大倉草紙

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【大阪】 堺

2008年05月06日 21時29分50秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(JR百舌鳥駅) → (自転車@自転車博物館サイクルセンター) → 【仁徳陵古墳】 → 【堺市博物館】 → 【堺市茶室「伸庵」】 → 【大仙公園日本庭園】 → 【千利休屋敷跡】 → 【与謝野晶子生家跡】 → 【本願寺堺別院】 → 【石津太神社】 → 【北畠顕家供養塔】 → 【石津神社】 → 【履中陵古墳】

5月の連休中に堺東駅を通ることがあった。
仁徳陵古墳があるという程度でしか堺のことは知らなかったのだが、駅前の地図を見れば、なかなかおもしろそうな町である。
そこでさっそく訪れてみることにした。
 
堺は自転車の町、というのも今回はじめて知ったこと。
国産自転車の約40%が堺で生産されているというのだから驚きだ。
百舌鳥駅近くの「自転車博物館サイクルセンター」で自転車を借りる。
一日借りても300円と安い。
電動自転車も用意されていたので、それを選ぶ。


       
まず向かった先は仁徳陵古墳
社会科の資料集で目にしていた仁徳陵古墳は、いつでも上空からの写真。
鳥瞰するわけではないので、森のようなものが見えるだけだろうと思っていたのだが、じっさいに行ってみてよかった。
多くの人が訪れ、その喧騒の中にあっても、近づき難い神々しさのようなものがある。
 
仁徳陵古墳を一周してから堺市博物館へ行ってみる。
200円という観覧料なのに、盛りだくさん。満足。
堺市博物館に隣接している堺市茶室「伸庵」でお茶をいただく。

       

「伸庵」は国の登録有形文化財。
干菓子が付いて、一服300円で気軽にお茶を楽しむことができる。
この茶室は、昭和4年に芝公園に建てられたものを移築したとか。


         

       

大仙公園日本庭園へ。
人は多かったが気持ちがいい。
この和室は申し込みをすれば利用可能(有料)。


       

千利休屋敷跡
敷地内にあるのは、利休が茶湯に常用していたといわれる椿の井戸。


          
   
       

与謝野晶子生家跡には、歌碑と「与謝野晶子生家の跡」という石碑があるだけで、うっかりすると通り過ぎてしまいそうな場所だ。
歌碑には『恋衣』のあの有名な歌があった。
 「海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女となりし 父母の家」

北西へ進むと、市場が見える。意外だ。
堺魚市場。
お腹が空いていたので、どこか開いていればと思って覗いてみたが、振替休日のきょうは、どこも閉まっている。
近くに堅川が流れていて、川岸には堺事件の石碑と天誅組上陸の地の石碑とが建っていた。

 
       
               聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅

堺駅を通り過ぎ、ザビエル公園へ。
京都をめざすために堺に上陸したフランシスコ・ザビエルがをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡につくられた公園。


       

本願寺堺別院は、かつて堺県庁として使われていたこともあるそうだ。


山口家住宅(重要文化財)の佇まいを見たかったが、あいにく補修工事中でシートが掛けられていた。
時間に余裕があったので、南下してみることにした。
紀州街道沿いにある石津太神社、そして北畠顕家供養塔へ。

          
               北畠顕家供養塔

石津川に架かる橋のたもとに供養塔はある。
「此附近北畠顕家奮戦地」の碑と供養の五輪塔が建っている。


          
               石津神社本殿

       
                    祈願板

石津神社は熊野街道に面している。
紀州街道あり、熊野街道あり、この辺りはすごいなあ。
本殿に向かって右手に祈願板がある。
木槌で「三度たたいてお願いする」と願いが叶うらしい。


       

履中陵古墳は日本で3番目に大きな前方後円墳なのだそう。
仁徳陵古墳より前に造られたものだという。
静かで、荘厳な雰囲気に包まれていた。 

【和歌山】 根来寺・粉河寺・和歌山城

2008年05月04日 23時43分34秒 | 旅 - 和歌山県
本日の行程:(車)…【根来寺】 → 【粉河寺】 → 【和歌山城】 → 【紀三井寺】 → 【淡嶋神社】


連休の2日目は、風吹峠を通って根来寺を訪れる。

          
                大塔(国宝)

       
                      本坊

       
                   根来寺のてぬぐい


深い緑に囲まれたお寺の佇まいは素晴らしく、ずっと見ていても飽きることがない。
境内は広々としており、空が高く、あかるい。
どの建造物も個性的なのだが、衒うところがないのが好ましい。

秀吉の紀州征伐の焼き討ちを免れた大塔の外壁には、火縄銃の弾痕が残っている。
訪れる人々がその弾痕を指で触れるからだろう、弾痕の部分だけ木がツルツルになっていた。
本坊の庭も美しい。
聖天堂の朱塗りの壇は根来塗だという。
根来塗は、下地の上に黒漆を塗り、それに朱漆を重ねるのが特徴である。
使い込むと、朱漆の下の黒漆が透けてきて、味わい深くなるそうだ。

          

記念に根来塗の箸を買い求めた。
お高いものではないのだが、桐箱におさめられていて立派だ。


       
                粉河寺庭園と本堂

       
                 粉河寺てぬぐい

粉河寺は西国三十三所観音霊場、第三番札所。
国指定名勝の庭園は、蘇鉄が植えられているせいか、
どことなく南国の雰囲気が漂っている。


お昼は和歌山市内の和歌山ラーメン屋さんで。
長いこと行列に並んだ分だけ期待が高まったけれど、お味のほうはそれほどでもなかった。


          
                 和歌山城

       
                 天守閣から紀ノ川を望む

和歌山城は駐車場が混んでいて、なかなか入ることができなかった。
長い石段をのぼり、天守閣内へ。
天守閣からは、和歌山市内が一望できる。
紀ノ川の川幅はひろく、ゆったりと横たわっているのが印象的だった。
先日九度山で見た紀ノ川とはまるで違う川のようだ。


西国三十三所観音霊場、第二番札所の紀三井寺へ向かう。
      
        楼門の先の階段            紀三井寺のてぬぐい

       
                      本堂

楼門をくぐると、231段の階段が続いている。
かつて、ここは「結縁坂」と呼ばれる坂だったようだ。

坂にはこんないわれがある。
紀ノ国屋文左衛門は親孝行で、母を背負ってこの坂をのぼり、観音様にお参りしていた。
ある日、坂の途中で草履の鼻緒が切れてしまうのだが、その時通りかかった玉津島神社の宮司の娘が鼻緒をすげ替えてくれ、これが縁で二人は結ばれた。
その後、文左衛門は宮司の出資金によって仕立てた蜜柑船で大儲けする。

これだけの御利益があってもよいくらい、きつい勾配の石段だった。

本堂の前にあるのは和歌山の桜の標本木。
すでに葉桜となっていたが、桜の季節はさぞかし美しかったろうと思い描く。

淡嶋神社に寄ってから帰ることにした。
紀ノ川を渡り、思いのほか早く神社に着いた。
海に面した神社で、近くでは、釣竿を持った人を多く見かける。
参道で、さざえの壷焼きが売られていた。
人形供養の神社として有名で、境内には、あらゆる種類の人形が、地面に敷き詰められたかのように置かれている。
あの「お菊人形」もこの神社にあるとか。


そして渋滞地獄。
連休だから仕方がないか。

【大阪・奈良】千早赤阪村・南法華寺(壺阪寺)・高取城

2008年05月03日 21時41分48秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(車)…【楠公誕生地】 → 【千早赤阪村郷土資料館】 → 【下赤阪城址】 → 【上赤阪城址】 → 【千早城址】 → 【楠木正儀の墓】 → 【南法華寺(壺阪寺)】 → 【高取城址】 → 【土佐街道】 → 【日本武尊琴弾原白鳥陵】


連休に1泊2日で千早赤阪、高取、和歌山方面に行くことにした。
車での移動。
お弁当を持って出かける。


   
       楠公誕生地の碑

千早赤阪村へ向かう。
初めに訪れたのは楠公誕生地
楠が植えられている。
楠公誕生地の碑の奥には千早赤阪村郷土資料館がある。
2階建ての小さな資料館だ。
名所旧跡を示したジオラマ模型があり、ボタンを押すと、その場所の解説ビデオが流れるようになっている。
ビデオは分かりやすく、実にまじめなものなのだけれど、どことなくおかしみがあった。

車の中でお弁当を食べ、下赤阪城址へ向かう。
千早赤阪中学校の坂をのぼるが、どこにあるのか分からない。
道は細く、対向車が来ると怖い。
場所が分からないので、いったん坂を下り、もう一度同じ道を。
車を降りて、中学校の裏手に回ると、下赤坂城址の石碑があった。
下赤阪の棚田が見える。 田植えの後はきれいだろうなあ。

城址のおよその場所は分かっていても、どの城も山の中にあるので、入口を見つけるのに苦労した。
上赤阪城址へ行くには山道をのぼっていかなくてはならない。
標高約350m、よくこんな山の中に城を築くことができたものだ。
20分ほどで本丸跡に到着。

   
         上赤阪城址

山の上からは富田林市まで見える。
気持ちのよい場所なのだが、道中出会った蛇のことが気になって仕方がない。
同じ道を帰るのかと思うと苦痛だ。
帰り道、蛇と遭遇した場所を一目散に駆け抜けてホッとしていたのだが、夫の証言によれば、なんとまあ、同じ場所に蛇はいたそうだ。

千早城址へは、金剛山登山口からのぼっていく。
石段が続く。その数500段余り。
しかも石の大きさが揃っていないので歩きづらい。
攻め込む敵に上から石を落としたらしいが、こんなところで石が降ってきたらひとたまりもなかっただろう。

   
          千早城址

   
               楠木正儀の墓

千早神社の脇の道を行くと、楠木正儀の墓がある。
囲いの中に、五輪塔が見える。
「正成の首塚」とも言われているそうだ。

のどかな千早赤阪村をあとにし、高取町へ向かう。

南法華寺(壺阪寺)の観音様は目の観音様として信仰されている。
礼堂の入口や土産物店では目薬が売っていた。
大きなお寺である。境内のあちこちに置かれた大仏や観音様も巨大である。
巨大な像はどれも新しく、どうも心にしっくりとなじんでこない。
ばちあたりな発言だが、あくまでも好みの問題である。
三重塔は美しく、遠くから仰ぎ見ると、
この三重塔と八角円堂のコントラストがすばらしい。


   

高取城址は南法華寺(壺阪寺)からほど近い。
高取山の標高は584m、高取城は日本三大山城のひとつに数えられる。
くねくねと山道をのぼっていくと、やがて石垣が見えてくる。 
城址には石垣しか残っていないが、
石垣をたよりに在りし日の高取城を想像してみるのも楽しい。

山を下り、高取城の城下町である土佐街道を行く。
古い武家屋敷が残っている。
「土佐街道」と呼ばれる所以は、大和朝廷の都造りの労役のために土佐からやってきたけれども、任務を終えた後に朝廷の援助がなく、帰郷できなかった人々が住み着いたことであるという。
 
日も暮れかかってきたので、宿泊場所へ急ぐ。
カーナビをみれば、「日本武尊白鳥陵」の文字が。
寄り道してみることにする。
目的地近くのはずなのだが、民家と田畑と農道があるだけで、どこにあるのか分からない。
通りかかった近所の人に尋ね、やっとのことで辿り着く。
これは案内なしでは分からないなあと思われる場所に日本武尊琴弾原白鳥陵はあった。