3月7日(土)
当日の行程:(車) → 【金崎宮】 → 【金ヶ崎城跡】 → 【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】 → 【氣比神宮】 → 【真願寺(敦賀城跡)】 → 【八幡神社(敦賀郷土博物館)】 → 【来迎寺(敦賀城中門)】 → 【武田耕雲齋等墓】 → 【松原神社(鯡倉)】 → 【氣比の松原】 → 【常宮神社(朝鮮鐘)】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡資料館】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡】 → 【永平寺】 → (滋賀・尾上温泉泊)
【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】
薬医門
本堂
初転法輪の鐘
永賞寺九重塔(大谷吉継の供養塔)
まだ雪がちらつく季節だからだろうか、シートで覆われていた。
「敦賀城主大谷刑部吉継公の供養塔
永禄二年(一五五九年)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川(どうのかわ)家を開基として再興、武山栄文禅師を招じて曹洞宗永賞寺とし、菩提寺として優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦にて敗れ、四十二才で切腹し、この塔は慰霊のため九年後(一六〇九年)に建てられたと伝えられる。 永賞寺」
【真願寺(敦賀城跡)】
真願寺は、敦賀城跡に建っている。
本堂
本堂脇には、敦賀城礎石が残っている。
【八幡神社(敦賀郷土博物館)】
八幡神宮は、敦賀城の三の丸あたりに建っている。
拝殿
敦賀郷土博物館
博物館の中には、様ざまなものがごたまぜに陳列されている。
突然、巨大な蛇の皮を目にし、悲鳴をあげそうになる。
まさか、こんなところで蛇を見ることになろうとは。
博物館の入口には、敦賀城の表城門の礎石と鬼瓦が置かれている。
【来迎寺(敦賀城中門)】
敦賀城中門
本堂
【常宮神社(朝鮮鐘)】
常宮神社の創建は、大宝3年(703)。
氣比神宮の奥宮といわれる。
豊臣秀吉の命で大谷吉継が奉納した朝鮮鐘で知られている。
拝殿
この中に、朝鮮鐘(国宝)が納められている。
拝観料を払えば説明付きで見ることはできるが、写真撮影は禁止。
鐘には「太和七年三月……」とあり、新羅時代の朝鮮鐘であることがわかる。
慶長2年(1597)に、大谷吉継の手により奉納されたものだといわれる。
当日の行程:(車) → 【金崎宮】 → 【金ヶ崎城跡】 → 【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】 → 【氣比神宮】 → 【真願寺(敦賀城跡)】 → 【八幡神社(敦賀郷土博物館)】 → 【来迎寺(敦賀城中門)】 → 【武田耕雲齋等墓】 → 【松原神社(鯡倉)】 → 【氣比の松原】 → 【常宮神社(朝鮮鐘)】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡資料館】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡】 → 【永平寺】 → (滋賀・尾上温泉泊)
【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】
薬医門
本堂
初転法輪の鐘
永賞寺九重塔(大谷吉継の供養塔)
まだ雪がちらつく季節だからだろうか、シートで覆われていた。
「敦賀城主大谷刑部吉継公の供養塔
永禄二年(一五五九年)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川(どうのかわ)家を開基として再興、武山栄文禅師を招じて曹洞宗永賞寺とし、菩提寺として優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦にて敗れ、四十二才で切腹し、この塔は慰霊のため九年後(一六〇九年)に建てられたと伝えられる。 永賞寺」
【真願寺(敦賀城跡)】
真願寺は、敦賀城跡に建っている。
本堂
本堂脇には、敦賀城礎石が残っている。
【八幡神社(敦賀郷土博物館)】
八幡神宮は、敦賀城の三の丸あたりに建っている。
拝殿
敦賀郷土博物館
博物館の中には、様ざまなものがごたまぜに陳列されている。
突然、巨大な蛇の皮を目にし、悲鳴をあげそうになる。
まさか、こんなところで蛇を見ることになろうとは。
博物館の入口には、敦賀城の表城門の礎石と鬼瓦が置かれている。
【来迎寺(敦賀城中門)】
敦賀城中門
本堂
【常宮神社(朝鮮鐘)】
常宮神社の創建は、大宝3年(703)。
氣比神宮の奥宮といわれる。
豊臣秀吉の命で大谷吉継が奉納した朝鮮鐘で知られている。
拝殿
この中に、朝鮮鐘(国宝)が納められている。
拝観料を払えば説明付きで見ることはできるが、写真撮影は禁止。
鐘には「太和七年三月……」とあり、新羅時代の朝鮮鐘であることがわかる。
慶長2年(1597)に、大谷吉継の手により奉納されたものだといわれる。