛れている、分からないふりをするという意味で使われる表現です。

「おぼつかな」「おぼおぼし」は、
〈参考〉『源氏物語』「おぼつかな」と「おぼおぼし」 小君と浮舟
 「(中略)僧都の御しるべはたしかなるを、かくおぼつかなく侍るこそ」(中略)「おぼし隔てて、おぼ\/しくもてなさせ給ふには、何ごとをか聞こえ侍らん。(中略)たゞ、この御文を人づてならでたてまつれとて、侍りつる、いかでたてまつらむ」  (夢浮橋、5巻404~405頁)
【口語訳】(小君)「(中略)僧都のお導きは確かであるのに、このようにはっきりしませんのは…」(中略)(小君)「(私を)思い隔てて、はっきりしない扱いをなさるのでは、何事を申し上げられましょう。(中略)ただこの御文を人づてではなく(直接に)差し上げなさいといって参上したものを、どうにかして差し上げたい」
*浮舟の生存が分かり、薫の使いとして異父弟の小君が浮舟のもとを訪れた場面。

のように、なんだかはっきりしないこと。

「色わく」は、
〈参考〉色わく(一部)
・『源氏物語』夕霧中納言に昇進。雲居雁の乳母と贈答。
  「あさみどりわか葉の菊を露にても濃きむらさきの色とかけきや
 からかりし折の一言葉こそ忘られね」(中略)
  「ふた葉より名立たる園の菊なればあさき色わく露もなかりき(略)」(藤裏葉、3巻193頁)

【口語訳】(夕霧)「(六位で)浅緑の袍を着ていた若葉の菊である私を、菊に置く露ではないが、少しでも濃い紫色(中納言の着る袍の色)をかけるとは思っただろうか。
つらかった折の一言が忘れられない」(中略)
(雲居雁の乳母)「若い頃から名だたる名門の菊であるあなたであるので、浅い色(=低い官位)を差別する気持ちは全くなかった」
*夕霧は父の源氏の方針で、高級貴族の子弟としては異例に低い六位から官位がスタートした。「浅緑」というのはその六位の官位に決められた袍(上着)の色。ここでは順調に昇進し、かつて雲居雁(夕霧と幼馴染で結婚する)の乳母に「浅緑」と悪口を言われたことをあてこすっての贈答である。

・『家持集』
287 しらゆきのいろわきがたきむめがえにともまつゆきぞきえのこりたる
【口語訳】白雪の色を見分けがたい梅の枝に、友待つ雪が消え残っている。

・『躬恒集』
137 月影に色別きがたき白菊は折りても折らぬ心地こそすれ(『古今和歌六帖』)
【口語訳】月影の色と見分けがたい白菊は折っても折らないような心地がする

・『拾遺和歌集』巻第二十 哀傷
     親に後れて侍ける頃、男の訪ひ侍らざりければ  伊勢
1301 亡き人もあるがつらきを思ふにも色分れぬは涙なりけり

【口語訳】親に死に後れていました頃、男が見舞いに来なかったので  伊勢
亡き人を思うのか、ある人のつらさを思うのか、区別するのが難しいのは涙であることよ(どちらを思って泣いているのか区別できない)。

のように、色が同じために区別がつかないという文脈でつかわれます。

 確かにちょっと、『源氏物語』宇治十帖で、匂宮が宇治の姉妹のどちらの文字か見分けがつかないと言ったり、薫が同じ枝で片方だけ濃く色づいた紅葉に託して姉妹のうちのどちらへの愛が深いのか(大君へのほうが深い)と言った贈答とか、思い浮かべたくはなります。なので、男性からの恋の贈答、しかも姉妹に対する、という発想は分からないでもない。

「あるかなきか」は、
〈参考〉あるかなきか(一部)
・『後撰和歌集』巻第十六 雑二
     題しらず よみ人しらず
1191 あはれともうしとも言はじかげろふのあるかなきかに消ぬる世なれば(『古今和歌六帖』)

【口語訳】可哀想ともつらいとも言うまい、蜉蝣があるかないかのように消える、そのようにはかなく消えてしまう世であるので。

 巻第十八 雑四 題しらず よみ人しらず
1264 世中と言ひつる物かかげろふのあるかなきかのほどにぞ有りける(『古今和歌六帖』)

【口語訳】世の中と言ったものか、蜉蝣があるかなきかであるくらい(はかないもの)であったよ。

・『拾遺和歌集』 巻第二十 哀傷
     世中心細くおぼえて、常ならぬ心地し侍ければ、公忠朝臣のもとに詠みて遣はしける、この間病重くなりにけり 紀貫之
1322 手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ(『貫之集』)
    この歌詠み侍て、ほどなく亡くなりにける、となん、家の集に書きて侍る

【口語訳】世の中が心細く思えて、常ではない気分がしましたので、公忠朝臣のもとに詠んで送った、この間に病が重くなってしまった。 紀貫之
手ですくった水に宿る月影があるかなきかであるような、そんな(はかない)世であったことよ。

のように、はかなさや、時間的経過の短さを託して詠まれます。
 以上から、4番歌、5番歌について、次のように解釈しておきたいと思います。

▼幼い頃からの女友だちが久しぶりに方違えでやって来たが、式部は直接顔を見ることもできなかった。4番歌はその不満を詠んだものである。「そらおぼれ」は式部が顔を見ようとしたときに、女友だちが寝たふりをして袖で顔を隠したようなことを指すだろうか。「手を見わかぬにやありけむ」、「いづれぞと 色わくほどに」は、研究史で指摘される姉など、別の人物がもう一人いたことを想定しなければ理解しにくい。

3、女性同士の絆
 ここまで、『紫式部集』4、5番歌の表現について、細かく見てきました。ここでもう一度、『紫式部集』冒頭部分の配列を見ておきましょう。

〈本文引用4〉配列上の連鎖(再掲)
    はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、①ほのかにて、七月十日の程に②月にきほひてかへりにければ
1 めぐりあひて ③見しやそれとも わかぬまに ④雲がくれにし よはの月かな
      (中略)
 「筝の琴しばし」といひたりける人、「参りて⑤御手より得む」とある返り事
3 露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
    方違へにわたりたる人の、`①なまおぼおぼしきことありて`②帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて
4 `③おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
    返し、`⑤手を見わかぬにやありけむ
5 `③いづれぞと 色わくほどに 朝顔の `④あるかなきかに なるぞわびしき

(↓直接の対面ではなく文による贈答)

▼①「ほのかに」しか会えなかったこと≒ `①「なまおぼおぼしきこと」
▼②「月」と争って帰る≒`②帰りにける
▼③見しやそれとも わかぬまに≒ `③おぼつかな それかあらぬか
▼④雲がくれにし よはの月≒ `④あるかなきかに なる
▼⑤御手より得む≒ `⑤手を見わかぬ

▼3番歌詞書の「手」は直接対面し、直接琴の奏法を習うこと
→4番歌の「手」は手跡を指し、文による贈答の距離。
▼6番歌以降、直接対面することの難しい友との文の贈答。
▼「顔」を見る対面ではなく、「手」、文による交流に変化している。

 ここでは、類似した表現が少しずつ違う意味、違う文脈で用いられ、直接の対面から文による対面へと、変わっていきます。
 例えば、

〈本文引用5〉
    物思ひわづらふ人のうれへたる返り事に、霜月ばかり
11 霜こほり とぢたるころの 水くきは えもかきやらぬ ここちのみして
    返し
12 ゆかずとも なほかきつめよ 霜こほり 水のそこにて 思ひながさむ
(8)
【口語訳】もの思い悩んでいる人が嘆きを訴えていた文の返事に、霜月頃
霜や氷が凍てついている頃のような私の筆は、凍てついた流れを掻きやることができないように、よく書きやることができないような気持ちばかりして
    返事
(筆が)ゆかないとしても、やはり書いてください、氷の底で水が流れるように、手紙の底にあるあなたの思いで私の凍てついた思いを流そう。

のように、『紫式部集』においては、文による心の交流は信じられています。そしてそこにおいては、「水の底」という比喩が用いられます。

 対して、
〈本文引用6〉
    夕立しぬべしとて、空の曇りてひらめくに
22 かきくもり 夕立つ波の あらければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき

【口語訳】夕立が今にも来そうで、空が曇り、雷がひらめくので、
かきくもり夕立つ波があらいので、浮いている舟は落ち着いた気がしない

とあるように、(言葉や心の比喩はない文脈ですが)「水の上」は信じられていません。

 『紫式部集』においては、表層は信じられておらず、言葉の底にある心において、女性同士のつながりは保たれています。
 女性同士の避けられない別れをめぐる贈答は、結婚したり子供ができたり亡くなったりする中で失われてしまう心のつながりを再構成し、構築するものとして、『紫式部集』の中で配列されているのです。

 ちなみに紫式部による日記文学である『紫式部日記』のほうでは、

〈参考〉『紫式部日記』 顔を見る紫式部 
 上よりおるる道に、弁の宰相の君の戸口をさしのぞきたれば、昼寝したまへるほどなりけり。萩、紫苑、いろいろの衣に、濃きが打ち目心ことなるを上に着て、顔は引き入れて、硯の箱に枕してふしたまへる額つき、いとらうたげになまめかし。絵にかきたる物の姫君のここちすれば、口おほいを引きやりて、「物語の女のここちもしたまへるかな」といふに、見上げて、「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なくおどろかすものか」とて、すこし起きあがりたまへる顔のうち赤みたまへるなど、こまかにをかしうこそはべりしか。(15~16頁)
【口語訳】上(中宮の御前)から下がる途中で、弁の宰相の君の(局の)戸口をちょっとのぞいたところ、昼寝なさっていたところであった。萩(重ねの色目)、紫苑(重ねの色目)など、いろいろの衣に、濃い紅で格別につやのある打衣(砧で打ってつやを出した絹)を上に着て、顔は衣に引き入れて、硯の箱を枕にして伏せなさっている額の格好が、とても可愛らしく美しい。絵に描かれた何かの物語の姫君のようであったので、(紫式部は宰相の君の)口にかぶさっている衣を引きやって、「物語の女のようでいらっしゃることよ」と言うと、(宰相の君は)見上げて、「きちがいじみたなさりようであることよ。寝ている人を心なく起こすなんて」と言って、すこし起きあがりなさった顔のちょっと赤くなっているご様子など、整っていて美しくあったことでした。

とあるような、可愛い女の子大好きで顔を見たい紫式部が語られていたりもするのですが、

〈参考〉
 大納言の君の、夜々は御前にいと近うふしたまひつつ、物語したまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か。
   うきねせし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさえぞおとらぬ
 返し
  うち払ふ友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦ぞよはに恋しき
 書きざまなどさへいとをかしきを、まほにもおはする人かなと見る。(58頁)

【口語訳】大納言の君が、夜夜は中宮様の御前に側近く宿直しながら、物語しなさった様子が恋しいのも、やはり境遇に順応してしまった我が心であるのだなあ。
  仮寝した水の上(宮中)だけがひたすら恋しく思われて、(独り寝で)凍えることは鴨の上毛のそれにも劣りません。
返歌
  (共に霜を)打ち払う友のいない夜半の寝覚めには、夫婦の鴛鴦のように共寝したあなたが恋しいのです。
書きぶりなどすら大変素晴らしいのを、完璧でいらっしゃる方であるなあ、と見る。

のように、仲のよい同僚女房との贈答において、「水の上」(=宮中)が恋しいと言われていたりもします。
 この贈答は、女性同士の関係において、夫婦関係によく用いられる「鴛鴦」の比喩が用いられていることでも注目したいのですが、「水の上」は、宮中であるとともに、「水」をめぐる比喩表現を踏まえれば、言葉の表層を意味するものでもあるでしょう。
「水の底」での女性同士の結びつきが構築される『紫式部集』に対し、「水の上」での女性同士の関係が構築される『紫式部日記』という対比もできそうです。


(1)岡一男『源氏物語の基礎的研究』(東京堂、昭和29年→増訂版昭和41年)、角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、昭和41年)が相手を藤原宣孝とし、清水好子『紫式部』(岩波新書、昭和48年)、南波浩『紫式部集全評釈』など諸注それを受けるが、近年では特定を避ける傾向にある。また、多くの注釈書において肉体関係まではなかったとするのに対し、石川徹「紫式部の人間と教養」(『国文学』昭和36年5月→『平安時代物語文学論』笠間書院、昭和54年)を踏まえた今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、昭和41年→新装版昭和60年)では「当然肉体的なものも含んでいる」、久保朝孝「紫式部の初恋―明け暮れのそらおぼれ・虚構の獲得」(『新講 源氏物語を学ぶ人のために』世界思想社、1995年)では「情事」と取る。
(2)『源氏物語』中の「おぼおぼし」の用例は次のようなものである。
・  たそかれ時のおぼ\/しきに、おなじなほしどもなれば(常夏、3巻7頁)
・  生まれ給ひけん程などをば、さる世離れたる境にてなども知り給はざりけり。(中略)あやしくおぼ\/しかりけることなりや。(若菜上、3巻270頁)
・  朦くに耳もおぼ\/しかりければ (同、271頁)
・  雪のやうく積るが星の光におぼ\/しきを、闇はあやなし(浮舟、5巻220頁)
・  おぼし隔てて、おぼ\/しくもてなさせ給ふには、何ごとをか聞こえ侍らん。 (夢浮橋、5巻404~405頁)
(3)注2の用例にあるように、「おぼ\/し」の場合は朧化表現ではなく、対象がぼんやりしてよく見えない、聞こえない、分からない状況を指す。
(4)『源氏物語の基礎的研究―紫式部の生涯と作品―』東京堂出版、昭和41年。
(5)『国文学臨時増刊号 恋愛のキーワード集』平成13年2月。
(6)竹内美千代『紫式部集評釈』(桜楓社、昭和44年、改訂版昭和51年)のみが「朝顔」を式部自身の顔ととり、藤岡忠美「愛と結婚 『紫式部集』に見る藤原宣孝との贈答歌」(『国文学』1982年10月)が朝顔は「女の顔」をいうので「あまり相手の顔にかかわらせすぎるのはどうであろうか」と述べる。他諸注いずれも男(相手)の顔ととっており、通常女の顔を喩える「朝顔」が男の顔を喩えることは問題とされていない。
(7)大学道書店、平成4年。
(8)実践女子大本では「水のうへ」となっているが、「思ひ」は水の「底」にあるものである。
    わづらふことあるころなりけり。「かひ沼の池といふ所なむある」と、人のあやしき歌語りするを聞きて、「こころみに詠まむ」といふ
88 世にふるになどかひ沼のいけらじと思ひぞ沈むそこは知らねど
    池の水の、ただこの下に、かがり火にみあかしの光りあひて、昼よりもさやかなるを見、思ふこと少なくは、をかしうもありぬべきをりかなと、かたはしうち思ひめぐらすにも、まづぞ涙ぐまれける
116 かがり火の影もさわがぬ池水に幾千代すまむ法の光ぞ
     おほやけごとに言ひまぎらはすを、大納言の君
117 澄める池の底まで照らすかがり火にまばゆきまでもうきわが身かな(巻末、日記歌部分)

テキスト
 本文引用は、山本利達校注『新潮日本古典集成 紫式部日記 紫式部集』昭和五五年(底本黒川本/陽明文庫本)による。『紫式部集』について、実践女子大本と陽明文庫本のどちらを取るべきかは難しいが、注11などの理由や、陽明文庫本では独詠歌として取られている「影見てもうきわが涙おちそひてかごとがましき滝の音かな」(61。実践女子大本68)を、実践女子大本では小少将の君「ひとりゐてなみだぐみける水のおもにうきそはるらんかげやいづれぞ」(69)との贈答と取っているが、そこに付された長大な詞書を贈答歌として取るために増補されたものと見ることもできるため、陽明文庫本を底本とした新潮日本古典集成をテキストとした。また、陽明文庫本では女房同士の親しい贈答が巻末に増補された日記歌部分以外では少なく、実践女子大本では多いため、編纂意図に違いがある可能性がある。
『源氏物語』『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』は新日本古典文学大系、『栄花物語』『催馬楽』は新日本古典文学全集、『古今和歌六帖』は図書寮叢刊、『家持集』『貫之集』『小野篁集』『公任集』は私家集全釈叢書、『躬恒集』は和歌文学大系、『中務集』は注7参照、『小町集』は私家集大成による。但し、私に改めた部分もある。

*ちなみに今回の内容は、拙稿「『紫式部集』四番歌・五番歌の再解釈―女性同士のつながり」(『古代文学研究 第二次』19号、2010年10月)で詳しく論じています。どう評価されているのかよくわからないのですが。

第4回
第6回

日本文学Ⅰ(第4回):『源氏物語』女三の宮と季節

2020-06-05 13:42:15 | 日本文学
※非常勤講師を勤めております前橋国際大学での授業内容を、問題のない部分のみ、ブログ上にアップすることに致しました(資料は大学のLMS上にアップしていますが、引用文など少し長めの文章を載せたものは、スマホの画面ではかなり読みにくいため。ブログ記事であればスマホ上でも何とか読めるだろうと思うので)。

すみません遅くなりました。
第4回をアップします。

はじめに
『源氏物語』は大きく分けて源氏が栄華に到達するまでの第一部、表面上の栄華とはうらはらに登場人物たちが内面に懊悩を抱える第二部、源氏死後の物語を描く第三部に分けられます。源氏は六条院と呼ばれる四季を模した大邸宅を造り、それぞれに女君を住まわせていました。
 ところが、源氏が作りあげた六条院の四季の秩序は、『源氏物語』第二部において、徐々にバランスが崩壊していったことが様々に指摘されます(1)。そこには女三の宮の参入が関わるとされます(2)が、女三の宮自身の言葉にはさほど注目されていません。

 女三の宮は、春の町に住み、柏木によって桜に、源氏によって青柳に譬えられます(3)。それゆえ春のイメージが強いのですが、女三の宮自身の言葉においては、その存在が一貫して春と相容れないものとして表現されます。しかも、当初は春に消えるものとして自己を表現していましたが、出家後は六条院のほうが春の来ない、光のない場所となるのです。

1.女三の宮出家前
 第二部の冒頭で話題になるのが、源氏の兄朱雀院が出家するに際し、鍾愛の娘である女三の宮を誰と結婚させるか、ということでした。太政大臣(かつての頭中将、最終的には致仕大臣)の長男である柏木は女三の宮との結婚を強く望み、源氏の長男夕霧なども候補にあがりましたが、最終的には朱雀院のたっての願いにより、源氏と結婚することになります。

【場面①】源氏は三日間女三の宮方に渡るものの、三日目は紫の上を夢に見てまだ暗いうちに帰ってしまう。その日は一日紫の上のところで過ごし、その夜訪れない言い訳に「けさの雪に心地あやまりて」(体調が悪いので)という文を送る(若菜上、3巻245頁)。その翌朝の源氏と女三の宮とのやり取り。

 中道をへだつるほどはなけれども心みだるゝけさのあは雪
梅につけ給へり。(中略)
 御返り、すこし程経る心地すれば、入り給ひて、女君に花見せたてまつり給ふ。「花と言はば、かくこそ匂はまほしけれな。桜に移しては、また塵ばかりも心分くる方なくやあらまし」などのたまふ。(中略)。
  はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にたゞよふ春のあは雪(若菜上、4巻245~246頁)


【口語訳】(源氏)中の道を隔てたというほどではないけれども、淡雪が乱れて降るように、心が乱れる今朝の淡雪である(今日は行きません)。
梅につけてお贈りになる。(中略)
 お返事が少し時間が経つような気がするので、中に入って、女君(紫の上)に花(梅の花)をご覧に入れなさる。「花といえば、このように匂ってほしいものであるよ。(梅の香りを)桜に移したならば、また塵ほども心を分ける方向はないだろう(他の女性に浮気することなどない)」などおっしゃる。(中略)
(女三の宮)(あなたの訪れが)はかなくて上空に消えてしまいそうな、風に漂う春の淡雪(のような自分)である。

 源氏の贈歌は、
・『後撰和歌集』巻第八 冬
   雪の少し降る日、女につかはしける               藤原かげもと
479 かつ消えて空に乱るゝ泡雪は物思ふ人の心なりけり

【口語訳】雪が少し降る日、女に遣った歌               藤原かげもと
479 すぐに消えては空に乱れる淡雪は、もの思う人(である私)の心であるなあ

を引きながら、雪のために訪れないという言い訳を述べるものです。
 女三の宮の返歌は、同じ歌を引きながら、源氏の訪れが儚いために消えてしまいそうだと詠むものです。この歌は乳母の詠んだ歌とも言われます(4)。本人の代わりに乳母や女房が歌を詠むことはよくあることですので、そう考えてもおかしくはないのですが、あくまでも女三の宮の歌として提示されることが重要でしょう。
 常套的には源氏が訪ねてこなかったことを恨む歌です。贈歌では訪れを阻害するものであった雪は、答歌では訪れのはかなさに消えてしまう女三の宮自身の存在に転換されています。筆跡は幼いものの、歌自体には特に不味いところはありません。
 儚く消える淡雪が女三の宮の象徴として機能していることに注意してください。雪は冬であれば消えず積もり、春になると消えます。女三の宮の存在は、春に消えるものに喩えられるのです。もちろん前後の文脈や引歌からすると、雪に喩えることは不自然ではないのですが、繰り返し描かれる梅と雪のうち、梅ではなく雪が選び取られることに注意しましょう。

▽雪=贈歌(源氏)…訪れを阻害する
答歌(女三の宮)…訪れのはかなさに消えてしまう女三の宮自身
▼雪…冬であれば消えず積もり、春になると消える

 さらにこの場面では、乳母の視点によって
 「あけぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし」(夜が明けきる前の薄暗い時間帯の空に、雪が光って見えておぼろである)
という風景が切り取られながら、源氏の
「なごりまでとまれる御匂ひ」(いなくなった後まで残っている御香り)
について、乳母は
「闇はあやなし」(闇は道理に合わない)
とつぶやきます(同、244頁)。ほのかなものであっても光はあるのですが、「闇はあやなし」と言われることに注意してください。
 「闇はあやなし」とは、諸注指摘するように
・『古今和歌集』巻第一・春歌上 
     春の夜、梅の花をよめる                   凡河内躬恒
41 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる

【口語訳】春の夜、梅の花を詠んだ歌                  凡河内躬恒
41 春の夜の闇は道理に合わない。梅の花の色こそ見えないが、香りは隠れるだろうか。

の引歌であり、目には見えなくても香りがはっきりと漂ってくることを喩えたものです。香りだけ残して源氏自身が不在であること、まだ暗いうちに帰ることを咎める気持ちが込められているでしょう。
 女三の宮の結婚は当初から「闇」に彩られているのです。

▼風景…ほのかなものであっても光はある↔「闇はあやなし」
▼女三の宮の結婚は当初から「闇」に彩られる。

 柏木との密通場面でも、はかなく消える女三の宮が詠みこまれています。

【場面②】密通場面。柏木が侵入している間、終始怯えて声を出すことが出来なかった女三の宮は、柏木がようやく出て行こうとしたので少しほっとし、歌を返す。

   おきてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のかゝる袖なり
 と、引き出でて、愁へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰め給ひて、 
   あけぐれの空にうき身は消えななん夢なりけりと見てもやむべく(若菜下、3巻366頁)


【口語訳】(柏木)起きてゆく空(方向)も(暗くて)わからないあけぐれ(夜の明けきる前の時間帯。未明)に、どこの露がかかる袖であろうか(あなたの涙と私の涙とでぐっしょりと濡れている)。
と、(袖を)引き出して、嘆き訴え申し上げたので、出て行こうとすることに少し心が慰められなさって、
(女三の宮)くらい明けぐれの空につらい(私の)身は消えてしまってほしい。夢であったのだと見てすませるように。

 終始怯えて声を出すことが出来なかった女三の宮は、柏木がようやく出て行こうとしたので少しほっとし、歌を詠みます。
 柏木の贈歌は、自分の涙と、女三の宮の涙や汗でぐっしょり濡れた袖を詠み込み、恋の懊悩を表すものです。
 対する女三の宮の答歌では、「あけぐれの空」に消える女三の宮の「うき身」が詠まれています。贈歌「露」の縁から「消ゆ」が導き出されます。「露」は夜間に宿り、朝や昼という光のあたる時刻には消えてしまうものです。自身の「うき身」は、朝になれば消えてしまうものに喩えられているのです。

▽柏木の贈歌…「置き」「起き」の掛詞。「露」「置く」は縁語。
自分の涙と、女三の宮の涙や汗でぐっしょり濡れた袖
恋の懊悩を表す
▽女三の宮歌…「あけぐれの空」に消える女三の宮の「うき身」
贈歌「露」の縁→「消ゆ」
▼「露」は夜間に宿り、朝や昼という光のあたる時刻には消える。
▼女三の宮の「うき身」=朝になれば消えてしまうもの

☆女三の宮出家前の歌四首中三首に「消ゆ」(5)。
 ところで、最初にあげた源氏への返歌にも、ここであげた柏木への返歌にも、「消ゆ」という語があらわれます。贈歌から導き出された表現ではあるのですが。
 実は、女三宮が出家する前の歌四首中三首に、「消ゆ」という語があらわれるのです。
 そこで、「消ゆ」という語があらわれる残り一首も見ておきましょう。

・病中の柏木との贈答。この後女三の宮は妊娠し、密通のことが源氏に知られ、源氏に知られたことを知った柏木は恐れのために病に伏す。病の中でも女三の宮への執着やみがたく、文を贈る。女三の宮は返事したくないのだが、取り次いだ乳母子(乳母の子で、侍女や従者の集団の中で重要な役割を果たす)の小侍従が硯などを準備して返事を強いるため仕方なく返事する。

(柏木の贈歌)
   いまはとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
 あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に迷はむ道の光りにもし侍らん(柏木、4巻6頁)
(女三宮の返歌)
 心ぐるしう聞きながら、いかでかは。たゞ推しはかり。「残らん」とあるは、
  立ち添ひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙くらべに
 おくるべうやは。(同、9頁)
(柏木)行方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ(同、10頁)


【口語訳】(柏木)今は限りといって燃える(火葬の)煙もくすぶって、私の絶えない思いの火が、やはりずっと残るのだろうか。
「あはれ」とだけおっしゃってください。心を静めて、人のせいではない(自分のせいである)死後の闇(無明長夜)に迷う道の明かりにもしましょう。
(女三の宮)心苦しくはうかがいながら、どうしたものか。ただ推測し。「残るだろう」とあるのは、
  立ち並んで消えてしまいたい、つらいことを思い乱れる思いの火の、煙比べに
死に遅れるものだろうか。
(柏木)(火葬されて)行方のない空の煙となったとしても、思うあたり(女三の宮のそば)を立ち離れまい。

 ひたすら死んでも残る執着を詠む柏木に対し、女三の宮は自分の消えたい思いを詠みます。出産後の場面でも、出産の「ついで」に「死なばや」(死にたい)と思う女三の宮が描かれています。二人の思いは全く平行線で、立ち昇る二つの煙が交わらないように、決して交わることがありません。

▽「思ひ」と「火」の掛詞
▽死んでも思いの残る柏木
   ⇅
 消えたい、死にたい女三の宮 
▽贈歌とのかかわりによって導き出されたものではあるが、一貫して「消ゆ」。

2.女三の宮出家後
 ところが出家後には、消えてしまいたいという思いは描かれません。父朱雀院との贈答において「憂き世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ」と詠むように、六条院ではないところに思いのありかを求めてゆきます。

第3回引用箇所
☆出家後の女三の宮のもとに、朱雀院から山菜が贈られる。
 春の野山、霞もたどくしけれど、心ざし深く掘り出でさせて侍るしるしばかりになむ。
   世を別れ入りなむ道はおくるともおなじところを君もたづねよ
 いとかたきわざになむある。
と聞こえ給へるを、涙ぐみて見給ふほどに、おとゞの君渡り給へり。
  (中略)
 憂き世にはあらぬところのゆかしくて背く山路に思ひこそ入れ
「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求め給へる、いとうたて心うし」(横笛、4巻49~50頁)


【口語訳】(朱雀院)「春の野山は、霞ではっきりしないけれど、(私の)こころざし深く掘り出させたしるしばかり(お贈りします)。/女三の宮のほうが世を分かれて入る道(出家)は遅れても、「おなじところ(野老/所)つまり同じ極楽を尋ねて下さい。/極楽往生するのは)とても難しいことである」と申し上げなさるのを、(女三の宮が)涙ぐみながらご覧になっていると、源氏がお渡りになる。(中略)
(女三の宮)「「憂き世」ではないところに行きたくて、朱雀院が仏道修行する山路に思いこそ入るのだ」。
(源氏)「(朱雀院が)気がかりそうな様子であるのに、この「あらぬ所」(=六条院ではない場所)をお求めになるのが、とてもひどくつらい」

▽「所/野老」の掛詞
▽「野老」は朱雀院と宮とを結ぶ装置

 ここで朱雀院と女三の宮は、直接対面することは難しくても、一緒に極楽往生し、そこで会いましょうと呼びかけあっています。
 女三の宮は自らの心のありかを、「あらぬところ」、朱雀院とともに仏道修行する山路へと、求めてゆきます。女三の宮における「憂き世にはあらぬところ」は、漠然と「憂き世ではない場所」でしたが、続く源氏の言葉によって、「憂き世」は六条院に限定されてしまいます。

▽女三の宮出家前は女三の宮への思いは、俗世へと残る思いであったが、当該場面では仏道修行や極楽往生と矛盾しないもの。
▽女三の宮歌「あらぬところ」は漠然と憂き世ではない場所であったが、源氏のことばで六条院(源氏の邸宅)ではない場所、の意味に限定。

 ところがこのような六条院空間も、女三の宮の出家による改築によって変容してゆきます。
 持仏開眼供養の準備における、源氏と女三の宮の贈答を見ておきましょう。

【場面③】六条院の蓮の盛りに、出家した女三の宮の持仏(守り本尊として常に身近に置いておく仏像)開眼供養(仏像に魂を入れることになる、開眼の儀式)を行う。その準備をしている場面における、源氏と女三の宮の贈答。

(源氏)蓮葉をおなじ台(うてな)と契りおきて露のわかるゝけふぞかなしき
   と、御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけ給へり。宮、
(女三の宮)へだてなく蓮の宿を契りても君が心やすまじとすらむ (鈴虫、4巻72頁)


【口語訳】(源氏)「一蓮托生を誓ったのに、蓮葉の露が別れるようにあなたが出家して別れる今日が悲しい」
と、御硯に(筆を)浸してぬらし、香染め(黄色をおびた薄紅色)の御扇に書きつけなさった。
 女三の宮、仮に隔てなく一蓮托生を誓ったとしても、あなたの心は澄まず、蓮の宿に住もうとしないでしょう。

▽「露」「置く」は縁語。
▽女三の宮が出家したことによって、一蓮托生を誓うものである夫婦関係は自然に解消。
▽「露のわかるゝ」…魂は別々の蓮に向かう。
▽「住む」「澄む」の掛詞

 女三の宮の扇に、一蓮托生を誓ったのに、露が別れる今日が悲しい、と源氏が書きつけます。女三の宮が出家したことによって、一蓮托生を誓うものである夫婦関係は自然に解消され、「露のわかるゝ」、つまり魂は別々の蓮に向かうことになります。対する女三の宮は、仮に隔てなく一蓮托生を誓ったとしても、あなたの心は澄まず、蓮の宿に住もうとしないでしょう、と返します。
 ここで注意しておきたいのが、女三の宮歌で源氏の心が澄まない、蓮の宿に住まないと言われることです。持仏開眼供養は六条院の「蓮の花の盛りに」(同、70頁)行なわれており、六条院の蓮の盛りは極楽浄土をイメージするものでした。それゆえ、「蓮の宿」は極楽浄土や一蓮托生の蓮であると同時に、蓮咲く六条院を象徴するものでもあるはずです。にもかかわらず、女三の宮歌において源氏の心は「蓮の宿」から排除されてしまうのです。

▽「蓮の宿」…極楽浄土や一蓮托生の蓮であると同時に、蓮咲く六条院を象徴
   ⇅
 女三の宮歌…源氏の心を「蓮の宿」から排除

 鈴虫巻では、出家した女三の宮のために、六条院が改修されます。
※六条院の改修
 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に造らせたまへり。(中略)
 この野に虫ども放たせ給ひて、 (同、74~75頁)
【口語訳】秋頃、西の渡殿(女三の宮のいる寝殿の西面と、西の対を結ぶ渡り廊下)の前、中の塀の東側の境目を、一面に野の様子に造らせなさった。
▽改修によって空間が変容。野の様子に虫の声、秋の景物。
▽春の町に秋が(6)。

【場面④】源氏は、女三の宮の居室前の野に秋の虫を放たせる。源氏はその鈴虫にことよせて、女三の宮を褒める。「松虫は人里離れたところで鳴くから心の隔てがあるが、鈴虫は心安く現代風なのが可愛い」と源氏は言い、暗に出家はしても六条院から出て行かないよう訴える。それを聞いて、女三の宮は歌を詠む。

(女三の宮)大方の秋をばうしと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声
   と忍びやかにのたまふ。(中略)
(源氏)心もて草のやどりをいとへどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ
など聞こえ給ひて、琴(きん)の御琴召して、めづらしく弾きたまふ。宮の、御数珠引きおこたり給ひて、御琴になほ心入れ給へり。(鈴虫、4巻76頁)


【口語訳】(女三の宮)「一通りの秋はつらいものだと思い知ったが「鈴虫」の声だけは振り捨てることが難しい」と忍びやかにおっしゃった。(中略、源氏)「自分から草の宿り(である六条院)を厭っても、やはり鈴虫の声=あなたの声は古びることがない」など申し上げなさって、琴の御琴をお取り寄せになって、珍しくお弾きになる。女三の宮は、御数珠を繰る手がたゆみなさって、御琴にやはりまだ執心が残っていらっしゃる。

▽(常套的には)「秋/飽き」の掛詞(7)
▽「ふり」は「鈴」の縁語

 女三の宮の歌は、「大方の秋」はつらいものだと思い知ったが「鈴虫」の声だけは捨てがたいというものです。対する源氏の返歌は、鈴虫にことよせて、女三の宮の声の若々しさを褒めるものです。
 ここでは源氏の弾く琴に「なほ心入れ」る女三の宮が描かれています。「琴(きん)の琴」は琴柱のない7弦の琴で、琴柱がないために弾くのが難しく、『源氏物語』のなかでこれを弾くのは皇族に限られます。
 源氏と一緒に琴の練習をした日々は、ぼんやりとした長い日々の後に続く、柏木事件後の辛い日々という結婚生活のなかで、唯一はっきりとした愉しいものだったのでしょう。
 六条院の試楽(朱雀院の五十賀(五十歳のお祝い)のために、女三の宮が琴(きん)の琴を披露することになり、その予行演習のために六条院の中で女君たちが合奏する)の後には、琴に「ひとへに」「心入れ」る女三の宮の様子も描かれます。

 我に心おく人やあらむともおぼしたらずいといたく若びて、ひとへに御琴に心入れておはす。「いまは、暇ゆるしてうち休ませ給へかし。ものの師は心ゆかせてこそ。いと苦しかりつる日ごろのしるしありて、うしろやすくなり給ひにけり」とて、御琴どもおしやりて大殿籠りぬ。(若菜下、3巻353頁)

【口語訳】(女三の宮は)自分に心の隔てがある人がいるかもしれないともお思いにならずとてもひどく若々しく、ひたすら御琴に執心していらっしゃる。(源氏)「いまは、暇をくださってお休みさせてください。ものの師匠には満足させてこそです。とても苦しかった日ごろの練習の甲斐があって、安心して聴けるほどにおなりになった」といって、御琴などを押しやってお休みになった。

▽源氏が女三の宮を褒めると、女三の宮は喜んで琴の練習をしようとする。
▽「我に心おく人」…紫の上。女三の宮はそのような人がいるとも思い至らない。

 源氏は女三の宮を褒めるのですが、すると女三の宮は喜んで琴の練習をしようとします。「我に心おく人」とは、紫の上を指すのでしょうが、女三の宮はそのような人がいるとも思い至りません。
 しかも、琴に男女関係を重ね合わせる和歌の常套表現があるのですが、ひたすら琴に執心しているのですから琴の上達と源氏との仲を重ね合わせるような発想はありません。源氏は、女三の宮と共に寝るために「御琴ども」を押しやらなければなりませんでした。
 琴と男女関係の重ね合わせは女三の宮の前では破綻してしまうのです。

▽琴と男女関係の重ね合わせが破綻。

 これを参照するならば、【場面④】で女三の宮が執着するのは、文字通り鈴虫だけ、琴だけ、と読むべきであり、そこに世俗への執着が重ねられていると読むべきではないでしょう。

▼【場面④】女三の宮が執着するのは、文字通り鈴虫だけ、琴だけ。
▼男女関係への執着は重ねられていない。

 鈴虫巻では六条院が改築され、春の町のなかに仏道修行する空間や、秋を思わせる野の様子の前栽などが造られます。と同時に、女三の宮も少しずつ、六条院のなかに居場所を見出していったのでしょう。

 最後に女三の宮の言葉の中で季節が表現されるのが、紫の上死後の幻巻の場面です。

【場面⑤】紫の上死後の幻巻。春、源氏が女三の宮方を訪れる。源氏は心穏やかに仏道修行する女三の宮をうらやましいと思う一方で、やはり女三の宮を心の浅いものと軽く見ているため、女三の宮にすら出家が遅れてしまったことを悔しく思う。仏前の花が夕日に映えて美しく、春に心を寄せていた紫の上の不在を嘆く。

「(略)。植ゑし人なき春とも知らず顔にて、常よりもにほひ重ねたるこそあはれに侍れ」とのたまふ。御いらへに、「谷には春も」と、何心もなく聞こえ給ふを、言しもこそあれ、心うくも、とおぼさるゝにつけても(幻、4巻194頁)

【口語訳】(源氏)「花を植えた人のない春とも知らないで、いつもよりも美しく咲き誇っている様子が「あはれ」です」とおっしゃる。お返事に、(女三の宮は)「谷には春も」と、他意なく申し上げなさるのを、よりによってそんなことをと、(源氏は)お思いになるにつけても

 花を植えた人のない春とも知らないで、いつもよりも美しく咲き誇っている様子が「あはれ」なものです。源氏は「あはれ」を語り、共感や同情を求めますが、女三の宮は「谷には春も」とそっけなく答えるだけです。
 源氏はがっかりしますが、なぜ自分とは全く異なる相手である女三の宮に、共感や同情を期待できるのかわかりません。
 女三の宮にはすでに、若君(後の薫)が生まれてすぐの場面で、

「かゝるさまの人はもののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとよりかゝらぬことにて、いかゞは聞こゆべからむ」(柏木、4巻28~29頁)
(出家者は「もののあはれ」も知らないものと聞いていたが、まして私はもともともののあはれを知らないことで、どのように申し上げるべきか)

と言われていたはずです。

 「谷には春も」は、
・『古今和歌集』巻第十八 雑歌下の、
    時なりける人の、にはかに時なくなりて歎くを見て、みづからの歎きもなく喜びもなきことを思ひてよめる 清原深養父
967 光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし


を引歌としています。
 第五句の「物思ひもなし」は、「この世にうらめしく御心乱るゝこともおはせず、のどやかなるまゝに紛れなくおこなひたまひて、一方に思ひ離れ給へる」(幻、4巻193頁)(この世に未練が残って心が乱れるようなこともおありになく、穏やかなままに間違いなく仏道修行なさって、一途にこの世から思いが離れていらっしゃる)女三の宮の様子によく合致しているでしょう。
 仮に女三の宮の意図を推測するとすれば、私はときめいた(寵愛された)ことがないから物思いもないということになるでしょうが、ここでは「谷には春も」の表現に注目します。
 六条院の春の町を舞台として、思う様に花々の咲く、春の風景が描写されるからです。それが春の来ない谷とされるのです。
 女三の宮の言葉は、今いるこの場所から春を排除する機能を持つでしょう。

▽常套的な意味合い…私はときめいた(寵愛された)ことがないから物思いもない
▽「谷には春も」↔六条院の春の町、思う様に花々の咲く、春の風景。
▽春の風景を前にし、六条院の春の町にいながら、自分のいる場所を、光のない、春の来ない谷に喩える。
▼今いるこの場所から春を排除する。

 しかも、直接引用されている部分ではないのですが、深養父歌では「光なき」とも言われています。もちろん深養父歌における「光」は、栄華や天皇の恩寵を象徴的に表すものでした。しかしながら『源氏物語』における「光」は、源氏を象徴するものです。それゆえこの言葉は、今いるこの場所、六条院の春の町から「光」、つまり「光」源氏、そして源氏の「光」性を排除する力を持つのです。

▼『源氏物語』における「光」…源氏
▼女三の宮がいる場所=「光なき谷」
▼六条院の春の町から「光」、つまり「光」源氏、そして源氏の「光」性を排除する

まとめ
 春の町に住みながら、女三の宮は春にあっては存在できず、秋や冬を知るものです。
 結婚当初の歌では消える春の淡雪に自己を喩え、幻巻の引歌では今いるこの場に春が来ないと言われます。しかもこの引歌をたどれば、「光なき」との表現もありました。
 源氏が光にたとえられ、女三の宮参入後も一貫して紫の上が春の女君といわれる、『源氏物語』においては、春は紫の上、光は源氏の象徴です。紫の上死後の幻巻冒頭でも「春の光」は描かれますが、源氏の心中は「くれまど」っていました。また、源氏死後の匂宮巻では源氏のことが「光」と表現され、その不在が語られます。
 春にあっては消えてしまう女三の宮が六条院のなかに居場所を獲得してゆくにつれて、春は排除され、源氏は居場所を失ってゆくのです。

*『源氏物語』、『後撰和歌集』の引用は新日本古典文学大系、『古今和歌集』の引用は新編日本古典文学全集による。なお今回の内容は、拙著『『源氏物語』女三の宮の〈内面〉』(新典社新書、2017年)でも扱っている。
   注
(1)若菜巻の時間については、まず、「繰り返される過去」という視点から論じた清水好子「若菜上・下巻の主題と方法」(『源氏物語の文体と方法』東京大学出版会、1980年、初出1969年)がある。また、「四季が円環をなす神話的な時間秩序を持続すべき六条院を解体する、もっとも根底的なものが、年代記的な時間であった」(高橋亨「源氏物語の〈ことば〉と〈思想〉」『源氏物語の対位法』東京大学出版会、1980年、所収。初出『国語と国文学』1973年12月)とあるように、円環的時間から、源氏の「さかさまに行かぬ年月よ」(若菜下、3巻404頁)に象徴されるような再び戻ることのない直線的な時間に変化したことがつとに指摘されている。
(2)森野正弘「研究史――女三の宮」【研究ガイドライン】(室伏信助監修、上原作和編集『人物で読む源氏物語 女三の宮』勉誠出版、2006年)には、「四人を定員とする六条院は、五人目の女君を迎え入れたことで従来のとおりにシステムを運用することはできなくなるに違いない」とある。
(3)柏木が女三の宮を桜にたとえるのは次の場面。六条院のつれづれなる折、源氏は夕霧や柏木ら若君達を呼んで蹴鞠を催す。夢中になって毬を蹴っていた夕霧と柏木が階(きざはし)の上で一休みしていたとき、走り出してきた猫の綱(当時は綱をつけて飼っていた)が絡まり、御簾が持ち上がる。偶然に女三宮を垣間見してしまった柏木の脳裏に、女三宮の姿が焼き付く。その帰りに柏木が、夕霧に対して詠んだ歌。
   「いかなれば花に木伝ふ鶯の桜をわきてねぐらとはせぬ
  春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ。あやしとおぼゆる事ぞかし」
(若菜上、3巻300頁)
また、源氏が女三の宮を青柳にたとえるのは六条院の試楽の場面。
 宮の御方をのぞきたれば、人よりけにちひさくうつくしげにて、たゞ御衣のみある心地す。(中略)、二月のなかの十日ばかりの青柳の、わづかにしだりはじめたらむ心地して、鶯の羽風にも乱れぬべく、あえかに見え給ふ。桜の細長に、御髪は左右よりこぼれかゝりて、柳の糸のさましたり。(若菜下、3巻338頁)
(4)例えば、古注では【岷江入楚】、現代注では新潮【日本古典文学集成】、論文では久保重「朱雀院女三の宮の乳母たち」(『源氏物語の探求』第十五輯、1990年10月)がある。
(5)残りの一首については、柏木事件後に体調の悪い女三の宮を見舞った源氏に対し、引き留めようとして詠んだ「夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞くくおきて行くらむ」(若菜下、3巻381頁)(夕露=涙に袖をぬらせと言って、ヒグラシ=私が泣くのをききながら起きていくのだろうか)。【場面②】で引いた柏木歌と「露」「袖」「おきてゆく」が共通する。この頃には柏木が「わりなく思ひあまる時くは」(同、377頁)しのんでくるようになっており、直接訴えたい意図があったわけではないだろうが、柏木への嫌悪や恐怖、そこから助けてほしいという気持ちが無意識のうちにあらわれたものと言える。
(6)「秋好中宮が不在であるがゆえに、春の町の一部を秋の野にして、秋好中宮の存在を呼び起こしている」(倉田実『六条院の改修』『源氏物語の視界四 六条院の〈内〉と〈外〉』)。ほかに、馬場婦久子「源氏物語「六条院』の変容」(『中古文学』昭和54年4月→『源氏物語の視界四 六条院の〈内〉と〈外〉』新典社、平成9年)、注6前掲論文、岩原真代「『源氏物語』の「しつらひ」―「鈴虫」巻・女三の宮の住環境をめぐって―」(國學院大學国文学会『日本文学論究』2001年3月)など。なお、平安時代の鈴虫が今の松虫、平安時代の松虫が今の鈴虫、という説が江戸時代にあり、今西祐一郎「鈴虫はなんと鳴いたか」(新日本古典文学大系『源氏物語四』岩波書店、1996年)で詳しく整理されているように、平安時代に鈴虫の声は「チンチロリン」系、松虫の声は「リンリン」系で聞きなされていたとある。
(7)表現上「飽き」の意味も発生し、そのことに意味はあるのだが、そのような意味とは齟齬する女三宮の心内も同時に描かれており、その両方に意味があるだろう。なお、『紫式部集』には、夫の夜離(よが)れを恨んだ贈答の中に
    また、同じすぢ、九月、月あかき夜
85 おほかたの秋のあはれを思ひやれ月に心はあくがれぬとも

というものがある。ここでは秋に飽きがかけられており、飽きられた悲しみは「うし」とは対照的に「あはれ」と表現されている。

第3回
第4回